回転する世界の静止点──初期短篇集1938-1949

  • 河出書房新社
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感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (396ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309204253

感想・レビュー・書評

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  • ひとりの人間の中には善意もあれば悪意もある。悪人と呼ばれる人間の心の中は悪意ばかりが満ちているわけではないし、市井に住む普通の人々の心の中にだって、どす黒い悪意が潜んでいないわけがない。人は、普通自分の中にある悪意(それは嫉妬であったり、横恋慕であったり、稀に殺意であったりするが)を意識の上に長く止め置いたりはしない。もし、始終そうした悪意が意識の上に立ち上ってくるようなら、人は平静ではいられない。だから、こみ上がってくる悪意の塊を無理矢理呑み込み、無意識の奥底に送り込んで、素知らぬ顔で毎日を生きているのだ。

    善意の人ばかりが行き交ったり、善人と悪人が二つに分かれて闘ったりする話も世の中には多いが、そんな話ばかり読まされていると、なんだか落ち着かなくなってくる。たぶん、無意識に送り込んだ自分の古ぼけた悪意の澱が微かに反応しているのだろう。「そんな風に生きていければ苦労はないよなあ」と、心のどこかで呟いている自分がいる。

    ハイスミスは、ごくごく普通の人々の暮らす世界の中に突然訪れる戦慄のような瞬間を捉えるのが上手い。モノクロームの単調な色彩で描かれていた世界が、その瞬間だけ極彩色に彩られ、やがて、まるで何事もなかったかのようにもとの淡々とした無彩色の世界に戻ってゆく。人物たちは物語の中で相も変わらぬ日常を生きるのだが、その一瞬を垣間見た読者の方には、ざらっとした触感や苦い後味がいつまでも残る。世界の剥き出しの悪意の味だ。

    ハイスミスの未発表作品を含む初期短編が14編。掌編と読んでもいい作品の中に、却って非日常の瞬間を剔り取ったような味わいの作品が多い。どこか『シベールの日曜日』を思わせる、男と少女の無垢な魂の触れ合いが周囲からの誤解によって潰えてゆく「素晴らしい朝」。その裏返しのような、行きずりの男にドライブに誘われた少女が、誘われなかった方の少女の告げ口で未然に家に戻るという「とってもいい人」。いずれもヒリヒリするような人間心理の洞察が光る。

    長めの短篇というのも変だが、代表作『太陽がいっぱい』を髣髴させる美青年の野望と挫折を描いた「広場にて」も忘れがたい読後感を残す。持ち前の美貌と才気でのし上がってゆくメキシコ人青年のぎらぎらした欲望が、知的ではあるが人生を楽しむことを忘れた醜い富豪の女性に結婚を決意させるまでの顛末。映画にしたいようなメキシコの乾いた空気と空と海の色。眩しさの中に頽れてゆく美と愛がせつない。

    極めつけは、贋作ばかりを蒐集するので有名なコレクターが、なぜか見誤ってジヨットの真作を競り落としてしまう「カードの館」。オークション会場で聴いた老嬢のピアノは優れた技量が人を魅了しながら、本人はピアノを憎んでいるのが、主人公には分かる。自然を憎み人工を称揚する彼には人の知らない秘密があった。その秘密が彼と老嬢の心を繋げたのだった。アイロニーに満ちた芸術観の裏から不幸な人間に寄せる愛情がのぞく、この作者にはめずらしい温かな読後感を残すメリメ風の短篇。極上の名品をどうぞ、ご賞味あれ。

  • タイトルがとても好きです。そしてハイスミスの短編は全てこのタイトルに集約されているのだとも思う。漂う空気は決して軽くは無いけれど、きっとまた必ず読みたいと思う日が来ると思います。

  • 「カードの館」が好き。やさしい結末を予感させる話でも次のページでどう転ぶか分からないスリリングさ。全編ヒヤヒヤしながら読みました。

    収録作のひとつ、「スタイナク家のピアノ」という作品に“「自分のことなんかどうでもいい」”とつぶやく女性が登場しますが、彼女視点の物語を読むうちに、彼女が言葉とは裏腹な、自分の内側ばかりを見つめる人間であることがなんとなく見えてくるんですね。今短編集に登場する人物の多くは、彼女とよく似た欺瞞・自己矛盾を抱えているように思います。
    自分でも定かではない曖昧な望みを抱え、しばしば肩透かしや失意で終える人々。さびしい話が多いものの、パトリシア・ハイスミスの筆に意地悪や皮肉の気配はなく、ただそういうものだという身も蓋もない実感が伝わってきます。スケッチみたいな短編集。

  • 映画の中で名作として残る「太陽がいっぱい」の原作者らしい。
    本屋で目にとまった2部形式の短編集の1。
    職業として作家になりたかった作者なので、初期の作品は完成度が低い感じ、内容がまとまっていないような読みづらい作品もあるけれど、なぜか読み進んでしまう魅力は何だろう?

    古き良きアメリカの日常が垣間見られそれが新鮮だった。

  • ○2008/10/05 
    けっこう前に背表紙でタイトルを見て気になってたんだけど、しばらくしてからトムリプリー書いた人だということを知ってびっくりした。見たことも読んだこともないんだけれども。
    まったく本のイメージが掴めないまま読み始めてしまって、中盤くらいに疲れて間を置いてしまったんだけど、うん、びっくりした。重くてヒトの暗黒部分を忠実に押し出してて、どこか怖いような思考だけどリアルで、あぁ、人間だよこれ、という。うまくまとまらないけれども。
    想像とまったく違ったものだったけど、これ全然あり。
    ぷつんとどこかで何かが切れて、でも日常は続いていて。線が切れた、という意味で自動車は暗闇のなかにすとんと綺麗に終わったので気に入ったかなぁ。
    訳がいいのか、まぁ新しいからっていうのもあるんだろうけど、古い雰囲気がなく、情景がぱっと浮かぶような文で読みやすかった。

  • 表題作の捉えどころのなさが好き。

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著者プロフィール

1921-1995年。テキサス州生まれ。『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』が映画化され、人気作家に。『太陽がいっぱい』でフランス推理小説大賞、『殺意の迷宮』で英国推理作家協会(CWA)賞を受賞。

「2022年 『水の墓碑銘』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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