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  • 河出書房新社
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感想 : 13
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  • Amazon.co.jp ・本 (279ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309204994

感想・レビュー・書評

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  • チェス以外のインプット・アウトプット手段を持たなかった男についての、繊細なガラス細工のような小説。きらきらと眩しくて、一回では思いどおりに読みとれず、続けて二回読んだ。二回目はルージンが怖れた反復が初回より伝わってきたし、奇妙に視界が狭い前半の記述は神経衰弱から脱した後のルージンの記憶から掬い上げられた思い出であったようで、ますます胸が締め付けられた。ルージンはもともと変わった子だったけれど、あんな風に損なわれて良いわけがなかったのに。

    「彼女」に最後まで名前が与えられなかったのは、ルージンが未発達で母親と赤ちゃんの関係から始めるしかなかったからだろうか。実際彼女はよく頑張ったけれど、あんなふうに他者を保護することで満たされるものって何だろうと思うと、彼女も何か癒されないねじれを抱えていたのかも。彼女がルージンを名前で呼んであげていたら、ルージンの人生に別の分岐があったかもしれないなあと、いつまでも切なさが去らない。

  • 緻密な描写と構成によって組み立てられた、精緻な構造物であり、同時に、美しいとさえ言えるほど勇敢で哀切な物語。

    こんなに結末が来ないでほしいと願った小説はなかったし、最後の数章を読み進めるのは辛い作業だった。なぜなら著者は前書きでその結末をすでに明らかにしていたからで、要するに物語は詰めチェスと同じ構図を最初からとっていた。

    ルージンは死に向って直進している。自分に与えられたいくつもの可能性を何度も見返しながら、それでも真っすぐに。不器用な有様、自ら幸せを勝ち取ろうと意志によって(けれど意志とは関係なく)死に突き進んでいく有様は、ほとんど直視できないくらい痛々しい。彼がそれを最善の選択だと信じていたからこそ、その結末を見ることが苦しい。

    だが一方で、私は作者であるナボコフのやり方に感嘆してしまう。

    私たちは自信を持って選び取った答えが正しいかどうかをよくしらない。正しいと信じ、あるいは正しいことになるようにあらゆる可能性の中から一つを選びとるのだけど、本当にそれでよかったのかどうか、最後の瞬間になるまでは結局よくわからない。

    ルージンも同じだ。ルージンにとっては、注意深く駒を進めていく中で最終的にゲームの放棄として選び取った最後の選択、自殺という選択は、実際には作者によって道をつけられた、詰めチェスの最後の一手であって、残念なことにまだゲームの中なのだ。

    ルージンは作家によって設定されたプロブレムの中で、自殺を運命づけられたキングだった。でも、その結末に収束していくからこそ、ルージンの世界は美しい一致を描くことができる。ナボコフとは何と残忍で、巧妙な作者であることか。

    そしてそれでもなお、この物語からは全編を通じて作者の言う「温かさ」が感じられる。

    それは作者がルージンに伴侶を与えたことでも、そのきらめくような子供時代の思い出を与えたことでもない。むしろ、最後までもがき続けるルージンを決して目をそらすことなく、僅かな空気の震えさえ逃すまいとして描きつくしたことの中に、そのルージンが滑稽なまでの勇敢さで自分を支配する力に立ち向かっていくことの中に感じられる。

    自分ではどうしようもない力、逃げることすらできない絶対的な支配の中で絶望することを、これほど美しく悲しく正直に書ける作家を私はまだ他に知らない。

  • 2019/7/5購入

  • 小説を読む事自体、とても久しぶり。
    そして、小説でこれほど興奮したのも久しぶり。

    「完璧」な作品。

    だけど、「山月記」のように精緻でソリッドな構造の美しさとは異なり、文体はねちっこく、絡みつくような表現で泥臭く、だけど疾風のようなスピード感があって、とても動的(ダイナミック)な作品。

    チェスのグランドマスター、ルージンが才能に目覚め、狂気に陥っていく物語で、基本的な構造は、ラフマニノフを演奏中に総合失調症になった天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットを取り上げた映画「シャイン」と似ている。

    ただ、「シャイン」は、ヘルフゴットがラフマの旋律に取り憑かれていくまでの描写が素晴らしかったけど、中盤以降の中だるみがひどかった。

    この作品は、最後までまったく「息をつかせない」。

    この作品のテーマは「力」なのかな。
    力はコンプレックスから生まれ、コンプレックスから生まれているが故に、破滅的で出口がなく、持ち主を食い殺す。

    日本語から推測すると、英文はかなり難文になると思われるけど、ナボコフの序文を読む限り、英語版は是非読んでみたい。

    今後、何階も読み返す事になると思う。


    読んでいると映像が次々と頭に浮かぶ。2001年の映画化は恋愛映画として作られていたようなので、是非ギャッツビーのような感じで映画化して欲しい。

    監督はイーストウッドがいいかも。

  • 2017年中の宿題のつもりが、なかなか読み進められず今日までかかってしまいました。消化不良。機会を見つけて再読してみます。。。

  • チェス小説として有名だが、思っていたほどチェスシーンは出てこなかった。

  • チェスを題材にした話であり、物語全体がチェスの棋譜のように構成された、チェスに生きチェスのように生きた主人公の生涯を描く。

    世界そのものがあたかもチェス盤のように描かれ、登場人物たちの動きがチェスの一手にみたてられているような描かれ方が面白い。

    少年期のチェスとの出会いが天才少年として明るい未来を案じさせるが、主人公とフィアンセとの出会いから次第にチェスが重い枷となり、一旦はチェスの世界から現実の世界を受け入れることができるようになるが、現実の世界の中にチェスの手を見い出してしまい破滅への道へ向かって行く。

    チェスを忘れている時間が少し中だるみな感じがしたり、破滅への描写が難解に感じられるが、多分それは訳文が合わなかっただけで、傑作であることは間違いないだろう。

    面白いことを書いている方が居た。

    将棋が題材だったら全く違う話しになったのではないかと。

    将棋とチェスの大きな違いである持ち駒を使えるか否か、チェスではトップ棋士同士の対局となると引き分けによる決着が大半を占める、という違いなどがこの物語の柱となっているのではないかと。

    なるほどと思う。

  • 映画『愛のエチュード』の原作。

  • チェスに捕らえられた男。余人には理解し難い生き方の端々に滑稽な哀しみがにじみ出る。彼のチェスには求道的な静けさはなく、いつも何かしら人々の見世物めいた、浮ついた気配が漂う。それが可笑しくて、なぜか無性に口惜しい。
    彼が本当に望んでいたものを誰も知らなかったし、たぶん彼自身もわからなかったんだろう。

  •  最近は読書に時間を使えず、読破に1か月以上もかかった。結論から言うと、意図がよく分からない小説だ。ナボコフ自身が経験したロシア革命前後の混乱とロシア文学の伝統への反逆が反映されているそうだが、私はどちらにも疎い。
     それでも、この異様なほど多い隠喩的描写によって、著者が新しいものを創造しようとする気概は感じられる。しかし、重訳という形でこれが伝わったのかどうかは分からない。若島正に無理なら誰にもできないような気もする。

     ルージンという内向的な少年がチェスに魅せられ、プロ棋士になっていく。ストーリーもその前後を映画のフラッシュバックのように回想する。チェス以外は全く冴えないルージンにまさかの恋人ができ、チェスと人生の頂点を迎えるが、そこを折り返し点とし、健康のためにチェスを禁止された後半は、過去から逃れるように破滅へと突き進む。
     ライバル、トゥラーティ(訳者によるとレティへの暗示)との決戦が指し掛けのまま、チェスまでやめてしまい、その後はチェスを通してすべてを見るような生活が描かれる。チェスのこういうネガティブな描写は、日本の坂田三吉的棋士像とも全く異なる。カスパロフも『決定力を鍛える』で、知性的なチェスと非社会的棋士という世間が抱くイメージのギャップを指摘している。
     訳者によると、ナボコフのプロブレム作家としての実力は大したことなかった。実戦力はもっと低かったのだろう。思うに、彼はプロ棋士の地位をおとしめることで時間ばかり浪費させるこのろくでもない知的活動にささやかな復讐をしたのだと思う。私がチェス小説を書いても同じようなことをするだろう。

     チェスの具体的な手順は全くといって出てこないので、そのへんを期待する向きにはつまらないだろう。本書は著者の英語版への「まえがき」があるという異例の構成だが、そこに出てくる不滅局等を訳者が「解説」で触れているくらいだ。
     別物とまで言われている映画版「愛のエチュード」はスカパーに入った頃に見たが、さっぱり覚えていない。女性監督がラブストーリーに仕立て直したそうで、またの機会があれば見てみたい。

     正直なところ、チェス小説の最高傑作がこれやツヴァイクのSchach Novelleと言われているようではチェスが浮かばれない。ノンフィクションでの最高傑作「ボビー・フィッシャーを探して」でもプロ棋士の悲哀は存分に描かれているが、そこにはまだ温かさがある。

  • 『だがたえず守りを固め、つねに最大限の注意を払うことは、不可能でもある。何かが彼の内部で一時的に弱まり、新聞に掲載されている一局を気ままに楽しんだりしてしまうーーそうするとやがて、また用心を怠ったことに気づき、彼の人生でたった今微妙な一手が指され、致命的な手筋が無慈悲にも続けられていることを知って、愕然とするのだ』

    完全なる防御とは何だろう。その質問はどこか思春期に特徴的なバランスの悪さを思い起こさせる。その不均衡はしばしば純粋とも純潔とも表現されるので、問いを続ければ続けるほどに天秤棒の傾く速度が増していくことを、人は中々訝しく思うことができない。

    均衡は不思議な状態だ。何も意識しなければ正しく保つことができるのに、一端かすかな揺れに気づいてしまうと、安定した状態がかつて存在し得たことすらが不確かなものとなる。それは揺れを自ら治めようとする動きがかえって揺れを大きくしてしまい、その反動を再び抑えようとする動きがより大きな揺れを生んでしまうという、ハウリングに似た増幅のフィードバック・ループ。大音量で鳴り続けるスピーカーを止めるには、入力を一端断ち切るしかない。

    この小説がこういう結末に向かって進んでしまうのは、だから、仕方のないことなのだと思う。

    小説の動きがチェスの勝負をなぞる。一つ一つの駒の動きと登場人物の動きをなぞらえることをせずとも、小説の流れが、序盤の緩やかな指し手から封じ手を経て(果たしてその封じ手は正しく紙に記されたのか)中盤の長考、そしてまやかしの動きの裏で進む怒涛の終盤、というように捉えてみることは容易だ。だが、これがナボコフの言う「もっとも温かみのある」小説であるとはどういう意味なのか。そこにナルシシズム的温もりを読み取るのは簡単だ。しかし其処彼処にあらわれる温もりのモチーフたち。暖炉、サモワール、セントラルヒーティングなどなどは、自己陶酔のすえた温もり(それは自分の温かみを自ら再び感じるという行為)とは相容れない手放しで与えられる暖かさを思い起こさせる。それは、母性、という言葉へ繋がってゆくような気がする。

    サイモン&ガーファンクルの「Save the Life of My Child」が、小説の終盤、頭の中で鳴り続ける。野次馬の声、評論家的コメント、預言的に響く歌のフレーズ。そんなありとあらゆる要素の渦巻く中、とりわけ大きな声で混乱の闇を突き抜けて響くのは母の悲痛な叫び。それだけが真実。

    だが、それさえも相手方の繰り出す目くらましとしか考えられなければ、格子模様で仕切られた四角い枠の外へ駒を出してやらなければならない。それが完全な防御。しかしそれは防御でもある一方で、ルール上は敗北でもある。ポール・サイモンは歌う。「Oh, my Grace, I got no hiding place」。それは投了ではなく、永遠の封じ手。

  • うん、なんだかとても寂しい。
    そして虚しくもある。
    文中「墓場の風」みたいな言葉がでてきたがそんな感じな読後。

    難しい事やチェスの暗示とか全くわからないけれど、小説ってこういうのだよな、と思う。一貫して細部まで丁寧な言葉によって紡ぎ出す、その緻密さや物語への愛みたいのに感服した。

    「愛のエチュード」という映画にもなってるらしく、なんとも陳腐な題名だと思う反面、TSUTAYAにでも行き探してみようかと思ったりなんかもして、本も堪ってるしで思案中でございます。

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著者プロフィール

1899年ペテルブルク生まれ。ベルリン亡命後、1940年アメリカに移住し、英語による執筆を始める。55年『ロリータ』が世界的ベストセラー。ほかに『賜物』(52)、『アーダ』(69)など。77年没。。

「2022年 『ディフェンス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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