ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309227368

作品紹介・あらすじ

世界800万部突破の『サピエンス全史』著者が戦慄の未来を予言する! 『サピエンス全史』は私たちがどこからやってきたのかを示した。『ホモ・デウス』は私たちがどこへ向かうのかを示す。

全世界800万部突破の『サピエンス全史』の著者が描く、衝撃の未来! 我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。35カ国以上で刊行され、400万部突破のベストセラー! ニューヨーク・タイムズ紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙、ワシントン・ポスト紙、ガーディアン紙ほか、各紙大絶賛!

感想・レビュー・書評

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  • 『サピエンス全史』の著者による、人類のこれまでとこれからが科学的概念と宗教的概念を軸に描かれる上下巻です。
    身体的に脆弱な人類が何故に生態系の頂点に君臨しているのか、それは集団で同じ価値観や方向性を共有できる能力故であるようです。
    我々は実体の無いものをあるものと仮定し、それを前提に掟や指針を取り決めることができます。
    神や会社や国は実体は無くても存在していることになっていて、それが倫理やお金や人権などの概念を保証しているわけです。
    しかし…ポケットから「ほら、これだよ」と出すことのできない概念とはそもそも何なのでしょうか。
    人類は永遠に虚構から脱することができないのではないかと不安になります。
    下巻にも期待します。

  • なんつー面白い本なんだ。
    序盤は新テーマ、「人類は今後何を目指すか?」過去の1世紀で、数々の難題(戦争、飢饉、疫病)を『対処可能』なものにしてきた人類。今後の新たな課題は。この本のメインテーマ。
    中盤以降は前作「サピエンス全史」のおさらいのような内容。人類がこれまで認知革命後どのように宗教、農業、政治制度などの『虚構』を築いてきたか。
    下巻も楽しみ!

  • 大著「サピエンス全史」で、認知革命・農業革命・科学革命という3つの革命から、人類の歴史を斬新な観点からアップデートしたユヴァル・ノア・ハラリの新著。本書では、主にAIとバイオサイエンスを中心とした新たなテクノロジーがどのように人間を変えていくのかという予言的な洞察が語られる。

    前作の「サピエンス全史」と比較すると、本書は確実に異論を巻き起こすことは間違いないように思われる。というのも、本書で描かれるテクノロジー、特にAI技術に関する記述はいわゆる「シンギュラリティ論者」が語るような、万能の存在として描かれている節があるからである。ここ数年、「シンギュラリティ論者」に対するAI研究者の側からの反駁として、AIは決して万能な存在ではなく、人間の生存を脅かす存在にまでなるというのは妄想に過ぎない、という意見が提起されている。そうした議論を踏まえてみると、著者のAIに関する理解というのが本当に正当なものなのか、という疑義を呈さずにはいられない。

    ただし、そうした点を除けば、生物学・遺伝子学・科学哲学・脳科学・経済学等の様々な学問領域をすべて歴史という軸で徹底的に見つめ直し、そこからテクノロジーが発展したときの社会の姿を予測する、という著者のアプローチは極めて真摯な歴史学者のそれであり、我々が次の社会を考える上での重要な補助線になるのは間違いがない。

    余談だが、この手の本にしてはユヴァル・ノア・ハラリの本はリーダビリティが高く、読みやすいと思う。面白い本だし、あっという間に読んでしまった。

  • サピエンス全史が面白かったので、続けてこちらを読みました。前半はサピエンス全史で書いてあったこととやや重複してました。

    現代は飢饉、疫病、戦争がなくなりつつあり、こうしたものに恐れ無くて良くなった。
    かつては、これらは一度起こると人間には抑えることのできない代物だったが、現代では人がコントロールできるものという認識が浸透していて、被害が大きくなれば、それは人がもしくは時の政府がきちんとした対応をとっていなかった事が原因、つまり人災であるとみなされるようになった。

    21世紀には、人は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。もう一つ目指すのは、幸福へのカギだ。かつてはベンサムの言うように、最大多数の最大幸福、至高の善は、全世界の幸福を追求する事だった。それは、王や国家や神の栄光を増す事で無く、誰もがより幸福な生活を楽しむ事だ。

    ただ実際には国が豊かになるための方策に力を注いでいた。領土の大きさや人口の増加やGDPの成長だ。

    ところが、現在、ベンサムのビジョンははるかに真剣にとらえられるようになった。人間至上主義の台頭だ。

    人間は、いまや他の動物から見たら神の存在。かつて人間を脅かしていた大型の動物、マンモスやマストドンももはや敵では無い。人間が家畜として認めた牛やニワトリの合計体重は7億トンあるのに対し、野生動物はわずか1億トンしかない。

    ブタのような動物には欲求や感覚はあるのか?ハーロウのサルの実験によると情動はある。なのに、家畜のブタはその情動を全く無視されている。人は人間は家畜と違う尊いものだ、というように信じることでこれを正当化した。

    人が尊いのは、魂や意識や情動があるとこだと信じられているが、進化論からすると、そのような考え方は受け入れられない。

    科学者は脳の電気信号の集まりがどうやって主観的経験を生み出すのかを知らない。なぜなら同じようにアルゴリズムをもって処理するコンピュータには感覚や欲求が無い。

    たいていの人は現実は客観的なものか、主観的なものかのどちらかで、それ以外はないと思い込むが、共同主観的というのがある。個々の人々が信じることではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。たとえば、貨幣や神や国や価値観だ。

  • 副題に「文明の構造と人類の幸福」と付けられたベストセラー『サピエンス全史』の最後に著者はこう書いた。

    「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」

    本書は、この疑問 - 「私たちは何を望みたいのか」ー について語るために書かれたのかもしれない。

    『サピエンス全史』で、著者は人類の歴史について、「認知革命」「農業革命」「科学革命」の三つの革命を通して段階的に発展してきた、という大きな歴史観上のフレームを示した。本書では、人類の歴史における過去の三つの革命に次ぐ新しい革命が起きることで、人類は「ホモ・デウス」となるかもしれないという新しい物語を提示する。
    約七万年前の「認知革命」により、人類は小さいながらも集団で虚構を共有することができるようになり、その集団内で協力を促す力を得た。さらに約一万二千年前の「農業革命」により、人類は共同主観ネットワークを拡大・強化する物質的な基盤を手にすることができた。それでは今回の革命によって人類は何を獲得するのか。そしてそれを手にすることで生まれる「ホモ・デウス」とは何なのか。

    人間は長らく飢餓・疫病・戦争という三つの問題に常に悩まされてきた。それほど遠くない過去の話だが、農業革命と科学革命を経て、これらの問題はおおむね対処可能な課題に変わり、うまく抑えこめる目途がついた。これらの課題が克服された状態が実現すると、人類の目的が苦境からの脱出から、「幸福」の追求になっていくだろうというのが著者の見立てである。具体的には、この状況においてAIとバイオテクノロジーの進化が重なることにより、人類は「至福」と「不死」を目指すことになるという。その方向により実現される人類の状態を、人間を神にアップデートするものであるとして、著者は「ホモ・デウス」と表現する。
    技術によって人間を拡張するという未来は、レイ・カーツワイルの『シンギュラリティ』などでも語られることだ。本書でも、人類が生み出したバイオテクノロジーによって、素材技術による人工的な臓器だけでなく、生化学的なアプローチで心まで作りなおすという可能性まで挙げられている。しかし、ある意味では、そこまでは他の類書でも述べられているところでもある。本書の重要なポイントは、それが現在の支配的イデオロギーである人間至上主義(ヒューマニズム)の根本的な見直しにつながると指摘しているところにある。

    かつて、人間至上主義が世界に現れる前には、神々が世界と人間との間を取り持っていた。一神教が人類史を理解する上で重要性をもつのはそのためだ。例えば、柄谷行人は『探究II』において世界宗教について語った。ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で数千年前には人間の意識が今のようなものではなかった可能性について論じた。人間至上主義は近年の発明であり、人がそう信じることで機能するイデオロギーであり、ある側面から見ると一種の宗教であり、決して絶対に動かせない事実や真実ではない。なにしろ、共産主義やナチズムもある意味では人間至上主義の一形態でもあると著者は指摘する。

    「農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる」

    人間至上主義の中心には意識と自由意志があるが、意識の受動性は近年の研究によってますます明らかになり、自由意志についてはそれ自体の存在すらも危うくなっている。そして著者はそのことを決して否定しない。「心を説明できず、心が果たす役割がわかっていないのなら、あっさり切り捨ててしまえばいいではないか。科学の歴史の中には、捨て去られた概念や仮説が累々と横たわっている」と言い、「科学者のなかには、ダニエル・デネットやスタニスラス・ドゥアンヌのように、脳の活動を研究すれば、主観的経験を持ち出さなくても、関連する疑問にはすべて答えられると主張する人もいる。だから科学者は、「心」「意識」「主観的経験」といった言葉を安心して自分たちの語彙や論文から削除できるというわけだ」と続けている。

    著者は、神を崇めた有神論の世界と、人間を崇める人間至上主義との間で、その構造は大きくは違っていないのでないかと指摘する。それはとりもなおさず、現代のわれわれが宗教を眺めるのと同じような形で将来の人類はわれわれが今信じている人間至上主義を眺めているのかもしれない、ということである。

    「近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。二十一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学と人間至上主義を結びつける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある」

    著者は、『サピエンス全史』で詳しく述べた人類史の三番目の革命である科学革命によって、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意したのだという。放棄したその意味の不在に耐えるために、人間至上主義を発明し、新しい「意味」をわれわれに与えさせた。それは一見とてもうまくいったが、よくよく考えると「意味」がそこにあるべき根拠はない。その一種の根拠のないものへの根拠なさを意識することなき依拠というものは、人間至上主義を含めた広義の「宗教」というものに共通に当てはまるものなのかもしれない。

    「意味も神や自然の法もない生活への対応策は、人間至上主義が提供してくれた。人間至上主義は、過去数世紀の間に世界を征服した新しい革命的な教義だ。人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。伝統的には宇宙の構想が人間の人生に意味を与えていたが、人間至上主義は役割を逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だと考える。...意味のない世界のために意味を生み出せ ─ これこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ」

    著者は、二十一世紀には世界はデータ至上主義となり、「アルゴリズム」によって支配されるという。もちろん、ここで「支配」というものを主人と奴隷の関係のようなものと解すべきではない。その「支配」はおそらく外部よりも内部からやってくる。結局のところ人間の情動は進化上の自然選択の結果として獲得された「アルゴリズム」であり、その「アルゴリズム」を深く「理解」することで、人間をよりよく理解することができるという。「アルゴリズム」は、人間が自分自身について知っているよりも、よりよく自分のことを知ることができうるのである。

    「人々が完全に新しい価値を首尾よく思いつくことなどめったにない。それが最後に起こったのは十八世紀で、人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸踊る理想が唱えられ始めた。1789年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず、人間は新しい価値を何一つ思いつくことができなかった。その後の紛争や闘争はすべて、人間至上主義者のこの三つの価値を掲げて、あるいは、神への服従や国家への忠誠といったさらに古い価値を掲げて行われてきた。1789年以降、まぎれもなく新しい価値を生み出した動きはデータ至上主義が初めてであり、その新しい価値とは情報の自由だ」

    データ至上主義のよいところは、それが論理的であるからであり、何となれば人間至上主義を突き詰めた先にあるように思われるところだ。人間がすべての生物と同じようにアルゴリズムである以上、「たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから、本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくはない」ため、「私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば十分」である。そして、「そういうアルゴリズムがあれば、そちらを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理にかなって」おり、「アルゴリズムが反乱を起こして人間を奴隷にすることはない。むしろ、アルゴリズムは人間のために決定を下すのがとてもうまくなるので、その助言に従わないのは愚の骨頂だろう」という結論にたどり着く。

    最後に、「生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる」として、読者にまとめて提示する。

    1.科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
    2.知能は意識から分離しつつある。
    3.意識をもたないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

    著者は、これらが本当にそうなのか、またそれが起きたときにどうなるのかについて考え続けることが必要だということで結んでいる。そこに著者の自らが得た結論に対する躊躇いを見ることも可能だろうか。

    人間至上主義が、はかなく破られることとなる希望だとすれば、われわれは、まだ絶望が不足しているのかもしれない。


    ---
    著者は本書の中でこのように注意深く人間至上主義の相対性や無根拠性について語ってきた。しかし、現代社会における人間至上主義の根深さは、この本の翻訳者があとがきの中で次のように語ることで、翻訳者自身の意図と離れて図らずとも明らかになった。
    「サピエンスの未来に希望はないのか? 断じて違う。著者は楽観はしていないが、絶望もしていない。絶望していたら、この作品を書いただろうか?」
    この本を書かれている通りに読めばわかると思うのだが、著者は人間至上主義からデータ至上主義への移行を悪いこととも間違ったこととも考えていない。それは、歴史の上で、神から人間にその権威が移行したことを、現代から振り返って悪いこととも間違ったこととも考えないのと同様だ。むしろその移行が正しく必然なことであった程度と同じ程度に人間至上主義からデータ至上主義への移行を正しいものであると捉えているのではないだろうか。おそらく著者の考えによれば、それは歴史の流れの上でのある種の必然でしかない。
    翻訳者が希望と感じた著者の記載は、単に著者が自分の予測が細部では間違っているかもしれないという当然の可能性について触れただけのことと考えるべきなのではないか。翻訳者の人間至上主義に捉われた心がそこにないものを読み取らせた幻と言えるのではないか。

    「ダーウィンが『種の起源』を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者が達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。
    それどころか、リチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーら、新しい科学的世界観の擁護者たちでさえ、自由主義を放棄することを拒んでいる。彼らは自己と意志の自由の解体のために学識に満ちた文章を何百ページ文も捧げた後で、息を呑むような百八十度方向転換の知的宙返りを見せ、奇跡のように十八世紀に逆戻りして着地する。まるで進化生物学と脳科学の驚くべき発見のすべてが、ロックとルソーとジェファーソンの倫理的概念や政治的概念にはいっさい無関係であるかのようだ」という著者の文は翻訳者にはどのように受け止められたのだろうか。

    朝日新聞の書評はこの翻訳者あとがきよりもまだマシだが、人間至上主義に対する余計なためらい傷でいっぱいの文章になっている。
    (https://digital.asahi.com/articles/DA3S13731574.html)

    著者が「振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう」と書くとき、かのミシェル・フーコーの次の預言的な言葉が意識されていたに違いない。

    「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ・・・賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」 (『言葉と物』第10章末)

    フーコーが、過去の歴史から人間至上主義が絶対のものではなく、歴史上の産物でしかないことを示したのに対して、著者は現在の技術がおそらく見せるであろう姿から遡及的に人間至上主義が維持できない将来を捉えたのである。

    本書で著者が言いたかったことは、人間至上主義というものが当たり前の価値の源泉であるということがすでに根拠を失いつつあるということだろう。人間至上主義を絶対のものとせず、ひとつのイデオロギーとして理解をし、新しい可能性について検討をするべきだというものである。決して人間至上主義の危機を煽ってその擁護について議論を盛り上げたいわけでもないし、その危機の解決が必要であるとも主張していない。

    「本書では、その制約(※イデオロギーや社会制度)を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ」

    人間至上主義は、歴史の中では比較的新しい発明であることは間違いない。かつて人々を支えていた神がその座を降りたように、人間至上主義もその座を降りるかもしれないということについては、個人的には素直に首肯できる。それはかつてフーコーが何百ページもの文章を捧げた上で端的な言葉で伝えたことと同じだ。その流れは個人の選択というものを超えたものであるということについても承知している。かつて神がその座を降りようとするときに人間の側に強い抵抗があり、現在においてもいまだに抵抗があるように、人間至上主義がその座を降りるときも同じように抵抗があることは容易に想像できる。著者が前著でも述べているように、人類は何度かの大きな「革命」を経て今の状況になっている。「革命」の前には強烈な抵抗があるにも関わらず、「革命」の後ではそれがなかったときのことが不思議に感じられるくらいに「革命」は実際的で必然的でもある。歴史の歩みが速くなった今、それらの「革命」が起きる時間の間隔が短くなっていたとしてもそれは当然のことだろう。二十一世紀において、大きな認識の変化があるとすると、それが「データ」と「アルゴリズム」であると考えるのはおそらく正しい。それは人間の知能がその崇高で絶対的な価値の座から引き下ろされるのと同義であり、意識の問題が新しい側面を見せることを意味しており、人間至上主義が繕いきれない綻びを見せるということである。

    もちろん著者は「AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるのなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で行動してほしい」と書いているが、それは人間至上主義者を喜ばせるものでは決してなく、人間至上主義からくる行動とは違う形でもって行動すべきだと言っているのである。

    「ホモ・デウス」などといっているので、バイオやAIによる人類の拡張の話になるのかと想定をしていたら、想像以上に深いテーマを扱っていたのでうれしい驚きがあった。特に『サピエンス全史』を読んだ方や意識・自由意志についてどちらかというと批判的な見方をしている方はとても興味深く読めるはずである。とても長いが、先入観、特に人間至上主義が絶対的に歴史を超えて正しいものだという思い込み、を外してからじっくりと読んでほしい。お勧め。



    ---
    『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
    『サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309226728
    『ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227376
    『神々の沈黙』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009780

  • まったくもって今さらながら、積読の山を切り崩すべく、読み始めた。前作同様、わかりやすく、示唆に富み、とてもおもしろい。

    冒頭、人類は、飢饉、感染症、戦争という3つの大敵を克服しつつあると指摘する。本書は2015年に上梓されたものであり、2022年の今、世界はコロナウイルスのパンデミックとロシアによるウクライナ侵攻が勃発しているわけだが、大筋としては納得できる。では、それらの大敵を退けた後、人類はどこに向かうのか。著者のハラリは、人類が不死と幸福を追い求め、自らを神にアップグレードしようとするだろうと予測する。そして、そのための術として、生物工学、サイボーグ工学、情報工学を挙げる。

    ハラリは、これらの予測が精緻であればあるほど、その知識が人々の行動を変え、未来に与える影響は大きくなり、結果、予測が外れるというパラドックスを指摘する。だが、ハラリはそれこそが歴史を学ぶ醍醐味だという。過去を振り返り、現在を見つめ、このまま行くと行き着く未来を変えるかどうか、人々に考える選択肢を与えることが可能になる。

    当たり前で、他に選択肢がないと思われていた大勢の人に共通する物語、本書で言う「意味のウェブ」は、歴史上何度も解体されてきた。ソビエト連邦然り、宗教的な世界観然り。歴史はこうして展開する。本書もまた、そのウェブの解体を試みるものである。下巻に進む。

  • 「サピエンス全史」は人類の歴史に焦点をおいていたが、本書は人間の心について論じられている。難解なテーマだが、分かりやすい例えと流れるような文体で、サクサク読める。下巻も期待したい。

  • 『サピエンス全史』に続く世界的ベストセラー。
    本著の原副題は"A Brief History of Tomorrow"で、『サピエンス全史』の"A Brief History of Humankind"と同じ型。直観的にはそこまで違和感はないものの、よくよく考えると「明日の歴史」ってのも変だなぁと。
    調べてみたら、Historyには「(自然界の)組織的記述」とか、「(報告的な)話,物語」といった意味もあるそうで。。

    『サピエンス全史』と対になっていることもあって変には思わないのですが、本著は(過去を語る存在?である)歴史学者が、未来を展望して書いているんですよね。
    歴史学者なりの書き方はあるなぁと感じたので、色々な専門分野の人がそれぞれの視座で未来について語ったら、面白いのかもしれません。

    さて、上巻の中身は『サピエンス全史』でも触れられていた内容もあって導入編的な印象もありましたが、人類が今後自らをアップデートして「神」になるだろう、というテーマは非常に刺激的です。
    ただ、タイトルから事前に想像していた「こんな技術が実用化されつつある/されていくから、人類の未来は明るいね!神ってるね!(違」的な本ではなくて、上巻を読み終わった時点ではむしろ逆のトーンを感じました…。
    人類を現在のここまでの存在たらしめた「人間同士の協力ネットワーク」は『サピエンス全史』でも触れられていましたが、そのネットワーク、具体的には国家だったり宗教だったり(本著内では「共同主観的なもの」「虚構」「物語」と様々に表現されている)が、必ずしも成員の幸福には寄与してこないどころか、しばしば成員を死に追いやってきた歴史が語られています。
    その上で、著者は将来はもっと強力な虚構が誕生して我々を支配してくるため、「虚構と現実、宗教と科学を区別する」ことが困難になるが、その能力が更に重要になると主張しています。うーん、本著、これからを生きていく我々への、著者からの耳に痛い助言集なんでしょうか。
    本著内の「官僚制は力を蓄えるにつれて、自らの誤りに動じなくなる」という言葉は個人的には特に印象的でした。

    何にせよ、下巻でどのようなことが語られるのか、楽しみです。

  • 『ホモ・サピエンス全史』がべらぼうに面白かったので続けてこちらも。サピエンスの方はこれを書くための前哨戦だったのかと思うような内容でした。あまり間を開けずに二作続けて読んで良かったです。ネットで公開されていた台湾のオードリー・タンさんとの対談で話していた内容も、この著作を読んでみるといろいろとあとから腑に落ちてきました。ネットで何か買おうとあれこれ調べると暫くの間同じ商品が頼んでもいないのに「あなたにお薦め!」と出てくるのを苦笑いしていられるのも今のうちかもしれないと、背筋を伸ばしながら読みました。アップルのスマートウォッチを便利に使っている友人たちの顔が浮かんだり。荒唐無稽なようでいて、自動車が発明されたときにそれまで使っていた馬車を引く馬を私たちはアップグレードして使ったか?いや使うのをやめて自動車に乗り換えたでしょう?という問いかけには、サピエンスを読んだときと同様の、素直に認めたくはない自分にもある「人類の行動の傾向」を突き付けられる感じがして、ゾッとしました。脳の話に興味があるので心脳問題にもっと入っていってほしかったですが著者は脳科学者ではなく歴史学者なのでそこは概要に触れるだけに留まり、意識はどこに宿ると考えているのかというところは知りたかったけれど本題から逸れるためか語られませんでした。何かの記事で、「人が手を伸ばすとき、そのために必要な一連の動作を働きかける指令は、個人が手を伸ばそうと意識するよりも前に、既に脳から発せられている」という研究結果が出ていることは何かで読んで知っていたので、自由意志というものは虚構である、というひどく恐ろしい仮説(読んでいると事実に思えてきますが)は、ぎょっとしながらも受け入れざるを得ないか、、、という気持ちでした。最後まで読むと、これは予言ではなくひとつの予測であり、この予測通りになるかもしれなけれどならないかもしれず、ならないように個人個人が考え行動するそのための材料になったら幸いである、というようなことが書いてあり、少し気持ちがゆるやかになって、読了しました。

  • イスラエルの歴史学者が、ユダヤ教などの宗教やヨーロッパの歴史だけでなく、ホモサピエンスとしての進化の歴史から、AIやロボットなどの最新テクノロジー、遺伝子工学や脳科学、果ては心や魂といった科学では扱いづらい分野まで、我々を待ち受けているであろう途方もない未来を見通すために必要なすべての知見をつなぎ合わせ、全体像をわかりやすく呈示してくれている。全世界から熱狂的に支持されるのもよくわかるし、読者としてもその異能ぶりに驚嘆する他ない。歴史を学ぶ目的は、未来に取りうる選択肢を増やすためであるという指摘も重要だ。

    「歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ」。生まれたときから身の回りある、当たり前で不変で必然とさえ思い込んでる現実世界が、実は偶然の連鎖の賜物であったことを知ることは、私たちを知らず知らず向けさせられたたった1つの未来だけでなく、複数の違う考えや夢を描ける第一歩なのだ。同時に大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される「意味のウェブ」も、歴史を学んでいれば、やがては価値を失い忘れ去られ、文字通り「ほどけて」しまうことも想像できるだろう。

    しかし言うは易し、行うは難しで、実は今日ほど歴史を学ぶことで未来を予想することが困難な時代もないのである。それは知識の蓄積が加速度的に増加しているためだけではない。著者が「歴史の知識のパラドックス」と呼ぶ面白い現象のせいでもある。マルクス主義の思想が良い例だ。あまりにも的を射たマルクスの診断は、資本家の考えを変え各国の制度に取り込まれ、労働者をめぐる環境は劇的に改善され、結果として彼の予測は外れてしまう。「行動に変化をもたらさない知識は役に立たない」が、「行動を変える知識はたちまち妥当性を失う」のだ。

    「歴史をよく理解するほど、歴史は速く道筋を変え、私たちの知識は速く時代後れになる」。本書で著者は、人間の幸福と不死の探求はやがて、自らの超人的なアップグーレードを止られないはずだと語る。なぜなら、治療とアップグレードの間に、明確な境界線はないからで、どんなアップグレードも当初は治療として正当化されるが、いったん重要な大躍進を遂げたら、次に待っているのは制限のないアップグレードへの応用だけだ。早々に禁止してしまえばいいじゃないかとも思えるが、生物工学の進歩は前提となる現実そのものを変容させる可能性もある。

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著者プロフィール

歴史学者、哲学者。1976年イスラエル生まれ。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻し博士号を取得。現在、ヘブライ大学で歴史学を教授。『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons』。

「2020年 『「サピエンス全史」「ホモ・デウス」期間限定特装セット』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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