- Amazon.co.jp ・本 (285ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309244655
感想・レビュー・書評
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なかなか面白かった!
特にナンシー関の、「日本人の5割は銀蝿的ななにかを必要としてる」っていうのは妙な説得力があった。
あと、ヤンキー先生をぼろっくそに批判してる人がいて面白かったw
私も、「うつとか言ってるやつはとりあえず校庭走れ」みたいなこと言ってからあの人苦手。しかもなぜ議員になったのか・・・。
ヤンキーが地域社会と関わるための祭りの役割とか、すごく面白かったなー。
東京だとあまりヤンキー見ないけど、地元だと普通に電車の床に座ってるもんな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
語られることの少ないヤンキー文化を、改めて考察の対象とした論考&対談集。
各論者で共通してヤンキーの特徴として挙げられているのは、「成熟と洗練の拒否」(永江朗)であり、バッドセンス(=ダサさ)であり、デザインの特徴は末端肥大で、歌舞伎など日本の伝統文化に起源を見出す論者も少なくない(酒井順子、斎藤環)。
ヤンキーの起源については、速水達郎は矢沢永吉が上京し、本宮ひろ志「男一匹ガキ大将」(「ジャンプ」)の連載が始まった1968年に見出している。「あしたのジョー」(「マガジン」)が学生運動の学生たちに支持されたのに対して、本宮はブルーカラーの大衆に支持されたのだという。
逆に、各論者で見解が分かれている点もある。「ヤンキーは今も存在するか?」という点であり、宮台真司をはじめとする社会学者たちは、一様に、ヤンキーは地域的な共同体を前提としており、先輩/後輩というタテの繋がりや祭りを媒介として社会に移行していく存在だったが、地域の力が弱まった現代においてヤンキーは消滅したし、今後復活することもないだろうと述べる。
一方で、『ケータイ小説的。』で再ヤンキー化を論じた速水達郎、斎藤環、酒井順子といった論客たち、最大の大物は故ナンシー関ということになるだろう)が、彼らはケータイ小説を読むギャル層や、『小悪魔ageha』を読むキャバ嬢の「盛り」の髪型、有名人では亀田一家やYOSHIKI、EXILEなどに、日本人の中に脈々と受け継がれるヤンキー魂を見出していく。
地域に根ざしたヤンキーが消滅する一方で、日本人の中にあるヤンキー魂は明らかに消えてないように見えるし、バッドセンス的な大衆文化性は今後どのような形で継承されていくのかということだと思うが、末端肥大や装飾過剰、バッドセンス、成熟の拒否といった特徴を下にして、あるいはヤンキー的なテイストが入ってないと日本では大衆的な支持を得ることはできないとして、「ヤンキー的なもの探し」をしていくことには注意も必要だろうと思う。
末端肥大で装飾過剰でセンスがないのがヤンキー文化の特徴ということであれば、オタク文化もまたヤンキー文化なのだということになってしまうからだ。あるいは、本宮ひろ志から車田正美へというラインでヤンキー文化とオタク文化の連続性を見ていくこともできるかもしれないが……。
おそらくケータイ小説にしても、ジャンプやライトノベルにしても、「郊外化」がヤンキー文化との連続性と切断を考える上での一つのキーワードになるだろう。
思えば、ぼくが地方の中学生だった頃は、まだ一般の学生も鞄を潰すのが流行っていてぼくも潰してたし、裏地に龍や虎の刺繍が入ってる学ランを着てる不良の子もいた。遡れば、矢沢永吉率いるキャロルがデビューする1972年はさすがに生まれる前だが、1981年の横浜銀蝿やなめ猫のブームはうっすらと記憶がある。
しかし、地元でもいまやかつてのヤンキーの姿を見ることはない。彼らはどこに行ったのか?
村上春樹の洗練されたアメリカナイズされた生活スタイルは、村上龍や山田詠美のアメリカの影とは異なるアメリカの受容を示し、多くのフォロワーを生んだが、最新作『1Q84』においてヤンキー的な方向に転換しているように見えるのはなぜか?
ヤンキーを考えることは、再び日本社会を考え直すきっかけになるだろう。 -
思考や行動の様式から、
ファッション、音楽、マンガ、映画、アート、建築まで――
様々な観点から著名人が書くヤンキー論
的を得ていると思えるものあり、的外れだと思うものあり。
見る角度によって、現在ヤンキーが消えつつあるのか
そうではないのか、が違って面白い。
制度として見ると崩壊しつつあるかもしれないが、
文化・メンタリティといったものは広く浸透しているとも言える、
というような感じ。
最初に編者が「ヤンキー論」としてまとめようとしても
まとめきれない、というようなことを言っていたが
そりゃそうだろう。
個人的にはどんな学者がいうより説得力あるのが、
ナンシー関の
「日本人の5割は銀蝿的なものが好き」
これに勝るものはないと思う。
でなけりゃクローズとかあんなにヒットしないだろう。 -
不良文科を調査したある意味貴重な本。オタク文化の研究に比べ不良文化の研究がやや少ない理由も理解できたと思う。
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2009/11/14(〜p285終)
今多く書かれているのはオタク文化論であり、ヤンキーについて詳しく分析し書かれている著書など確かに見かけないなと思いました。
オタクという言葉が普及し始めたのはつい数えるほど前のことであり、逆にヤンキーという言葉は遥か昔から人々の語彙の中にあるはずなのに、なぜ多くを語られないのだろうと改めて思った。
そして、読んでいて「うん、書きにくいんだろうな」と納得してしまった。 -
表題がヤンキーでも、やっぱり論評だから解説的過ぎた。ヤンキーの特性を知る機会に恵まれたので良しとすべし?・・・・ヤンキーの上下関係とリーダー感覚と地域性と秩序を重んじるとかのところで、某Gのリーダーを思い出し、この感性と役割が某Gの媒体に大いに関係しているのでは?と想像したものである。
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新聞の書評欄を見て面白そうだったので。唯、「ヤンキー」が「文化」と云えるかどうかは、大いに疑問。唯、まだ読んだ訳ではないので、評価は其から。
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いやー、面白い。目から鱗落ちまくり。オタク文化を論じた書物は数々あれど、オタク文化と対極にありそうな「ヤンキー文化論」の書物は極端に少ない。しかし「ヤンキー文化」そのものは「東京23区の西半分 <strong>以外</strong>」のエリアにおいてはかなりの数が潜んでいる筈なのだ。社会への抵抗、右寄りの思想、ふるまい、言葉使い、音楽、ファッション、デザイン、建築、アート、メディアにおける表象、憧れと侮蔑…。まだ本格的な書物が登場しない現時点において先ず口火を切るための「序説」この本の中では取り上げられなかったけれど沖縄の成人式のあの大騒ぎも同じ視点から読み取れそう。
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ヤンキー文化論を論じたことに5つ星。
なぜ、オタクカルチャーは社会学の
定番で、ヤンキー論は無かったのかは
本書を読めばわかる。