蜂起とともに愛がはじまる---思想/政治のための32章

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309245744

作品紹介・あらすじ

大地と民衆がふるえあがる現在に最もラディカルな思想と実践と表現の交点から「叛乱の叛乱」を招き寄せる俊英の疾走する思考。世界を破壊する思想入門。

感想・レビュー・書評

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  • 廣瀬純『蜂起とともに愛がはじまる』を読んだ。

    ここで愛の契機とされる蜂起とは、第一章において”いかなる「解」にも還元され得ない純然たる「問い」を生産する”こととされ、『週刊金曜日』に連載された短い文章を集めた第二章は螺旋を描きながらその結論へと向かっていく道程が記されている。私にとってはそこで描かれる絢爛たる固有名詞たちのダンスが刺激的で面白かった。
    ゴダール、アントニオーニの非労働から『バートルビー』を召喚し、持続性から小津とベルクソンを並ばせ、タチの『プレイタイム』とベンヤミンが描き出すパリの姿を重ね、脱コード化の運動を誰よりも早く映画に導入した作家として山中貞雄を位置づけ、ストローブ=ユイレの『シチリア!』とその原作、あるいはオリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』とその原作を検討し、デリダとイーストウッドでテロリズムを捉え、カメラの位置を巡ってレヴィナスとゴダールを比較し、「風」を通して『ゴダール・ソシアリスム』とボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』を読み、青山真治の『東京公園』とレヴィナスの違いを明らかにする、その一連の手つきはとても華麗かつアクロバティックで、筆者の運動神経の良さ、保有するデータベースの多彩さに読んでいて目が眩んだ。

    ただ、当然、解を得るのではなく問いを発し続けるというこの本にそれを求めても仕方がないということはわかってはいるものの、原発というどうしようもなく現実の問題について”「不安」は自己をそうした「主体」として見出す際の否定的な効果であるが、しかしそれゆえにまた、自己を過剰な力の横溢として積極的に肯定するための契機ともなり得る。六月十一日の反原発デモがとりわけ喜びに溢れたものだったとすれば、それはそこで我々の経験したことが「問題」の共有に基づく「反転された原発事故」としての主体たちの蜂起だったからに他ならない”あるいは”蜂起の悦びはそれが「起きている」ときに見出される。革命は喜びへのプロセスだが、蜂起はそれ自体で喜びのプロセスである。革命におけるすべての疲労は問題が解決されるときの喜びによって報われるが、蜂起においては問題を生き続けることによる疲労が喜びと一体化している”というような読み方で読むことに実際のところどんな意味があるのか、よくわからなかった。
    「諦めて、跳べ(賭けを生きる)」と題されたロメールの『緑の光線』を論じる文章で、”ここで問題になっているのもまた、現勢的な次元においては「汚らわしい」ものとしてしか現象し得ない世界(ディストピア)を前にして、それでもなお「でもまあ、素晴らしいじゃない」と肯定してみせるだけの力、すなわち世界の潜勢力を信じ、それに賭けてみせるだけの力の獲得なのである”、あるいはタチとベンヤミンの文章にある”疎外とは否定的な契機にとどまるだけのものではけっしてなく、それどころかむしろ、労働に抗して「プレイタイム」すなわち「遊びの時間」を継続するための積極的な可能性でもあり得るということだ。(…)新たな現実をけっして否定しないこと、そこにポジティヴな力の萌芽を読み取ること―――ここからしか真に「思考」の名に値する振る舞いは始まらない、どんな反動的な振る舞いも思考とは関係がないということなのだ」といってこの現実をやむなく肯定してしまうことは、解を求めるのではなくただ問い続けることは、実際、この現実をどう変える力を持つのだろうか。私はここに引用した文章が好きで、聞こえはいいと思うし、何かいいことを言われているような気もするのだけれども、実際に、あまりに実際な実際に出くわしたとき、それらはどう意味を持つのか、私にはよくわからなかった。

    ゴダールによるレヴィナス批判が面白かった。ちょうどレヴィナス特集の『現代思想』を一緒に買っていたところだったのでちょうどよかった。
    ”「物事はつねに正面から撮影されるべきであり、正面からまっすぐ見ればこそリアルに把握できるといったことが、世間では信じられています。レヴィナスのような哲学者ですら、顔をきちんと見ればその人を殺したくなることなどあり得ないと考えています(…)。他者を理解するためには、カメラをその人の背後におき、彼の顔を見ないようにする必要があるのです。そしてまた、その人の話に耳を傾けている第三者を通じて、彼を理解するようにしなければならないのです。」”
    ”ゴダールからすれば、レヴィナスにはスクリーンが欠けているのだ。愛する作品をリアルに把握するためには、映写機から放たれる光の流れがスクリーンによって遮蔽され、そこにいくばくかの像が結ばれなければならない”
    ”他者のリアルは、相槌を打ったり返答したりすることでこの他者の発する言葉のフローを切断する第三者の一挙手一投足に、とりこぼしなく十全に映し出されるということだ。そして、繰り返すが、第三者による切断なしにはそもそも他者からのフローがリアルに流れることはいっさいないのだ”
    ”他者のリアルな把握とは、したがって、他者に幾ばくかのリアルを生産させることに他ならない。そしてリアルの生産のためには他者が第三者に接続されなければならない。(…)フェイス・トゥ・フェイスで対面している限り、互いに相手をリアルに把握することはできない。各々が第三者に接続され、双方で幾ばくかのリアルが生産されるときにこそ、相互理解は始まる”

  •  私事となるが、本書の著者・廣瀬純と私とは同じ高校、同じ大学の出身であり、しかも「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌(休刊)の編集委員どうしとして前世紀の末から今世紀初頭にかけて多くの時間を共有したため、私は非常なる親愛と懐旧の情を抱いている。そういう輩が言ってもなんの説得力も発揮せぬことは承知の上で大風呂敷を広げさせていただくならば、彼の新著『蜂起とともに愛がはじまる』(河出書房新社)は、日本の読書人が世界の最前線と同格の気位で持つことのできる数少ない思想書であり、文明批評の書だと思う。
     《思想/政治のための32章》というサブタイトルを付された200ページあまりのこの小さな本は、序章にロンドン大学バークベック校における昨年11月の記念すべき講演「頭痛──知力解放から蜂起へ」を、終章に昨年6月の論考「原発と蜂起」を置き、その中間に30個の短い記事が並ぶ。話題の中心は思想家と映画作家の活動について。
     彼の文章から漂い出る腕白な感じ、面白可笑しいことを他人の予期せぬタイミング、文脈で言ってやろうという野心、こういうものは、書き手の人格そのままを表している。ごく小さな比喩的なタームをブローアップして、「蜂起」や「68年5月」や「国家」「叛乱」「ネオリベラリズム」といった大文字に属する単語と対置させつつ、グロテスクな思考の見取り図を提示するのが本書でよく使われる手法で、たとえば「頭痛」であるとか、「蟹缶」「ドラえもんの4次元ポケット」「ホタル」「ヘビ/モグラ」「ガラス/矢印」といった小さな比喩的タームが本書の中を腕白さとともに跋扈している。
     このタームを展開の起点として若手のような勢いのある文を、彼は書く。それはたとえば、私のように若くしてつまらぬ老成へ向かって元気なくとぼとぼ歩いてきた輩とは正反対である。『蜂起とともに~』は小さいながらも、読み手を知的興奮と哄笑によって俄然元気にさせる本で、ゴダール『中国女』の登場人物たちが本書と同じく赤い表紙の「毛沢東語録」を片手で掲げるように、さっと持ち上げてみたくなる誘惑に駆られるのだ。廣瀬純の爪の垢を煎じて飲む必要が私にはあるけれども、その処方箋を必要とするのは、どうやら私だけでもなさそうである。

  • 文章が圧縮され過ぎていて、いまいち何が言いたいのかわからんということと、なんか明らかに某超有名映画批評家、フランス文学者の影響を受けておるなと。単著としての『シネキャピタル』の方が断然面白かった。まあ、1章の講演は、素晴らしいと思ったけど。

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著者プロフィール

1971年、東京都に生まれる。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。
パリ第三大学映画視聴覚研究科博士課程中退。現在、龍谷大学経営学部教授。
専門は、映画論、現代思想。
主な著書に、『美味しい料理の哲学』(河出書房新社)、『シネキャピタル』(洛北出版)、『アントーニオ・ネグリ 革命の哲学』(青土社)、『暴力階級とは何か』(航思社)、¿Cómo imponer un límite absoluto al capitalismo? Filosofía política de Deleuse y Guattari (Tinta Limón, 2021)ほかがある。

「2023年 『新空位時代の政治哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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