枯木灘 (河出文庫 102A)

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309400020

感想・レビュー・書評

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  • ご存知著者の分身秋幸を主人公に据えた3部作の2作目。相変わらず読みにくいグツグツ文体だが、著者の描きたい事が結晶して情動がすごい。
    なお巻末の相関図チラ見はマスト。

  • "その土地は、海沿いを行けば大阪へも名古屋へも、山の道をたどれば奈良へも、通じていた。山が幾つも連なり、山と山のふもとに人が住み、その人口四万弱の土地は、紀伊半島の南東部でも昔から開けていた町だった。いくつもの顔を持っていた。昔、海岸線に港がないため、舟は川口から入り、池田の港に舟をつけた。昔から、火の神を産み女陰が焼けて死んだ伊邪那美命を祭った花ノ窟の巨岩は、舟に乗り海から見ると女陰そのものに見えるといわれた。そこはまた、熊野三社へ詣でる人の寺社町、宿場町でもあった。紀州徳川家の家老水野出雲守が治める城下町だった。"

    紀州枯木灘は四方を海と山と川に囲まれてる貧しい土地で、その近くの路地に二十六歳の秋幸は土方をしている。
    秋幸は狭い町で複雑な血の絡まりの中にいる。
    母のフサは死別した最初の夫の四人の子供を残し、竹原繁蔵と所帯を持った。繁蔵には連れ子同士の兄文昭がいる。
    フサの最初の夫の長男、秋幸の種違いの兄郁男は、酒を飲んでは自分たちを捨てた母と新しい家族の家に刃物を持って怒鳴り込み、首を括って死んだ。
    姉の美恵は母と妹たちが出て行った家で兄郁男の面倒を見ていたが、駆け落ちして妊娠して戻された。郁男と美恵の間にはある噂があった。美恵は子供の頃から体が弱く、母に捨てられ、夫の親戚の間で起こった殺し合いで心を病んだ。
    美恵が産んだ娘の美智子は、今では成長してボーイフレンド五郎の子供を妊娠している。
    繁蔵の姉ユキは若いころ家族を養うために遊郭に売られていた。弟の仁一郎に買い戻されたユキの現在は、噂と恨み言と竹原の家への執着で固められている。
    秋幸には恋人の紀子がいるが、秋幸の背後に実父の姿を見る紀子の両親に反対されている。

    秋幸の実父は、馬の骨の男、蝿の糞の王、浜村龍造。永久に勃起し続ける性器のような男。多くの噂がある。故郷の伝説の人物浜村孫一を先祖と語り、二十七で路地に現れ、駅裏やバラックに火をつけ、会社を乗っ取り詐欺まがいで土地を取り上げ人を追い出し、三人の女を孕ませ、博打と詐欺で三年服役した。龍造は今の妻と子供と同居しているが、秋幸に長男としての視線を向けている。
    龍造が金で買った先祖、出生地で死んだという浜村孫一の伝説の不確かさがよけいに秋幸の行き場のなさを際立たせる。

    秋幸は、父が孕ませた三人目の女が産んだ腹違いの妹、さと子が娼館にいると知り、客を装い関係を持つ。
    龍造の今の妻の間に三人の子を設け、二男の秀雄は龍造の乱暴な部分を引き、一緒に暮らしたことはないが父が特殊な思いを向ける腹違いの兄の秋幸を邪魔に思い嫌がらせをしてくる。
    秀雄は秋幸の姪美智子の結婚相手五郎に襲い掛かり大怪我をさせる。そのことで秋幸が龍造とその今の家族との間に保ってきたギリギリの距離が縮まる。いらだちを覚える秋幸は、龍造にさと子との関係を告げるが「かまわん、どっちも俺の子だ。アホの子が産まれたってかまわん、土地があるから住人どもを追い払いお前らの代で好きにせい」と意にかいさない。

    町は狭く、車では5分もあれば隅から隅へと行ける、そんな路地で彼らは顔を突き合わせ、揉め事を起こし、日々懸命に働いている。
    秋幸は日の下で土を掘り起こすのが好きだ。日の下では何もかもが明快だ。しかし人々は秋幸の後ろに蝿の糞の王の姿を見る、その目線、そして男の目線がなによりもが煩わしい。

    ………

    物語では、絡まった血筋の説明、枯木灘の土地の説明、浜村龍造に関する噂、龍造が先祖と嘯く有馬に伝わる人物の伝説、日の下で働く秋幸の姿、を繰り返し語る。
    語りは終盤までは秋幸目線だが、終盤は秋幸から離れる。そのことで同じことが他者の目線では変わって語れること、秋幸からは見られなかったおとが現れる様相も面白い。

    傍から見ると傍若無人でやり方を問わず、自分の血筋を残すことに執着しそのためには子供同士が関係することも厭わない男といえば「アブサロム・アブサロム」のトマス・サトペンの姿が浮かぶ。サトペンは本人の人物像を他の人物が浮かび上がらせる手法で、サトペン自身の意思は少ないけれど、浜村龍造はところどころに現れる子孫への目線や人生のとらえ方、先祖を買うことも遊びと割り切るそのある種の余裕が憎しみながらも人間らしさのある人物像となっている。

    巻末に解説に変わった作品のようなエッセイ、「風景の貌」が載っていて、これによると枯木灘の土地柄、秋幸の複雑な血の絡み合いがほぼ自分がモデルと読める。濃厚かつ生命感に満ちた物語。

  • 高村薫がいかにこの作家に影響を受けたか、と言うか文体をパクっているぞ(必ずしもそれが悪いと言うことでなしに)、というのがよく分かりました。ぶっきらぼうな書き方でところどころ分かりにくいが、とにかく力強い小説。しかし血縁関係が複雑すぎ。。。

  • 単行本でも読んでいて、でも何度読んでも、身体の中がぐらぐらするような
    中から揺さぶられるのだけれど、胸躍る本でもなければ、
    楽しい本でもない。
    読んでいる間はしんどいほど血が騒ぐように胸に迫ってくるのに
    読み終えたらとても静かな作品だと思う。


    私にとっては頭より身体に来る。記憶に来る。


    故郷や人の思い出は心に残ってるものだと思っていたけれど、どうやら
    肉体的にも身の内にあるのだな、とあらためて思った。
    それとも、そういうものは繋がっているもので、別のものではないからか。


    紀南の出ではないけれど、元は紀南の辺りから出てきたものが多いので
    なんとはなしにその土地らしい気質や空気を、身内の態度や言葉や
    そういうものを通してこの身で感じて育ってきたことがよく分かる。
    あの複雑な係累の気持ち的なややこしさも、争いのうっとおしさも
    あの荒くたい言葉使いもハッキリと聴こえてくるようで、それが嫌でもあるけれど
    読み終わると、温かい、というにはあまりにも熱い体温のような気もするけれど
    優しく懐かしい言葉に思う。









    父が亡くなった後に始めて中上健次を読んだけれど
    生きているうちに読んでいたら
    父にも読ませたかったと、思うことがある。
    中上健次の本を読んでいれば、希望を感じられたのではないかと



    この物語りが希望あふれる結末か、といわれればそうではないと思うけれど
    それでも生きていく、ということがあると思う。
    それで救われはしなくても、光を見つけられたのではないか、と思う。
    希望は安易に救われることでも、ハッピーエンドでもなくて
    様々な苦楽がありながらそれでも生きていくこと、ではないだろうか?



    どちらにしても、もう父は読むことも考えることもないのだから
    今はわたしが読み、考えていこうと思う
    それで何がどうなるではなくても
    自分の中で答えがいつか見つかればよいと思う。




    巻末の「著者ノートにかえてー風景の貌(かお)ー」まで読んでいくと
    紀南の海の、強さ優しさ、からんとした明るさと思いがけないほどの寂しさ…
    望む風景の広がりまで、しみじみと感じた。


    ルポタージュである紀州 木の国・根の国物語も読後にでも読むと
    より様々なことが感じられるのではないかと思う。



    (*荒くたい=関西の方言。乱暴な、荒っぽい、のような意。)

  • 『岬』から続く「中上健次といえば」という作品。私が初めて読んだ中上健次でもあった。再読なので冷静に読めるかと思っていたが、だいぶ揺さぶられた。思わず涙腺も緩んだ。やはりとんでもない力を持つ小説である。

    河出文庫版の『枯木灘』には登場人物の複雑な家系を考慮して、後ろに家系図がついている。そして紀州の地図も。昔読んだ時、後ろの家系図を随時確認しながら進めていたことを思い出した。今回もそうしたが、当時、家系図を見ながらでないと読めないような小説が本当にいい小説なんだろうか? という迷いのような思いを抱いたことがあった。1冊の本の中に純粋に書かれていることのみを拠り所にして、作者の思いを汲み取ることができるようにその書物が作られていなければその書物は何かが不足しているのではないか、と。それは、自作の中で他の自作についての言及がある大江健三郎さんのような作家を読む時にも感じていたことであった。

    しかし最近は、1冊の本の中に書ききってしまえるような内容であれば、それだけの内容なのかもしれない、と思うようにもなってきている。長年の累積による洗練された集大成的な意味合いを持つ作品ならまた別の話だが、優れた作家というのは、継続して書くこと、考えることの中で進化していっているのではないだろうか。だから出版された本、という形は膨大な著者の思考の海の中の目安になる点でしかなく、読む側にも著者の思考をたどりながら、バラバラなものを再構成するプロセスが必要なのだろう、とそんなことを考えている。中上健次の諸作品は私にとって、そんな読み方をして取り組む価値のあるものだと思っている。労力のいる作業ではあるが。バラバラと言ったが、文庫でいえば奇しくも『岬』は文春、『枯木灘』は河出、『地の果て 至上の時』は新潮と分かれていることもなんだか面白い。本棚に並べるのが好きな者としては出版社を合わせて欲しい、と思ったりもするのだけれども。

    『枯木灘』自体を今回読み直して思ったことの一つは、時間的な広がりについての意識が書かれてあるということだ。「蠅の王」浜村龍造が、自身の行為を浜村孫一からの流れで語る部分が頻出するが、読んでいるうちに、この秋幸の物語を語る言葉の中に、この『枯木灘』の中で現在の時間を生きている人間の声にとどまらず、過去にこの土地に生きた人から連綿と受け継がれてきた言葉もそこに織り込まれていって、複雑な模様をなしているように思えてくる。美恵が「兄やん」郁男について振り絞る言葉、ユキが自身の報われない人生について語る呪詛のような言葉。特にこの物語で登場する女性の語りは、遠い昔からの声と混じって聞こえてくるように思われる。それはまさにこの「路地」そのものを書こうとするにはふさわしいありかたなのではないだろうか。

    考えてみたいことは山ほどあるが、他の諸作品を読む中でも消化していければと思う。この先も中上健次を読むが、何か1つの作品を読むたびに他の作品での声が頭に響いてくるということがあると思う。『枯木灘』を読みながらも『岬』の諸短編の文章にまとわりついていた熱が呼び起こされることがあった。次は『地の果て 至上の時』だ。

  • この作品の読後感は「カラマーゾフの兄弟」と同じ大きさであった。「七人の侍」を観終わった後と同じ大きさとも言えるだろうか。そういう比較がナンセンスなのはわかっているが、この日本が誇るべき作家と作品を声を大にして喧伝したい欲求にかられてしまう。

    複雑で不可避な血縁にわざと背を向けるように、主人公の秋幸は毎日太陽の光を受けてツルハシを振るうことに喜びを見出す。単調な繰り返しが、秋幸にとっては心臓の鼓動のように、自分が生きている証となりうる。

    だが、日々の単調さから来る充実も、あるきっかけで、本来の秋幸の感情が、まるで昆虫が脱皮するように秋幸の表皮が破れて、秋幸の真の性情が表出する。
    個々ばらばらだった物や人が、一気に秋幸の肉体に向かって凝結し、血や土地によって元から秋幸の肉体に刻印されていたかのように、人間の宿命が秋幸の姿かたちとなって浮き出される箇所は、人間の存在意義や歴史や運命といった、人が背負って抗うことのできない業(ごう)が、秋幸という一個の人間を媒介として可視的な形となり、作品から迸り出て読者であるこちら側に伝染し、読者自身の心の葛藤となって心臓をつかみ、読んでいて体が震える。まるで人間を、血管の1本に至るまで、その存在を透かし見たような興奮…

    私は今でも、中上が生きていたらノーベル文学賞を授与されたはず、と確信する。
    (2008/12/12)

  •  登場人物の感情の濃さと暴力的な感じが強烈で、南紀地方は日本の南米なのだなと思いました。。私小説なので、著者の系譜に負うところもあるのでしょう。
     土方をしながらの主人公の感覚描写、個人的には好きでした(退屈という人がいるのも分かるけど)。自分も自転車に乗ってるときや山を歩いているときは似たような感覚をもつので、それが上手く描写されていると感じて。しかし、実生活で同じような感覚を持ったことがない人には、あの文章だけで伝えるのは難しかったのではないかな。

  • <複雑な家庭で暮らす主人公。土臭い土木家業に情熱を燃やす主人公であったが、血は彼を巻き込んでいく・・・>

    血縁、暴力、土。執拗に繰り返し語られる濃密な人間関係にただただ圧倒されました。

    静かに終わるラストに著者がこめたのは希望でしょうか、未来の悲劇でしょうか。

    前者だと信じたい。

  • 20代の頃、紀州を旅行したことがある。駅前や街道のあたりでも海に下る斜面ばかりで、平たい場所が無かった。海から伸びる山と川しかなくて、遠くを見通す処が何処にもなかった。
    新宮から本宮に向かうバスの道沿いにへばり付くように湯の峰温泉があった。伊豆や群馬の温泉のようなものを想像していたら、ギャップが大きくて驚いた。
    紀州の人には申し訳ないが、逃げ場所の無い閉鎖感にクラクラしそうだった。

    読まなければと買ってから、20年ほど積んどいた本。
    主人公があの男とか蝿の王と呼ぶ邪悪な実の父。血のつながりの無い父と兄との生活。母違いの兄弟や父違いの兄妹達。血縁者の間の憎悪、暴力、近親相姦、殺人。主人公が肉体労働の中で自分を空しくし、季節に同化するする喜びが紀州の自然の香りを濃厚に感じさせてくれる。しかし、それ以外の時間は否応なく地縁と血縁の痛みが絡まってくる。
    決して流麗な文章ではない。無駄な装飾が無く、ゴツゴツしているし、何度も繰り返される表現内容もある。だけど、じわじわ浸みてくるようで、飽きることはなかった。
    自分は路地で生まれ育ったと言い、路地の人々も集まってくる。路地の何たるかは説明が無いが、主人公には大切な場所と判る。その路地の盆踊りで語られる「兄妹心中」。本当にこんな盆踊りの歌があるのだろうか。

    主人公や登場人物は皆、少しづつ狂気を抱えたままいる。なんとか読み終えたが、まだ物語は終わっていない。逃げずに中上健次を今後も読んでいこうと思う。

  • 読むのにかなり辛いヘビーな本でした。
    土や自然の描写が、触感聴感的なところが気持ちに残りました。ちょうど読んだ時期が、キーともなる3月2日前後となったのが、ちょっとした驚きでした。

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著者プロフィール

(なかがみ・けんじ)1946~1992年。小説家。『岬』で芥川賞。『枯木灘』(毎日出版文化賞)、『鳳仙花』、『千年の愉楽』、『地の果て 至上の時』、『日輪の翼』、『奇蹟』、『讃歌』、『異族』など。全集十五巻、発言集成六巻、全発言二巻、エッセイ撰集二巻がある。

「2022年 『現代小説の方法 増補改訂版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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