- Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309408477
作品紹介・あらすじ
「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの」-二人の女性の恋は、「男と女ごっこ」を拒絶し自分たちに合った性愛を手探りするうちに、捩れて行く。至純の愛と実験的な性を描き、発表当時から年を追うごとに評価の高まった異色の傑作が、待望の新装版で甦る。
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
2008.0115読了
「あなたはどうなのかしら? いつかナチュラル・ウーマンになるのかしら? それとも、そのままでナチュラル・ウーマンなの?」
耳に入った瞬間に心臓の膜を破り血に混じって体中に回りそうな質問だった。
「考えたことないわ。」
辛うじてことばを返したが、涙が滲んだ。自分が何なのか、いわゆる「女」なのかどうか、私にはわからない。そんなことには全く無関心で今日まで来た。これからだって考えてみようとは思わない。
――本書207ページ(「ナチュラル・ウーマン」)より抜粋
人物視点が同じ3編の短篇集。
時間列に直すと、「ナチュラル・ウーマン」「いちばん長い午後」「微熱休暇」となり、「微熱休暇」が現在ということになる。
女性が女性を愛するとはどういうことか。
たとえば中山可穂の『深爪』をみると、性交渉として互いの性器は重要な意味を持っているし、男性とのセックスも描かれている。「女性」という自覚を主人公たちがしっかりと持っていて、それでその前提のもと「恋愛」をする。
けれどこれは違う。
さきに引用したように、主人公の容子は「自分が何なのか、いわゆる「女」なのかどうか、私にはわからない」のであり、「これからだって考えてみようとは思わない」人物なのである。
この容子と、「ナチュラル・ウーマン」での恋人・花世との行為では「穴」が重要であり、性器は無視される。それは二人だけが、二人のために充足する唯一の方法だった。そして容子自身は「女に生まれたついでに女として生きている」という性の自覚に乏しい。そして、男性は見事に除かれている。
そもそも、この作品の中では誰一人として「同性愛」であることに否定的なものはなく、好きな人が同性でも、好きなら付き合えばいい、とありのままに皆生きている。
「普通性愛」とは何だろう、と思う。
この容子は同性を好きになっても、「同性なのに」とは一度も思わない。その点は悩みにすらならないし、迷いもしない。ただ相手が、「少しでも自分を好きになるか」を気にするだけだ。
普通に、恋をしている。
ヘテロであること、のその「普通性」を改めて考えさせられたし、こうして描かれる「同性愛文学」としての完成度に驚かされた。
この新装版には桐野夏生氏が解説を書いていて、それもとても興味深い。 -
彼女らには贅肉がない。すっきりとして毅然としている。
だからフリルもリボンも必要ない。簡素な服をあっさりと着こなしている。
変身も変容もしない。なのに気づけば取り戻しがつかないほど歪んでいる。
これみよがしな歪みではない。それは生来的に人間が持つ「暴力」や「愛しさの発する怒り」のようなものだ。
人と人が関係を持つ、そこには支配被支配関係が生じる、恋愛においてはなおさらだ。
文学による達成とはこういうもののことをいうのだ。
中上がおすすめしているのだから、食わず嫌いせずに読んでおけばよかった。 -
一読しただけでは、この小説のことをよく理解できなかった。ヒステリックな面や暴力の表面を、目がなぞっているだけだった。
「あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの」っていうセリフの意味をもう少しちゃんと考えたい。
よく見かける「あなた(男)に抱かれて、私は女になる」っていう言葉と対になっているわけではないんだろう。
無意識に周りに媚をまき散らしちゃってる主人公の生来のだらしなさがちょっと面白かった。 -
やっぱり私は同性愛はわからなくて、異性愛のほうが断然いい。
なあんて、見当はずれなことを思いながら読んだ。
いいとかいやとかじゃないんだよね。
それはわかる。
だだ、読書の醍醐味ないし極意は感情移入がだから、
理解薄いと困るよね。
それが文芸作品の泣き所。
投げ出さなかったのは、文章にしっかり捉えられたからで、
しっとりと描き方はうまい。するすると読んでしまったのだ
でも、内容は凄い。
どっきりどきどき、あられもない、すさまじさ。
そこへいくと、
橋本治の「桃尻娘」シリーズの磯村君と木川田の同性愛の場面は
ほのぼのしていたんだよなー。
恣意的な読みとりで、男との恋愛に置き換えてみれば、
なんのことはない。となって身も蓋もない。
というか、同性の恋愛も異性の恋愛も変らないのだなーと。
「男と女の間には深い川がある」ように、人と人のあいだにも深い淵がある。
とでも理解しようか。(私はこの程度だ!)
なぜ、松浦理英子の作品を読みたかったのか。
それは、桐野夏生が関心をよせていると知ったから。
解説によると、作家仲間も注目して大切にしているという作家とか。
確かに1987年頃には異色であったろう。
次作品を読んだらわかるようになるかもしれない、懲りない私。 -
知らない世界を見せてくれる本って意味では、読んでよかった。面白かったし。
どうにもならない行き違いの描写には、ひりひりするような実体験の重みを感じた。
何やら大仰な言葉を使いたがる解説者による後書きではそこらへん否定されてたけど、この作家には実体験のベース、あると思うなあ、僕は。
その実体験の相手が何者だったにせよ、生きた人間であってもう一人の自分ではなかろう。
その目的も、「一人の女性である」自分、とやらに行き着くためではなかったのではなかろうか(何かそんな感じのこと書かれてるように見えた)。
ただ、意味ありげだけど意味するところのはっきりしない会話とか、ややご都合主義なストーリー展開とか気になるとこもあって、没入するとこまではいかなかったかな…。
あと漂う男尊女卑の世相と、それを内面化した挙げ句、女性同士の関係性にさえも投影していく登場人物たちにはちょっと違和感を覚えた。
マウント取るとき、男っぽく振る舞う女性、という型が無邪気に何度も出てくるのは、この作品の古さだと思う。
そういう時代で、実際にそんな感じだったのかもしれない。それを描写しただけなのかもしれない。
しかしもしそうなのだとしたら、ちょっと物足りないとも思ってしまうから。いいとこもたくさんあるんだけどね。 -
松浦理英子、恥ずかしながら未読だったのだけどするすると指通りのいい文章だった。「あなたとわたしに出来ることはもう別れることしか残っていない」人に焦がれると自分が焼ける。でもまだ22歳なんだよね。死ぬことを考えないわけでもないけどまあ生きるよね。それがつらい。
でも作者は果たして、この小説をレズビアンものと捉えられることについてはどう考えているのだろうとちょっと気になる。レズビアンと位置づけるこということは比較対象としてヘテロセクシャルが上がってくるわけだよね。それは果たしてこの人の望むことであろうかとふと考える一冊だった。 -
松浦理英子の言葉は五感を鋭く痺れさせる
そして、生々しく峻烈だ
能動と受動 支配と従属 花世と容子の関係
容子の語りで進む物語
松浦理英子の本を何冊か読んだが受動的で主体性の欠落した子が大体出てくる
そして彼女達は分け隔てなく受け入れて通過させてしまう体、心に
支配していると思っていた方が彼女達の媚び甘えに手を取られ誘導されていると気付きもがく
花世もまさにそうで容子の気持ちが見えなくなる
容子も花世を強く焦がれているのだが
噛み合わず壊れていく二人
容子に触れて初めて自分を女と認識し性欲を意識した花世
女に生まれたから女を演じているだけ
性を特別意識していない容子
この時点で他者との関係性への二人の違いが見えている
自己完結型で浅薄な分素直な容子
複雑で思慮深く他者の存在と相対し自分を認識していく花世
それでも二人を引き合う吸引力は凄まじく行為も息がむせ返るほど濃密だ
狂おしいほど圧倒的な恋
愛し過ぎてしまいズレていく二人
暴力と愛は背中合わせで二人を搦めとる
始まりから終わりまで身悶えるほど恋をしていた
生殖を意識しないからこそ魅せられる恋だと思った
終わるのが惜しくて何度もページを戻り読んだ
松浦理英子の書く言葉は圧倒的にかっこよく
女を性を解放した 奔放に自由に
この世界の官能は私たちが社会通念という抑圧から放たれた時に得られるのかもしれない
恋はこんなにも息苦しく甘美で狂おしいものだった
-
読み終わって、今一理解が出来ない。と正直に思いました。(同性愛に対する批判的な意味ではなく)
私の恋愛対象は男性で、それを疑った事もなかったから。
私の親しい友人にも同性愛カップルが何組かいます。
同性愛に対して不自然さを感じたことは無かったけれど、私には未知の世界だなと。
作中に出てくるカップルは女性として女性を好きになり、関係を持つことになるのですが
お互いの身を削り合う様な恋愛に、ズシンとやられました。
好きで好きで仕方ないのに、そうする事でしか保てない恋愛。
しんどそうです。いや、しんどいんですよね。
それが理解出来るからこそ、どこか痛くなる小説でした。 -
台詞が突き刺さる。脳がぴりぴりする。深呼吸をするようにページをめくった。また何度も読むと思う。