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この作品からのみんなの引用
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書かれているモノの内側から過去が襲来する。
― 220ページ -
「そして、だ、俳優がその舞台の空間で演技をするでしょう?これはだね、つまり空気を揺さぶっているの。あらゆる音は、空気の振動じゃない?正確にいえば水の振動もあるけれども、つまり音波とはそれよ。板の上で、俳優たちが演じる――歩きまわるのでもいいし顔の表情ひとつでもいい、眉の動きでも――物語のなかのキャラクターを表現するために、演技をする。すると、音は生まれている。生まれているんだよ。台詞の有無じゃないのです。演劇において、いっさいはサウンド化された。いっさいの、俺が描いた、物語がね」
― 83ページ -
親知らずはつらい。しかし、すばらしい音子(アトム)で地上を満たそう!
― 81ページ
みんなの感想・レビュー・書評
もう、イチオシ!
やっぱり古川さんってすげーや……。
虚構と現実の間を怒涛のごとく流れて行く物語。
3月11日をまたいで読み進めていた。途中、辛くて頁をめくる手が止まることが何度もあった。土地にいること。そこに住まうこと。そこで語ること?全うしなきゃ。
なんだろう。これは。
相変わらずとんでもないです。フルカワヒデオ。
たとえば僕はここで死んだふりをしてみる。すると
僕は妻の死を認めない。
あさってナンバーガールが解散する。
いしいしんじの解説はつまらないだけなので注意。
フルカワヒデオ≠古川日出男=ボディ≠ソウル、と図式に表すとこんな感じか。
小説家の自意識と、作品という小説家にコントロール不可能なものと、それを描いてしまう作家の想像力の根源と、
その根源を意識化できない小説家といった、書くという行為に起こりがちな矛盾点と真っ向から対立し、
その構造をメタ的に捕らえなおすという非常に複雑な所業を行えてしまうという小説家の所業。
そんな小説
色々な要素が詰まった作品だと思います。
スイッチの切り替えが面白い。
そして、最後の最後でやられました。
鳥肌がたちました。
恐ろしい勢いで読ませる文章。 でもストーリー筋みたいなものは説明できない。フルカワヒデオ本人の生活であり、編集者との会議であり、手の込んだ料理であり、ドビャドビャ湧き出る妄想の数々であり、失われた妻であり、闘争というべき創作活動の経過と結果そのものであり、型にはまるということをしない。 「僕は低音やけどをしない」 「いっさいの作品は誤読されなければならない、と」神様の作品だって誤読さ... 続きを読む »
出版に関わる身内ネタがふんだんに盛り込まれている もういい加減、何のために小説を書くのか なんて内省的な小説は読みたくない この小説に関して言えば、 テーマがテーマだけにしょうがないのかもしれない ダンテの「神曲」が下地にある 「神曲」自体は、買っておいてまだ読んでいないから 間違っているかもしないが、 敬愛するウェルギリウスの導きと 失われたベアトリーチェの愛により 地獄... 続きを読む »
言ってみればメタ・エッセイ、メタ・私小説。あるいはメタ・ネタ帳。 奔放なイメージとともに徹底的に軽く、これでもかと饒舌に「フルカワヒデオ」の内面と外面をエッセイや私小説の形で描いていく──ように見えるのが前半。 「意識の流れ」流の奔流のような文章が流れるように(←推敲のまるでできてない文ですね)ひっかかりなく読めるのは、音楽のリリックを紡ぐように言葉のリズムまで計算されて書かれているからだろう... 続きを読む »






