なぜ人を殺してはいけないのか? (河出文庫 な 25-2)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (197ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309409986

作品紹介・あらすじ

14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの」と聞かれたら、あなたは何と答えますか?-日本を代表する二人の哲学者がこの難問に挑んで徹底討議。対話と論考で火花を散らすスリリングな一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 終始噛み合わない2人の哲学者の対話。

    ニーチェ学者永井均は、現状がいちばんで、人類の懸命さも愚かさもその現状に、現制度に表現されているという立場。

    ドゥルーズ学者小泉義之は、あくまで個の倫理というものにこだわっていて、個々の倫理的実践が、現状を作っていくという立場。

    噛み合うはずがない。コインの裏表というのはこういうこと。が、本書では、すれ違いながらも喧々諤々していて刺激的だった。こういう本て、今、ないよな。。。

  • こういう話はまず“人権”というものが社会的約束として存在し、国家がそれに裏付けを与えている、という話から始めないと意味がない。

    人を殺すのがなぜいけないのかをまるで考えたことが無い人だけが読めば良い、そんな本。

  • 永井の『これがニーチェだ』(講談社現代新書)の刊行を受けておこなわれた、当時話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をめぐる対談と、永井と小泉それぞれの論考が収録されています。

    個人的には、小泉の問題提起の鋭さに感銘を受けました。対談のなかで「生活」と「生」という対概念が提出されていますが、永井は大江健三郎のような世間的な意味での道徳的言説を「生活」に、ニーチェの権力意志を「生」に割り振っています。これに対して小泉は、永井のそうした立場が、「生活」と「生」の境界線を引きつづけるという振る舞いを通じてのみ担保されるほかないということへの問題提起をおこなっています。これはいわばハイデガーのニーチェ批判を道徳の領域で再演したものということができるように思います。

    こうした小泉の問題提起に対して、永井は「分からない」といいつづけていますが、けっきょくのところそうした永井の振る舞いもまた、小泉の言説を「生活」のほうに繰り込むことにほかならず、結果的に小泉の提起している問題をいっそう裏づけているのではないかと感じました。

    小泉にしてもおそらく、こうしたみずからの永井批判の言説に何ら特権性がないことを理解しており、その批判が言葉にもたらされたとたん、否応なしに「生活」へと繰り込まれてしまうほかないことを十分に承知しているはずです。そのうえで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対しては、後は殺す実践あるいは殺さない実践によって答えられるほかないと述べているのだろうと思われます。

  • 読み終わった、というのは全く正しくない。
    随分前に買い、随分前に一度読もうとし挫折し、再び手に取ったが、やはりわからん。
    概念とか哲学とか、知らずに買った私が悪いが、こんな興味を引く題名でださないでほしい。。。
    処分だな。

  • つまらん

  • うーん。。。よくはわからなかった。
    前回のドラマ「相棒」で明示されてから、確かになんでだろうかと考えだしたことだけど、結局答えは見つからないままなのかなー。

  • どうせ死ぬならという開き直りを老人がしないのが以外という話にはっとした。
    永井さんの話の方が論理的で分かり易い。

  • 永井均氏と小泉義之氏の対談から始まり、
    それぞれがその対談の内容を補足するコメントを寄せるという構成。

    対談はほとんど話がかみ合っていないような印象。
    実際、永井氏は自分のコメントのところで小泉氏の発言の意味が「わからない」と連発している。

    おそらく二人の立場の違いがこの齟齬を生み出している。
    永井氏は、殺人とそれに関わる道徳の問題を、普遍性をもった一種の「法」の問題として考えている。
    対して小泉氏は、そうした考え方に対して批判的で、殺人の問題を考えるときには具体的に、それぞれのケースでの「殺さなければいけない」理由を考える必要性を主張している。

    ぼく個人としては、小泉氏の立場に共感する。
    永井氏の議論は、抽象的で机上の空論にとどまっている。
    また、持論を展開する際、五人で形成される簡易的な社会を考えるのだが、ここで、〈私〉を特権化するのは問題があるように思われる。私の特権化は存在論的には有効であるかもしれない(どんな存在を理解するにも私の存在がなければ理解されえない。)が、法や道徳の問題に関しては、〈私〉はその法の存立要件にはならないだろうからだ。法は〈私〉なしにありうるものとして考えられるから、法としての有効性を持つはずだ。

    そうした点を小泉氏は理解しているように思う。
    だからこそ、「殺してはいけない」ということを「絶対的悪」や「罪」だと言いうるのである。〈私〉という思考する存在がもつ論理的世界よりも、「殺してはいけない」という道徳的命題が先在し特権化されている。

    だからこそ、小泉氏は、「どうして殺してはいけないのか」と問うことは無意味だと言う。そうしたことは、生死の際に存しえない「強者」が問うものであって、弱者はそんなことは問わない。現実に殺すものは、現実にそれしか生き延びる方法がないから殺すのであって、そのとき、殺人はそうした問いが失効したうえで正当化される。そうでなければ自分が死ぬからだ。こう言ってよければ、この問いを問うという出来事と、殺人をするという出来事とは共立不可能なのである。小泉氏の、この二つの出来事の共立不可能性への理解、おそらく永井氏にはない観点ではないだろうか。

    しかし、実際には、「楽しみのために殺す」人が近年の問題になっている。まさしく、道徳的命題などまったく効果をなさないレベルでの殺人である。現在最も問題になっている殺人者(よくサイコパスと言われる人たち)に対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」などという問いは意味を持たない。そうした殺人に対して、どう対処すればいいのか。そこにどういった価値を与えるのか。そうしたことを考えるために、この本のタイトルとなっている問いがまったく無意味であるということを理解する必要があるし、そのための論理をこの本は教えてくれると思う。

  • http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4309409989
    ── 永井 均 vs 小泉 義之《なぜ人を殺してはいけないのか?
    19981023 20100106 河出書房新社》
     
    http://q.hatena.ne.jp/1409547408(No.7 20140902)

  • つまらなかった。期待はずれ。
    と言うより、私には全く何を言っているのか理解が出来なかった。
    哲学をかじっている人はこれが面白いと思うのか?

    一言一言をわざわざ難しい言いまわしに変えて、お互いに理解が出来なくなっている感じ。これが哲学というものなのか?

    永井氏は自分の著書の宣伝ばかり。うんざり。
    2章では相手の悪口ばかり。文句が有るなら、相手と議論中に突き止めればいいのに、いないところで一方的な文句や批判はみっともない。

    小泉氏はもっとよくわからん。本当に自分の言いたいことを言えているのか?(俺なんかに言われてかわいそうに。ウッシッシ)

    哲学者という人達は、訳のわからない言いまわしで無駄な議論をする人種と理解出来たことがせめてもの救いと思うようにします。

    しかし、二人とも「ニーチェはこう言っている。」、「ニーチェなら…」とニーチェが万能の神様のように、祀り上げていたけど、19世紀の何もなかったころのおじさんをいつまでも崇めているようじゃ、現代っ子の気持ちは理解出来るはずがないよ!と直接教えてあげたい。

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著者プロフィール

小泉義之(こいずみ・よしゆき)立命館大学大学院先端綜合学術研究科教授(哲学・倫理学)

「2016年 『反東京オリンピック宣言』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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