- Amazon.co.jp ・本 (485ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309411743
作品紹介・あらすじ
「専門哲学の外にいる哲学者が人類の中にいると考え、むしろそこから、その哲学を考えてみたい。」先人の生き方を知ることで、ものの見方を日々更新し続けてきた鶴見がつむぐ、オーウェル、花田清輝、ミヤコ蝶々、武谷三男…らの思想と肖像。みずみずしい小伝のなかから、人物を通じて鶴見の哲学の根本に触れる作品を精選した、文庫オリジナル・コレクション。
感想・レビュー・書評
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本屋でみかけて、ぱらぱら見ては戻しを何度かして、買おうかなーーと思いつつ、図書館でわりとすぐ借りられたので、図書館の本で読む。しかし、自分の本ではないのに、読んでいてあやうく何度かページの隅を折りそうになって、ちゃうちゃう図書館の本やと、紙の切れ端を挟んだりしながら読む。ページの隅を折りたくなるのは、しまいまで読んだあとで、そこのページにまた戻ってきたいから。
このコレクションは何巻まで出るのか知らないが、黒川創が編んでいくらしい。京都のSUREの人やという記憶はある。たしか何かの本で、鶴見の話の聞き手にもなっていた。いつだったかは、この人の小説も読んだ。文庫の袖にある略歴で、「十代の頃から「思想の科学」に携わり、鶴見俊輔らとともに編集活動を行う」という人であることを知る。
この1巻は、「人物を通じて鶴見の哲学の根本に触れる作品を精選した」というもの。黒川の言葉では「鶴見の著作のなかから、「伝記」に類するものによって構成した」巻。私がいつだったか、鶴見の別の本で読んだ文章もあったし(たとえば金子ふみ子や柴田道子について書いたもの)、初めて読むものもたくさんあった。
とりわけ巻頭に置かれた「イシが伝えてくれたこと」がよかった。この最初の文章を、私はゆっくり、ゆっくり読み、この本も、日をかけて、時間をかけて読んだ。(イシについては、シオドーラ・クローバーによる評伝『イシ』がある。)
▼哲学とは、当事者として考える、その考え方のスタイルを自分で判定するものだ。ある当事者の前に開かれている一つの視野がある。独特の遠近法、パースペクティブというようなものがある。その遠近法の中に他人の視野が入ってきて、他人の視野もその中に配列する。それが、私の定義するところの哲学だ。(p.11)
イシと対等につき合ったウォーターマンと、アルフレッド・クローバー。かれらが自分のほうから対等性を築き上げられたのは「現場」という考え方があったからだ、と鶴見は書く。イシが道具を全部自分でつくり、計測するには、指、掌、身長、歩数などをつかうこと、それらの驚くべき熟練と美しさに対する尊敬の念。対等性はそこから現れる。
シオドーラとアルフレッドの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンが「太古の言葉を掘り出したい」と『ゲド戦記』を書いたことにふれて、太古の言葉とは我々の暮らしの中で言えば生まれたばかりの子供がしゃべっているものだと鶴見が書いている。
▼文明社会の中で生きていると、だんだんにその文明が入っていってしまうが、それ以前に子供は、非常に強い問題を、太古の言葉で、哲学的な質問として投げかけてくる。これに対して、「子供は黙っていなさい」とか、「大人になりゃわかる」なんて言い返すのは間違っている。子供の質問は、極めて哲学的なものなのだ。それを子供の言葉で答えようとすれば、これはル=グウィンの作中人物である魔法使いと竜の対話みたいになる。その状況は私たちの毎日の生活のなかで繰り返し起こっている。(pp.24-25)
子供の質問の哲学性ということを、そのあとに鶴見が書いている体験を読みつつ、しばし考える。
石原吉郎について書いた部分で引かれている、石原自身の言葉も心にのこった。『ライファーズ』を読み、アミティの活動について読んでいたせいもあると思う。
▼「苦痛そのものより、苦痛の記憶を取り戻して行く過程の方が、はるかに重く苦しいことを知る人は案外にすくない。」(「強制された日常から」『日常への強制』構造社、1970年)(p.295)
ソヴィエトの強制収容所の体験をへて、日本にかえって平穏な生活にもどってからのほうが苦しかたのだという石原。この石原の経験と言葉について、鶴見は「経験とはある人におこった何事かではなくて、自分におこったことについてその人が何をするかなのだ」というオルダス・ハックスリーの言葉に照らしている。
石原吉郎のことは、前にもなにかで読んで、その名前とシベリア抑留の経験者だということが記憶に残っている。(ここで過去ログを検索してみると、それは鶴見の本『読んだ本はどこへいったか』だった)
古今の人の存在や言葉を自分をくぐらせて書く鶴見による「伝記」の類を、一つ一つ読みながら、鶴見のコンパッション、同情ないし共感というものを考え、私自身のコンパッションの行く先を考えもした。
コレクションの2巻目もしばらくして本屋でみかけ、2度ほどぱらぱらしたが、どなたかが購入したのだろう、数日して棚から消えてしまって、そちらも図書館に予約する。
(11/17了) -
伝記的な作品を集めたアンソロジー。ジョージ・オーウェルからミヤコ蝶々まで、あくまでも共感をもとに描かれる人物像よりも、むしろその共感ぶりに共感してしまいます。
読み物としても面白い伝記であると同時に、共感される思想の連鎖から、氏の膨大な著作群を読み解いていく糸口を見たような気がしました。 -
歴史の証言者としても貴重な人。ホワイトヘッドの講演を聞いた経験なども綴られていて。
けれども、吉本隆明が亡くなった今、信頼に足る思想家というのは、彼くらいしかいないんじゃなかろうか。
本作を読んで、鶴見俊輔は、死ぬまでその思想を確定できない「真の哲学者」だと思った。というか、死んでも無理だろう。
というのは、常にこれから起こりうる出来事に対して開かれているからだ。つねに、そしていまだ、変化することに対する準備ができている人だと思った。この態度は、肉体が滅びようが滅びないし、肉体を持つものが継承してゆく価値あるものだと思った。