- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309412139
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著者が過ごした不知火の思い出語り。
祖父松太郎は天領天草出身を誇りとしている。土方仕事を「仕事は人を絞ってやるんじゃない、信用でやるんだ」と、天候による損失もすべて自分の山や土地を売って補填してきた。だから家はどんどん身代を崩していった。
その本妻である祖母のおもかさまは魂が漂浪(され)き、盲の神経殿となり表を流離う。細い右足と象膚病で肥大化し膨れ上がった左足を引きずり着物の裾を破き歩く。おもかさまに付き添うのが孫のみっちゃん。 おもかさまは山に行けば「やまのものはカラス女の、狐女の、兎女のもんじゃるけん、慾慾こさぎっては成らん」という。家ではすっかり色の替わった白無垢をいじりながらみっちゃんに大人しく髪を梳かれている。こうして老狂女と幼女はこの世の無常を編みほぐして過ごす。
祖父松太郎は、おもかさまが神経殿になってからは、権妻殿(妾)のおきやさまを家に入れ妻妾同居としていた。おきやさまは、村人からは獣の性などと言われている。けれどもおきやさまの歌う浄瑠璃にその性の深さをしみじみと感じる。
みっちゃんは母の春乃からは人の世の事をならい、父の亀太郎からは海や山につながる人の生をならった。
亀太郎は、松太郎の養子扱いで殿様気質の松太郎と気は合わなかったが、土方仕事には共に競い合った。土方の兄様衆とはその後も付き合いがつながり続けていた。
身代の崩れたみっちゃんの家は天領天草から水俣の町の外れに引っ越す。
えらい落ちぶれらいた…と言われるその家の先には、のちに水俣病患者たちを入院させた避難病院があり、その先はそのまま斎場になっている。避難病院から先はすでに彼岸だった。
漁村の女たちは逞しく魚を獲り売りさばいていた。彼女たちの二世三世たちが水俣病にかかるのである。
日本窒素肥料株式会社というもんができ港ができ道路ができ町ができる。
町が栄えると女郎屋ができる。貧しい家から売られたおなごどもが生き身で商売する店だ。
みっちゃんは女郎衆の姉さんたちの膝で髪を結ってもらう。
おもかさまが町を彷徨えば、姉さんたちが家まで連れてきてくれる。盲目の老狂女と風呂帰りで白粉と紅の匂いを漂わせる妓たちとの道行はさぞかし人目をひいたことだろう。
この姉さんたちは貧しく売られたが心優しく、本来なら土方の兄さんたちと似合いの夫婦になったであろう。
そんな姉さんの一人、ぽんたと源氏名を付けられた十六歳の娘が殺される。刺したのは十五歳の中学生だった。
貧しく売られたぽんたの実家からは葬式は出さない、そして悋気の店からも葬式は出ない。みっちゃんの父の亀太郎さんは解剖に立ち会い、ぽんたへの哀れを思って嘆く。
不知火の山や海には人以外のものの気配があった。
山には神様が、そして妖怪変化がいる。山の神様と海の神様はその行き合う道で喧嘩をしている。村人たちはその気配を感じながら暮らしている。一人遊びしている幼い子供の姿を山童と思われたのかもしれない。
村では通常と違う人間には敬称が付けられる。神経殿、癩病殿、鼻欠け殿(淋病患者) 、そういう者たちは神様に近いとされている。
そして祖父松太郎と父亀太郎が作っている道というのはなんと不思議なものか。道には生き物の証が、ついさっきまで生き物の中にいた糞や、まだ生命を感じる死んだ身体が横たわっている。道とは人の世と獣の世界を繋ぐものなのだろうか。
山には山の幸、海には海の幸があり、それを分けてもらって生きている。まさに生活が歳時記そのものなのに、なぜこの島は貧しく、男は出稼ぎ、女は売られて淫売と言われるようにならなければならないのだろう。
四歳のみっちゃんは「家を出ていんばいになります」と、町の大通りを一人花魁道中で練り歩く。その後はサーカスを始める。村の人は 「魂のおかしな娘」という。気の触れた祖母おもかさまは「魂の深か子」という。みっちゃんはその感性で世界を見ようとしていた、この世あらわす言葉を探していたのだ。 -
本を開いて一行目でもう、匂いや風まで感じられるように浮かぶ、行ったことも見たこともない昭和初期、熊本県水俣の、部落の生々しい風景。
4歳から5歳くらいの頃の著者の「目」を通した世界を、大人になった著者が書いているのだが、あとがきで池澤夏樹氏が言うように、エッセイや回想録というにはあまりにも深淵な世界が描かれている。
幼い日に抱いたなんともいえない寂しさとか恐怖心とか、本来ならば言葉には到底おこせない「心の中にむらがりおこって流れ出る想念」を、言葉にすることに不完全さを感じながらも極限まで尖らせ、尚且つ生身の血の脈打つのを感じる言葉をもって、「送り出してしまうことに」なっている。
片足は象皮病で肥大した、裸足の、盲目の、村の皆から「神経どん」(つまり精神病)と呼ばれ、石つぶてを受けることもある祖母、「おもかさま」と、ある日は甘く、ある日は悲しく、またある日は靉靆として、まだ人の手のあまり入らない部落の村をその自然と同じ目線で見ていく。
赤ちゃんが完全な存在でこの世に生まれてから、人間というものになっていく過程で、根源の深い世界から離れ落ちていく、みずから手離していく感覚を追体験しているよう。
特に、第九章「出水」が個人的にはかなり、頭を岩で殴られたような気持ちになった。
出だしは、「五月の暗鬱は、麦の熟れ色に宿ってやって来る」
柿山の婆さま、と呼ばれる片目の潰れた働き者のおばあさん。山のことや猿のことを、みちこに優しく教えてくれるその婆さまが、突然に柿山で首をくくってしまう。気持ちはまた書き出しに引っ張られていく、また重ねて読む。
「わたしにはなにかが納得され出していた。それは確実な不幸感と云ってもよかった。この世の正相と変相が、同時にみえはじめたと云ってもよかった」
前半の章では、おもかさまの髪を女郎のように結いながら、髪につけたペンペン草の揺れる音に、この世の無常と有情とをつくったりほぐしたりするあそびをあそぶ幼女だったみちこ。そこから後、
「なにか濃密な、バランスをたもちきれぬ生命界の変相が見えてこようとしていた」みちこは、水の溢れた田んぼへ入っていく。
そういう鋭敏な目をもった人が見てしまう心の在り様のなんたる残酷さと美しさなんだろうか。
確かにまだ全部手離す前に、「現世へはもう帰りたくなかった」と思うのかもしれないと感じた。
選び取られる言葉も、色々と好きだった。
三千世界
徒然なか(方言の響きがとても良い)
弱いものたち向きに捨象された世の中(安らかに生きていくために草や土と等しいものになる、そればかりでは決してないはずだけど)
子どものふりをして、胸の中の悲哀を深くして、見聞きした様々のことは、全編を通してこの「弱いものたち」のことだった。
これはあの水俣病以前の、壮大な魂の世界だ。
子を産んでから、子というものの完全さに感嘆することが多いが、なんでみんなそれを手離してしまうんだろうな、そうでなければ生きていけないのかなこの三千世界では、と、少し泣いた。 -
時代も場所も異なっているのに、何故だかふたりの祖母と過ごした時間を想い出させてくれる。私も沢山語ってもらっていたんだな、と思う。
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水俣病の歴史を知っている。しかし、その時代の前後した熊本に生きる人々の生き生きとした生活を4歳から5歳であろうみっちゃんの目からみたままを描写する。
その後に起こる水俣の悲しい歴史を想像して、豊かな自然に暮らす人々が公害により自然と奪われ変わっていく様と相まって、えも言われない気持ちになる。決してチッソを憎む気持ちが根底に垣間見えるわけではない。ただ淡々と描写する。日本は自然豊かな、地方地方の独自の文化を持つ国だったのだなという気持ち、現代の波にのまれ変わってしまった今、もう二度あの頃の日本は戻ってこないだなという気持ちがわいてくる。
ゆったりとした時間のなかでも一度読み直したい本 -
神話的世界が色濃く残る水俣。
その地に生きるすべてのものを育んできた豊かな自然と、大人たちの会話やしぐさから映し出される世間が、4歳のみっちんのこころに深く刻まれていく。
脳に支障をきたし盲目の祖母が“神経殿”とか“めくらさま”と呼ばれている。決して差別がなかったわけではないが、身近な人びとが敬称をつけて祖母をいたわっていたことが印象に残った。 -
甘くて綺麗
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美しい水俣の自然、人間模様、村の様子を、4歳のみっちん目線で描かれた、おはなし。
この時代のことも、この土地のことも、ここの言語のことも知らないけれど、その情景が目に浮かぶような、描写だった。