見えない都市 (河出文庫 カ 2-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309462295

作品紹介・あらすじ

現代イタリア文学を代表し、今も世界的に注目され続けるカルヴィーノの名作。ヴェネツィア生まれの商人の子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう。七十の丸屋根が輝くおとぎ話の世界そのままの都や、オアシスの都市、現代の巨大都市を思わせる連続都市、無形都市など、どこにもない国を描く幻想小説。

感想・レビュー・書評

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  • イタロ・カルヴィーノ1972年の作。ネタバレを回避してあらすじを書くのが不可能な作品ともいえるし、話の展開のようなものがなく、なにを書いてもネタバレにならないともいえる。いずれにしても、おそらく、何通りもの読み方ができる不思議な書。

    フビライ汗に気に入られた(もしくは取り入った)マルコ・ポーロが旅行中に訪問した55の都市をひとつひとつ、フビライの前で話して聞かせるかたちになっている。ひとつひとつの都市の話は短く、また都市と都市の間につながりはない。小篇の集合といってよい。

    読んでいるうちにわかるが、話に出てくるのはすべて架空の都市で、フビライやマルコが生きていた時代には存在しないようなものも出てくる。どの都市も特徴的なのに、その特徴はどんな都市も持っているようなありふれたもので、大変矛盾している。でも、人が「これは独自だ」とか「特徴的だ」というときのそれはたいていユニークだとは感じられないことから考えると、べつに矛盾していないのかもしれない。とにかく、現代社会が抱える──といってもこれが書かれたのは45年以上前だがいまでもほぼ当てはまる──さまざまな問題を細かく分解して、そのひとつひとつから発想を広げて構築した想像上の都市が、次から次に披露される。

    マルコがフビライに報告するというかたちで一応物語は進む。が、登場するのが別にフビライとマルコである必要はなく、また登場人物と紹介される都市の間にもこれといった関係性はない。つまり、登場人物を置き換えても、取り上げる都市がどんなものであっても「見えない都市」は成り立つ。出てくるものはすべて、ほぼ、名前がついているだけの置物という印象だ。

    そのことから、この物語は、話者が短い話を語って聞かせるという構造だけが決まっていて、その上で展開されるストーリーはモジュール化され、それぞれが独立していて、どうとでも入れ替えられるように見える。むしろ、「物語とは、土台と交換可能な表面によって構築されている」ということを強調するかのような作りになっていて、小説というジャンルを挑発しているように思える。

    というのがわたしの読み。読み方によっては取り上げられた都市が抱える社会問題にフォーカスして掘り下げることもできるだろうし、全体に語り口が抽象的で「鑑賞者が解釈して完成させる」作品として捉えることもできるだろう。楽しみ方はいろいろあると思う。

  • カルヴィーノ作の中でも、『くもの巣の小道』や『まっぷたつの子爵』といった初期の作品がわりと好きだが、ときどき無性に読みたくなるのは、その後の作品となる本作、そして軌を一にする『宿命の交わる城』。

    カルヴィーノの作品は優しい。決して声高に自己主張することはない。その代わりどこかしらに寓話のようなものが挟み込まれている。いやいや全体が寓話かもしれない。物語や寓話の純度が高すぎて一見するとよくわからないが、運よくみつけたとしても、そう思っているのは果たして私だけかもしれない。それでもまったく構わない、そんな勘違いさえ愉しめる美しい幻想譚。

    元王朝フビライ・カンの寵臣になったヴェネチア商人のマルコ・ポーロ。世界中の都市をカンに紹介していくその語り口は、まるで彷徨するオディッセウスの哀愁奏でる吟遊詩人のよう。行間から音楽まで流れてきそうな雰囲気に満たされて、カンとマルコの淡く繊細な交流は白眉だ。内へうちへゆっくり沈んでいくような清閑にうっとりしてしまい、もはや長編の散文詩といってもいい。

    「確かなことは、清掃人夫は天使のように歓迎されているいうことでございまして、昨日の生活の残りを運び去るという彼らの務めは、あたかも敬虔の念をかきたてる儀式のように、無言の敬意に取り囲まれておりますが、あるいはそれもただ、一旦ごみを捨ててしまえば、そのあとはもうだれ一人そんなことを思い出したくもないというだけのせいなのかもしれません」

    マルコが描いてみせるどの都市も、一つとして同じものはない。猥雑なのに繊細で、破天荒なのに柔弱、暗澹とした地下都市かと思えば、地に足のつかない中空都市、ひどくさびれて朽ちていく都市、かたやアメーバのように増殖して溢れていく……それらはどこかにあるように示唆的で、どこにもない都市。どれもがセピア色に染むような悲哀にみちている。

    それらは都市という名の人間(存在)なのかもしれない。そうであれば、都市という名の人間(存在)に、どれ一つとして同じ物語はない。それぞれの人生や生きざまに、一つとして同じものがないように。ユニークで、矛盾だらけで、唯一無二、そこにはいずれにも替えがたい真実と哀切が秘められている。

    「好きなように読んで、遊べばいい」そんなふうに「マルコヴァルドさん」は、いやいや作者はつぶやきながら、いつのまにか物語の森の奥へと姿を消していくようだ。きっとまた静寂なこの森に遊びにこよう……そんなに遠い話ではない。

    『……実現されなかった未来は単なる過去の枝だ、枯れ枝だ。
     「お前は過去をふたたび生きるために旅しておるのか?」
     というのがこのとき発せられるカンの問いであるが、それはまたこんなふうに言ってもよかった
     ――「お前は未来を再発見するために旅しておるのか?」と。
     そしてマルコの答えは
     ――「他処(よそ)なる場所は陰画にして写しだす鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます」(2020/5/16)

  • ずいぶんむかしに読んだ本を再読。

    高校生のときかな。モグが図書室から借りて読んでいたのを、彼女が読み終えると同時に私が借りて読んだんだ。柳瀬尚紀さんが巻末の解説で「確かブルーを基調としたデザインで、地球か気球のような球体と、確か刳り抜かれた円形の穴…」と書かれていた、その本だ。

    私が手にとったときはすでに相当古びていた。モグによると、書架の下のほうにあって、本の天にはうっすら埃が積もっていたらしい。高校図書室の配架でのイタリア文学の扱いなんて、たぶんどこでもそんなものだったと思う。

    当時の私は宮沢賢治に夢中で、全集を隅っこからかたっぱしに読んでいたけど、モグがずいぶん眉根を寄せて読んでいたから、私も気になって読んでみたというところだった。

    案の定、私にはさっぱりわからなかった。
    筋らしい筋もなく、マルコ・ポーロが語る奇妙な(あまりに観念的過ぎて視覚的なイメージも抱きにくい)都市の報告を延々と読まされる。その報告には人間らしい共感や情緒が感じられず(死者が住まう都市アデルマの話は例外か)、挿入されるポーロとフビライの会話もなんだかあまりに作り物めいていて、そもそもこの本がいったい何について書かれたものなのか、文学と言えるものなのかもよくわからなかった。私もモグと同じく、最初から最後まで眉根を寄せたままなんとなく読了した。

    でも、それで完全に私の脳から消え去ってしまったわけでもない。「フビライ汗は一冊の地図帖をもっており…」、この「地図帖」という語に「アトラス」とルビがふってあった。かっこよかった。中二病がうずいてそこだけはノートに書き抜いたりした。

    宮沢賢治熱が冷めはじめると、私はラテン語圏の幻想文学を好んで読むようになったけれど、ラテン文学圏の人たちって「一冊の本のなかに世界の全体が書き込まれている」というイメージが大層好きなんだなと、この本を想いながらあとになって気がついたりした。ボルヘスの著作すべてしかり。また、私にとってはガルシア=マルケス『百年の孤独』もそういう本だ。この種の「アトラス」に私が最初に触れたのが、『見えない都市』だったってわけ(いまでは、ラテン・カトリック文化のなかで『聖書』こそが、世界最初の「アトラス」だったことくらいは私だって知っている)。

    こんなふうに文庫本が出版されている現在、母校の図書室のあの本も、とっくのむかしに除籍され廃棄されていると思う。モグと私が眉根を寄せて、よくわからないまま読んだあの本は、ポーロの報告のように、フビライが心のどこかで感じてしまう大元帝国が退嬰していく気配のように、もうこの世にないだろう。

  • 山尾悠子やダンセイニが描く知らない街は面白がれるのに、カルヴィーノには構えてしまうのは、メタ的なしくみが何かあるの?ただぼんやり読んでちゃダメなの?街の話をしているていで文学の話をしているの?って警戒してしまうから。マルコ・ポーロの口ぶりもとにかくはっきりしなくて、あいまいさを反芻しながらぼんやり考える余裕がないわたし向きの本ではなかった。おもしろいものの描写じゃなくて、おもしろいお話が読みたいんだもの。

    最終的には「これ、面白い人には面白いんだろうな」から「これ、もしかして面白いんでは?」まできた。泊まるたびに宿から見える顔が増える街って、水木しげるぽくないですか?

  • マルコ・ポーロがフビライ汗に語る体裁で淡々と綴られるさまざまな架空の都市の断片。合間に挿入されるマルコとフビライの問答が哲学的。どの都市も不思議で独特で、語られる言葉の中にしか実在しないのだろうけど、だからこそどこかに存在するのかも、と思わされる。

    ただ読んでいて楽しいかというと、意外と退屈で、まあ起承転結のある話ではないし、都市の内容もファンタスティックで素敵、住みたい!みたいな場所ではなくて暗喩というかトリッキーで観念的なものがほとんど。ボルヘスっぽいけど、ボルヘスほど奇想天外さを感じなかったのは、ちょっと理屈っぽいからかな。誰かが具現化してくれたイラストとかあれば面白そうなのにと思った。

  • その都市はいったいどこにあるのか。強大な力を持って果てしなく領土を広げゆくフビライと、地の果てまでひとり行くマルコ・ポーロが、それでもまだ知ることのできない都市と、どこかで見た都市を巡って時を過ごす。見知ったようなそれでいて遠い世界のお伽話が、電車で向かう仕事先とさえ重なり合う重畳された時間の流れの中で、じわじわと響きあう。やがて、読者である自分自身がその都市のひととなった。

    電車の中にあって片手をあげて寄り添う人々は、誰ひとり言葉を発せず、互いに隣には誰ひとりいないようにふるまっている。たとえあなたがそこで何を目にしようがそれはあなたの脳が見た景色であって、隣で光る板を睨みながら首を捻じ曲げた若者がそこにいたとは限らない。なぜならその若者にはあなたが見えていないからである。それがトキオの慣わしなのだ。あなたがどれほど信じたとしても、時折電車がゆれて黒びかりするバッグが脇腹を押したとしても、それはあなたが感じていると信じる何かではあっても、存在している証明ではない。その若者がようやく次の駅で降りてあなたのとなりに呼吸する空間が出来たとしても、その若者はあなたの存在を微塵も覚えていない。あなたは存在すらしないのだ。あなたが通り過ぎたトキオの街が本当にあったのかすら怪しい。なぜならトキオの住人は誰一人あなたのことを覚えていないのだから。それでもトキオはそこにある。征服されざる街として。

  • その世界は、中心から放射状に同じ模様を繰り返し広げていく曼荼羅の様相を呈している。人間の頭脳は合同、相似、そして移動、回転、といったパターンを繰り返す。自分の頭脳で考えたものだけで空間を埋め尽くし、それらを純粋で理想的なものと認識する傾向にあるそうだ。その種の脳の欲望をシンボライズしたものが曼荼羅だといわれている。つまり、模様の一つ一つを言語化したものが〈見えない都市〉であると私は解釈した。
    私の記憶の中に、耳の中にのみ存在する。
    でも実際は、都市というのは共有はできても、個人で所有することはできない。

  • 若手建築家がおすすめの本ということで手に取りました

    イタリアの作家さんの小説です。

    あまり自分からは手に取らないたぐいの小説だったのですが、読み始めるとその独特の世界観にいっきに引きこまれてしまいました。

    マルコポーロがフビライ汗に彼が訪れた(と思われる)幻想的な都市の様子を語る。という体裁で話は進んでいきます。

    11の都市について語られるのですが、その語られ方がとても面白い。

    短いパラグラフでそれぞれの都市がバラバラに語られているのですが、それぞれのパラグラフがまるで散文詩のような雰囲気を持っています。

    その美しい文体が薄く引き伸ばされたようにレイヤー状に重ね合わされて、その総体として「見えない都市」というひとつの小説になっている。

    こんな感じの印象です。

    うーん、うまく説明できないのですが、とにかく文章が美しいんです!

    とにかく今まであまり体験したことのない読書体験でした。

    そして、たくさんのインスピレーションに満ちた本でもありました。

    もし、、、もし可能なら、、、

    映画化してほしい!しかも3Dで!

    そんな希望が湧いてしまう本でした。

  • 初カルヴィーノ。カバーは単行本のほうが素敵。

    マルコ・ポーロがフビライ汗に奏する諸都市の物語。征服を繰り返し版図を広げていく帝国を誇る一方、すでにその栄光も崩壊の過程にあることを察し絶望する皇帝の慰めがマルコ・ポーロの報告にある諸都市の様相なのだと、冒頭すでにアンビヴァレントな感慨が物語全体を立体化していく趣がある。あるいは過去・現在・未来を重ね合わせ一点に収束させる眼差しだろうか。
    都市をそういくつも過ぎゆかないほどに、フビライ汗自身、マルコ・ポーロの報告はいずれも似たり寄ったりで交換可能と気づいてしまうところから、このお話が(もちろん)単に都市の描写を主眼とした幻想譚ではないのだとわかる。ではどこへ向かうのか。気にするともなく語りに身を任せてゆくほどに、都市の幻想性、事物と語る言葉との乖離、物語るという行為そのものが俎上に上がってくるのに驚かされた。両者の丁々発止のやりとりを交え、さらにいくつもの語りを鏤めてそれをやるあたり、飄々と知的で刺激的。いったい何を考えてこれを書いたんだろう。詩のようでもあり現代劇のようでもある。
    忘れて思い出した時に繰り返し読んで、さらに面白くなる本かもしれない。

  • p69湖水の鏡の上にあるヴァルドラーダ「おのれの一挙手一投足が、ただ単にそのような行為であるばかりか同時にその映像ともなること、しかもそれには肖像画のもつあの特殊な威厳が与えられていることをよく心得ており、こうした自覚のために彼らは片時たりとも偶然や不注意に身をまかせることを妨げられておるのでございます。」

    p21しるしの都市タマラ「人はタマラの都を訪れ見物しているものと信じているものの、その実われわれはただこの都市がそれによってみずからとそのあらゆる部分を定義している無数の名前を記録するばかりなのでございます。」

    p113「思い出のなかの姿というものは、一たび言葉によって定着されるや、消えてなくなるものでございます」「恐らく、ヴェネツィアを、もしもお話し申し上げますならば、一遍に失うことになるのを私は恐れているのでございましょう。それとも、他の都市のことを申し上げながら、私はすでに少しずつ、故国の都市を失っているのかもしれません。」

    p118「もしも二つの柱廊のうち一方がいつもいっそう心楽しく思われるとするならば、それはただ三十年前に刺繍もみごとな袍衣の袖をひるがえして少女がそこを通ったその柱廊に他ならないからでございますし、あるいはある時刻になると日射しを浴びるその様が、もはやどこであったかは思い出せないあの柱廊に似ているというだけのことなのでございます。」

    p167「世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終りもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。」


    どこにでもあり、しかしどこにもなく、そしてそれは既に見た記憶かもしれないしこれから見る予感のものかもしれない。蜃気楼のように何もないのに、読んでて脳裏にシルクロードの、異国のイメージが浮かび消える。幻想文学。言葉と概念を弄んでいるだけかもしれないけど、端端の単語に幻想と脳のどこかに情感を呼び起こさせるひらめきがある。構成や意図などを、計算的に読み取るほどじっくりは読まなかった。

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著者プロフィール

イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)
1923 — 85年。イタリアの作家。
第二次世界大戦末期のレジスタンス体験を経て、
『くもの巣の小道』でパヴェーゼに認められる。
『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』『不在の騎士』『レ・コスミコミケ』
『見えない都市』『冬の夜ひとりの旅人が』などの小説の他、文学・社会
評論『水に流して』『カルヴィーノの文学講義』などがある。

「2021年 『スモッグの雲』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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