アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫 ト 6-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309462806

作品紹介・あらすじ

マグマのような苛烈な文体によって、唯物論哲学を大胆に書き変えた名著の新訳。精神分析批判から資本主義と国家への根底的な批判へ向かい、そのための「分裂分析」をうち立てた革命的な思考はいまこそ「再発見」されなければならない。欲望機械/器官なき身体とともに、最も危険でカオティックな思考の実験がはじまる。

感想・レビュー・書評

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  • 【アンチオイディプス用語集】

    1.【構成】
    『アンチオイディプス』(1972)は四章構成。第1章は「欲望機械」。第2章は「精神分析と家族主義 すなわち神聖家族」。第3章は「未開人、野蛮人、文明人」。第4章は、「分裂分析への序章」。第3章では「エディプスコンプレックス」と文化人類学との結びつきを露わにすることなどが目論まれており、第4章は「精神分析」に対置される「分裂分析」を提示することが目論まれている。

    2.【機械の生産プロセス一元論】
    『アンチオイディプス』においては、「機械」という概念が重要な役割を果たしている。生物を含めた自然界から人間の心的領域、さらには社会の諸慣習・制度に至るまで、あらゆる対象や出来事が、相対的な自立性を保ちながら運動する機械の連鎖から生まれてくるという見方をドゥルーズとガタリはしていて、人間の欲望や無意識、主体もそこに含まれる。機械による欲望の生産のプロセスの中で、それぞれの欲望がどこに属するかについての登録がなされ、欲望の産物を消費する主体が生まれてくる。複雑に連鎖しながら様々な現象を生み出す「機械」を、静的な「構造」に対置し、構造主義化されたフロイト主義を解体していく。ドゥルーズとガタリは、人間の身体を統合された全体としてではなく、様々な「機械」の組み合わせと見なす。もろもろの「機械」は、その活動のための素地となる「器官なき身体」(誕生した瞬間の胚のように、未分化で機械の活発な動きも見られない原身体)との間で様々な関係を結び、身体外の自然物や、おもちゃ、他人の身体などを構成する「機械」とも相互作用する。接続と切断を繰り返し、多方向的なエネルギーの流れを作り出す「機械」の組み合わせによって、私たちの生命プロセスが成り立っている。そして、ドゥルーズとガタリが提示するのは、機械による生産のプロセス一元論なのである。

    3.【現実と表象】
    現実は被分析者によって生産される。それなのに、精神分析家はそうやって生産された現実を、「悲劇」「神話」「公準(postulat)」などの何らかのパターンに還元し、回収する。欲望的生産によって現実は生産されているにもかかわらず、それらは精神分析家によってオイディプス的現象の代理表象とみなされてしまう。「欲望的生産」が、「表象」に道を譲ってしまう。これをこそドゥルーズとガタリは批判しているのである。精神分析は、被分析者の身体で生産されている現実を、現実ではなく、ソフォクレスの劇場における表象、演劇だととらえるのだ。

    4.【欲望は定型的なものではない】
    ドゥルーズとガタリは欲望を定型的なものとみなす精神分析の考え方を徹底的に批判するのである。アンチオイディプスの最終ターゲットは「エディプス神話の解体」である。

    5.【蓮見重彦の喝破】
    蓮見重彦が『表層批評宣言』(1979)において喝破したとおり、精神分析というのは、被分析者との対話=面接(セアンス)の中で、精神分析家はそこにあえて「問題」を見い出だし、特にエディプス的な問題を自ら作り出し、そのエディプス図式に当てはめて、それを今度は解決しようとするのだ。それは実際に治療(正常とされている規範に従わせること)において効果があるのかもしれないが、そこで行われているのは、劇場の舞台で、精神分析家と被分析者がエディプス神話の役回りをそれぞれ演じることであり、その演劇の完遂をもって、ソフォクレスの悲劇を何度も再上演しているということなのだ。主体の再構造化(という治療)はエディプス神話の再上演なのである。ドゥルーズとガタリに言わせれば、精神分析のセアンス(面接)の過程で被分析者から抵抗が生じるのは、そこに無意識の闇に抑圧されている去勢の事実があるからではないし、また、既に確立された自我が抵抗しているのでもない。そうではなくて、分裂していく「漏れ水」としての欲望が、エディプス化されることをためらっているのである。君の欲望はエディプス的欲望だと教え込まれることによって、そこに実際に意識はいく。実際そういうエディプス的欲望を抱いていた気になるし、インセストタブーの存在を根拠に、近親相姦の願望があるということを認めたくもなる。しかし、欲望は実はそれ自体としては革命的なのであり、人間の欲望はもっと多様なのである。真に欲望することが革命的なのである。

    6.【ある欲望を禁じる法が実在することは、禁じられているその欲望が実在することの証明にはならないのではないか】
    エディプス的主体が精神分析的な表象を介して事後的に構成されると、人間は潜在的には近親相姦の欲望を持っていて、根源的な抑圧が働いているのだということが既成事実化する。

    7.【精神分析は欲望を誰かの欲望にして人称化してしまう】
    ドゥルーズによると、精神分析は欲望的生産を人称化してしまう。ドゥルーズとガタリにとって欲望的生産は一人の人間の身体あるいは精神の中に限定されることなく、自然や社会の中に広がっているので、欲望を誰々の欲望だと特定することはできないし、欲望的生産を私と家族の誰かとの関係に還元できるようなものでもないのだ。

    8.【欲望機械とは何か】
    欲望機械とは、主体としての人間が意識的にコントロールできない欲望の流れ、しかも定型化された運動にならず、絶えず、逸脱する傾向のある欲望の流れに焦点を当てた言葉。テレビをみている人を観察していると、貧乏ゆすりをしていたり、耳がピクピク動いていたり、背中を掻いたり、本人の意識していない統御を離れた運動を見ることができる。その運動を駆動している欲望を生産しているのが欲望機械である。

    9.【ドゥルーズとガタリは、フランクフルト学派ではない。】
    精神分析とマルクス主義を融合した視点からの資本主義批判はフランクフルト学派。エーリッヒ・フロムやヴィルヘルム・ライヒもこの路線。ジジェクもこの路線。この路線を「精神分析的な資本主義批判」と呼ぶならば、それに対してドゥルーズは、精神分析の中核にある仮説「エディプス・コンプレックス」の批判が資本主義批判になると考えている。つまり精神分析と資本主義が不可分に結びついているとドゥルーズは考えている。そのうえで両者を批判するのがドゥルーズの立場。

    10.【ラ・ボルド病院】
    ガタリはラ・ボルド病院という患者と医師の関係を根本的に変えようとする先端的な病院に勤務していた。このラ・ボルド病院というのは、ラカンによって創設されたパリ・フロイト学派のメンバーであったジャン・ウリ(1924-2014)が開設した自由な雰囲気の精神病院であった。そしてこのジャン・ウリが発見したアーティストが、エマーブル・ジェイエである。ジャン・ウリは、愛すべきジェイエの作品に序文を書き、ジャン・デュビュッフェというアール・ブリュットの提唱者に紹介したのである。日本にはべてるの家などの施設が有名な実践をしている。

    11.【ドゥルーズの『経験論と主体性』という本】
    ドゥルーズの『経験論と主体性』という本は、ヒュームの因果論の受動性を、後期フッサールの「受動的総合論」に接続させる論考。

    12.【ドゥルーズの『意味の論理学』】
    『意味の論理学』では『不思議の国のアリス』が論じられるが、そこには「笑いのないネコ」ではなく「ネコのない笑い」などの表現が出てくる。アントナン・アルトーはルイス・キャロルの作品の翻案を試みた人物として出てくる。アルトーはキャロル作品が深層の統合失調的な運動を隠蔽している、と言ってキャロルを批判するのだが、ドゥルーズはむしろこのアルトーのこの「深層」と「表層」の区別に疑問を呈するのである。ドゥルーズはアルトーを評価するけれども、「表層」を規定する「深層」という発想を受け入れたくないのである。

    13.【アルトーの残酷演劇】
    アルトーは身体を、様々な情動が明確な中心を持たずに生成変化し、交差し、葛藤する場所と捉えていた。アルトーは、統率を離れた身体のパーツの、バラバラな、痙攣するような動きを「残酷演劇」によって表現しようとしていた。

    14.【エスではなくマシンへ】
    フロイトの「エス」は、ドゥルーズによれば、「それ」がいたるところで機能しているという性格を考えると、むしろ「それ」ではなく「マシン(機械)」と呼ぶべきだったという。エスではなくマシンなのだ。

    15.【ドゥルーズのマシンとは何か】
    ドゥルーズの機械は①自動的に作動し、②自立的で、③全く同じ運動を反復するのではなく機能する過程で差異を生じさせるような運動体であり、普通のシステムのように、なにかの産出を自己目的化したり、産出するシステム自体を維持しようとしたりするような作動の仕方ばかりをするわけではない。④「道具」は「機械」と違って有用だが、機械は有用性とは関係ない。⑤機械はただ循環する。⑥機械は単独で作動したりはせず、ふたつの異なるものが接触(接続)すると、ふたつのものが同化することなく、そこには機械が生じる。欲望を生産する「欲望機械」は、ふたつのものの連接によって欲望を生産したり、ふたつのものの切断によって別の欲望に変えたりしており、接続する機械と切断する機械は常にペアになっている。⑦機械はメタファーなどではない。本当にあるのは「自然」でもないし、それから区別される「人為」でもなく、「機械のプロダクションのプロセス」なのである。⑧工場にある普通の機械たちはドゥルーズとガタリのいう「機械」の具体的な一形態に過ぎない。⑨ある機械は流れを発生させ、他の機械は流れを切断する。機械は「欲望」や「独身者」などを産出する。乳房はミルクを産出する源泉機械であり、口は乳房という機械に接続される器官機械である。拒食症の口も器官機械である。身体の各器官はそれぞれ機械として独自の運動をしているし、他の器官と繋がりつつも相対的には独立しており、他の機械に接続される可能性を持っている。「機械」に対して、「道具」は合目的的だが、機械は異質なものの連接と離接によって生じるのであって、予測がつくようなものではない。機械は予測できない変な作動の連鎖として在る。⑩フロイトは口唇期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期という発達順序に応じてリビドーの中心的所在地が移動すると論じたけれども、ドゥルーズの機械は連鎖の不安定さのせいで中心が常に移動しており、エネルギーの中心がどこかなど定まらない。ドゥルーズに言わせると、「父と母と子のオイディプス三角形」は人間の欲望を産出する「欲望機械」のとてつもない抑圧を実は前提している。「警笛に性的刺激を覚える人」や、「母の尻穴にいつまでも固執する人」が「性的異常者」だとするためには、「エディプス・コンプレックス」が自然と形成されることを精神分析は前提にしなければならなかったし、「父が僕の母を妻とした力に憧れて主体化しようとする僕」の主体化過程とは無関係な身体各部の機械としての運動が役に立たないものとして精神分析にはみなされることになる。

    16.【ブルーノ・ベッテルハイム(1903-1990)】
    「機械はすべて連続した物質的な流れとかかわり、機械はこの流れを切り取るのである」とドゥルーズは言っている。物質的なものの流れが実際にあり、人間の身体の上でこの流れは切断され、新たな機械、新たな流れが生まれる。欲望の流れが向かっていく部分対象は肛門→腸→胃→口と現実的に切り替わっていく。心理学者と自称していたベッテルハイムは、ちゃんとした教育を受けた心理学者ではないことが判明したのだが、コネチカットConnecticutと叫ぶ少年を分析している。これは、コネクト(接続)とアイ(私)とカット(切断)を意味しており、この少年は身の回りの様々な機械に自分を接続したりすると訴えていた。この少年の名前はジョイである。

    17.【リチャード・リンドナー】
    『機械と少年Boy with Machine』という新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)の画家リチャード・リンドナーの絵では、大きな太った少年が、自分の小さい欲望機械のひとつを巨大な技術的社会的機械に接木し、これを作動させている。リンドナーは劇作家ブレヒトの影響を受けている。

    18.【ファルス】
    そもそもシニフィアンは「意味するもの」という意味で、ソシユール言語学で、言語は「意味するもの=聴覚的イメージ」と「意味されるもの」との結合によって成り立つという時の「意味するもの」の方で、「専制君主的シニフィアンsignifiant despotique」というのは、各人が言語、ラカン的に言うと、「象徴界」を獲得する時に他の全ての「シニフィアン」がそれとの関係によって「シニフィアン」たらしめられる最も中核的かつ絶対的な力を持つ「シニフィアン」としての、「エデイプス(王)」をめぐるシニフィアンということ。より特定すると、父の力の象徴である「ファルス」という記号ということになる。つまり、ファルスとは象徴界における意味作用の起点である。様々なシニフィアンは、ファルスと関係づけられることによって機能する。ファルスはペニスではない。ファルスにはペニスに相当するような対応する実体はなく、ファルスは常に欠如である。ファルスはシニフィアンとしてのみ存在し、シニフィエはない。主体がどれだけ努力しても到達できない理想、価値(意味)の源泉となるのがファルスである。ラカンの「ファルス」は、男性に実際についているペニスではなく、記号である。ラカンは無意識の中に言語的構造を見出した。つまり無意識はラカンの発見によると、言語のような構造を持っているのである。つまりラカンは無意識を記号のシステムとして捉えたのである。ラカンによるフロイト解釈の鍵は、永遠の欠如としてのファルスという考え方である。後期ラカンはファルスを「主人のシニフィアン」と呼んでいる。

    19.【シュレーバー症例】
    ダニエル・パウル・シュレーバー(1842-1911)は、ザクセン王国の民事の総括判事だったのだが妄想型統合失調症にかかって入院させられ、自分への措置を不満に思って裁判を起こし自由になった人物で、『シュレーバー回顧録』(1903)と呼ばれる手記を刊行した。この世界は「光線」たちに支配されており、悪い光線が自分の中に入ったせいで苦しんでいるとシュレーバーは考えており、その悪い光線の元凶が最初の主治医であったパウル・フレクシッヒであったというのが主張で、その光線の影響で女体化したと彼は主張していた。シュレーバーは、自分の話を聞いたら、人は自分を狂人だと思うだろうと言っており、しかも、彼は自分の世界観をかなり論理的に自己分析していたので、フロイトやラカンが分析した。ドゥルーズとガタリはこの「光線」をフロイトのように単なる妄想とは見ずにシュレーバーの中で生じている「機械」の運動だととらえる。具体的にはシュレーバーの身体が「器官なき身体」へといったん初期化され、その器官なき身体という「表面」に「光線」という器官機械の運動が上書きされ、「登記」され、「登録」されて、新たな女性の身体へと新しく生成変化したというイメージで捉え直したのである。この「光線」という機械が「器官なき身体」という「表面」に「登録」されて機能しはじめることが「神の創造」なのであり、これらの光線=機械を表面に引き付けて各器官の働きを分節しながら配分し、登記する膜を「ヌーメン」という。ヌーメンは器官なき身体を覆っている膜で、これは神聖な英知体である。

    20.【フロイトは催眠術をやめた】
    フロイトは最初シャルコーに倣って催眠術を分析に使っていたが、やがてイポリット・ベルネームの影響を受けて催眠術ではなく、「額に手を置いて思いつくことを語らせる」というスタイルにした。さらにそのあと、ソファに被分析者を座らせて、分析者が見えないようにして自由に語らせるという「自由連想法」に移行した。

    21.【ゲオルグ・ビュヒナー】
    ドイツのロマン主義から自然主義への移行期を「ビーダーマイヤー期」と呼び、この時代は政治への無関心が特徴なのだが、この時期に下層階級解放を掲げていた革命家で作家のゲオルグ・ビュヒナーの小説『レンツ』にドゥルーズは言及している。しかも主人公のレンツを分裂症者として。実際、このレンツのモデルは分裂症だったとされている疾風怒濤時代の作家ヤーコブ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(1751-1792)である。実在のレンツは、ゲーテの2歳年下で、ゲーテを追ってワイマールに行ったが追い返されたらしい。ロシアでフリーメーソンのサークルと付き合ったりもしていた。この小説のレンツは牧師のオーベルリーンの元を訪れて精神状態を回復するかに思えたのだが、牧師が留守にする間に森の中を散策していると、身体中の諸機械が自然の石や水や植物などの諸機械と交流して作動し、狂気に落ちていき、最後にはすべての社会的プレッシャーから解き放たれて、何も不安を感じなくなって終わる。ビュヒナーの二大作品は『レンツ』と『ヴォイツェック』で後者は下級軍人ヴォイツェックが頭の中の声に誘導されて愛人を殺害する話。サミュエル・ベケットの『モロイ』も自転車や警笛に接続する分裂症者としてドゥルーズに引用されている。サミュエル・ベケットの『マロウンは死ぬ』(1951)も引用される。

    22.【メラニー・クライン】
    メラニー・クライン(1882-1960)はオーストリアで生まれイギリスで活動した精神分析家で、子供の精神分析を専門にしていたが、同じく子供の精神分析をしていたフロイトの娘アンナ・フロイト(1895-1982)と論争したことが知られている。クラインは「部分対象」という概念を作ってラカンに多大な影響を与えた。これは幼児がまずは母親をまとまった人格として捉えるよりも先に、「乳房」として捉えており、父親を「ペニス」として捉えているというもの。ミルクを適確なタイミングで与える乳房は「いい乳房」、そうでない乳房は「悪い乳房」と捉えているというもの。ドゥルーズは、部分対象になりうるものが母親の乳房などに限定せず、なおかつ部分対象から全体対象へと移行する過程が自然だという前提を取り払う。

    23.【充実身体】
    ドゥルーズの使う「充実身体」という言葉には、身体や社会体などが、欲望の流れで充満しているという意味の他に、いろんなものが詰まっているせいで身動きが取れなくなっているという意味もある。

    24.【器官なき身体】
    身体の各器官が、もろもろの自動機械装置を停止させて、それぞれの器官がそれぞれの役割を果たさなくなり、「直立状態で停止する」のが「器官なき充実身体」の状態である。各器官が役割ごとに分節化されておらず、それぞれの器官が有機的な繋がりを失って、組織分化される前の状態に戻り、潜在的な「胚の状態」が露わになり、組織化による苦しみや緊張やプレッシャーから解き放たれた状態、「死の欲動」が目指している状態、それが「器官なき身体」の状態である。「器官なき身体」に到達することは、死ぬこと以外の方法ではありえないのだが、ヴァーチュアルな次元で、欲望の究極の行き先としてそういう水準が潜在的にあるというのがドゥルーズの考えなのである。器官なき身体は死のことであり、消費不可能であり、非生産的である。器官なき身体は無味乾燥で現実性が希薄なので「砂漠」である。「遊牧的主体」は、この「器官なき身体」の「表面」を「旅」する。砂漠はアトミックであり、旅人も原子のように孤独である。なお、注意点としては、細胞分裂をし始める前の受精卵ですら、分裂への傾向性を帯びているのだから、機械的運動によるストレスが一切ない、分化する以前の状態としての「器官なき身体」というのは、通常の意味で実在するようなものではなく、潜在性として、ヴァーチュアルなポテンシャリティとしてあるのである。器官なき身体は身体の零度である。

    25.【器官なき身体と死への情動】
    器官なき身体は死へ向けて欲望機械を動かす不動の動因なのだが、欲望機械が実際に動き出すと、むしろ欲望機械たちの不規則的な動きによって器官なき身体は平穏を乱されて不快に思う。「器官なき身体の欲望機械に対する反発」が「パラノイア機械」である。器官なき身体が欲望機械たちをひとつの場に繋留しようとするのである。要するに、「欲望機械」には「分裂志向」があり、「器官なき身体」には「死への志向」があり、「パラノイア機械」には「固執志向」があるのである。

    26.【独身機械】
    「パラノイア機械」も「独身機械」も欲望機械の分裂志向を抑止するべく身体を法によって縛り付ける傾向があるという点で似ているのだが、「パラノイア機械」と「独身機械」の違いは、「独身機械」は自己性愛的な享楽を享受するところである。例えば、人間の身体が機械によって拡張されるというSF的なイメージが独身機械の典型であって、代表は、ミッシェル・カルージュの『独身機械』、デュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』、カフカの『流刑地にて』、レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』、エドガー・アラン・ポーの『落とし穴の振り子』、アルフレッド・ジャリの『超男性』、オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』などである。これらの作品には、ロボットやアンドロイド、人間と機械の交わりなどの形象が出てくる。「独身機械」においては「欲望機械」(機械)と「器官なき身体」(人間)とが和解しているのである。独身機械はエネルギーを内側に向けており、強度的であり、その最たる例はニーチェであり、永劫回帰説に基づく生の肯定である。「ニーチェ的主体」は、自らの「器官なき身体」と外部からテクストを介して侵入してくる機械(あるいはシュレーバーの言葉で言う「光線」)との間の鬩ぎ合いのせいで、振り回されて、不安定化しているのだけれども、それは単に苦痛というだけではなく、自らの身体に、過去の名前たちと共に流れ込んでくる機械の運動を楽しみ、そのリビドーを「消費」しているのである。このようなニーチェ的主体が「独身機械」なのであり、外からやってくる欲望機械の運動を、自らの「器官なき身体」という「表面」の上で遊ばせて楽しむことができるという自己に対する性愛が「独身機械」になることによって可能になるのである。独身機械たちは、動き回らずとも、そのつど生成変化しながら、歴史上の様々な人物を器官なき身体として生きるのである(永劫回帰)。

    27.【ハイデガーのニーチェ評価】
    ハイデガーはニーチェが「理性の主体」には否定的だったのに、「意志の主体」には肯定的だったということを問題視している。

    28.【ヤスパース】
    神を前提とする実存主義を展開したヤスパースをドゥルーズはとても肯定的に評価している。特にその悪魔論に対して。

    29.【モレールとモレキュレール】
    モレールとモレキュレールは違う。モレールなものはモル状であって、流動性が低い。モレキュレールなものは分子状であって、流動性が高い。革命家はモルキュレールであってモレールではない。

    30.【ライヒ】
    ライヒはマルクス主義的な社会心理学者であり、大衆が実はファシズムを求めているのだということに気づいてそれを指摘した。しかし、理性的な対象と非理性的な幻想とを区別していたことをドゥルーズは批判している。

    31.【プルースト】
    文学作品も欲望の流れの切断によって生み出される機械である。『失われた時を求めて』は文学機械である。ガタリの『機械状無意識』という作品は、『失われた時を求めて』を軸に展開されている。ドゥルーズとガタリは、『失われた時を求めて』におけるナラトゥールすなわち語り手を、作品の中で起こる全てのことに通暁している超越論的視座から語る語り手ではなく、物語とともに自己自身が転変し、自己生成する語り手として評価している。つまり、『失われた時を求めて』の語り手は、「器官なき身体」なのだ。自分自身を限りなくゼロに近い状態にし、周囲でうごめく諸機械の微細な運動を感知し、自分の身体表面に貼り付けていくのである。この場合の身体とは小説の物語のことである。物語の表面に、イメージを貼り付けていくのが、『失われた時を求めて』の語り手なのである。プルーストの語り手は、胸を張って、刺激がやってくるのを待っているような所作をするのである。

    32.【神聖家族】
    「神聖家族」とはもともとパパとママとボクの関係であるよりも前にそもそもイエスとマリアとヨセフの家族を指しており、ドゥルーズがこの言葉を使うときには、マルクスとエンゲルスの著作『神聖家族』(1845)も意識されている。『神聖家族』という著作は、ブルーノ・バウアーというヘーゲル左派の人間主義的キリスト教理解を批判した著作であり、マルクスのヘーゲル左派からの離反を決定的にしたような著作である。

    33.【ラカンの現実界】
    現実は想像界と象徴界の加工を経ている。現実は現実界ではまったくない。ラカンの現実界は、フロイトのエスに相当する非合理的な欲動、死への欲動が蠢く領域である。ラカンにとって現実界は人間の主体性にとって脅威となるような危ないものだった。実際、ラカンは人間が神経症になると象徴界は機能不全になるし、精神病になると、象徴界が完全に崩壊し現実界に直接晒されて生きることを強いられるとしている。たとえば、PTSDは、ラカンによると、現実界との直接の接触によって生じる。また、ラカンにとって、言語=象徴やイメージによってはアクセスできないような不可能の領域なのだ。しかし、ドゥルーズとガタリにとって「現実的なもの」は、欲望機械の運動とともにどんどん変化していく不定形なもので、人にとって必ずしも脅威とはいえない。しかも、ドゥルーズの「欲望機械」は、ラカン派において、主観の一切含まれない客観的世界とされている現実界を生産する。

    34.【ブロニスワフ・マリノフスキー(1884−1942)】
    マリノフスキーは、ポーランド生まれでイギリスで活躍した機能主義的な人類学者である。パプア・ニューギニアの東側にあるトロブリアンド諸島で「クラ」と呼ばれる交換についての分析をしたことで有名。彼は方法論として「参与観察」を提唱した先駆者とされている。彼は『未開社会における性と抑圧』という本の中で、フロイトの精神分析を基本的には評価しつつも、父の役割を担うのはトロブリアンド諸島では母方の伯父なのであって、エディプス三角形は文化によって現れ方が異なっていると指摘している。
    【死への欲動】フロイトは生物には興奮や緊張による不快を和らげようとする基本的な傾向があると考えている。たとえば、空腹は、緊張する。恐怖も緊張する。だから不快である。しかし、ご飯を食べるとリラックスするし、笑顔を見せるとリラックスできる。こうした緊張の緩和が、フロイトのいうところの快楽なのである。興奮の無い究極の状態は、子宮に回帰するどころか、生まれる前の無機物の状態である。そこに戻ろうとする欲動が死への欲動である。『快感原則の彼岸』(1920)において、フロイトは死への欲動という概念を展開する。ドゥルーズは、もしもフロイトがこの路線で進めていたならば、エディプス・コンプレックス論はそのまま消滅していたのではないかと示唆している。少なくとも、エディプス・コンプレックスが、精神分析の中核的な地位に置かれ、かなりの程度、普遍的だとされることはなかったかもしれないとドゥルーズは考えている。

    35.【ゲオルグ・グロデック(1866-1934)】
    ドイツ人で医師で作家でもあったグロデックは、「エス」という言葉を最初に使い、フロイトよりも広範な意味でこの言葉を使っていたことから、ドゥルーズによって、「グロデックのほうが無意識に忠実であった」と評価されている。グロデックはフロイトとの手紙でグロテッグが使った「エス」という語を借用し、フロイトが自分の概念であるかのように使い始めたことに腹を立てていた。

    36.【秘密委員会】
    アドラーがフロイトから離反し、国際精神分析協会内部でフロイト派とユング派の対立が鮮明になっていたころ、1912年にできたのがフロイトの教えを守るべく側近たちが組織した思想統制的なグループである「秘密委員会」である。初期メンバーは5人で、カール・アブラハム(1877-1925)、フェレンツィ(1873-1933)、アーネスト・ジョーンズ(1878-1958)、オットー・ランク(1844-1939)、ハンス・ザクス(1881-1947)である。ジョーンズ以外は全員ユダヤ系である。

    37.【フロイトとユング】
    フロイトは神話を無意識的なものにしようとした。ユングは無意識的なものを神話にしようとした。しかし、これらはどちらも、入り口では同じ前提に立っており、その前提とは、あらかじめある尺度を適用することで被分析者の妄想をなにかの表象として見ていることである。フロイトは性的欲動に還元し、ユングは神話の構造に還元するのである。

    38.【主体】
    sujetというフランス語は語源であるラテン語のsubjectumまで遡ると「下に投げ出されているもの」という意味になり、「臣民」という意味になる。カントがこれを「魂の根底にあるもの」という意味で使い出したため、「主体」という意味が生じた。フランス語のassujettirという動詞は従属させるという意味で、昔の語法をまだ温存している。

    39.【超越的と超越論的のちがい】
    超越的は、人間の経験の限界を超えていてそれゆえ認識不可能という意味で、超越論的は、主体による客体の認識を可能ならしめる条件という意味である。超越的な対象には形而上学以外にアクセスの可能性はないが、超越論的な対象には、そのつど思考作用の働くたびに内省すること、すなわち「批判」によるアクセスができないわけではない。

    40.【ピエール・クロソウスキー】
    クロソウスキーは、小説『バフォメット』(1695)で、神を排他と制限の巨匠として描く一方で、反キリストとしてのバフォメットを、様々な述語の間を遍歴する、包含的離接 une disjonction inclusive」の化身として描いている、とドゥルーズはいう。具体的に言うと、この小説は14世紀初頭にフランスに駐在していたテンプル騎士団の中で、「バフォメット」と呼ばれる偶像に対する崇拝や同性愛が拡がったので、グランド・マスターであるジャック・ド・モレー(1243-1314)が、その事態に対処して騎士団をもう一度引きしめようとするけれども、「バフォメット」はいろんな姿で現れ、ものすごい美少年の小姓だったり、カルメル会の修道女テレーズ(1873-1897)だったり、大アリクイの姿をした、反キリストの異名を取ったシチリア王兼神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)だったりする。(はっきり名前は出てこないが、フリードリヒという名前と台詞にニーチェが若干意識されているらしい。)モレーもその誘惑によって翻弄される。神は一人一人のアイデンティティに関する記憶を守ってくれるのに対し、バフォメットの中ではいろんな人物の記憶や霊がまじりあっているという設定。

    41.【グレゴリー・ベイトソン(1904-1984)のダブル・バインド】
    ダブルバインドとは、文化人類学者のベイトソンが提唱した、特に家族内の関係において、メッセージとメタ・メッセージが矛盾しているような状態をいう。エディプス的主体は、ドゥルーズによるとそうしたダブルバインドの総体である。たとえば、「お父さんのように、お母さんに愛される人になるためには、お母さんを愛する欲望を克服して、お母さんへの愛のライバルであるところのお父さんのようになりなさい」というのは、ダブルバインドである。お母さんを愛する欲望を克服しないとお父さんのようになれないのに、お父さんはお母さんを愛しており、そんなお父さんになることが目指されているからだ。「成功したければ父を超えなければならないが、父を超えるのは禁止だ」というロマンロランに宛てたフロイトの手紙もダブル・バインド的である。

    42.【ドゥルーズの地獄の機械はラカンの対象aだ】
    ドゥルーズは、ラカンがエディプスのタガを緩めて、分裂症的な動きを解放したように見えて、実は、そのタガを締め直そうとしているように見えると考えている。解放したように見える側面として、「地獄の機械 machine infernale」としての対象aに言及している。そもそも対象aとは、「他者の」とか、「異なる」を意味するフランス語の形容詞autreの略で、人間が一生を通じて求め続けるのだけれども、決して到達できない「対象」のことである。座右の銘などがまさにそう。主体の「欲望」を喚起する源泉のようなもの。対象aは「部分対象」として現れるので、何とかなりそうだけど、結局、手に入れたと思ったら、本体は既にほかの所に移動しているというようなもの。水平線のようなもの。ラカンは対象aの具体例として、乳房、養便、声、まなざしの4つを挙げている。精神分析を応用した文化論では、人が子供の時からフェティシズム的に拘るもの、例えば、人形やフィギュア、怪獣、アニメのキャラのようなものが対象aとして機能している、という議論がある。この対象aは、「想像界/象徴界/現実界」のいずれにも属さない微妙な場所に位置し、「構造」を撹乱するものであるとラカンは説明している。対象aは「大文字の他者」とも違う概念なので気をつけなければならない。ちなみに、「地獄の機械」という言葉は、元々、19世紀にコルシカ出身の陰謀家ジュセッペ・フィエスキ(1790-1836)が発明した、24挺の銃を同時発射する装置の名称。あと、コクトー(1889-1963)の戯曲に『地獄の機械 La machine infermale』(1934)というのがある。これは、ソフォクレスの『エディプス』をベースにしていて、実の親子だったと知らない時のエディブスとイオカステの恋愛、年上の女性に憧れる若い男と、若い男に刺激される中年の女の間の関係が描かれている。エディプス三角形は、実は、地獄を現出するぞということが暗示されているタイトルらしい。この対象aの撹乱的性格に対して、再びエディプス神話のタガを締め直すというラカンの側面はファルスの理論である。

    43.【フーコーの『狂気の歴史』】
    フーコーの『狂気の歴史』において、狂人とみなされた人を家族のもとに再び送り返そうとした人物として、フィリップ・ピネル(1745-1826)とウィリアム・テューク(1732-1822)が紹介されている。テュークはクェーカー教徒の実業家で、ヨーク収容所と呼ばれる、患者が自由に散策できる開放的な構造の精神病院を創設した。

    44.【主体形成の場としての家族という考えの根深さ】
    精神病や神経症の原因が家族にある、家族が機能不全を起こしているからいけないのだ、という見方はこのころからあった。しかも治療のために擬似家族的な集団を作ることさえ既にあった。家族のプロセスが人間を生み出すという見方は精神医学の世界に非常に根強いのだ。ドゥルーズは、精神分析や精神医学は、近代の家族主義(核家族における人格形成を重視する権力や管理思想と関係しているイデオロギー)と結びつき、それを強化しているのではないかという問題意識を持っている。資本主義の解体を目指す立場のエンゲルスでさえ核家族における労働の再生産は否定しなかったのだ。エディプス三角形は虚構ではないのかと疑う人も、人間がどのように基本的アイデンティティを形成するのかと考えると、しばしば、父と母と子の三角形を想定してしまう。核家族は資本主義的な欲望の生産体制のユニットとして重要な位置を占めているのではないか。

    45.【ルソーの自然人】
    ドゥルーズとガタリ曰く、欲望は欠如を知らない。それゆえ、何かを欲望するのはその対象の欠如によってではない。ルソーの「自然人」的な無垢を回復しようとする思想家や革命家たちは、一見すると父の法の支配を打破しようとしているように見えるのだけれども、実は、近代人には何かが欠如しているという前提に立っており、自然人こそが「父」になっているのである。

    46.【小箱選びのモチーフ】
    フロイトの「小箱選びのモチーフ」というのは、シェイクスピアのヴェニスの商人の中のバッサーニオの小箱選びの分析である。フロイトは、シェイクスピアとゲーテが好きだった。ゲーテの自伝『詩と真実』(1811-1833)の中のゲーテの幼少期を分析した論文「詩と真実の中の幼年期の想い出」(1917)という論文もある。

    47.【素朴マルクス主義とドゥルーズ+ガタリのちがい】
    全ての欲望は下部構造によって規定されると考える素朴マルクス主義に対して、ドゥルーズ+ガタリは、欲望は単に社会体制によって生産されるだけでなく、社会体制そのものの編成に欲望が関わっていると考える。

    48.【ドゥルーズが愛した文学者たち】
    トマス・ハーディ(1840-1928)はヴィクトリア朝の英国の代表的な小説家で、牧歌的・宿命論的な作品が多いことで知られる。旧制高校時代から日本の英語の教科書によく採用される人。『チャタレイ夫人の恋人』で知られるロレンスは精神分析を批判して本当の無意識の欲望の無規定性を指摘したことでドゥルーズ+ガタリが評価していた。マルコム・ローリー(1909−1957)は、英国生まれの詩人・小説家で、母親からのネグレクトなどが原因で、14歳からアルコール潰けになり、同性愛の友人の告白を拒絶して相手を自殺に追いやったことへのトラウマも加わって、すさんだ生活をするようになった作家。母親代わりになってほしいと願った妻と共にアメリカやカナダ、カリブ海諸国を放浪し、英国に戻ってきて亡くなった。アルコール中毒ぎみの英国の領事がメキシコの火山地帯の町で突然の死を迎える一日の流れを描いた『火山の下でUnder the Volcano』(1947)という小説が有名。ヘンリー・ミラーはアメリカの小説家で、パリでのボヘミアンたちのコミュニティの中での経験をベースにした自伝的小説『北回帰線』(1934)と『南回帰線』(1939)で知られる。アレン・ギンズバーグ(1926−1997)と、ジャック・ケルアック(1922−1969)は、第一次大戦勃発から大恐慌くらいまでの間(1914−1929)に生まれて、五〇年代のアメリカで活動し、ヒッピーなど、カウンター・カルチャーに影響を与えたビートニク世代の代表的な文学者。ドゥルーズは、いつもマイナー文学の方へ行く。ブルトンよりもアルトーが好きだし、ゲーテよりもビュヒナーが好きだし、シラーよりもヘルダーリンが好きだった。その理由は、ドゥルーズが興味があったのは、規制のシニフィアンの秩序を突き破って、既成の統語法を逸脱できるかということであったからだ。ヘルダーリンの詩は、ドイツ語の統語法からしばしば逸脱しているし、彼は後半生は狂気に陥って塔の中で監禁されて過ごした。

    49.【消費も生産である。】
    登録や消費はドゥルーズにとって生産の一部である。大地機械は、農耕や牧畜、個人の消費、生殖や排泄などもまとめて、エネルギーの流れとしてコード化しているのであって、要するに大地機械を構成する各器官に人々の欲望は従属しており、各人の生産も消費も登記されており、最初から自立した独自の欲望を持った個人がいるとはドゥルーズは考えていない。大地機械の器官を私有化する過程は、肛門期と結びついている。

    50.【テクストは全て機械である。】
    ドゥルーズ+ガタリからすると、学問のテクストを含めて、テクストは全て機械なので、著者の意図通りにコントロールできないのは前提である。

    51.【アメリカ文化主義】
    文化主義というのは、アメリカにおける文化人類学、延いては社会科学一般の潮流で、1930年代から1950年代にかけて強い影響力を持っていたもの。それまでの文化人類学が、あらゆる社会は同じ方向に向かって進化しているという前提に立っていたのに対して、各文化はそれぞれのスタイルを持っているというフランツ・ボアズ(1858-1942)の影響のもと、文化ごとに人々の人格形成の在り方は異なるということを明らかにしようとした。精神分析理論の影響が強い。代表者は、『菊と刀』(1946)を書いたルース・ベネディクト(1887-1946)、サモアの少女たちの性文化を研究したマーガレット・ミード(1901-1978)、ウィーンでフロイトの教えを受けた後で戦争神経症の患者の治療にあたり、文化人類学の研究をしたアブラハム・カーディナー(1891-1981)などが代表。

    52.【超コード化】
    超コード化とは、コードから逸脱していく欲望の流れを、その上位のレベルで、ピラミッドの上からコントロールするということ。つまり、従来の組織体のもとで機能していた出自や縁組のシステム、古い共同体の骨組み、小共同体の中での事物の自然な秩序を、形式的には王の名のもとにラディカルに解体すると宣言しながら、実質的には温存させ、民心を落ち着かせながら国家の管理機構が上から管理して全体をまとめること。吉本隆明(1924-2012)が指摘した、民衆の共同体的性格(私的領域)に関わる国津罪と、政治機構(公的領域)に関わる天津罪の棲み分けの問題によく似ている。

    53.【無意識は工場だ】
    「欲望は工場あるいは機械としての無意識における自動的生産であると言われている。」(『フランス哲学思想辞典』p550 財津理によるジル・ドゥルーズの項)

    54.【備給】
    「備給investissement=Besetzungというのは、リビドーを特定の対象に注入することを意味するフロイト用語です。ドゥルーズ+ガタリは、もう少し広く、力とかエネルギーとか、それらの分布の強度のようなものを注入するという意味で使っているようです。」(仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ『アンチオイディプス』入門講義』p106)

    55.【ライヒ】
    「(ライヒは、)マルクーゼと同じく、ドイツ語圏からアメリカに移住して、60年代後半の新左翼運動に影響を与えたフロイト左派的な立場の論客です。」(仲正p151)

    56.【資本主義機械】
    「専制君主機械が諸欲望が散逸しないように超コード化を行うのに対し、資本主義機械は脱コード化を進めます。大地機械の段階では、禁止されていた等価交換を全面的に解禁し、脱領土化を極限まで進めていくのが資本主義機械です。」(仲正p282)

    57.【公理系とは】
    「資本主義が脱コード化を特徴としているにもかかわらず、システムとして存続することを可能にしている抽象的な法則」(仲正p287)

    58.【文明化した現代社会における再領土化の例】
    ①地方分権主義、②ナショナリズム、③少数民族や宗教的マイノリティが団結を強めていること、④ソ連におけるロシア・ナショナリズム、⑤独裁政権の樹立、⑥警察権力の強化。

    59.【欲望は私が望まなくても発動している社会的プロセス】
    「ドゥルーズとガタリにおける欲望とは、自分に欠けているものを望むことではなく、「わたし」が望まなくとも、発動している社会的プロセスであり、あらゆる種類の結果=効果を算出するプロセスのことである。」(芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』「欲望(欲望する機械)」p108)

    60.【欲望と欲求】
    「「欲望」を考えることが重要なのは、「わたし」はつねによりよいものを望んでいるはずなのに、実際には自分を抑圧するものを選んでしまうという不条理は、個人の「欲求」を規定し産出する欲望のレヴェルを考えなければ説明しえないからだ。ドゥルーズとガタリは、消費社会に加えて、貧困や暴力、ひどい政治体制に反発せずにそれに甘んじ、「自発的に」加担さえしてしまうといった現象を挙げているが、「欲望」の分析の目標はこうした「欲求」では説明しえない現象を生み出す機械機構を解明し、生を解き放つ可能性を模索することにある。(芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズ キーワード89』「欲望(欲望する機械)」p109)

    61.【欲望の生産と社会的生産】
    「欲望する機械は分子状において作動するが、社会機械はその分子状の欲望する機械をモル的・統計的に把握したものにすぎない。こよように欲望の生産と社会的生産とを本性上同一ではあるが体制において異なるものとして理解することによって、社会と個人とを対立させるような社会哲学とは異なる視点が開かれる。欲望の流れの組織化の違いに応じて、領土機械(=原始共同体社会)・専制君主機械(=古代専制国家)・資本主義機械(=現代国家)という社会機械の歴史的類型が提出される。」(鈴木泉「ドゥルーズ」p656中央公論新社『哲学の歴史』第12巻所収

    62.【再領土化の運動】
    大阪市長だった橋下徹は、地方分権主義とナショナリズムを唱えた。これはドゥルーズとガタリがアンチオイディプスで指摘しているグローバル資本主義の脱領土化の運動とその公理系が新たに内在的極限を準備する運動としての再領土化の運動である。

    63.【松本卓也・國分功一郎・小泉義之】
    ビュヒナーのレンツのような統合失調症の患者たちは、現代の自閉症の人々にそっくりではないかと指摘しているのが、松本卓也や國分功一郎であり、それに批判的なのが小泉義之である。

  • ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
    正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
    精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
    要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったせいで、どこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至ったという大きな事実。
    それら複雑多岐にわたる文脈を加味した上で、ドゥルーズガタリは強烈なカウンターとしての今作を生み出した。
    「アンチ・オイディプス」というタイトルはニーチェの「アンチキリスト」を思い浮かべたが、まさに価値観の転倒をハンマーで持って成し遂げようとした偉大な先輩に対する敬意と、そのさらに先を行こうと欲する野心がチラチラと見える。
    三角形的家族構成に絶対的価値をもたせることに対し疑義を抱き、強烈な批判をぶつけ、ひいては資本主義における欲望の生産について、器官なき身体、欲望機械、外延や内包など、独創的な言葉で持って、舌鋒鋭く事細かに論ずる二人の胆力ある文体には哲学、社会、心理学の垣根を超えた言葉の芸術としての「文学性」すらも帯びていて、その衝撃の大きさを前巻とはいえ大きく痛感。
    底なしのヤバさを食らう大著。

  • 欲望を一定の方向に導くような秩序・規則はない。例えば、母を愛の対象とし、父親に打ち勝とうとする欲望(エディプス)は、家族という枠組み(秩序・規則)に限定されない。欲望の矛先は木の根っこのように色んな方向にごちゃごちゃになって向かう。遊牧民のように次から次へと住処を変え、一つの場所にとどまることはない。だから、異なるものを整理して、統一して、秩序だった体系を作るのではなく、異なるものを異なるものとして受け入れよう。▼同様に、価値観や「自分とは何者か」を体系化するのではなく、その時々で様々な価値観や「自分とは何者か」をこだわりなく受け入れよう。ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ Deleuze & Guattari『アンチ・オイディプス』1972

    白か黒かで考えるな。例えば、男女の境界線は明確に二つに分けることはできない。何かをかっちりと確定すれば、そこから排除される、消し去られるものが必ず出てくる。善vs悪。真vs偽。オリジナルvsコピー。内部vs外部。J・デリダ『エクリチュールと差異』1977
    ※レズ・ゲイ・バイ・トランス。すべての性的カテゴリーやアイデンティティは流動的で断片的なもの。境界線を明確に決めるな。クイア理論。

    近代は主体の解放・資本蓄積の論理などが支配した時代だった。一方、今は社会全体で共有される価値観に対して人々は不信感を持っている。真実を求める理性は力を失いつつある。これからは複数の価値観の競合が重要になってくる。リオタール『ポストモダンの条件』1979 

    ※近代の破壊・前近代への回帰にすぎないとの批判。

  • ベルクソンを引き継ぐ分子生物学的な発想から、欲望を欠乏ではなく、分裂的で自動的に動く意味での"機械"と捉え、そこから器官、身体、さらに拡張する形で原初的な大地、専制君主、資本主義を想定しており、そのようなモル的なまとまりが拡大していく上で、保全のために内部に抑え込むパラノイア的性質が、革命能力を持つ分裂的性質を抑え込む。フロイト精神分析のオイディプス・コンプレックスの考え方は、全ての無意識を父-母-子に代理させる意味でパラノイア的であり、本質的でないだけでなく思考を固定化し抑え込むため危険である。後者の分裂的性質に注目すべきで、それがドゥルーズ+ガタリが対象とする分裂分析である。

  • 半ば学者の義務感で翻訳されたような旧訳ではなく、読み手を意識している新訳は、文章の意味が、わかりやすい。
    一体全体、何の話かと思わせる旧訳と違って理解できることが、とても嬉しい。
    が、それは、書からのメッセージを解読できるかという意味とは、別次元の話である。

  • 歯が立たないだろうなと思いながら手にしてみたが、まったく何のことやらという部分と何となく判る部分がある。何となくなんていい加減なことを云うのは莫迦を告白しているということは重々承知のこと。

    器官無き身体が資本だというのは納得。しかし、それ以外の器官無き身体は何か。欲望機械、資本機械と機械という用語も繰り返される。接続や断絶をする主体としてシステムや自動性がイメージとしてあるのかと思うが、専制君主機械、原始大地機械という用語もある。正直よく判らない。器官無き身体に機械が折り畳まれるなど、今一つ判りづらい表現も多数ある。
    正直、参考書が欲しいと思い、松岡正剛さんの千夜千冊を覗いてみた。
    http://1000ya.isis.ne.jp/1082.html

    第2章はオイディプスを拠り所にする精神分析批判。門外漢にはオイディプスってそんなに大したものなのかと逆に思ってしまったが。

    正直、面白くなってくるのは第3章から。レビィ・ストロースの云う女性の交換。つまり近親の女性は将来、他と交換する対象だから手を出さないというルールが近親相姦のタブーの源泉とする。オイディプスは根源的なものではない。しかし、一旦禁忌となると逆に欲望の裏返しのように認識される部分もある。構造は出自に関わるものなので、この禁忌は専制君主には無関係。
    つまり、オイディプスは不完全な専制君主だった。古代ギリシャのアテナイとはそういうものだったということか。
    専制君主の器官無き身体のという表記の後に専制君主の完全なる身体と云う表現があり、やっぱり判らない。

    マルクスの再構築の論旨になり、生産性向上による労働価値の収奪の主張に関し、システム化も労働の収奪とあり、更に脱コード化をその収奪の論拠とする。これはマルクスのアウフヘーベンと同程度の誤魔化しではなかろうか?。この程度での考察では何の解決も齎さないと思う。

    上巻でギブアップしようかと思ったが、下巻も読み始めている。この程度の莫迦な自分が読んでもしょうがないとも思ってもいるけれど。

  • 佐伯啓思西欧近代を問い直すから

  • [ 内容 ]
    <上>
    マグマのような苛烈な文体によって、唯物論哲学を大胆に書き変えた名著の新訳。
    精神分析批判から資本主義と国家への根底的な批判へ向かい、そのための「分裂分析」をうち立てた革命的な思考はいまこそ「再発見」されなければならない。
    欲望機械/器官なき身体とともに、最も危険でカオティックな思考の実験がはじまる。

    <下>
    無意職論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、貨幣論、記号論、芸術論、権力論…のすべてであるとともに厳密な哲学の書でもある奇跡的な著作の新訳。
    「器官なき身体」とともにあらゆる領域を横断しつつ、破壊と生産をうたう「分裂分析」は、来たるべき思考と実践の指標であり続けている。

    [ 目次 ]
    <上>
    第1章 欲望機械(欲望的生産;器官なき身体;主体と享受 ほか)
    第2章 精神分析と家族主義すなわち神聖家族(オイディプス帝国主義;フロイトの三つのテクスト;生産の接続的総合 ほか)
    第3章 未開人、野蛮人、文明人(登記する社会体;原始大地機械;オイディプス問題 ほか)

    <下>
    第3章 未開人、野蛮人、文明人(承前)(“原国家”;文明資本主義機械;資本主義の表象;最後はオイディプス)
    第4章 分裂分析への序章(社会野;分子的無意識;精神分析と資本主義;分裂分析の肯定的な第一の課題;第二の肯定的課題)
    補遺 欲望機械のための総括とプログラム

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  •     -20080619

    欲望が革命的なのは、それが荒々しいからではなく、意識によっては導かれない微細な未知の波動と流線そのものだからである。Globalizationと原理主義という相反するとみえる二つの傾向が、同じ一つの世界システムから出現することを、本書はすでに精密に解明し、警鐘を鳴らしていた、86年河出書房新社刊の新訳版、06年刊

  • もう流行ったのは一昔前になるだろう。ドゥルーズ=ガタリのもっとも初期の著作、アンチ・オイディプス。

    上巻は、「資本主義と分裂症」の後者、分裂症と精神分析、そしてオイディプスの三角形の批判が行われる一章と二章。そして、モルガン=エンゲルス的な唯物史観と絡めて論じる三章の前半だ。
    多くの概念が、その内容を提示されないまま並べられ、論旨が進んでいくので、上巻だけでいろいろと読み込んでいくのは難しい。ただ、もう最初の方だけで「アンチ・オイディプス」という論の趣旨は十分に理解できる。とはいえ、この本の面白いところは「アンチ・オイディプス」の立論とは別にあるので、上巻はまだ前座といったところだ。

    困ったことに、注と索引が下巻にまとめられてしまっており、上巻の注をみる時も下巻を開かねばならない。上下巻を1セットで買えという河出書房の指示なのだろうが、読む時に2冊を持ち歩かなければならないのは結構厄介である。

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ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの作品

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