白痴 3 (河出文庫)

  • 河出書房新社
4.12
  • (17)
  • (15)
  • (8)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 168
感想 : 16
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (435ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463407

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • ドストエフスキー(1821-1881)の後期五大長編のうち『罪と罰』に続く二作目、1868年。『罪と罰』がラスコーリニコフらにより思弁的な哲学議論が展開される思想小説であるのに対し、『白痴』は一般には恋愛小説として括られる。しかしそこで描かれている恋愛は、もちろん単なる男女の抽象的な交情というだけではなく、当時のロシア社会の歪んだ病的な相貌を――さらには近代という時代精神が必然的に到り着かずにはおれない或る種の地獄の姿を――映し出す鏡の役割を果たすことになる。

    物語では、多数の登場人物の感情や思惑が複雑に錯綜する。それぞれの感情の細かな動きを正確に追うことすらも難しく感じられた。ナスターシヤの自他への愛憎、ロゴージンの欲望、アグラーヤの自尊心、ガヴリーラの打算、トーツキーやエパンチン将軍の思惑、イヴォールギン将軍やエリザヴェータ夫人の情念・・・。そうした異形の個性の持ち主である登場人物と交渉し合うムィシキン公爵の無垢な幼児性。そして、それら全ての舞台であり、またそれら全てが根を下ろしている土壌でもある、ロシアの俗物社会――収入・資産・持参金・家柄・地位等々のパラメータで人間の生の何事かを計量しようとするお喋りばかりが踊るコミュニケーション空間。これらがみな、過剰なまでに饒舌でまるで整序されていないかの如き独特のドストエフスキー的騒々しさのうちに描かれている。

    「われわれの時代は例の第三の生き物である黒い馬と、手に秤を持った騎士の時代です。なぜかと言えば現代ではすべてが計量次第、契約次第であって、万人がみずからの権利のみを求めているからです。・・・。しかもそれでいて精神は自由、心はきれい、身体は健全でありたい、おまけに神の恵みのすべてを失いたくないというのです。しかし権利だけによってそれを保つのは無理です。だからこのあとに青ざめた馬と死という名を持つ騎士が現れる。そのあとはすでに地獄です・・・・・・」

    「『人類はあまりにも騒々しく、かつ生産的になった結果、精神の安らぎを欠くようになった』とある世捨て人的な思想家が批判すると、『仮にそうだとしても、餓えた人類にパンを運んでくれる荷馬車の騒音は、おそらく精神の安らぎなどよりも、いっそう好ましきものであろう』と、諸国を遍歴してきた別の思想家が勝ち誇ったように反論し、得意顔で去っていくのです。しかしかく言う小生、卑しきレーベジェフは、人類にパンを運んでくれる荷馬車なるものを信用いたしません! なぜならば、道徳的な基盤もなしに全人類にパンを運んでくれる荷馬車なるものは、また冷酷非情にも、運ばれてきたパンを味わう喜びから、人類の大部分を排除しかねないからです」

    「当時の人間はいわばただひとつの思想しか持っていませんでしたが、いまの人間はより神経質で、知的にも発達していて、より感受性も強くて、思想だって二つも三つも持っているような具合です・・・・・・いまの人間のほうが広いんですね。そして、いいですか、まさにそのことが邪魔をして、かつての時代のような首尾一貫した人間になれないのです・・・・・・」

    世界から意味を剥奪し切るほどの否定性を予め孕んでいた近代精神は、その否定性が自己否定へと到る必然性そのものを予め内包していた近代精神は、その無限運動たるべき否定性の不徹底な中断でしかない「道徳的基盤」や「首尾一貫性」などというロマン主義的観念の哀れなほどに白々しいその虚偽性をも、必然性を以て否定することになるだろう。この出口なしの情況こそ、既に空いていた地獄そのものであろう。

    □ ムィシキンの無垢とキリスト

    「子ども」「癲癇症」として表象される純粋で未分裂な魂の持ち主であるムィシキンのような無垢の人間性は、内面性をあたかも自分の弱味であるかのように自らの外見から切り離してしまっている俗物が跋扈する社会の中では、「正常」な存在としては存続し得ない。彼の純粋性は、社会から予め逸脱している自己自身だけでなく、社会の内側にありながら彼と内面的に関係を結ぼうとする他者をも破滅させる。なぜなら、真実の人間関係を目指そうとするとき、それは他者との一対一の関係においてならば可能であっても、その他者が他の複数の他者とも関係している社会という情況にあっては矛盾と破綻を来してしまうから。ムィシキンはキリストをモデルにしたとも云われるが、彼の純粋性が却って社会の中で葛藤や軋轢を生みだしてしまう様は、現代的な感性からは奇妙に映ってしまうキリストの言動と確かに通じるものがあるだろう。

    真実の人間性というものは、自他の破壊という破局の一点においてのみ不可能にも可能となる成就ならざる成就としてしか在り得ないのではないか。「キリスト」という観念は、決して空虚なロマン主義的観念なのではなくて、真実性のそうした在り方を表象しようとしているのではないか。

    □ イーポリットの弁明と実存思想

    イーポリットの「わが不可欠なる弁明」の議論には、『罪と罰』のラスコーリニコフと同時代精神的な思想を読み取ることができる。則ちそれは、19世紀半ばペテルブルグの青年が孤独のうちに痛切に見出さずにはおれなかった「実存」という機制のことであり、そしてそれを現実に生きることとなった者に固有の苦悩のことである。

    「実存」は自己を孤独のうちに、則ち世界から絶対的に隔絶された存在として、見出す。

    「諸君の自然が、諸君のパーヴロフスクの公園が、諸君の日の出や日の入りが、諸君の青空や諸君の満ち足りた顔が、いったいぼくになんの役に立つというのだ――このはてしのない饗宴はすべて、はじめからぼく一人を余計者としてつまはじきしているじゃないか。この世界がいかに美しかろうと、ぼくになんの関係がある? だっていまのぼくは一分ごと、一秒ごとに、否応なく思い知らされているんだ――たとえば日の光を浴びて周囲をぶんぶん飛び回っているこの小さなハエ、こんな奴でさえ世をあげての饗宴と合唱の参加者として、自分の持ち場をわきまえ、それを愛し、幸せを感じているのに、ぼく一人だけが死産児であり、ただ臆病なためにこれまでそのことを認めたがらなかっただけだということを!」

    世界に対して絶対的に無縁であるという点に、「実存」の自由性が由来する。それは則ち、社会に対する、世界に対する、あらゆる形而上学的体系に対する、「実存」の超越性を意味する。

    「いやいっそ、世界の成り立ちなんて、ぼくなどにはまったく分からないと認めてもいい。その代わりぼくが確実に知っていることがある。つまり、いったん「われあり」という意識を与えられたこのぼくには、「世界の仕組みが間違っているから、こうしなければ成り立っていかない」などというレベルの問題など、なんのかかわりもないということだ。だとすれば、いったい誰が何のためにぼくを裁くことになるのか? なんと言われようと、これはすべて許しがたい、不公平なことだ」

    しかしそれは同時に、「実存」は自己を世界から引き剥がし続けるという無際限の否定運動の裡にしか自らを見出し得ず、ついに世界の内で何者にもなり得ない、ということを意味する。こうした「実存」という人間存在がその機制それ自体に孕まれる必然性により引き受けるしかない対世界の敗北を、「キリスト」という不可解な観念が、あるいは『白痴』の中でしばしば言及されるハンス・ホルバイン『死せるキリスト』の屍骸が、象徴していると云えるのではないか。



    「・・・、およそ人類の独創的な思想もしくは新しい思想はすべて、あるいは単に重要な思想はすべてと言ってもいいのだが、誰かの頭の中に芽生える際に、必ず他人にはどうしても伝えることのできない何かを含んでいる。たとえ万巻の書を著そうが、三十五年も費やして説明を試みようが、必ず本人の頭蓋のうちからどうしても出ていこうとしない何ものかが残ってしまい、それは永久にその人のもとにとどまるのだ。だからその人は、自分の思想の一番の眼目に当たるかもしれないものを誰にも伝えぬまま、死んでいくことになるのだ」

    「・・・、この種の人々[=独創願望という名の病に侵された者たち]はピロゴフの仲間[=自分が天才であることを疑わない者たち]に比べてはるかに不幸である。なぜかといえば、利口な「凡人」の場合、たまたま(・・・)自分が天才的でかつ独創的な人間であるというイメージを持ったとしても、胸の内に巣くった疑心暗鬼がいっこうに消えないのである。そしてその疑心暗鬼に苦しめられたあげく、利口な人間は時として完全な絶望のうちに生涯を終えることになる。いや仮に運命の前で断念するとしても、内向した虚栄心の毒にすっかり犯された結果として断念するのである。・・・。・・・、[そこまで極端でない者たちでも]恭順や断念の境地にいたる以前に、そうした人々はときにきわめて長いこと、つまり青春期から諦めの年齢にいたるまでの期間、延々とあがき続けることがある。それもすべて独創的でありたいという願望のなせる業なのである。・・・。「こんなつまらないことのためにおれは生涯あくせく働き、こんなことに手足を縛られ、こんなことによって火薬の発見を妨げられたんだ! こんなことさえなかったら、おれはたぶん、いやきっと発見していただろう――火薬か、アメリカか、まだはっきりとは分からないが、きっと何かを発見していたことだろう!」こうした者たちの一番の特徴は、いったい自分が何を発見すべきなのか、何を生涯かけて発見しようとしているのか、火薬なのかアメリカなのか、という問題に、じっさい一生涯はっきりとした答えが見出せないでいるという点である。ただしその苦悩と発見されるべきものへの憧れという点では、コロンブスにもガリレオにも決して引けをとらないくらいなのだ」

  • 本編で黙示録から度々引用されるのが示唆する通り、逃れられなかった悲劇で幕を閉じる。ムィシキンがイエスの再来だとするならば、彼が再生する可能性もまた残されているという事か。またドストエフスキーの長編作品の魅力は本筋から外れた(ように見える)サブストーリーがどれも強烈な自己主張と輝きを放っている所だろう。一押しはイーヴォルギン将軍。『罪と罰』のマルメラードフ、『悪霊』のステパン先生を彷彿とさせる残念な酒飲み耄碌ジジイ枠(しかも全員死ぬ)なのだが、彼らの様な人間こそドストエフスキー作品の個性であり象徴なのだ。

  • 奇妙奇天烈な人々の狂想曲、一種、スラップスティックコメディなのか? 悲喜劇? という気もしてくる。以前観たソビエト映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」をふと思いだす。

    第4部に至ってもやはり、物語りの向かうところが、見えてこない。だが、さすがに、物語の最終盤、ムイシュキンとナスターシャの婚礼の日が近づいてからは、“きっと何か起こるぞ”という不穏な空気が、そして緊迫感が増してきて、引き込まれる。そして、ウェディングドレス姿のナスターシャ、まさかの逃走(且つ、やっぱりの逃走)。さらには、ペテルブルグのロゴージン邸での、驚きの結末。 これらの、婚礼前夜から彼女の死への展開は、さすがにぐいぐい読ませる、力強い筆力である。

    そして、再び白痴に帰ってしまうムイシュキン。もののあわれ。聖愚者とも例えられるムイシュキンがふたたび白痴となってしまうこと、その形而上的な意味を明確に解釈することは、私には出来ない。ただ、えもいわれぬものがなしさ、せつなさが、今も胸をはなれない。この読後感だけでも、行き先が見えず戸惑いの多かったこの長編を、最後まで読み通した甲斐があったと感じている。

    以下memo。
    ・ムイシュキン公爵の人物像について。
    「生来の世間知らず」、「並外れた純朴さ」…ラドームスキーの評(第4部 9章 337p)
    そうなのだ。「白痴」とされるムイシュキンだが、馬鹿というのではなく、度外れた御人好し、というのが近いと思われた。

    ・ナスターシャ・フィリッポブナの人物像 
    「数奇な人生…」、「悪魔的な傲慢さ、傍若無人…、強欲なエゴイズム」  …同じくラドームスキーの評(同 339p)

  • 長さを感じさせないぐらい楽しめるストーリーだと思えたのも この読みやすい訳のおかげかもしれません。

  • 息を呑むほど白眉なラストシーンに奮えました。始めから告知されていた悲劇にも関わらず衝撃の情景でした。いささか冗長に感じた数々のエピソードの重要性を改めて認識しました。特にムィシキンの死刑囚の話、イッポリートの「弁明」、ガブリーラに象徴される凡人論などのテキストは興味深く読めました。これらの思索なくしてあのラストには辿り着けぬのでしょう。それにしてもこの暗さ… 紛れもなくドストエフスキーです。

著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ドストエフスキーの作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ドストエフスキー
ドストエフスキー
フランツ・カフカ
村上 春樹
三島由紀夫
ミラン・クンデラ
ドストエフスキー
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×