知の考古学 (河出文庫)

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制作 : 慎改 康之 
  • 河出書房新社 (2012年9月5日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (435ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309463773

知の考古学 (河出文庫)の感想・レビュー・書評

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  • どんなに個性的な作品でも、何かに似ている。

    フーコーの革新性は、ある一つの作品や思想、あるいは、ある時代のひとまとまりの作品群のような形象(<言説形成>)はその作者や一定の作者たち(たとえば、シュールレアリズムならアンドレブルトンなど)によるものというだけではない何かがあるはずだという着眼だった。そして、それが「何か」がわかりはじめたとき、それは<ポジティヴィテ>と定義された[p238]。

    このことが意味するのは、たとえば一冊の本を書くとき、書いたのは書いた人なのだが、その本を書いた時間やその作者が受けてきた教育などの影響といったものを含めて考えた時、純粋に書いた人が書いたといい切れる部分は少ないということだ。つまり、どんなに個性的な作品でも、何かに似ている。そしてまた、何にも似ていないような個性的すぎる作品は時代によって淘汰される(たとえば、ファン・ゴッホなど)。このように、時代によって淘汰されるその規制のシステムは<アルシーヴ>と定義される[p246]。単純なはなし、フーコーはこのことをどこまでも突き詰めたし、一つの方法にまで高めた。

    そうした方法をもちいて分析され、記述されたのがフーコーのそれまでの著作群であり(「監獄の誕生」「狂気の歴史」「言葉と物」など)、この「知の考古学」はその方法そのものの詳細な定義、記述にほかならない、というふうに明言されている[p35]。要するに<エピステメー>と定義された[p359]ある時代特有の諸言説などの総体を浮き彫りにする作業だった。

    私たちは彼の方法を受け継いで、異なった視点から<アルシーヴ>による<言説形成>および<ポジティヴィテ>を分析、記述することができるだろうし、それがある時代の<エピステメー>として浮き彫りにもなるだろう。まるで地層や発掘された骨などの考古学的資料をみるように。

    哲学としてだけではなく、むしろ地層学や考古学と関連させるほうがより思想史、そして哲学という学問にも幅と深さがでる。「知の考古学」は、哲学として閉じるのではなく、開かれていくための方法を示唆するミシェル・フーコーの決定的な作品である。

  • 新書文庫

  • 著者:Michel Foucault
    原題:L'Archeologie du savoir(1969)


    【目次】
    目次 [003-004]
    諸言 (ミシェル・フーコー) [007-008]

    I 序論 009

    II 言説の規則性 041
     I 言説の統一性 043
     II 言説形成 063
     III 対象の形成 080
     IV 言表様態の形成 099
     V 概念の形成 109
     VI 戦略の形成 123
     VII 注記と帰結 136

    III 言表とアルシーヴ 147
     I 言表を定義すること 149
     II 言表機能 165
     III 言表の記述 200
     IV 稀少性、外在性、累積 224
     V 歴史的アプリオリとアルシーヴ 240

    IV 考古学的記述 253
     I 考古学と思想史 255
     II 独創的なものと規則的なもの 266
     III 矛盾 282
     IV 比較にもとづく事実 296
     V 変化と変換 312
     VI 科学と知 334

    V 結論 369

    訳注 [321-350]
    訳者解説 (二〇一二年七月二十四日 慎改康之) [410-427]
    連続的歴史/解釈/「考古学」の射程
    事項索引 [IV-VIII]
    人名索引 [I-III]

  • 必再読

  • フーコーの『知の考古学 』が、Kindleのセールで安くなり、かつ新訳で読みやすくなったらしいということで、二十年超ぶりに再読。多くの線を引かれているかつて読んだ旧訳の本とも比べてみたが、訳し方もずいぶんと違っていて、確かに工夫の跡がみられる(と思った)。『言葉と物』、『狂気の歴史』、『監獄の誕生』、『性の歴史』などの著作と比べると代表作として取り上げられることが少ないように思うが、自分にとしては重要著作で再読に値するものと評価している。

    それまで『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』そして『言葉と物』といった大作を書いてきたフーコーが、その方法論を語ったのがこの『知の考古学』。この後、まさに代表作といえる『監獄の誕生』や、本書の中でも言及されているセクシュアリテの歴史である『性の歴史』を著すことになるが、その考え方のベースになっていると考えてよい。ベストセラーにもなった『言葉と物』に対して寄せられた批判・批評への回答でもあったであろうが、一方では自らの方法論を整理し、深化させるきっかけともなったと思われる。言表、言説、言説実践、アルシーブ、ポジティヴィテ、エピステメー、といったフーコーが定義し、提唱した分析ツールに関する詳しい解説にもなっている。

    フーコーが実践した「考古学」の対象となる言説の集合(正確にはちょっと違う)である「アルシーブ」は、フーコーの時代とは量の両面において字義通り桁違いとなっている。そして、そのことにより過去のそれから質的にも変質しているといえる。フーコーがこれを通常大量の保存データを表す英語のアーカイブと同じ「アルシーヴ」と名付けたのは慧眼であろう。その技術的な進化によって言表間の再帰的利用の頻度や価値が過去のそれとは異なっている。そのことが知の考古学的観点においてどのような意味を持つのかという疑問が本書を読み返すモティベーションのひとつでもあった。 自らが同性愛者であることに苦しみ、1984年に57歳でAIDSによって没したフーコーであるが、ネットにこれだけの性的言説が溢れ、同性婚には反対することが罪悪視され、世界最大の企業のCEOが同性愛者であることを宣言するこの世界に囲まれたとき、彼であればこの広大な種々の言説実践をどのように分析するのだろうか。

    フーコーの文体は同時代のフランス語の文体にも多少の影響を与えたと言われているが、『知の考古学』の特徴のひとつにもその文体が挙げられる。フーコー自身もおそらく自らの文体のオリジナリティについては当然のことながら非常に意識的である。また同時に、何らかの規定の内側にいることに関して意識的であることを自らに課しているようである。その特徴的な語り口として、まず語る対象に対して、いくつもの「そうではない」定義の否定を繰り返した上で、フーコー自身の主張を持ってくることが多い。フーコー独自の議論の厳密化のための手段であろう。そのため本書では否定される文を受けるための「そうではなくて、」が実に140回も使われている。実際にはこの文体が、こと日本語においては、とんでもない読みにくさにつながっている。フランス語であれば否定語が(ne ... pas)が先に来るため今自分が読んでいる文の内容が否定的に語られていることが自然にわかるが、日本語であればその構文のために最後まで読むまでそれが否定的に語られているものであるのかわからない。ひとつひとつの文章が長いものだからこれが結構なストレスになる。翻訳者も当然そのことを意識した上で、「そうではなくて、」の接続語をほとんど規則として多用(適用)しているのだろう。この点に関しては旧訳よりも、少しは読みやすくなっているところとして評価できる。何となれば、この文体こそがフーコーの魅力にもなっているので、その気遣いはありがたい。
    なお、旧訳との訳語の大きな違いとして、「実定性」と訳されていた用語に対して、この新訳では「ポジティヴィテ」という言葉が当てられている。おそらくは、「実定性」でイメージしてしまう(もしくはイメージできないということ)ものを避ける必要があり、原語に沿ってそう訳すことでしか表現できないと考えたからであろう。確かにポジティヴィテは解釈が難しい用語だが、その訳語変更が理解の助けになっているかは疑問ではある。

    さて、書評としては、この本を適切にまとめて解説するだけの力量が自分には備わっていないので、いくつかの印象に残るフレーズを切り取って提示することにしよう。それが、正しい姿勢かどうかも問われるような気がするのだが。

    ----
    「書物(その著者との関係における書物)が問題なのではないし、理論(自らの構造と自らの整合性を備えた理論)が問題なのでもない。そうではなくて、医学なるもの、政治経済学なるもの、生物学なるものなどとして時間を貫いて与えられる集合体の数々、馴染み深いものであると同時に謎めいているそうした集合体の数々が問題なのだ」
    ※ この文が「そうではなくて、」文の典型である。この例では文章が短いため、問題は少ないが。

    「私が明るみに出したいのは、「語られること」が出現する条件、それが累積し連鎖する際の諸形態、それが変換を被る際に従う諸規則、それに区分を設ける諸々の非連続性なのだ。語られたことの領域、それは、アルシーヴと呼ばれるものである。考古学は、そのアルシーヴに関する分析を、自らの目的とするのである。」
    ※ アルシーヴの定義と、考古学の目的。現代におけるアルシーヴの範囲、それが現代的な問題でもあるだろう。

    「問題となるのは、もはや伝統と痕跡ではなく、切り分けと限界である。もはや永続する基礎ではなく、基礎づけおよび基礎づけの刷新としての価値を持つ変換の数々が問題となるのだ。」
    ※ 連続性ではなく切り分けと限界が問題というテーマ。

    「歴史学は、ドキュメントを組織化し、切り分け、分配し、秩序付け、諸々のレヴェルに配分し、諸々の系列を打ち立て、関与的なものとそうでないものとを区別し、諸要素を標定し、諸々の統一性を定義し、諸関係を記述するものとなるのだ」
    「歴史学は、ドキュメントの織物そのもののなかで、諸々の統一性、集合、系列、関係を明らかにしようと努めるのだ」
    ※ 歴史学が旧版では「歴史」になっているが、その違いは大きい。

    「歴史的分析を連続的なものに関する言説に仕立てることと、人間の意識をあらゆる生成およびあらゆる実践の根源的主体に仕立てること、これは、同じ一つの思考システムの両面である。時間はそこで全体化という観点から考えられ、そして革命は、そこでは意識化以外の何ものでもないのである」

    「より最近になって、精神分析学、言語学、民俗学が、主体を、その欲望の諸法則、その言語の諸形式、その行動の諸規則、その神話的言説の諸作用との関係において脱中心化したとき、つまり、人間とは何かと問われているその人間自身が、自らのセクシュアリティや自らの無意識に関しても、自らの言語体系(ラング)のシステマティックな諸形式に関しても、自らのフィクションの規則性に関しても説明できないことが明らかになったそのときに、歴史の連続性というテーマが、あらためて再活性化されることになった。」

    「この地点において、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』が、非常に不完全なやり方でその輪郭を描いた一つの企てが明確になる。それは、歴史の領域で一般的に起こっている変異について、その重要性を測ろうとする企てである。それは、思想史に固有の方法、限界、テーマを問いに付そうとする企てである。それは、最後の人間学的隷属を断ち切ろうとする企てであると同時に、そうした隷属がどのようにして生じえたのかを明るみに出そうとする企てなのである。」

    「要するに、この著作は、それに先行する著作と同様、構造(発生、歴史、生成と対決させられるものとしての構造)をめぐる議論の中に - 少なくとも最初から直接的なやり方で - 組み入れられるのではない。そうではなくて、この著作は、人間存在、意識、起源、主体に関する諸問題がそこで表明され、交叉し、錯綜し、種別化される領野のなかに組み入れられるのである。」

    「私が誰であるかと訊かないでくれたまえ。私に同じままであり続けるようにと言わないでくれたまえ。それは戸籍の道徳であり、我々の身分証明書を規制している道徳である。書くことが問題であるとき、そのような道徳は我々を自由にしておいてほしいものだ。」

    「しかしとりわけ、最も直接的なやり方で課される統一性を宙づりにしなければならない。その統一性とはすなわち、書物や作品の統一性である。」

    「一つの書物の余白は、決して明確なものでも厳密に定められたものでもないからだ。つまり、一つの書物は、タイトル、最初の数行、最後のピリオドを越えて、また、その内的形状およびそれに自律性を与える形態を越えて、他の諸々の書物やテクストや文章へとそれらを送り返す一つの死すんてうのうちにとらえられているということだ。書物は、一つのネットワークの中なかの結び目なのである。」

    「あらゆる明白な言説は、ひそかに、すでに語られてたことに依って立つ、ということである。... 明白な言説は、結局、それが語っていないことの禁圧された現前でしかないことになるだろう。」

    「言説の出来事の記述が提起するのは、全く別の問いである。それはすなわち、他のいかなる言表でもなくこれこれの言表がそれ自身の場所に現れたということ、これはいったいどういうことなのか、という問いなのである。」

    「私は、自分が語ったこと、自分が語りえたはずのことを探究しようとしているのではなく、自分が語ったことを可能にしたものを、それに固有の規則性において、私があまり統御できていなかったその規則性において明るみに出そうとしているのだ。」

    「言説と呼ばれるのは、同じ言説形成に属するものとしての諸言表の一つの集合である。」
    「言説は、それが存在するための諸条件を定めることが可能であるような、限られた数の言表から成るのである。」
    「言説は、端から端まで歴史的なものなのだ。歴史の断片、歴史そのものにおける統一性および非連続性として、言説は、時間の共犯関係のただ中への自らの不意の出現にかかわる問題ではなく、自らの限界、自らの切断、自らの変換、自らの時間制の種別的様式といったものにかかわる問題を提出するのである。」

    「「誰が語ってもよい」ということ。とはいえ、語る者は、自分が語ることを、どこから語ってもよいわけではないということ。語る者は、必ず、一つの外在性の作用のなかにとらえられているのだ。」

    「言説実践の厚みのなかに、言表の数々を出来事(その諸条件とその出現領域を持つ出来事)および事物(その可能性とその使用領野を伴う事物)として設定する諸々のシステムが得られるのだ。こうした言表のシステムのすべて(一方では出来事であり他方では事物であるようなものとしての言表のシステムのすべて)を、私は、アルシーヴと呼ぶことを提案する。」
    「それ(アルシーヴ)は、言表が機能する仕方にかかわるシステムなのだ。ただ一つの言説の大いなる不明瞭なつぶやきのなかで語られたことのすべてを統一するものであるどころか、また、保持されている特定の言説のただ中で存在することを我々に対して保証してくれるだけのものであるどころか、アルシーヴは、複数の言説を、それらの多数多用の存在において差異化し、それらに固有の持続において種別化するものなのである。可能な文の構築のシステムを定める言語体系と、口に出された発言(パロール)を受動的に集めるコーパスとのあいだに、アルシーヴは、一つの特殊なレヴェルを定める。」
    ※ アルシーヴの定義。フーコーらしい表現。

    「考古学は、言説の数々を、アルシーヴの境域において種別化された実践として記述するのである。」
    ※ 考古学を規定する定義の一つ。

    「考古学が行うのはただ、諸言表の規則性を打ち立てようと努めることのみである。」

    「考古学が自らを差し向ける地平、それは、したがって、一つの科学でも、一つの合理性でも、一つの心性でも、一つの文化でもなく、その限界とその交叉地点を一挙に定めることができないような諸々の間ポジティヴィテの錯綜である。」

    「考古学的な比較は、統一化をもたらすものではなく、多数多様化をもたらすものなのである。」

    「精神医学という研究分野によってその存在を標定することが可能になる言説形成は、精神医学と同じ拡がりを持つどころか、精神医学を大きくはみ出し、それを至る所から包囲しているのだ。」

    「一つの言説実践によって規則的なやり方で形成される諸要素の集合、必ずしも科学を生じさせるわけではないとはいえ科学の構成に不可欠であるようなそうした諸要素の集合のことを、知と呼ぶことができる。」
    ※ いよいよ知が定義された。

    「言説形成の数々、ポジティヴィテの数々、そして知を、それらと認識論的諸形象および諸科学とのあいだの関係において扱う分析、それが、科学史の他の可能な諸形態と区別すべく、エピステメーの分析と呼ばれたものである。」
    ※ エピステメー。

    「それ(エピステメー)は、ある一つの時代の諸科学を言説的諸規則のレヴェルにおいて分析するとき、それらの諸科学のあいだに発見することのできる諸関係の総体なのだ。」

    「考古学が記述しようと試みるもの、それは、種別的な構造を持つものとしての科学ではなく、それとはっきり異なるものとしての知の領域である。」

    「私は ... さまざまに異なる方向に発展する諸々の考古学を容易に思い描くことができる。たとえば、「セクシュアリティ」に関する考古学的記述。今や私には、そうした記述が、どのようにしてエピステメーの方へとむけられうるかということがよくわかる。」
    ※ 『性の歴史』の前ふり。

    「要するに私は、主体の問題を排除しようとしたのではなく、諸言説の多様性のなかで主体が占めることのできる位置および機能を明らかにしようとしたのである。」
    ※ この「主体」の概念については後年の主な思考の対象となっていく。

    「私が『言葉と物』のなかで構造という用語をただの一度も用いなかったということについては、あなたもそれを容易に認めていただけるだろう。」
    ※ そうだったのか。

  • 2014/05挫折。グレート・ブックスなるものを読んでみようと思い立ったけれど、全く理解が及びませんでした。

  • 新刊のミシェル・フーコー(慎改康之訳)『知の考古学』河出文庫、ざっくり読んだ。連続的歴史と解釈的分析を拒絶するひとつのマニフェストと言ってよい現代の古典ですが、翻訳も素晴らしく(中村雄二郎訳も悪くはないと思うけど)、文庫収録を言祝ぎたい。手軽にアクセスできるのがよい。

    ちなみに、『知の考古学』の訳者・慎改康之先生によるフーコー『ピエール・リヴィエール』も文庫化、知らない間に、ドゥルーズの『差異と反復』、『フーコー』も河出文庫化されていた。前著は単行本で大枚をはたいたわけだけど、まあ、よろこぶべしですね。

  • 総合書?全て?そういう印象。理解が追いつかない。追いつかないなりに読み進めていた。
    科学とか歴史とか医学とか文学とかイデオロギーとか、絶対化とか相対化とかそういう既存の区別や方法を一旦無化するというか、俯瞰するようなスタンス……なのかな。構造主義的な。
    意味が無い、などと言って私たちは悩んだり笑ったりします。しかしながらそれらのすべての事象には意味が無いわけではありません。意味があるけれども、意味があることには意味が無いのです。(←ちょっとよくわかりません)

    松岡正剛氏が言っていたことそのものだな。テクストが作られるということは、ある個人としての著者が書くというよりもずっと総合的な営為なんだな。相互編集的。

    削ぎ落すと、読んだり書いたりすることって何なんだろうね、っていう本かなとも。読み書きについて(ついて、っていう場合はそれを上から見下ろすことになるね)、フーコーさんかなりタイヘンなお仕事されてますね。妥協を知らないのかな。“真面目さ”の究極体か?

    おもしろかった。時を経てまた読もう。

  • 読み終えるのに二十日かかった。。

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知の考古学 (河出文庫)の作品紹介

あらゆる領域に巨大な影響を与えたフーコーの最も重要な著作を気鋭が四十二年ぶりに新訳。フーコーが『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』を生み出した自らの方法論を、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する。それまでの思考のありかたに根底から転換をせまる名著が新たなすがたで甦る。

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