メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫 マ 10-1)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309464060

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀カナダの英文学者でありメディア論研究でも知られるマーシャル・マクルーハン(1911-1980)の代表的な作品、1967年。本書はデザイナーのクエンティン・フィオーレとの共同制作であり、テクストとイメージとがポップに織り交ぜられている。彼が考察の対象としている当時最新の電気技術とはテレビのことであろうが、そこで述べられている内容は、インターネットとデジタルメディアが全地球的に浸透しつつある21世紀においていっそう当てはまるものであり、本書は予言的な文明批評となっている。

    □ 「下部構造」としてのメディア

    「メディアはメッセージである」という有名なテーゼが、マクルーハンのメディア論の根底にある。メディアは、決してメッセージ(内容)を伝達するための単なる容器(形式)なのではなく、それ自体が或るメッセージを不可避的に含意してしまっているということ。則ちメディアとは、人間が世界を知覚しその上で社会関係を構築していくための前提条件、いわば世界の認識と世界への実践とを規定する「下部構造」である、ということを意味するのではないか。

    「あらゆるメディアはわれわれのすみずみにまで完全に作用する。メディアがもたらす帰結は、個人的にも政治的にも経済的にも美的にも心理的にも道徳的にも倫理的にも社会的にもすみずみまで浸透するので、われわれのあらゆる部分が例外なしにメディアによって接触され、影響と変更を被ってしまう」(p28)。

    「マクルーハン教授が言っているのは、人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義するってことだよ」(p159)。

    マクルーハンのもうひとつ有名なテーゼに「メディアは人間の身体の拡張である」というものがあるが、そこから導かれるのは、いかなるメディアが社会において主要なものとして位置づけられるのかに応じて世界の知覚の仕方も変わってくる、ということである。

    「メディアは、環境に変更を加えることで、それ固有の感覚知覚の比率をわれわれ人間のうちに生み出す。どのひとつの感覚が拡張されても、われわれの思考と行動の仕方――世界を知覚する仕方――は変更される。感覚知覚の比率が変わるとき、人間は変わる」(p43)。

    こうして、メディアが人間や社会にどのように作用するのかを究明することが、人間文化を理解するための必要条件として位置づけられる。

    □ 活字メディア/電子メディア

    メディアによって人間の感性は具体的にどのように変容するのか。時代ごとのメディアの変遷を、非常に大雑把に、古代の口承メディア、近代の活字メディア、現代の電子メディアと区分けしてみる。マクルーハンは、とりわけ19世紀的な活字メディア中心の社会が20世紀の電子メディアの登場によってどのように変容したのかについて、詳しく述べている。以下、この二つの社会の対比を簡単にまとめておく。

    活字メディアの時代では、人間は直線的に配列された文字を眼で追って読む。よって、五感のうちでも視覚に絶対的な優位性が与えられる。そこでは、適切な順序に従って線形的に配列された連続的な思考過程が、合理性のモデルとされる。こうして、世界を均質で連続的な空間として視覚的に捉えようとする態度が定着する。さらに、印刷技術が生み出した書物によって、人は他者からの直接的な口承に依存することなく、他者から分離独立した個人として私的に思考することが可能となる。つまり、人間の個別化、個人主義が促され、自他分離の矛盾律が自他関係の基礎となる。こうした主観の孤立化は、ルネサンス期に発明された遠近法において観察者の世界からの分離として現れている。あらゆる事物は、主観が眼差す空間のうちに、それが存在すべき場所を一意的に割り当てられ、そこに静的に配置される。

    これに対して電子メディアの時代は、すべてが同時的につながり、相互参照関係のうちにある。視覚によって捉えられる遠近という空間的な連続体としての位相構造が消失し、個々の要素間の関係がon/offによって規定されているグラフ構造のイメージが立ち現れる。連続性から同時性へ。視覚優位(順序性)から聴覚優位(一挙性)へ。離在する諸主観から遍在する集塊へ。区別から混淆へ。自他分離の矛盾律から自他融合の融即律へ。固定された単一の視点から変動する複合的な諸視点へ。労働の契機としての断片化された機能から消費の契機としての諸データの集積点へ。固定された空間中の座標(「あるべき場所」)から可変的なポインタの結節点(「可能な関係の束」)へ。同時代にバタイユによって書かれた『エロティシズム』(1957年)で論じられている「不連続性/連続性」の区別と共鳴するところがあるようにも見えてくる。

    「電気回路が「時間」と「空間」の体制をひっくり返してしまい、全人類の関心事を即時的かつ連続的にわれわれに流し込んでくる。電気回路は対話を地球規模に再編成したのである」(p18)。

    「電気情報メディアの即時的世界は、われわれ全員に、みんな同時に干渉してくる。距離をとることも枠にはめることも一切できない」(p55)。

    「現代とは、すべてが同時に生起するようなまったく新しい世界である、「時間」は止まり、「空間」は消え去った。われわれはいま、グローバル・ヴィレッジに住んでいる・・・・・・同時多発のハプニングなのだ」(p65)。

    ただし、このような単純化された二項対立には十分に注意しなければならない。マクルーハンも危うく「電子回路は西洋を東洋化しつつある」(p147)と口を滑らせてしまっている。簡潔な標語には回収し得ない事象の偏差に対する繊細な配慮を忘れてはいけない。



    言語というメディアは、より基底的な身体というメディアを介して受け取った世界の表象である。よって、通常の言語表現から、身体器官の機能や運動に起源をもつメタファーや、身体がその中に投げ出されている時空の位相構造に基づくメタファーを完全に排除して、則ち一切の身体性の痕跡を脱色して、透明で抽象的で無条件的な表現へと純化することは不可能であろう。このことは、身体というメディアが認識と実践の「下部構造」であるということを考えれば、理解できる。

  • 授業とって見たけどメディア初心者すぎてあんまよくわかんないけど何となくわかるようなでも言葉で説明できないわかんない

  • 古い本の復刻版?
    なかなかゴキゲンな本だ。
    こういう古びた本が、今この現代に、このタイミングで再生されたことに、意味があると思うよ。

    『メディアはメッセージである』のmessageが誤植されてmassageになっていたのを見たマクルーハンが気に入った、とか。

    あらゆるメディアは
    人間の
    なんらかの
    心的
    ないし
    身体的な
    能力の拡張
    である。



    新たな電子的相互依存は
    グローバル・ヴィレッジの似姿に
    世界をつくりなおす。


    ジョン・ケージ:
    無関心になり、音は音、人は人であると受け入れ、秩序と言う観念や感情の表現、そして、そのほか全ての受け継がれてきた美学的はったりについて我々が持っている幻想を捨て去らなければならない。

    everything we do is music.

    DJ Spookyのサイトから、マクルーハンの、このレコード音源を聞いたよ。面白い。

  •  マーシャル・マクルーハンはメディア理論の先駆者であり、彼の考え方は現代のメディア文化においても非常に重要です。この『メディアはマッサージである』は、1967年に出版された彼のメディア論の集大成であり、その、ビジュアルをふんだんに使い考えうるあらゆる方法で活字を表現した挑戦的かつ先駆的な本書は、もっともマクルーハンらしい作品であるとされています。
     ところでみなさんも大学の講義の中で「メディア」について学んだり、日々「メディア」という言葉に接していると思います。情報を運ぶ装置であるメディアは、私たちの日常生活や社会に大きな影響を与えるものですが、マクルーハンは、「メディアはメッセージ自体ではなく、メッセージを伝える媒体そのものが重要である」とします。また、「すべてのメディアは人間のいずれかの能力ー心的または肉体的の延長である」とし、メディアが私たちの知覚、コミュニケーション、文化にどのように影響を与えるかについて考えることの重要性を指摘します。
     さらにマクルーハンは、異なる種類のメディア(テレビ、ソーシャルメディア、ラジオ、新聞、本など)が異なる影響を持つとし、それぞれのメディアが私たちの行動、価値観、意識に異なった影響を与えるとします。つまり、メディアが私たちに対して受ける影響を「マッサージ効果」として表現したのです。確かに同じ情報でも、どんな媒体から受け取るかで、印象が違うことがありますね。たとえば同じ小説でも、本で読むか、映画で見るか、テレビで見るか、あるいは人から聞くかでずいぶん印象が違います。ニュースもそうですね。伝えるメディアが違うと、印象や内容が違うことがよくあります。
     このようにメディアは、私たちの感覚を刺激し、情報を伝えるだけでなく、私たちの意識や文化を形成するプロセスに関与しています。つまり、私たちがメディアに出会うとき、メディアから受ける情報やメッセージを慎重に受け止め、自分ごととして捉え、適切に活用していくことが求められているのです。
     さて、この本自体も、実は2人の方が訳しています。マクルーハンの言葉が「日本語」に変換されたとき、それは原書と違ったものとなって私たちに届きます。訳される表現によっても変わります。さまざまな媒体で、それぞれの環境や感性で受け取るメッセージは、まさしくメディアによるマッサージであるとは思いませんか?

    国文学科 ありやま

  • 芸術とはなんであれうまくやりおおせればよいものである。

    アートブックのようなデザインがクール

  • 短歌集として
    本書の本文をすべて捨ててそこに自分の短歌を載せられる勇気のある歌人はどれだけいるだろうか
    媒体を語るならば媒体自体を美しくというプロの仕事の見本のような本だ 素晴らしい

  • 2015年出版の本ですがまったく古さを感じさせず、刺激的な本でした。

  • 「あらゆるメディアは人間のなんらかの心的ないし身体的な能力の拡張である」という有名なテーゼを含む、独自のメディア論をアートとレトリックを多用したマクルーハンらしい表現で示したソリッドかつエポックメイキングな一冊。
    「メディアはマッサージである」の"massage"は元々"message(メッセージ)"の誤植であったが、マクルーハン自身が気に入って採用したというエピソードも面白い。

    全体的に抽象度が高く、読解難易度も高いため巻末の解説が非常に役立つ。解説を読んでから本文を読むのも良いかも。

  • メディアはメッセージである / The medium is the message

    正直に言えば、ほとんどわからなかった。。

    あらゆるメディアは人間の何らかの心的ないし身体的な能力の拡張である。
    またどこかでマクルーハンに挑戦したい。

  • おもしろいです

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著者プロフィール

1911年、カナダのアルバータ州生まれ。英文学者、文明批評家。カナダのマニトバ大学で機械工学と文学を学んだのち、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに留学。1946年、トロント大学の教授となる。1951年に広告文化を論じた『機械の花嫁』を刊行。62年には、『グーテンベルクの銀河系』を発表、次いで64年に刊行した『メディア論』は世界的なベストセラーとなり、すでにメディア論の古典となっている。ほかにも、『文学の声』(1964-65年)、『消失点をつきぬけて』(1968年)、『クリシェからアーキタイプへ』(1970年)などの優れた文芸批評、さらには現代の情報化の波のなかにあるビジネスの状況を論じた『今をつかめ』(1972年、B・ネヴィットとの共著)など、多彩な作品で知られる。1980年、トロントの自宅で死去。

「2003年 『グローバル・ヴィレッジ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

マーシャル・マクルーハンの作品

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