犬の記憶 (河出文庫 も 4-1)

著者 :
  • 河出書房新社
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感想 : 29
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  • Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309474144

感想・レビュー・書評

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  • 森山大道が自身が写真家として活動するようになったきっかけや、駆け出しの時代について回想したエッセイ集。

    ジャック・ケルアックがひたすた旅をしながらその様子を小説という媒体で表現したように、徹底的に路上を舞台にして写真という方法を選択するまでのいきさつや、デビューに至るまでの修行時代などのエピソードは、”巨匠の青春時代”ともいうべき面白さに溢れている。

    また、本書のラストでは友人たちと興した同人集団「provoke」の創設と離散を経て1972年発表の「写真よさようなら」で自ら”青春の終焉”と記した時期について語られている。この後、1976年発表の「遠野物語」までスランプとも呼べる時期を送るわけだが(その顛末は文庫版「遠野物語」で生々しく語られている)、その直前に何が終焉をもたらしたのかという点を本人の口から聞けたのは、その謎を知りたかった自身として興味深かった。

  • 「思想家としての森山大道」が垣間見える著作だった。こんなウィットな文章を書かれるなんて! 自らの記憶をたどるという作業、都市に埋め込まれた記憶が現在=自分の中で想起され、内在化していくというプロセス。写真家としてはドラスティックなストーリーだけど、アイデンティティの出自に苦しみ、写真を撮ることに悩み抜いた人の自伝。彼の「目のつけどころ」は真似のできるものじゃない。

  •  驚いた。名文というか迷文というか、表現力含め非常に感性豊かな文章を書く人なんだと改めてビックリ。

     以前読んだのは、口述筆記のような著作だった(『路上スナップのススメ』光文社新書)。 大家の飽くなき探求心や、凡人には理解できない感性、執念のようなものに恐れおののいたもの。

    「ほとんどの人は日常しか撮ってないでしょう。つまり、基本的に異界に入り込んでいない。でも、街はいたるところが異界だからさ。街をスナップするってことは、その異界を撮るっていうことなんだよ。」(『路上スナップのススメ』より)

     日常に潜む異界の入り口に気づく感性ってどんなだ?!と思うが、本書を読んだところで理解できるものではない。ただ、本書のなかで過去を辿る旅路の中、著者が刻んだ人生の襞に、なんらかのヒントが見え隠れしているようには思えた。

     旅と記憶。 どちらも「なぜ?」やそれは「なに?」という答を容易に見つけることを許さない、試行錯誤とあくなき追究を終生余儀なくされる命題であると思うが、この大作家の感性をしても曖昧模糊とした捉えどころのないものであるということが判り、いち凡人としては、ほのかな共感を得られたと少し安心したりもするのだった。

    「もしかしたら僕の経験の底に沈みこんだまま、目ざめを待っているいくつかの記憶の断片があって、それらが、ふと新しい記憶を呼び醒まそうとしているのではないかと思うことがあるからだ。」

     この感慨は、村上春樹著『使いみちのない風景』(中公文庫)の中でも似たようなのがあった。

    「それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景に―おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に―結びついているのだ。 そしてその結果、それらの風景は僕らの意識を押し広げ、拡大する。僕らの意識の深層にあるものを覚醒させ、揺り動かそうとする。」

     曖昧な記憶、既視感なのか未知なものかもわからない「虚空に頼りなく浮かんだ蜃気楼のよう」な心象風景。それは使いみちがあろうとなかろうと自分を導き、未体験の”異界”への扉となるような予感はある。両方の大家は期せず同じことを言っているように感じた。

     そんな体験をしたくて、人は旅を続けるものなのか。

    「僕が記憶を媒介としてつづけている旅そのものも、追憶や感傷をも一緒に引きずりながら、覚醒を待って用意されている時間に出会うためなのかもしれない。」

     何か、遠くの方に仄かな灯りが見えてきそうな、そんな予感を感じさせてくれた。その遠くは、未来でなく、過去の時間の中にあるのかもしれない。

  • 記憶は内部にあるものではない、という彼の視点は、脳の外にあるものは情報・中にあるものは記憶、とでもいうような認知論を扱う心理学や神経科学のそれとは全く異なる。(クロノスとカイロス、精神の時間論と物理の時間論のようなものだろう)
    個の私にある記憶は、世界の記憶から覚醒されて拝借しているにすぎないかもしれない。

  • すごいセンチメンタリズムだ。しかしこのセンチメンタリズムを否む人がいたとしたら、その人はきっと嘘つきだ。「僕が現実かと思って見ている記憶、記憶かと思って感じている現実。その谷間のどこかに、僕がひたすら見たいと思いつづけている風景が溶け込んでいるように思える」「いったん逃げた風景のかずかずは、僕の内部でもうひとつの風景となってある日とつぜん立ち現れてくる。それはまったく時空を超えた視覚のなかと脈絡を絶った意識のなかに、ふと再生されてくるのである」彼の文章と狭間に差し込まれる写真とのハレーションが目に染みる。

  • [ 内容 ]
    <犬の記憶>
    「いったん逃げた風景のかずかずは、僕の内部でもうひとつの風景となってある日とつぜん立ち現われてくる。
    それは、まったく時空を超えた視覚のなかと脈絡を絶った意識のなかに、ふと再生されてくるのである」。
    写真は現在と記憶とが交差する時点に生ずる思考と衝動によるもの、という作者の、自伝的写真論。
    巻末に横尾忠則による森山大道論を付す。

    <犬の記憶 終章>
    時代の流れを12の地名に託して描く。
    写真家たちとの熱い出会いを通して描く半自伝的エッセイ。
    60余点の作品も収録。

    [ 目次 ]
    <犬の記憶>
    1 犬の記憶(陽の当たる場所;壊死した時間;路上にて;地図;夜がまた来る ほか)
    2 僕の写真記(写真よこんにちは;有楽町で逢いましょう;街を駆けぬけて;写真よさようなら;そして光と影)

    <犬の記憶 終章>
    パリ
    大阪
    神戸
    ヨーロッパ
    新宿
    横須賀
    逗子
    青山
    武川村
    札幌
    国道
    四谷

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • いい写真家は、得てして、いい言葉を紡ぐ。その法則は、この人にも、勿論、当てはまる。(13/9/7)

  • 写真家森山大道氏がアサヒカメラに連載した写真・文章をまとめた自伝的エッセイ「犬の記憶」と、写真家になるきっかけから、写真家としての活動を振り返る「僕の写真記」。
    コントラストの強い、荒れ・ブレありの60~70年代の日本を撮った写真はノスタルジック。

  • 文章がとっても読み辛い。。。

  • ひとりの写真家の記憶と風景を巡る物語。
    ハードボイルドというには内省的にすぎ、ビートニクと呼ぶにはあまりに理知的であり、つまり彼の写真にとても似ている。
    今まで読んだどんな写真論より、実践的で説得的でした。
    もっと早くに読んどきゃよかった。

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著者プロフィール

1928年、大阪府生まれ。写真集に『Daido Moriyama Buenos Aires』(講談社)、『新宿』『大阪+』『ハワイ』(いずれも月曜社)、『サン・ルゥへの手紙』(河出書房新社)、『犬の時間』(作品社)、『仲治への旅』(蒼穹舎)、『にっぽん劇場写真帖』(新潮社)、『4区』(ワイズ出版)ほか、著書『写真との対話、そして写真から/写真へ』『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』(ともに青弓社)、『犬の記憶』『犬の記憶 終章』(ともに朝日新聞社)、『昼の学校 夜の学校』(平凡社)、『もうひとつの国へ』(朝日新聞出版)ほか。

「2009年 『森山大道、写真を語る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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