楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (500ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309709420

作品紹介・あらすじ

フローラ・トリスタン、「花と悲しみ」という美しい名をもつ一人の女性。彼女は、女性の独立が夢のまた夢だった19世紀半ばのヨーロッパで、結婚制度に疑問をもち、夫の手から逃れて自由を追い求めた。そしてやがて、虐げられた女性と労働者の連帯を求める闘いに、その短い生涯を捧げることとなる。ポール・ゴーギャン。彼もまた、自身の画のためにブルジョワの生活を捨て、ヨーロッパ的なるものを捨てて、芸術の再生を夢見つつ波瀾の生涯をたどる。貧困、孤独、病など、不運な風が吹き荒ぶ逆境の中、それぞれのユートピアの実現を信じて生き抜いた二人の偉大な先駆者を、リョサは力強い筆致で描ききる。

感想・レビュー・書評

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  • 虐げられた結婚生活を逃れ、女性と労働者解放運動家になったフローラ。
    女性は夫の隷属物と扱われていた当時、自立した女は娼婦と同じ扱いを受け、娘は夫に誘拐され強姦されるがそれでも女性の訴えは聞き入れられない。
    怒りんぼ夫人、アンダルシア女と綽名される気性の激しさで、弾圧も無理解も病も跳ね除け、自らの身体も黒髪美女オランピアとの恋も、そして子供さえも顧みず、時には女としての魅力を振りまき自分の全てを運動に捧げる。

    フローラの死後生まれた孫のポール。株の仲買人として妻と5人の子供と共にブルジョア生活を送っていたが、絵画にのめりこみ家族を捨て、狂ったオランダ人との共同生活の破綻後タヒチへと渡る。
    乱れた生活により“口にすることを憚られる病”を患い足は腐り視力は衰え、教会には反発し、金にはルーズな生活の中で、ヨーロッパ文明に侵食されていない原始の人間の力の象徴として、自分の幻のタヒチを描き続ける。

    「楽園はここですか?」「いえ次の角です」
    子供達の遊びはフローラの生まれ育ったフランス、父の故郷ペルー、そしてポールの渡ったタヒチの修道院でも見られる。
    現実と折り合いをつけず、楽園を求め続けた二人の人生が交互に語られる。

    文体は、作者がフローラとポール(作中ではタヒチでの呼び名の「コケ」と呼ばれる)に語りかける二人称。
    「それはなんとか達成できるのだろうか。もしお前が体を壊していなければ、上手くいっただろう。もし神様がお前にあと一握りほどの生命をくれていたなら、きっと達成していただろう。けれどおまえは、必要なだけの年月を生きていられるという確信がもてなかった。きっと神様は存在していないのだ、だからおまえの言うことを聞いてくれないのだ。あるいは存在しているが、重要なことが沢山あって忙しく、おまえにとっては重要なことでも差込や傷ついた子宮のような小さなことには関わる余裕がないのだろう。毎晩、毎日お前は体の衰えを感じていたね。初めてお前は、挫折するのではないかとの予感に悩まされた」
    「それをやったんだよね、フロリータ。心臓近くにある銃弾を、体調の悪さを、疲労を、お前の体力を蝕んだ不気味な慢性的な疾病を撥ね退けて、この最後の十八ヶ月でやってのけたんだね。あまり上手く行かないこともあったけれども、お前の努力や信念、勇気、理想が足りなかったからではないんだよ。あまり上手くいかなかったとしたら、この現世での物事は夢の中のようにうまくは運ばないということなんだよ、残念だね、フロリータ」

    「描かなければいけないよ、コケ。もう久しくお前に侵入してくることのなかった精神の爆ぜる音が再びそこに戻ってきて、おまえに絵を描くよう要求し、活気づけ燃え立たせていた。そうだ、そうなのだ。もちろん、絵を描くのだ。お前は何を描くのか刺激され興奮し、鳥肌を立たせるような血の熱狂はお前の頭にまで上がってきて、自分が信頼できる存在であり、強大で、勝利者であると感じられて、おまえは木枠にキャンバスを張ってイーゼルの上にしっかりと平釘で留めた」
    「喜んでくれよ、お前の夢を叶えてやったよ、フィンセント」とコケは声を張り上げて叫んだ。「ほらここに『愉しみの家』ができたよ。お前はアルルで俺の人生を酷く狂わせやがったが、憧れのオルガスムスの家だ。俺達が考えていたようなものにはならなかったけれどね。おい、わかったか、フィンセント」

    ===
    バルガス=リョサ作品の中でも登場人物関係や小説のテーマがスッキリしているのでかなり分かりやすい小説。
    ちらっと出てくるゴッホが相当エキセントリックで印象的。ゴーギャンの作品、「我々はどこから来たのか、我々は何者か。我々はどこへ行くのか」「マナオ・テゥパパウ」などが描かれた時の心情描写も多いので、画集片手に絵画解説としても楽しめる。

  • フランスの画家ポール・ゴーギャンと、彼の祖母であり「スカートをはいた革命家」と言われたフローラ・トリスタン。

    奇数章では祖母フローラの人生を、偶数章では孫ゴーギャンの人生を、という形式で物語は交互に語り進められていきます。三人称のはずの文体の中に、頻繁に、主人公二人に語りかける二人称口調の謎めいた全知の視点が挟み込まれて、それぞれの「現在」に至る経緯となった過去を少しずつ少しずつ暴きたてながら、孫が祖母の死後に産まれたために現実には一度も交わらなかった二人の波瀾と狂気に取り憑かれたような人生が、対比性と、細く不確かだけど巧みな連続性によって描かれています。

    不遇で貧しい少女時代と不幸な結婚生活を経てDV夫から逃げわまっている最中、ふとしたきっかけから早逝した父方の親戚に会うためにフランスからペルーへ単身旅をし、その地で、労働者のブルジョワ支配からの解放と、女性の男性支配からの解放のための革命家となることを決意するに至る体験に出会ったフローラ。フランスに戻って後、自らの思想を広めて平和的な革命を実現させるため、フランス全土を精力的に巡りますが、道半ばに倒れ、生を終えます。

    孫のゴーギャンは、幼い一時期をペルーで過ごし、優秀な株式仲買人として典型的なブルジョワ生活を送った後、三十代半ばで画家になることを選んで裕福な生活を棄て去ります。貧困生活の後、彼はタヒチへ行き、爛れた生活を送りながらも自分の芸術を模索しますが、こちらも、祖母同様、道半ばに倒れ、生を終えます。

    自らが描く「楽園への道」を突き進みながら志半ばで生を終えた二人の姿を目の当たりにすると、どんな人生であっても、苛烈過ぎる意志と行動力は死への近道なのかと思わされてしまいました。

    蛇足ですが、フローラやゴーギャンの人生に影響を与えて通り過ぎていった人々の描写も見事でした。
    とりわけ、ゴーギャンの心に一生の傷を残して死んだ「あの狂ったオランダ人フィンセント」(ゴッホ)の、度重なる描写は印象的です。

  • 「ここは楽園ですか」 「いいえ、楽園は次の角ですよ」

    虐げられていた女性や労働者の開放を目指し労働組合の組成をその生涯で主張し続けた女性思想家フローラ・トリスタンと、その孫であり西洋近代美術の伝統と歴史を否定したポール・ゴーギャン。この2人の人生を題材に、ペルー出身で2010年にノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス・リョサが描く傑作小説。

    奇数章ではフローラ・トリスタンの、偶数章ではポール・ゴーギャンの、それぞれ人生が描かれるという構成故に、本書は対位法的な作品と言われている。そして、その対位法のもたらす緊張感を増幅させるのは、1つの章の中でも、現在と過去が1段落おき程度で繰り返されていくという語りの見事さにある。そのため、読み手は常に「これは現在の話なのか?過去の話なのか?」と考えながら、スリリングな読書体験を迫られる。過去の話は、現在における主人公の思想の延長線上で語られており、常時自然なまでに結節しており、その結節点が100を優に超えるにも拘らず、その1つとして破綻するものはない。2人の主人公の物語は、二重螺旋を描くDNAの構造のように美しく、微妙に交差しながら、終幕を迎える。

    ガルシア・マルケスの作品がそうであるように、本書にも非常に多くの人物が登場するが、全ての登場人物の描写は明確であり、読者に豊穣なイメージを与えて止まない。様々な意味合いにおいて、完璧な小説という印象を受ける大傑作。次は傑作との誉高い「世界終末戦争」に取り掛かりたい。

  • ゴーギャンとその祖母フローラを描くノンフィクション的大河小説。ゴーギャンは株式仲買人としてのブルジョワ的地位と家庭を捨て30代後半で突然絵の道に目覚め、タヒチへ。フローラは、セックスや結婚に対する憎しみから、女性や貧困を救うための革命家の道へ。それぞれの「楽園」を目指して、困難を者ともせず、突き進んでいく激動の熱の固まりのような人生が描かれる。レズビアン的傾向のあったフローラ、両性的な「マフ-」を画材として取り上げたゴーギャンと通常の性を超える何かを求めた点でも両者は共通する。さすがの池澤夏樹セレクトで、大変面白い(池澤夏樹世界文学全集でアマゾン上一番人気の高い本でもあるようだ)。大部であり、持ち歩きが難しく「積ん読」であったが、自炊したらあっという間に読めた。

  • 「ここは楽園ですか」

    「いいえ、違います。
     次の角へ行って訊いて下さい」

    ポスト印象派として有名な画家ゴーギャンと、その祖母であり「スカートをはいた革命家」フローラ・トリスタンの晩年を対となって語られていく壮大な物語。異なる時代を生きた二人に共通するのは、共に世界に対する反逆者であるということ。それ故世界から疎外されながらも抗い続け、激動の生涯を送ってきた。

    「ここは楽園ですか」
    「いいえ。次の角で訊いて下さい」

    本書でキーとなるのは、様々な物事が対になると同時に、構成もまた対位法の如く編み上げられていること。二人の生涯。現在と過去。現在と革新。進歩と後進。男と女。資本主義と社会主義。闘争と逃走。先進国と未開国。夫と妻。抑圧と解放。資本家と労働者。そして、政治と芸術。あらゆる対概念が提示され、対比されていくことで世界を塗り潰し、物語を加速させる。 

    「ここは楽園ですか」
    「違います。次の角で訊いて下さい」

    二人の主人公に共通する要素は二つ。それは、著者の出身地でもあるペルーという国と、オランピアという女性。前者は著者がこの本を執筆する契機とも言える。だが、二人を解放するものとして描かれる後者に関しては?これはあらゆる対概念を解放するメタファーとして、意識的に配置されたものなのだろうか?そしてそれこそが、楽園なのだろうか。


    「ここは楽園ですか」
    「いいえ、楽園はもう過ぎてしまいました」

    21世紀になって変わった事の一つとして、これまでになく「正義と悪」といった2分法的思考が成立しなくなったという事があると思う。かつては「何か」を選び取る事で、その先に幸せが提示されていたはずなのに、今では何を選び取ってもそこから「何か」が零れ落ちるような、そんな世界だ。だとしたら、『楽園への道』はまるで現実
    に対するアナロジーであると同時に、過去に対する鎮魂歌だ。


    楽園はどこですか。

  • 章が替わるたび、二つの物語が交互に語られる。主人公の一人は画家ポール・ゴーギャン。もう一人は、その祖母にあたるフローラ・トリスタン。マルクス=エンゲルスによる『共産党宣言』が出される四年も前に『労働者の団結』という本を書き、「女たちと労働者は犠牲者であり、団結させるべきだ。団結すれば抑えがたい力となる。そしてそれは国際的な力となり、革命が起きる」と唱えた女性である。フーリエやサン・シモンの影響を受けたが、空想的社会主義者にはならなかった。フローラ・トリスタンはヨーロッパ中を歩き回り、労働組合の設立を呼びかける「スカートを履いた扇動者」となった。

    フローラは、1803年フランス人女性とスペイン軍に属するペルー人大佐の子としてパリで生まれた。四歳の時、父が死に一家はあえなく没落。若くして石版工房の彩色工として働き、工房主のアンドレ・シャザルと結婚する。しかし、女性を性奴隷のように扱う結婚制度に疑問を持ち、夫や子を捨てて国外へ逃亡する。帰国後、父の実家はペルーのアレキーパでも有名な一族であることを知り、祖父の遺産相続を求め単身ペルーに渡る。結局遺産は相続できなかったが、ペルーでの見聞はフローラに『ある女賎民の遍歴』(邦題『ペルー旅行記』)を書かせ、夫と子を捨てた「堕落した女」をアジテーターに変えた。アレキーパ生まれのリョサがこの女性の人生に惹かれるのはよく分かる。まして、その孫があのゴーギャンであり、彼も幼い頃ペルーで暮らしていたとなれば、なおさらのこと。それまでにも『世界終末戦争』や『チボの狂宴』など、史実の周りに残された歴史の空白部分を想像力を駆使して描き出してきたリョサである。ここでも、奇数章にはフローラの、偶数章にはゴーギャンの人生を配し、二人の人生を対位法的に描き出すことで主題をより効果的に響かせることに成功している。

    原題“El Paraiso en la otra esquina”は「次の角の楽園(天国)」という意味で、作家が小さい頃していた遊びに由来する。地面に書いた正方形の外に目隠しされた鬼がいて、正方形の中にいる子どもに「ここは楽園ですか?」と尋ねると、中にいる子たちが「いいえ、楽園は次の角ですよ」と答えるという遊びだ。作家が不可能の追求と呼ぶ遊びの、たどり着けない「楽園」とは何か。フローラにとっては、解放された女性や労働者が暮らす理想的な社会であり、ゴーギャンにとっては、文明化される以前の人間の生活する土地がそれであった。時間軸の指す方向は逆だが、どちらも現実には存在しないユートピアであるという点で、祖母と孫の求め続けた世界は一致する。

    二人に共通するのは、ユートピアを希求することだけではない。性に関する嗜好、セクシャリティにおいてもこの二人には相通ずるところがあった。フローラは、夫とのセックスに快感を覚えず、むしろ厭わしいと感じる。それは、好感を抱いた男性に対しても変わらない。一方、ポールは文明的な風習に反感を抱いており、人妻であろうが少女であろうが、遠慮することなく手を出す。妻をデンマークに残しながら、タヒチでもマルキーズでも娘と言っていい年齢の女性と同棲を繰り返す。セックスに対する禁忌と放埒。一見二つは相容れないように見える。

    しかし、相反するように見えながら、男と女という二元論では割り切れないセクシャリティに対してふたりの抱く感情はよく似ている。フローラは男はだめだが、同性愛的関係にある友人とは愛し合える。女一人男たちに混じって長い航海をしたり、男装して貧民街を訪れたりするフローラの中には「男性」的なものがあったのかもしれない。一方、ポールにはマオリに古くから伝わる「マフー」という両性具有的なセクシャリティへの強い共感がある。彫刻の材料を求めて島の奥地に分け入ったとき樵夫のジョテファに女として抱かれたいとポールが感じる場面がある。彼の中にある「女性」的なものの発現と見ることができる。

    リョサの書くものには、いつも男らしくあらねばならないラテン・アメリカのマチスモ社会に生きる男としての葛藤を感じることがある。フローラの男性嫌悪は、それを裏返しにして見せたものだ。女性蔑視の社会で女性であることは、暴力に蹂躙されることにほかならない。男を嫌うことで、フローラは社会に対して反旗を翻して見せたわけだ。西洋文明に侵される以前のタヒチには「マフー」に代表される多様なセクシャリティがあった。ポールのマフーに寄せる執着は、文化が共同体の成員に押しつけるセクシャリティに対する反抗である。こう考えてみると、支配的なセクシャリティへの反抗とユートピアの希求とはそう異なったものでもないように思えてくる。

    とはいえ、自分に正直に生きることが、どれだけ周囲との軋轢を生み、困難な状況を作り出すことか。実際、フローラの人生は不幸の連続といえる。当時のフランスでは夫から逃げた女は売春婦並みの扱いを受けた。それだけではない。娘は実の父親によって近親相姦され、フローラ自身はストーカー化した夫に銃で撃たれている。夫が収監されたことで晴れて自由の身となり、ヨーロッパ各地を労働者の団結を訴えて回れるようになったフローラだが、官憲の迫害やら周囲の無理解に苦しめられ、四十一歳の若さで亡くなっている。

    パリでのブルジョア暮らしを捨て、絵を描くために非西洋的な社会を追い求めタヒチへと移り住んだポールだが、植民地の白人からは理解されず、現地人にもなりきることはできない。後に絵画史に残る傑作を次々と生み出すポールも、当時は認められず貧乏と持病に苦しめられ惨憺たる暮らしが続く。文明に汚染されつつあるタヒチを捨て、最後に渡ったマルキーズ島で亡くなるまで、彼の人生も祖母のそれに負けず劣らず過酷なものであった。

    ただ、リョサの筆は度重なる不幸に見舞われる主人公を描くのに、暗い色彩ばかりを用いているわけではない。スズメバチのような引き締まった腰と美貌の持ち主でもあったフローラは次々と男たちに言い寄られるが、鼻っ柱の強い彼女は洟も引っかけない。何があっても意気軒昂として女性解放と労働者の覚醒を叫ぶその姿は実に雄々しい限りだ。政治的には保守的とされるリョサが、フローラの口を借りて社会の不公正を批判する口吻にはアナルコ・サンディカリストのドン・キホーテよろしく稚気あふれるものがある。ペルー大統領選に敗れた直後に書かれたことも影響しているのか、政治的物言いに対する戯画化が感じられるところでもある。

    祖母と孫が生きた二つの異なる時代を往き来することで、若きマルクスやリスト、ドガやピサロ、それにマラルメといった綺羅星のごとき顔ぶれが多数登場し、主人公とからむといった歴史小説ならではの楽しみも用意されている。本の出版のために訪れた印刷会社でマルクスとフローラがすれちがうところなど、史実を料理する際のリョサの手際はいつもながら鮮やかなものである。話者が二人称で主人公に語りかけるスタイルに初めのうちはとまどいを覚えるかもしれないが、読み進めるうち、楽園を求め、傷つきつつも真摯に生きる二人に、いつの間にか肩入れしている自分に気づかされることだろう。

  • バルガス・リョサ「楽園への道」

    ネットの世界の話なのか世の中全体がそうなのか、「自分に正直になれば、もっとラクに生きられる!」と皆が言う。
    でも、この本を読み終えた今、しみじみ思うのだ。「自分らしさを貫くことで、これほどの楽園と奈落とに向き合うことになるんだな」と・・・

    パリでの金融業者としての安定した地位と家族を捨て、「未開の地」タヒチで頽廃的に暮らす天才画家ゴーギャン(愛称「コケ」)と、その祖母に当たり、産業革命期の社会運動に一生を投じたフローラ・トリスタン(愛称「フロリータ」)。
    50年の差を隔てつつも、ともに社会の「常識」に背を向けおのれの信念に生きた人生を同時並行で描いていく。

    洞窟のような地下の織物工場で「半裸の汚れて痩せこけた身体をかがめて織機に覆いかぶさるようにしている人たち」の「まだ息のある死者の世界」(P.128)に、なんとか労働組合を設立しようとするフロリータ。経済の繁栄の影で、弱者にこれほどの犠牲を強いていたのか、と読んでいて心は沈み込む。

    対照的に、ゴーギャンの章には彼の作品のタイトルが付され(「死霊が娘を見ている」「神秘の水」「ジャワ女」などなど・・・)、幻想的な南国の空気の中で人生の回想と絵の制作過程が見事に絡み合っていく。Google検索で画像をみながら読んでいると神秘の森に吸い込まれていきそうになる。ゴッホとの束の間の共同生活のシーンは感動的。

    二人とも、その人生は「不遇」の一言で総括されると言ってよい。それでも、仕事を失うことを恐れる労働者たちが組合結成に口をつぐむ中、たったひとりある女性がフローラの呼びかけに答えて立ち上がるとき、ゴーギャンが病でほぼ盲目になりながら最後の傑作を描きあげるとき、目もくらむような楽園的感動が舞い降りる。

    リョサ、重く、深いです。

  • 質・量共に詰まってますが、中だるみせず、力強い文章。
    「楽園への道」はバルガス=リョサが主人公二人に時に厳しく、しかし優しく語りかけるように描かれています。
    二人の主人公、女性や労働者の開放活動を行ったフローラ・トリスタンと、その孫で画家のポール・ゴーギャンの生涯を、フローラの方は死ぬまでの1年位、ゴーギャンの方はタヒチ暮らしを始めたあたりから死ぬまでを中心に描いています。時々思い出したように、まだちょっとだけまともで若かった時代にさかのぼったりします。


    「『ここは楽園ですか』
     『ここではありません。次の角へ行って訊いて下さい。』」

    これはこの話に出てくる「楽園遊び」のセリフです。
    この遊びをしている子供達を見て、ゴーギャンは昔自分もその遊びをした事を思い出して胸を震わせます。
    しかし、作者はそんなゴーギャンに語りかけます。

    「楽園遊びだって! おもえはまだその見つかりにくい場所を知らないな。存在するのかな。名前だけの遊びだよ、幻想だよ。死んだ後にだって見つけられまい。」

    これは手厳しい。しかしそれも事実。
    フローラとゴーギャンの理想はその時代では理解されにくいものでした。今でこそゴーギャンの芸術は素晴らしいものだと賞賛されているし、フローラの目指す労働者と女性の権利平等は当然のものですが、二人が最終的理想とした楽園は未だにありません。
    きっと私が死んだ後にだって見つけられない楽園を、ひたすら目指した、情熱的で純粋で不器用な二人がなんだか愛しいです。

    読みやすさといい、文章構成といい素晴らしい。

  • 美しい装丁。素晴らしい設定。読みやすく、ためのある文章、しっかり筋の通った訳文と、まったく非の打ち所のない傑作。ラテンアメリカ文学は痩せてきたアメリカ、ヨーロッパ、そして日本文学にはない自由度とパワーをかもしだす。

    怒りんぼ女の活動家、フローラ・トリスタンとその孫であるポール・ゴーギャンの数奇な人生がパラレルに描かれ、それが交差するようでしないようで、、、村上春樹が得意とする交互式の小説だが、その接点はもっと淡くて分かりづらい。モームの「月と6ペンス」があるのに、このテーマに挑戦したのもすごい。

    こういう小説が読みたかったんだよね、コケ。

  • 池澤夏樹さん個人選集の四冊目。
    面白かった!
    南米の作家さんらしいから、どんなもんかはらはらしてたけど、独特ながらとても読みやすい文章だったのですいすい読めた。

    画家のゴーギャンと、彼の祖母、社会主義者で女性解放運動家のフローラ・トリスタンがそれぞれの思い描く楽園に向かって人生を進めていく話。二人の話が交互に進行していく。
    文明やセックス、芸術に対する態度は対照的で、健康面での不安、結婚相手に悩まされること、キリスト教との対立は共通してた、と思う。もちろん楽園にたどり着けないままに人生を終了することも共通していた。二人ともいつも楽園は「次の角」にあった。

    二人の主人公に語りかけるような独特の文体が印象的だった。
    ゴーギャンが絵を描き終えたら「やったじゃないか、お前の最初の傑作だ」みたいな感じ。それに最初はちょっと戸惑ったけど、至って率直な文体だったので読みやすかった。ゴーギャンを扱ってるからだと思うけど、絵についてばりばりと解釈を加えていくところはちょっと苦手だった。

    ふたりとも、今から見ると冗談みたいな理論をごり押ししてて、こんな人が隣にいたらたまったもんじゃないなあ、という感じの人だったけど、不思議と魅力的だった。多分、例の文体がいい感じに間を取り持ってくれてたのかもしれないけどよくはわからない。
    特にフロリータ編が好きだった。フロリータ編の書き出しは『フローラは明け方の四時に目を覚まして考えた。〈今日、お前は世界を変え始めるのよ、フロリータ〉』
    いかすと思った。

    印象に残ったシーンは以下。
    毎日正午から2時まで、燕尾服姿で来るはずのない支援者を待ち続けるフーリエ。
    ジョテファとの河でのシーン。
    ゴーギャンが晩年に子供達が楽園遊びをしているのを見かけるシーン。

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著者プロフィール

1936年ペルー生れ。ラテンアメリカを代表する作家。2010年ノーベル文学賞。著書『都会と犬ども』『緑の家』『ラ・カテドラルでの対話』『世界終末戦争』『楽園への道』『チボの狂宴』『つつましい英雄』他。

「2019年 『プリンストン大学で文学/政治を語る』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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