- Amazon.co.jp ・本 (704ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309728742
感想・レビュー・書評
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あなたは「源氏物語」を知っているでしょうか?そして、そんな物語を読んだことはあるでしょうか?
世界最古の小説とも言われ、世界の20数か国語に翻訳されてもいる小説、それが「源氏物語」です。とはいえ、”源氏物語=小説”という図式にはどこか違和感を感じないではありません。そこにはどうしても、古典・古文の授業風景が重なり見えてくるからです。私も「源氏物語」はもちろん知っています。しかし、その知識は作者が紫式部で、平安時代に書かれたもので、光源氏という人物が登場するらしい、ほぼその程度にとどまります。読書&レビューの日々を送っているとはいえ、私には読書の対象として「源氏物語」を捉えたことはこれまで一度もありませんでした。それが、2021年秋にブクログのプロフィールを修正して、”国内のすべての女性作家さんの小説を読み終えてブクログ卒業宣言をする”、と書いてしまったことで雲行きが怪しくなります。女性作家さんということは、清少納言、菅原高標女、そして紫式部が書いた作品も読むのか?と自問する日々がそこに生まれたからです。そんな中で、「源氏物語」ってそもそもどんな物語なのだろう、と調べ始めた結果、そこには予想外に興味深い世界が広がっていることに気付きました。しかし、一方で古典・古文の復習のようなことは絶対にしたくない、そんな思いも去来しましたが、調べてみると「源氏物語」にはきちんと現代語訳というものが存在し、多数の翻訳本が出版されていることを知りました。
そんな中、角田光代さんが訳された翻訳本が存在することを知った私。角田さんというと、私が既に21冊を読了している大好きな作家さんでもあります。そんな翻訳本の中には角田さんのこんな言葉が記されていました。『長編小説として「源氏物語」を読もうとすると、なんとなく受験勉強臭がしてくる。でもきっと、長編小説というとらえかたでなければ浮かび上がってこないものがある』というその語り。『物語世界を駆け抜けるみたいに読んだほうが、つかまえやすいものもきっとある』、そのために『読みやすさをまず優先した』と続ける角田さん。そんな言葉を読んで私の心はついに固まりました。
「源氏物語」を読もう!
この作品は角田さんが五年以上もの歳月をかけて取り組まれた平安絵巻の物語。『光をまとって生まれた皇子』が平安の世を駆けていくのを見る物語。そしてそれは、一千年という時を経て紫式部が今を生きる私たちに、人の世を生きるということの意味を問いかける物語です。
では、そんな天下の「源氏物語」の最初の第一帖(≒第一巻≒第一編)〈桐壺〉をいつもの さてさて流でご紹介しましょう。き、緊張するなあ…。
『いつの帝(みかど)の御時だったでしょうか』という、その昔に『帝に深く愛されている女がい』ました。『帝の深い寵愛を受けたこの女は、高い家柄の出身ではなく』、『女御より劣る更衣』にも関わらず『桐壺(きりつぼ)』という部屋を与えられています。このことを『帝に仕える女御たちは』、『帝の愛を独り占めしている』として、桐壺のことを『目ざわりな者と妬み、蔑』みます。そうして『ほかの女たちの恨みと憎しみを一身に受け』た『桐壺は病気がちとなり、実家に下がって臥せることも多くな』ります。『そんな桐壺をあわれに思』った帝は『周囲の非難』を『意に介さず』『ますます執心し』ました。そんな中『帝と桐壺のあいだにかわいらしい皇子(みこ)が誕生し』ます。『この世のものとは思えないほどのうつくしさ』というその皇子。『帝は別格の配慮を持って、母なる「御息所(みやすどころ)」としてそれに似つかわしい待遇を』桐壺に施しますが、『最初の子を産んだ弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は』『この若宮が東宮(皇太子)とされてしまうのではないかと』『不安を覚え』ます。『病弱で、後ろ盾もな』く、『帝に愛されれば愛されるだけ』『気苦労が増えていく』桐壺。帝のいる『清涼殿に向かう』と『通り道に汚物が撒き散らされる』など嫌がらせも絶えない桐壺。そんな桐壺を『不憫に思った帝は、清涼殿に近い』『後涼殿』を与えますがこれが『晴らしようもない恨み』を他の更衣に与えてしまいます。時は流れ、三歳になり『袴着の儀を行う』若宮。そんな若宮は『顔立ちも性質も、抜きん出てすばらし』く、『だれも憎めないの』みならず『ただ呆然と目をみはるばかり』の存在になっていました。一方で『ふたたび病にかかってしま』い、『急激に衰弱し』た桐壺は『若宮を宮中に置い』て『実家に』下がることになります。『意識も朦朧』、『今にも息絶えそうな』桐壺に『途方に暮れる』帝。桐壺が実家へと下がった後、『眠ることもでき』ない帝は使者を遣わせますが桐壺は『すでに息絶えてい』ました。使者から『それを聞いて』取り乱した帝は『部屋に閉じこもってしま』います。そんな中、『何が起きたのかまるでわから』ない様子の若宮を見て『人々の悲しみは掻き立て』られました。『悲しみに暮れ、今では朝の政務を怠ることもある』ようになった帝は『清涼殿での正式な昼食』に『見向きもしな』くなり『仕える者は、男も女もみな、「本当に困ったことです」とため息』をもらします。そして『月日は流れ、いよいよ若宮が参内することにな』りました。『成長したその姿は、今までにも増して気高く、いよいよこの世のものとは思えないうつくしさ』を感じさせる若宮。しかし、『後ろ盾』のいない若宮の将来を危惧する帝は立太子を隠します。そんな帝は『高麗人が来日した折に、よく当たる人相見』に若宮のことをひそかに占わせます。そして『皇族を離れさせて臣下とし、朝廷の補佐役に任ずるのが若宮の将来にはいちばん安心』という結論を得た帝は、『若宮を臣下に降し、源氏という姓を与えることに決め』ました。一方で『桐壺を忘れることはできな』い帝は『顔立ちも姿も、不思議なくらい亡き桐壺にうりふたつ』という『先帝の第四皇女である藤壺』に情を移し、源氏も『たったひとりのすばらしい人』と藤壺を慕うようになっていきます。そんな源氏は『輝くようなうつくしさはたとえようもなく、いかにも愛らしい』という姿に育ち、『やがて人々は』そんな源氏のことを『光君(ひかるきみ)』と呼ぶようになりました。そして、『元服の儀』を終え成人となった源氏。『光源氏』とも称されることになる光君の華やかな平安絵巻の物語が描かれていきます。
さて、角田さんが訳された「源氏物語」の第一帖〈桐壺〉をかなり大胆に切り取ってみましたがいかがでしょうか?書いている本人が言うのもなんですが、主人公・光源氏という人物の誕生の経緯がなるほど、と現代の私たちの感覚でも理解できるような気がしてきます。もちろん、色んな登場人物を削って削ってなので「源氏物語」を愛されていらっしゃる方には単なる冒涜にすぎないとお怒りになられている、もしくは呆れ果てている方もいらっしゃるかとは思います。しかし、私のような読書歴二年の人間にはこの大作はこんな感覚で理解していかないと、そのあまりの頂の高さに目が眩むのも現実です。その一方で、「源氏物語」なんて読まない、もしくは読めないとおっしゃる方には、なんだそんな感じの物語なのか、と思っていただければ私としてはとても本望です。そう、このレビューの目的はいつもの さてさての考え方と同じです。一人でも多くの方に、この作品を”読みたい”に登録していただくこと、そう願ってこの大作に挑んでいく次第です。そのため、レビューの書き方もいつもの さてさて流で書いていきたいと思います。
ということで、そんな上巻は、第一帖〈桐壺〉から第二十一帖〈少女〉までの二十一の帖から構成された連作短編の形式をとっています。そんな二十一の短編(帖)を三つの視点から見ていきたいと思います。まず一つ目は視点です。小説を読む時に読者が意識するのは、誰の視点で書かれたものかという点です。最初から最後まで一人の主人公の視点に固執するもの、短編ごとに視点の主が変わっていくものなど、その視点の位置によって読者が物語から受ける印象も異なります。そしてこの「源氏物語」では、そんな視点の主は主人公である光源氏でも、他の登場人物でもない第三者の視点で展開します。第二帖〈箒木〉の冒頭でそんな物語の視点を見てみたいと思います。『光源氏、というその名前だけは華々しいけれど、その名にも似ず、輝かしい行いばかりではなかったそうです』という文体からこの物語が光源氏視点でないことがまずわかります。それに続くのが『これからお話しするような色恋沙汰まで後々の世まで伝わり…本人が秘密にしていた話も、こうして語り伝えた人の、なんと性質の悪いこと…』という一文は、いや、伝えているのはこの物語を書いているあなたでしょう、とツッコミを入れたくなります。また、第三帖〈空蝉〉の中の一場面。光源氏が泊まった寝室の引き戸を開けて夕顔と共に庭を眺めるというシーンが『光君の住む広大な邸ではこんなに近くで聞いたことのないこおろぎが、まるで耳のすぐそばでやかましく鳴いているのが光君には珍しくて味わい深い』という風に描かれます。そしてその後こんな一文が差し込まれます。『女への愛の深さゆえ、なんでもかんでも味わい深くなってしまうのでしょうね』。えっ?あんた誰?といきなり登場する視点の人物にツッコミを入れたくもなります。そう、ここに顔を出す視点の人物が作者=紫式部です。私は女性作家さんの作品ばかり500冊近くを読んできましたがこんな第三者=作者の視点、かつ作者のコメント入り!という文体の作品に接したことはなく、とても興味深いものをそこに感じました。
二つ目は本文の途中に山のように登場する和歌です。五七五七七の31文字を基本単位として歌われる短歌がこの上巻の二十一の帖には、なんと337首も登場します。読書に縁のなかった私は和歌となるともう完全に古典・古文の授業を思い出してしまって今まで一才の興味を持ってきませんでしたが、この作品を読んでなるほど、と頷かされるものがありました。それは元々短歌というものが、一定の決められた文字数の中でその場面の情景と、登場人物の心象を凝縮して存在するものという点に関連します。単発で短歌および訳を読んでも、その場面がイメージできないと今ひとつピンとこない思います。しかし、この作品では、そもそも本文で物語が展開する中に、その時の登場人物の心の内を相手に伝えるために短歌が詠まれます。こうなるとその短歌を無視しての読書は成り立ちません。また、本文中で触れられない登場人物の心象が短歌を通じて浮かび上がってくる効果も見事に発揮され、特に男女の語らいの場面ではその威力に圧倒されます。例えば第十三帖〈明石〉で入道の娘が住んでいる岡辺の家へと光源氏が赴いたシーン。なかなか気を許そうとしない入道の娘に対して光源氏はこんな歌を詠みます。
『むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと(睦言を語り合える相手がほしいのです。このつらい世の悲しい夢も、半分は覚めるかと思いまして)』
それに対して入道の娘は、
『明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ(明けることのない夜の闇の中をさまよう私には、どちらを夢と分けてお話しできましょう)』
こんな風に返します。気が動転する娘に対して無理強いをするでもなく大人に接していく光源氏という二人は結局『契りを交わし』ます。音楽をつければミュージカルのワンシーンにもなりそうなこのシーンに象徴されるように、この作品における和歌はその存在をもって男と女の心と心が呼応し合う様を演出し、物語をより奥深いものにしていきます。そしてまた、本文だけだとベタッとした印象を与えるところに上手くリズム感を作って、一本調子の物語でない変化のある読み味をつけて長文の物語をより魅力あるものにしているようにも思いました。
そして、三つ目は”訳”です。ここまで『』で引用してきている本文は和歌の原文を除き全て角田光代さんの訳からの引用になります。私はこの作品の原文を読んだことはありません。もしかすると、中学・高校の古典・古文の授業で接したことはあったのかもしれませんが、古典・古文大嫌いだった身には一切の記憶はありません。そんな私にとって「源氏物語」を読むということは、どなたかが現代語に訳されたものを読むということと必然的にイコールになります。”女性作家さんの小説を読む”とプロフィールに謳っている私としてはその訳者も女性に絞られ、実のところ昨秋頃から誰の訳で読むかを随分と思い悩んできました。そんな私が角田さんの訳に決めたのは、小説を20冊以上読んできたことでの親和性と、〈あとがき〉でも触れられている『読みやすさをまず優先した』というその姿勢でした。せっかくですので、訳によって物語がどんな風に違って見えるのかを第一帖〈桐壺〉の中から『桐壺更衣が帝の愛を独り占めしている』と『ほかの女たちの恨みと憎しみを一身に受ける』ことになった状況について触れたシーンの一文で比較したいと思います。
・原文: いとまばゆき、人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事ことの起りにこそ、世も乱れあしかりけれ
→ 与謝野晶子訳: 唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと陰ではいわれる
→ 瀬戸内寂聴訳: 唐土でも、こういう後宮のことから天下が乱れ、禍々しい事件が起こったものだ
→ 中井和子訳: ほんまに、みてられへんようなご寵愛ぶりやなあ、きっとこないなことがもとで乱が起こり、困ったことになったんやがなぁ
→ 角田光代訳: 唐土でもこんなことから世の中が乱れ、たいへんな事態になったと言い合っている
四人の女性作家さんの訳の相当箇所を並べてみましたがいかがでしょうか。与謝野さんの『寵姫、楊家の女の出現』は、原文でその後に続く『楊貴妃の例も引き出で』を一文にまとめているのでそれを差し引いていただく必要がありますが、訳者によって同じ内容にも関わらず受ける印象が随分と異なってくるのがよくわかります。特に冒頭の『いとまばゆき』をどう訳すかは古典・古文の試験にも出てきそうですが、『たいへんな事態』という角田さんの訳が私には一番しっくりきます。一方で”京ことば”に訳された中井和子さんの訳もこれはこれで面白そうです。いずれにしても訳に正解はないので、これから読まれる方はまずは誰の訳で読むか?に、それなりに時間をとられるのが、読み始めて後悔しない読書の第一歩かと思います。また、同じ文章がこれだけ変化すると考えると”読み比べ”という考え方も面白そうです。クラシック音楽は、同じベートーヴェンの交響曲第九番でも誰の演奏で聴くかで全く異なる顔を見せます。それは指揮者の楽譜の解釈に左右されるわけですが、古文の訳は指揮者が訳者となり、同じような楽しみがそこには待っているとも言えます。読書にもなんとも奥深い世界がまだまだありそう、この作品と出会ってそんな風にも感じました。
そんなこの「源氏物語」の上巻は『輝くようなうつくしさはたとえようもなく』と言われる光源氏の誕生から三十五歳までの生き様を描いていきます。歴史上の実在人物である藤原道長をモデルにしたとも言われるその人物像は、読めば読むほどに強烈です。一つ例を挙げましょう。第八帖〈花宴〉の中で『桜の宴』が催され『夜がすっかり更けて、行事は終わった』という後のシーン。『あたりはひっそりと静まり』という中、『そのまま帰る気にはどうしてもなれな』い光源氏は、『清涼殿の宿直人ももう寝ているだろう』、『もしかしてちょっとした隙があるのではないか』と考えます。『女房の部屋が並んでいる細殿に立ち寄』り、『戸口が開いている』のを見つけた光源氏は『朧月夜に似るものぞなき』と口ずさみながらやってきた女の袖をいきなり掴みます。『あら、嫌だ、どなた』と怯える女に、『こわがることはありませんよ』と言いながら『抱き下ろし、扉を閉めてし』めてしまう光源氏。『がたがたと震え、「ここに人が」と声を上げ』る女に『私は何をしてもだれにも咎められませんから、人を呼んでもなんにもなりません』と言いのける光源氏。「源氏物語」とはどのような作品なのかと思って読み進める読者の前に迫るのは、現代の世であれば逮捕間違いなしの好き放題、やりたい放題な生き方をする光源氏の姿でした。”恋愛物語”の原点がここにあるともいえるのかもしれませんが、どんなに時代が変わっても男と女は好き合う生き物であって、そこにはどんな男女の組み合わせでもドラマが何かしら生まれ、同じ形のものは一つとしてない、ということを改めて感じました。しかし、この上巻では、光源氏のやりたい放題な人生がただただ列挙されているわけではありません。そこには、
①『光をまとっ』た皇子の誕生、桐壺帝の庇護下でやりたい放題の光源氏
②桐壺帝の崩御と、敵勢力ゆかりの朱雀帝の登場で、反対勢力により追い落とされる光源氏
③朱雀帝から攘夷を受けた冷泉帝の元で復権し、上りつめていく光源氏
という大きな潮流の中でそれぞれの時代を一つの確立されたキャラクター・光源氏として駆け抜けていく、そんな一人の男の物語が描かれていました。そんな魅惑的な男に振り回される数多の女たち。そんな女たちの個性もさまざまです。『落ち着いた分別のある女君として、格別に信頼している』妻であるにも関わらず、どこか煙たがって遠ざける葵の上、『自分の理想通りに教育してみようと』幼い頃から身近において育て、大きくなってくると『そろそろ男女の契りを結んでも問題はないのではないか』という相手として見る紫の上、そして『ほかのことなど考えるゆとりもなく日が過ぎていく』と思いを募らす相手でもあり、そもそもは桐壺帝の妻で自分の母であるはずの藤壺、と描かれる女性の関係性も現代ドラマであってもドロドロの極みであり、それぞれが強い個性を放って読者を決して飽きさせません。平安絵巻の世にこのような強烈な個性の人物のモデルとなる人物が実在したのかどうかは分かりません。しかし、当時の人たちもここに描かれていく数多の登場人物たちの虜になったことは間違いありません。そう、私たちは一千年も前のこの国に暮らし、生きていた人たちと同じ物語を読んでハラハラドキドキ、一喜一憂しているのです。逆に言えば一千年も前の時代にその当時の人々が高く評価し、その後一千年もの長きに渡って読み継がれてきた、そんな物語をここに手にしているのです。そんな風に改めて考えると、なんとも感慨深い思いがよぎるとともに実際に読んでみて、なるほど、これは面白い、と古典・古文の授業から物語が飛び出して趣味の読書の世界に物語がやってきたのを実感しました。
『作者の意図をはるかに超えて、勝手に力を蓄え、時代とともにその力を失うばかりかどんどんひとりでに蓄え続けていく、化けもののような物語』。訳者の角田さんがそんな風に語るこの物語には、二十一の連作短編の中をまさしく駆けていく光源氏の生き様が描かれていました。豪華な装丁と圧倒的な物量になかなか手を取るのを躊躇もしたこの作品。結局、三日間合計約10時間強で読み終えた物語の上巻には、平安の世にこの同じ国を生きた人々の暮らしが、恋愛が、そして人生が描かれていました。そしてそこにあったのは、いつの世も変わらぬ男と女の物語、愛し、愛され、そして愛し合うという今の私たちと何も変わらない”恋愛物語”でもありました。一千年の時の流れは幾ら角田さんの名訳をもってしてもある種の割り切りが必要な部分もあります。しかし、世界の20数か国語にも翻訳され世界的にも知られるこの作品を読まないのは日本人としてももったいないことだとも思います。世界最古の長編小説の傑作を、長編小説の名手でもある角田さんが『読みやすさをまず優先』に訳したこの作品。多くの方に是非この作品を手にしていただきたい、そう感じた日本文学の傑作だと思いました。
では、中巻へと読み進めていきたいと思います! -
高校生の時、教科書で「若紫」を読み、これっておもしろいよなと思って古文読解テキストを購入。でも序盤で飽きて挫折。
大学生の時、実家で母が買っていた瀬戸内寂聴訳を読むも雨夜の品定めあたりで頓挫。
働き始めた頃ふと購入した文庫の円地文子訳も同様。
嫁さんが持っている「あさきゆめみし」でさえ明石から先は読めず。
こんなわけで多分生涯読み通せまいと思っていた「源氏」だが、角田光代の新訳を買おうかどうか逡巡。今回も読めるか分からないし、なにせ本にしては高額で・・・。
しかし梅田の書店で角田さんのサイン本を見て、えいやと購入しました。彼女のコメント、「読みやすい訳を心掛けた」という言葉を信じました。
結果は意外なほどすいすい読み進められました。
尊敬語・謙譲語で身分関係を表すというこの小説の特徴をあえて無視したとのこと。
角田さんの仕事は本当に素晴らしい。
今まで読めなかった人もぜひ手にとって欲しいです。
よく考えれば、上中下巻(既刊はこの上巻のみですが)全部買っても、新幹線の東京・大阪片道に及ばないくらいの額です(本って他のエンターテイメントに比べたらホントに廉価)。
男だから光君の気持ちも分かると以前は思ってましたが、この小説に描かれている男女はそれぞれがそれぞれの地獄を抱えているように思えます。
結局、簡単になびく女性には興味がなく、いろいろな理由から返事がなかったり会えなかったりする女性のことばかり考えて悶々としている源氏の姿がずっと描かれている。
返歌がないと思い悩むのはLINEの既読スルーと変わらず、いつの世も変わらないのだなとも。
ちょっと落ち着いたと思ったら事件が起こって、エンターテイメントとして完成されている作品のように思います。
余談ですが、毎日通勤で通ってる道中に紫式部が住んでこの本を執筆していた場所(廬山寺)があることも最近知りました。 -
光君に心奪われ、惑わされ、近づいたり、離れたり、そんな女性心理を角田光代風に鮮やかに読ませてくれるだろうと、首を長くして出版を待っていた本。
とにかく読み易さを求めたと訳者は言っている。
確かに他の訳本よりもストーリーテーリングな感じかして、ぐいぐいと引き込まれていく。
しかしそれ以上に期待通り、女性達の微妙な心の動きがきちんと書かれているし、驚いたのは光君の心情までも丁寧に訳されていることだった。
早く次作を読みたい! -
読みやすく、普通に昔のことが書いてある小説のように読めるのがすごい!
当時の生き様?や暮らしぶりがわかっておもしろい。
原文も読みたくなって買ってしまった… -
220724*読了
池澤夏樹さん編の世界文学全集と日本文学全集をコレクションし、全て読むのが夢。
日本文学全集は角田光代さん新訳の源氏物語から読み始めることにしました。
源氏物語といえばなんせ長そうな印象。
この日本文学全集でも上中下の3巻仕立て。
この長編にチャレンジするのは決意がいるぞ、と思ってはいたけれど、角田光代さんの訳が本当に読みやすく、ページを捲る手が止まらなくなりました。
平安時代の貴族の色恋沙汰や婚姻、政治がよく分かって、実におもしろい。
光君の好色ぶりに呆れながらも、またそれがおもしろいんだなぁ。
え、あんなにあの人の死を悲しんでいたのに、もう違う女の人に惹かれてるの?と、突っ込みどころが多い。
それが当時の生き方だったのかもしれないけれど。
幼女の頃に突然連れ去られ、親のように思っていた人と行為に及ぶことになり、驚いていたのに結局夫婦としての感情になる、というのも現代では信じられない。
他にも現代に重ねて考えたらありえないことはたくさん起こるのですが。
藤壺、紫の上、明石の君、まだまだいろんなタイプの女性が現れ、それぞれに魅力的。
本当に紫式部に小説の神が取り付いたとしか思えない。
1000年以上前に書かれた小説をこうして読めることに感謝です。 -
文章が現代の小説のようで読みやすい。
状況がよくわかるから、始めは家系図にするとわかる血の濃さに驚いたし、一夫多妻制に慣れるまで光君の浮気性に苛々した。若紫では子供を相手にほぼ誘拐で気味悪いし、葵の上が陣痛で苦しんでいる時には「あなたはひどいよ。私をつらい目にあわせるんだね」と泣き出すし。産後の体調不良で横になっている時には「子どものように甘えているから、こんなにいつまでもよくならないのだよ」と言ったり。現代の感覚なら有り得ない!クソ野郎!!という印象だった。特に帚木で男友達と、最高なのはどんな女か、と女性批評しているのは眉を顰める。
しかし慣れてくると、マザコン(藤壺)、ツン(葵の上)、人妻(空蝉)、ロリ(若紫)、不細工(末摘花)、不倫(明石の君)とバリエーション豊かで、まるで恋愛シミュレーションゲームのようだと思えた。
自然の描写や和歌は凝っていてとても美しいし、絵合や六条のお庭造りも面白い。また光君も容姿や服のセンス、血筋や知能や財力もステータスカンストで申し分ない上に、大変な筆まめで相手の心をくすぐるようなものを作るから確かにすごい。よく泣くけど、乱暴なところがないのも好印象。ただ、さらっと昇進するけど仕事はしてる?とは思ってる。
一冊が長いけれど楽しく読めた。
最後の池澤夏樹さんの解説も興味深かった。 -
今まで2回トライしたが挫折した。今回はどうやら三度目の正直。全体を読めそうだ。角田訳は素晴らしい。
それにしても源氏がここまでのスーパーマンだったとは。とてつもなハンサムで芸事全てに優れ、学問ができ、政治力もある。実際太政大臣までしゅっせする。女性に対する積極さは見事なまで。待ったすごい。
史記と白居易が何度も引用されるのは驚き。この時代ここまで知られていたのか。
その割に李白も杜甫も一切出てこないのは単に話の流れなのか。
明らかな誤植が何箇所か。
例。633ページ1行目西
解説に気になる点。原文と角田訳は同じだが解説は異なる。なほ才は基礎なのか漢才なのか。 -
やっと読み終わった。圧倒的ボリューム。
600ページ超えの長編。これで上中下の上巻というのだから、源氏物語のスケールの大きさが計り知れない。角田光代さんの訳は非常に読みやすかった。注釈がなくてもスラスラと読めた。ただ、やはり昔の言葉独特の読みづらさがあるので、普通の現代小説みたいには読めない。でも与謝野晶子よりは断然読みやすかった。
光源氏の息子夕霧が幼い恋をする「少女」までが収められている上巻。「花散里」の終わり際、昼ドラめいた会話で面白さが際立ったと思った。
二条の東の院で姫君たちを集めて住まわせるなんて、大奥みたい。でも一人ひとりに愛情があって、財力もあるから光君って恵まれてる。それをしてもおかしくない実力があったw -
国語の授業なんて覚えていないので、知識ゼロベース。
読み始めた時は、馴染めない世界観と分厚い紙束に後悔してた。気づいたときには、滅茶苦茶面白くなってた。
光君が破天荒。
歌で雅にごまかしてるけど、女性と寝ることしか考えてない。老いも若きも、美しいのも醜いのも誰でもあり。時代背景あるんだろうけど、理解が追い付かない。そんな超美男天才も凋落したり復権するから、また面白みが出るんだろうな。ワンチャンだけじゃなくてきちんとフォローしてるし。
歌が数えきれないくらい詠まれる。
この物語の一番すごいところって、長大なストーリーの構成力らしい。確かにすごい。そのストーリーをフルカラーで彩ってるのは、登場人物が詠み続ける和歌だと思った。日本の風景に重ねて歌われる恋心は、なんだかしんみりくる。一番印象に残ったのは、澪標(身を尽くし)の歌。好き。
角田光代の技量も大きいんだろうけど、1000年残っている物語の深さ、度量の大きさのようなものを感じました。中巻下巻も楽しみです。全部読みます。
読書を始めて二年ちょっとなので、人生で初めて、一冊の本を読むのに三日もかかってしまったというのが実際です。なのでストレスが...
読書を始めて二年ちょっとなので、人生で初めて、一冊の本を読むのに三日もかかってしまったというのが実際です。なのでストレスがたまりませんでした。まあ、これを一つの経験に一冊を複数日に分けて読むことも覚えないなと思った次第です。苦読をしても仕方ないですしね。
色んな意味で良い経験ができている「源氏物語」の読書です。少し先になりますが、また続きのレビューをさせていただきます。
ありがとうございました!
私も『源氏物語』参加します!
しかもなぜか複数訳を同時進行することに(^_^;) まずは大変わかりやすく読みやすく状...
私も『源氏物語』参加します!
しかもなぜか複数訳を同時進行することに(^_^;) まずは大変わかりやすく読みやすく状況を理解しやすい角田光代版で流れを掴み⇒谷崎潤一郎のあまり丁寧すぎない訳で日本語の文体や物語全体の流れに乗り⇒まるで御伽話のようなアーサー・ウェイリー版(英訳をさらに日本語訳)を読むという流れです。
そこで、さてさてさんが比べられている部分で、男性二人の翻訳も追加させてください。
・原文: いとまばゆき、人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事ことの起りにこそ、世も乱れあしかりけれ
・谷崎潤一郎版
まことに見る眼も眩い御寵愛なのです。世間でも追々苦々しく思い、気に病みだして、唐土(もろこし)でもこういうことから世が乱れ、不吉な事件が起こったものですなどと取り沙汰をし…
・ウェイリー版
海の向こうの国での政変や暴動もはじまりは、こんなことからだったなどとひそひそと囁きあうのでした。
さてさてさんが書かれている中では中井和子訳が良いですねえ。でも流石にこれ以上は読み増やせない(^_^;)
>えっ?あんた誰?といきなり登場する視点の人物に
>第三者=作者の視点、かつ作者のコメント入り
昔の小説だとたまに出会いますが、わりと好きです。読者と作者が同じ目線な気がして。
一番笑えたのが久生十蘭の新聞連載小説『魔都』で、作者も思いもかけないような展開になってしまったようで「ああ、作者は〇〇に(登場人物名)このような苦難を与えるつもりはなかったのに」とかいう記載。これで新聞連載OKだったおおらかさ(笑)
歴史小説でも「著者は実際に〇〇合戦場後に行ってみたが…」「著者は戦時中に命をかけても良いと思える上官がいた。戦国時代も命をかけて良いという武将には部下たちはついて行く。彼はそんな人物だったのだろう」みたいな著者目線がはいるものもあります。
著者のコメントが入ると、書く人・書かれる人・読む人が同じ面にいるようでなんか良いですよね。
海外小説でもみかけますが、多分小説という形が今ほど整っていなかったというか、もっと自由だったのかなと思いました。
複数訳の同時進行というのはすごいですね!「源氏物語」にどっぷりと浸れそうです!私は、今回初めて「源氏物語」を...
複数訳の同時進行というのはすごいですね!「源氏物語」にどっぷりと浸れそうです!私は、今回初めて「源氏物語」を読んでみて訳によって全然受ける印象が違うと感じました。私は角田光代さんの訳しか読んでいませんが挙げていただいた通り同じ箇所を複数の人の訳で比較した印象です。ウェイリーさんという名前にあれ?と思って中巻のレビューを読み返してみました。そうです。わたし、中巻のレビューでは海外の翻訳を比較したのでした。そこで淳水堂さんが日本語訳で挙げられた上記の原文を載せていました。
Arthur Waley(大英博物館館員・1925): From this sad spectacle the senior nobles and privy gentlemen could only avert their eyes. Such things had led to disorder and ruin even in China.
残念ながら知らない単語を辞書引きしないと厳しい私(汗)ですが、それでもどことなく言わんとすることがわかります。これを読んで、もしかしたら英語訳で読むのもありなのかなあと少し思いました。主語が必須の英語の方が意味がとりやすいというか。まあ、読み終わるのに三年ほどかかりそうではありますが…。
脱線してすみません。私は訳まで女性しかアウトなので谷崎さんの訳をいただきありがとうございました。なるほど、やはり格調高いというか、文学になっている気がしました。谷崎さんについては、三浦しをんさんの作品繋がりで「細雪」を実は読みたいのです。それにしても訳というのも奥が深いですね。原文を読ませる古典の授業が存在する意味を感じます。
また、後段に書いていただいた著者目線、これも改めて面白いなあと。淳水堂さんにお書きいただいた”書く人・書かれる人・読む人が同じ面にいるようでなんか良い”、この考え方面白いです。おっしゃる通りです。とてもうまい表現だと思いました。なるほど。
現代作家さんでも著者登場を時々見かけますが、この原案は「源氏物語」なのですね。やはり、歴史の重みはとんでもなく重いと改めて思いました。ありがとうございます!