源氏物語 下 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集06)

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (704ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309728766

感想・レビュー・書評

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  • あなたは、絶対的な主人公が亡くなった後の世を描いた物語を読んだことはあるでしょうか?

    この世には数多の物語があります。そして、その物語のタイトルに主人公の名前が登場するものもあります。古くは「金太郎」、「桃太郎」、そして「浦島太郎」という三大”太郎”の昔話が思い浮かびます。いずれも三大”太郎”が何かしらの経験、活躍をし、その行く末を感じる中に終わりを告げます。そうです。物語の中で主人公は生きたままに物語は終わりを告げるのです。三大”太郎”に光を当てることが物語の主旨である以上、そんな主人公がいなくなった後の世界を物語は想定していないとも言えますし、そもそも主人公がいなくなった後に、そんな主人公の名前を冠した物語が続くとしたら全くもって意味不明とも言えます。

    これは、例えばNHKの大河ドラマでも同じことでしょう。緒方直人さん主演「信長 King of Zipangu」(1992年)、竹中直人さん主演「秀吉」(1996年)、そして現在放送中の松本潤さん主演「どうする家康」(2023年)と、これらの作品が戦国時代の三大”英傑”の生涯に光を当てるものである以上、その主人公の死をもって作品は終わりを告げます。これは、それを観る視聴者にとっても説得力のある終わり方であり、そうあるべきものなのだと思います。そうではなく複数の主人公に光を当てるのが目的なら、同じ大河ドラマの中でも「葵 徳川三代」(2000年)のようにそのタイトルをもって宣言していただかないと観る方も落ち着きません。作品名は、それを観る者、読む者の暗黙の約束の上に成り立っているとも言えます。

    しかし、そんな約束は当然に絶対ではありません。タイトルに主人公の名前が堂々と記されているにも関わらず、それに該当する主人公が途中で亡くなってしまう、それなのに亡くなった後にも物語が展開していく、そんな物語も存在するのです。そんな物語の代表格が、世界の20か国以上の言語に翻訳され、世界最古の長編小説とも言われる紫式部さん「源氏物語」です。

    “源氏の君の輝くようなうつくしさはたとえようもなく、いかにも愛らしい”

    “その姿をひと目見ただけで、また御息所の心は千々に乱れる”

    “まばゆいほどの光君の姿、晴れの舞台でいよいよ輝くようなその顔立ち”

    まるでアイドルを思わせるように表現される主人公・光源氏が栄華を極める様を描くその作品。そんな作品の〈中巻〉の結末に、彼がこの世を後にしたことを思わせる〈雲隠〉帖の存在。しかし、物語はそこでようやく全体の三分の二が終わったに過ぎません。「源氏物語」なのに、書名に名前が登場している主人公・光源氏が亡くなったにもかかわらず、それでも続いていく物語。では、そこには、何が描かれているのでしょうか?

    さてここに、そんな読者の興味を掻き立てる作品があります。「源氏物語〈下巻〉」という100万字もの大作の結末が描かれるこの作品。光源氏が登場することのない物語の中に、やはり描かれるのは男と女の物語であることを実感するこの作品。そしてそれは、光源氏から主役を引き継いだ薫と匂宮が、煌びやかな平安の世を生きる物語です。
    
    では、まずは、いつもの さてさて流 で〈下巻〉の冒頭を飾る第四十二帖〈匂宮(におうみや)〉をご紹介しましょう。

    『源氏の光君が亡くなったのちは、あの輝く光を継ぐような人は、大勢の子孫の中にもいない』という状況ながらも、『今の帝と明石の中宮のあいだの三の宮(匂宮)と、彼と同じく六条院で生まれ育った、女三の宮の産んだ若君(薫)、この二人がそれぞれ気高くうつくしいという評判』になっていました。『光君の血筋ということで』、『若かりし日の光君の評判や威勢よりもややまさっている』という二人。そんな中、『三の宮(匂宮)』は『元服した後は兵部卿』と名乗り、一方の『女三の宮の産んだ若君(薫)は、光君が頼んでいた通りに、冷泉院がとりわけたいせつにお世話をし』『十四歳で、二月に侍従とな』り、『秋に右近中将とな』るなど昇進していきます。そんな中、中将は『自分の出生の秘密について幼心にうっすらと耳にしたことが折に触れて気に掛かり、ずっと事情を知りたいと思って』いました。『なんの因果で、こんなにも不安な思いのつきまとう身の上に生まれついたのか』と思う中将。そんな中将には、『この世の匂いとも思えない』、『不思議なほど、人のあやしむ香り』が染みついていました。『若君が手折ると、心そそられる追い風に、元の香りは薄れ、いちだんとかぐわしさが増す』というその香り。そんな中将に『ほかの何よりも対抗心を燃やす』兵部卿は、『あらゆるすぐれた香を薫きしめ、朝夕の仕事として調合に専念してい』ました。『お互いに張り合って』、『いかにもよい競争相手として、若者同士互いに認め合っている』という二人のことを『世間では、匂う兵部卿、薫る中将と、耳障りなくらいやかましく噂をしてい』ます。そんな二人の存在を意識して、『その頃うつくしい娘のいる身分の高い家々では、胸をときめかせて婿君にと申し入れたりもする』状況にありました。『あちこちおもしろそうだと思えるあたりには言い寄って、相手の人柄や容貌などをさぐ』る兵部卿。一方、『この世の中がじつにつまらないものだと悟』り、『結婚などははなからあきらめている』中将、と二人は対照的な姿勢を見せます。そんなある年の一月、『右左に分かれた』『射術を競う賭弓(のりゆみ)の行事が』開かれました。『勝った側が射手たちをもてなす還饗(かえりあるじ)を』『六条院でとくべつに入念に準備し、親王たちも招こうと心づもりを』する右大臣。しかし、『いつものように左方が一方的に勝』ち、『右大臣は退出し』ました。『負けたほうだった』ため『ひっそりと退出しようとした』中将を右大臣が引き留め酒宴に誘います。そして、六条院の『南の町の寝殿、南の廂』で始まった酒宴。『一座の興趣も高まってきた頃、東遊の「求子」を舞』います。そんな中、『庭前近くの梅の、じつにみごとに咲き誇った花の匂いがさっとあたりに広がると、いつものように中将の香りがいちだんと引き立って、なんともいえない優美さが感じられ』ます。『この香りは本当に何とも比べられません』と褒めるのは、『そっとのぞき見をしている女房たち』。そんな中に『負けた右方の中将もいっしょにうたおうではないか』と右大臣が声をかけます。それに、『無愛想にならない程度に「神のます」などとうたう』中将…と描かれる冒頭の短編〈匂宮〉。中巻まで物語の主役を独り占めしてきた光源氏が亡くなった後の物語を牽引していく中将と兵部卿の存在を高らかに示していく好編でした。

    “源氏亡きあと、宇治を舞台に源氏の息子・薫と孫・匂宮、姫君たちとの恋と性愛を描く。すれ違う男と女の思惑”と内容紹介にうたわれるこの作品。54の短編が三巻に分かれて連作短編を構成する大長編の最後を飾る圧巻の一作となっています。〈上巻〉、〈中巻〉と比較すると若干ページ数は少ないとは言え、圧倒的なボリューム感は読者を若干なりとも怯ませます。しかし、この最後の一山を乗り越えれば、あの「源氏物語」を読破することになるというゴールの存在が、読むぞ!という意欲を焚き付けてもくれます。

    では、そんな〈下巻〉のレビューに入る前にここまでのおさらいをしておきましょう。〈上巻〉、〈中巻〉は泣く子も黙る(笑)光源氏が主人公を務め、平安の世を謳歌していく様が描かれていました。その概略は以下のようになります。

    ・〈上巻〉: 第一帖〈桐壺〉から第二十一帖〈少女〉までの二十一帖から構成
    ①『光をまとっ』た皇子の誕生、桐壺帝の庇護下でやりたい放題の光源氏
    ②桐壺帝の崩御と、敵勢力ゆかりの朱雀帝の登場で、反対勢力により追い落とされる光源氏
    ③朱雀帝から攘夷を受けた冷泉帝の元で復権し、上りつめていく光源氏

    ・〈中巻〉: 第二十二帖〈玉鬘〉から第四十一帖〈雲隠〉までの二十帖から構成
    ④ 攘夷した天皇とほとんど同じ地位である准太上天皇へと上り詰め、栄華を極める光源氏
    ⑤ 『ほんの少しでもこの人に死に後れるのはたまらないと思』っていた紫の上に先立たれ傷心し、出家を決意する光源氏

    そして、〈中巻〉で出家をした光源氏は第四十帖〈幻〉の最後にこんな歌を詠みます。

    『もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
    → もの思いに耽って月日が過ぎるのも気がつかぬうちに、この一年も、私の人生も、今日でいよいよ終わってしまうのか』

    それに続く第四十一帖〈雲隠〉は本文が存在しません。もともと巻名だけで本文は書かれなかったという説と、本文は存在したものの失われてしまったという二つの説が存在するという〈雲隠〉。いずれが正しいのかは今後の研究を待つしかないのだと思いますが、一方ではっきりしているのは、この〈雲隠〉の後にも物語は続く一方で、そこに光源氏はもう二度と登場することはないということです。しかし、そもそも「源氏物語」という書名からして光源氏の存在は絶対です。本人は登場せずとも、そんな彼が亡くなった後の世の中の様子が描写されていくのはなんとも不思議な気がします。しかし、そんな”アフター・光源氏”の世においても今は亡き光源氏の威光が人々の心の中に残っていることがわかります。そんな光源氏の存在の大きさを感じる描写を抜き出してみましょう。

    『この世に生きる者で、亡き光君を恋しく思わない者はなく、何かにつけ、この世はただ火の消えたようなさみしさで、なんにせよ輝きを失ってしまったと嘆かない折はないのである』。

    『火の消えたようなさみしさ』、『輝きを失ってしまった』とその存在が人々の中でいかに大きかったかを忍ばせます。それは、彼の近くにいた女君にとっても同じことです。

    『院内に暮らす女君たち、宮たちは、あらためて言うまでもなく、どこまでも尽きない光君不在の嘆きは元より、またあの紫の上の面影を心に刻み、万事につけて思い出さない時がないほどである』。

    彼と身近に接してきた人々のショックの大きさを強く感じさせる表現です。そして、そんな存在の大きさを季節に例えてこんな風に絶妙に表現します。

    『春の花の盛りは、なるほど長くはないからこそ、かえって愛着が深まるもの…』。

    『春の花の盛り』とはよく言ったものだと思います。この時代にも桜は春の花として人々に愛でられていました。〈下巻〉にも桜の描写は多々登場しますが、この表現は1000年の時を超えて十分な納得感を私たちに与えてくれます。

    ということで、〈上巻〉、〈中巻〉であれだけ存在感を示した光源氏がいないところから物語をスタートさせなければならない〈下巻〉はなかなかに大変だと思います。絶対的な主人公・光源氏の存在を埋めるのはそう簡単なことでなないからです。

    そして、そんな〈下巻〉に登場するのが、『今の帝と明石の中宮のあいだの三の宮(匂宮)と、彼と同じく六条院で生まれ育った、女三の宮の産んだ若君(薫)』という二人です。そう、光源氏の存在を二人の『気高くうつくしい』男子二人で埋めるとはよく考えられた物語だとつくづく思います。そんな物語は、第四十二帖〈匂宮〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十三帖で構成されています。ただし、そんな物語はさらに二つに分割されます。それこそが、『宇治十帖』と呼ばれる十の短編の存在です。上記の通り、〈下巻〉は”アフター・光源氏”の世界が描かれますが、その中でも第四十五帖〈橋姫〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十帖は、舞台が『宇治』である共通点をもって『宇治十帖』と呼ばれているようです。「源氏物語」の世界は往時、平安の世を席巻した藤原道長の栄華を描いているとはよく言われることです。そんな道長が造ったとされるのが宇治平等院の鳳凰堂であり、その近くには宇治川が流れてもいます。そう、「源氏物語」の舞台そのままとも言える光景がそこにあることから『宇治』は「源氏物語」との親和性がとても高い土地であるとも言えます。そして、さまざまな研究により、この『宇治十帖』は、紫式部以外の作者によって書かれたという説が唱えられたり、舞台となっている『宇治』の十の帖それぞれにゆかりのある古跡が現地に整備されるなど独特な盛り上がりを見せている状況もあります。

    では、〈上巻〉、〈中巻〉同様に、〈下巻〉に描かれる物語の整理をしておきたいと思います。

    ・〈下巻〉: 第四十二帖〈匂宮〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十三帖から構成
    ⑥ 光源氏亡き後、光源氏に繋がる匂宮と薫の存在感が増していく
    ⑦ 宇治を舞台にして、匂宮と薫が大宮、中の宮、そして浮舟という三人の女性たちと深く関わりを持つ中に恋と悲哀の物語が描かれていく

    これが、〈下巻〉の物語になります。では、そんな〈下巻〉の物語の中で特に気になった表現を見ておきましょう。三つ挙げます。まずは、さりげない会話の中に登場する一つの言葉です。

    『おまえは今夜は宿直のようだね。このままここに泊まるといい』。

    按察大納言(あぜちのだいなごん)が若君に語りかける言葉ですが、私が気になったのは『宿直』という二文字です。これは、”しゅくちょく”と今の時代の感覚で読むものではなく、”とのい”と読むのが正しいようで、宮中・官司あるいは貴人の夜間警備のために、お付きの人々が宿泊をしていたことを示しています。読みは変われど、泊まりの仕事を務めていた往時の人たち。物語には、『髪を結わない宿直姿であらわれる』、『宿直に仕える人たちが十人ほどお供して宮中に向かう』、そして『若君がこの前の夜に宿直をして、朝に帰っていった時』と『宿直』という言葉がさまざまに顔を出す中に、当時の『宿直』のイメージがどことなく浮かび上がります。みなさまお仕事お疲れ様です、思わず声をかけてあげたくもなるこの言葉。そんな中でも特に印象的だと思ったのは次の一文に登場する『宿直』です。

    『結婚後に急に帰ってこない日が続いたら中の君はいったいどう思うだろうと心苦しく、この頃は宿直と言っては参内し、今のうちから自分の留守に馴れてもらおうとしている』。

    なんだか平安の世の人が考えることがやけにリアルに感じてもきます。なかなか複雑に愛憎渦巻く平安の世が描かれていく物語。やはり、とてもよくできた物語だと思います。

    次に二つ目は当時の『遊び』について触れられた部分です。

    ・『だんだん成長する二人に、琴を習わせ、碁打ち、偏つき(漢字をあてる遊び)など、ちょっとした遊びごとをしている』

    ・『碁や双六、弾棊(石を弾いて競う遊び)の盤などを取り出して、それぞれ好きなように遊んで一日を過ごす』

    前者は女たちの『遊び』、後者は男たちの『遊び』として挙げられているものです。今の時代にも伝わっているものと、角田さんの( )付きで説明される当時ならではの『遊び』の存在が描かれます。平安の世に確かに生きた人々、そんな人々が一人の人間としてどんな暮らしをしていたのか、こんな『遊び』からもそれを垣間見ることができるのも1000年前に書かれた「源氏物語」だからこそだと改めて思いました。

    そして、三つ目は『祈禱』の場面です。『今では回復の見込みもないように思われ』るという重い病状の人が目の前にいたなら、今の時代であれば救急車を呼び病院の救命救急センターへ、もしくはICUに搬送される、そんな展開が思い起こされます。しかし、そんなものがない平安の世に登場するのが『祈禱』です。『効験あらたかと言われている僧たち』が呼び寄せられて始まる『祈禱』。そんな『祈禱』の光景がこんな風に描写されます。

    『初夜の勤行からはじめて、法華経を休みなく読ませる。声の尊い僧ばかり十二人で、じつにありがたく聞こえる』。

    病気で具合が悪い中に、十二人もの僧が『休みなく』法華経を読むというこのシーン。何が原因のどういった病気かにもよるでしょうが、今の世で期待するような治療行為が一切行われない中に、安静さえ妨げる『祈禱』は病人に対する虐待にさえ感じます。まあ、平安の世では、必死にその人のことを思ってしていた行為だとは思いますが、このあたり、1000年前の時代の一つの日常をとてもリアルに感じさせるものだと思いました。

    そして、そんな〈下巻〉ですが、〈上巻〉、〈中巻〉と主人公を務めた光源氏と血の繋がりを持つ人物が主人公を務めることもあって、〈下巻〉でも、やはり男と女の物語、というかもうやりたい放題の男の物語が描かれていきます。特に光源氏の血を色濃く感じさせるのが若宮(薫)です。「源氏物語」というと、読まれたことのない方の中には、”高尚なお話”といった理解をされている方もいらっしゃるようですが、実際にはそこに描かれるのは現代小説と同じ、男と女のドロドロとした愛憎劇です。それは、”高尚”でもなんでもなく、おいおい!と突っ込みたくもなる女好きの主人公を描く物語です。では、『宇治十帖』の中の第四十五帖〈橋姫〉から第五十帖〈宿木〉へと展開する男と女の物語の概要を現代小説っぽく抜き出してみましょう。

    ① 光源氏の異母弟である八の宮が『男手ひとつで育て』た大君(おおいぎみ)と中の君(なかのきみ)という姉妹が『宇治』の『山荘』に暮らしていました。

    ② 『宇治』に赴いた薫は、琵琶と琴を奏でる姉妹に出会います。そして、匂宮に美人姉妹の存在を意味ありげに教えます。

    ③ 八の宮から姉妹のことを託された薫。そして、八の宮が亡くなり姉妹の後見人となった薫は、二人に近づいていきます。一方で、匂宮も姉妹に手紙を送るようになります。そして、これら二人の男の存在に姉妹は困惑していきます。

    ④ 薫が姉の大君にアタックをかけますが失敗。しかし、薫との関係を持つことは総合的には良いことであるという判断から『代わりに妹を差し出すことにしよう』と思い、『中の君を私と同じに考えていただきたい』と薫に告げる大君。

    ⑤ しかし、大君を忘れられない薫は匂宮と中の君をくっつけてしまう作戦を練り、ついには二人を結婚させてしまいます。

    ⑥ 結婚した匂宮と中の君の仲は良かったものの、匂宮が『宇治』まで通うことはなかなかに困難な日々が続きます。

    ⑦ 匂宮が通ってこない状況を見て、『妹が不憫』と嘆く大君は、心労から来る衰弱の中に亡くなってしまいます。

    ⑧ 一人になった『中の君を京に迎えることを決意した』匂宮は、中の君を二乗院へと招き、やがて中の宮は懐妊します。

    ⑨ 幸せになった中の君を見る薫は、その姿に今は亡き大君を重ね合わせ、やがて中の君に対し恋心が芽生えていきます。

    ⑩ 薫が中の君に思いを抱いていることを知って焦る匂宮。さて…。

    いかがでしょうか?何を持って”高尚”という言葉を使うかということはあるとはいえ、こんな風に書き出してみるとそこに浮かび上がるのは現代社会でもありそうな男と女の恋の物語です。 まあ、”⑦”で姉が妹の恋の展開を見て心労で亡くなってしまうという展開は、流石に今の世では不自然さを感じさせます。時代が違えば、つまり平安の世にあっては、心労から人が死んでいくというのは当たり前のことだったのでしょうか?なんだかとても興味がわきました。

    そんなこの〈下巻〉は上記した薫と匂宮という男性二人と、大君、中の宮、そして浮舟という女性三人の恋の物語と言えます。『年齢を重ねるにつれて人柄も世間の声望もますます立派になって』いった薫に比べて、『お仕えしている女房の中にも、かりそめにも言い寄って手をつけてみようと思い立った者がいれば、信じられないことにその人の実家にまでも訪ねていくような、とんでもないご性分』という『たいへんな浮気性である』匂宮という二人の男性に振り回されるかのように三人の女性の人生は揺らいでいきます。特に心労で亡くなった大君、そして浮舟に至ってはこんな歌を残す心境に追い込まれてもいきます。

    『いづくにか身をば捨てむと白雲のかからぬ山もなくなくぞゆく
    → いったいどこにこの身を捨てたらいいのだろう、白雲のかからない山もない道を、泣く泣く私は帰っていく』

    いつの世も浅はかな男の行動に振り回される女の存在というものはあるように思います。1000年も前の世であればそれはなおさらのことであり、この作品に描かれる女性たちの人生の儚さにはなんとも切ない思いが残りました。

    そして、この100万字(400字詰め原稿用紙にして実に2400枚!)という気が遠くなるような長大な分量の物語は、第五十四帖〈夢浮橋〉をもって終わりを告げます。そんな作品の最後の一文は原文ではこのように書かれています。

    “いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、とぞ本にはべめる”。

    そして、これを角田さんはこんな風に訳されています。

    『小君の帰りを今か今かと待っていたのに、こんなふうにあやふやなまま小君が帰ってきたので、大将はすっかり気持ちが萎えてしまって、なまじ使いなど出さないほうがよかったと、あれこれと思い巡らし、「だれかほかの男がひそかにかくまっているのではないか」と、自分がかつてそんなふうに女君を放置していたことにも照らし合わせて、あらゆる場合を想像し……、 と、もとの本には書かれているそうですよ』。

    角田さん訳の特徴がこの一文でもよくわかります。

    ・原文にはない主語を補ってわかりやすくしている。

    ・現代小説のような読み味になるような言葉選びをしている。

    しかし、そんな現代小説のような読み味を纏えば纏うほどに、えっ、これで終わりなの?という思いが読者の中に残ります。浮舟の様子を探らせにつかわした小君がようやく戻ってきたのに、かえって疑念が募って悶々…、『と、もとの本には書かれているそうですよ』というその終わり方。この最後の記述、原文では”とぞ本にはべめる”という記述。これ自体は、コピー機がない当時の書物で必須であった”写本”を書き写していく際に、お決まりで入れた一文のようですが、それは別として物語としての終わり方自体があまりに中途半端に感じます。もちろん、現代小説であっても、続きは読者に丸投げ!的な結末にしている作品が多々あることを考えると「源氏物語」だけに結末らしい結末を求めるのは違うのかもしれません。また、この作品はそもそもは光源氏の誕生から死、そしてその後の世の中を描いている大河小説でもあります。一人の人間の一生を描くだけならその人間の死をもって物語を終わりにすることができますが、この作品はそうではありません。人の世が連綿と続くものである以上、終わりの線引きなどできるはずがないとも言えます。その一方で、ブクログの他の方のレビューを見せていただくと、光源氏の死後を描いた部分自体、続編やスピンオフとして書かれたものではないかという見解を書かれている方もいらっしゃって、なるほどなと感じます。そして、そのように中途半端に感じられる本編を補うことを意図して、明確に続編という位置づけの作品も存在するようです。

    ・「山路の露」: 薫と浮舟の”その後”を美しく語る続編的位置づけ / 鎌倉時代の作品

    ・「雲隠六帖」: 光源氏の出家と死を辿るもので、〈幻〉に続く〈雲隠〉の本文に相当する位置付け / 室町時代の作品

    これらは100万字の大作を読み終えた後にもどかしい思いが残る人が今も昔も同じようにいることの証左のような作品だと思います。一方で、これらの存在は、それだけ「源氏物語」自体が長い歴史の中で数多くの人たちに愛されてきたことの証でもあると思います。

    ということで、2019年12月に読書を始めた私 さてさてが、2022年2月にふと思い立って手を出した「源氏物語」の読書は本日念願だったゴール、〈下巻〉へと行き着くことができました。小学校の歴史の授業に登場する、平安時代に書かれたという世界最古の小説、紫式部さん「源氏物語」。長らく作者と書名だけを歴史の授業の暗記項目として覚えていただけだったものが、ついにその作品の実体を理解することができました。世界の20か国以上の言語への翻訳までもが存在する世界に冠たる日本文学の傑作、そんな素晴らしい世界に触れることができ、また、こうしてレビューを書き終えることに深い喜びを感じます。

    1000年以上も前の時代にも、今と同じように悩み、苦しみ、その一方で喜びと楽しみの中に人々が生きていたことに思いを馳せるこの作品。そんな人々の心持ちは現代の私たちと何も変わりはないことに驚きもするこの作品。

    100万字もの圧倒的な文章量の中に、紫式部さんがのこした平安の世の人々の生き様を見る傑作中の傑作だと思いました。


    P.S. 角田光代さん、難解な原文を、まるで現代小説を読むようにわかりやすく解きほぐして私たち読者に伝えてくださったことに心からお礼を申し上げます。こんなにも素晴らしい現代語訳をどうもありがとうございました!

    そして、紫式部さん、世界の歴史に刻まれるこの大作を私たち後世の人間にのこしてくださったこと、本当にありがとうございました。

    • さてさてさん
      淳水堂さん、こんにちは!
      高校のときに習った…なるほど確かに古典の授業で色々なものを習ったのは私も同じですが、それがなんだったかはよく分か...
      淳水堂さん、こんにちは!
      高校のときに習った…なるほど確かに古典の授業で色々なものを習ったのは私も同じですが、それがなんだったかはよく分からない、もしくは覚えていないです。恐らく「源氏物語」も読んだのでしょうね。やはり、感心を持って自ら手に取って読むか、無理やり読まされるかでは違いますね。長いレビューも書きましたので、この作品を読んだことは今度こそずっと忘れないと思います。
      ただ印象は淳水堂さんのかつてと同じです。「ひでえ男」の物語でした!ある意味でこの作品を最も短く表現する一言かもしれませんね!ありがとうございます。
      2023/09/16
    • 淳水堂さん
      さてさてさん
      私は高校は女子校だったのですが「光源氏が紫の上に…」のあたりを習った授業では、教室から非難の声が上がりました^^;
      私自身...
      さてさてさん
      私は高校は女子校だったのですが「光源氏が紫の上に…」のあたりを習った授業では、教室から非難の声が上がりました^^;
      私自身が軍事物を好んでいたので、王朝物や和歌は「ぐだぐだ泣いたり政治的に足を引っ張り合ったりばっかりじゃないかーーヽ(`Д´)ノ」と思っておりました。
      今なら貴族なりの駆け引きとか情緒とかも楽しめるかなあ。
      年内には読み始めます( *˙ω˙*)و グッ!
      2023/09/16
    • さてさてさん
      淳水堂さん、
      なるほど、女子校だと集団の思いが一致しそうですね。私は一人で読んだわけですが、それでも源氏のやりたい放題には呆れました。この...
      淳水堂さん、
      なるほど、女子校だと集団の思いが一致しそうですね。私は一人で読んだわけですが、それでも源氏のやりたい放題には呆れました。この下巻はアフター源氏なので、源氏と比べると小者感がありましたが…。
      古典の授業は原文で読んだわけですが、この作品は角田光代さんの訳。レビューでも触れましたが、角田光代さんが原文を膨らませていらっしゃるところもあり、ちょっとだけ読みづらい現代小説という印象でしたね。
      淳水堂さんも是非お楽しみください!
      2023/09/16
  • 作家の角田光代さんの、平易な言葉による、キャラクターの書き分けと速度間が本当に見事で、面白くてのめり込んで読んでしまいました。
    これまで、誰が訳した「源氏物語」を読んでも、「宇治十帖」部分だけはどうしても好きに慣れなかったのに、今回、かなり好きになりました。

    角田訳下巻では、「光君」と称された主人公の源氏が亡くなったその後を描く。第四十二帖「匂宮」に始まり、「宇治十帖」と呼ばれる第四十五帖「橋姫」から第五十四帖「夢浮橋」までを収録。

    宇治十帖は、主に、二人の男と三人の女の物語。このキャラクターの書き分けと心理描写が、繰り返すけど、すごくうまくて、わかりやすい。
    ちょっと昼ドラ要素のある長めの小説をサラサラッと読むような感じで読めてしまいました。

    実は父・光君の子ではない不義の出生の秘密を抱えているせいか、歳のわりに世を儚んで落ち着きすぎて掴みどころがないために、世間からは堅物かつ誠実な人物として尊敬されながらも、その実、自身の欲望の前ではとても身勝手な面を併せ持つ青年・薫。

    光君を母方の祖父として、今上帝の父と中宮の母に溺愛され、世の中に手に入らないものはないと思っているフシのある、傲慢かつ軽薄なまでの色好みだけど、情熱的で魅力的な、女受け抜群の青年・匂宮。

    桐壺帝の第八皇子である父が政戦に敗れた結果、世間から存在を忘れられて、明日にも事欠く没落皇族として宇治でわびしく暮らす大君と中君の二人の姉妹。
    (最高の権勢を誇った光君は桐壺帝の第二皇子だったので、つまり、薫も匂宮も、姫君も近い親戚関係のはずなのに、なんて違い。身分だけでなく権勢がモノを言ったことを、嫌と言うほど思い知らされます)

    薫が一途に恋した大君は、亡父の曖昧な言葉の呪縛に縛られる。なんの後ろ盾もなく、しかも薫より年上の自分が、いつか薫に見放されるかもしれない未来が来るのが耐えられなくて、薫に対して確かに愛情はあったのに、薫の手を取ることを頑なに拒む。それなのに、薫の人柄を見込んで、薫にひたすら妹の中君との結婚を勧める。

    どうしても大君を手に入れたい薫は、色好みの匂宮を焚き付けて、中君を無理やりその妻としてしまい。改めて独り身の大君を口説きにかかる。けれど、その途上、中君を軽く扱うような匂宮の所業に、大君はショックを受けて、やがて亡くなってしまう。

    中君はと言えば、姉亡き後に匂宮邸に引き取られるが、匂宮は、権勢家である右大臣(光君の息子で薫の兄・夕霧)の娘を正妻に迎えたことで、自らの弱い立場に鬱々とした日々を過ごすことになる。

    そして、父に存在を否定されて、二人姉妹とは別に暮らしていた異母妹「浮舟」は、結果的に薫と匂宮二人の男と関係を持つが、その心の内と、取った行動といえば…。

    まさに、角田さんが解説で述べたように、「宇治十帖は、誤解や思い違いや勘違いのオンパレードで、それらが雪だるま式に大きくなってとんでもない悲劇へと突き進んでいく。」のです。
    この構成が、一つの軸を持ちながらも、意外と入り組んでいて、刺激的。

    角田さんは、上巻からそうでしたが、その言葉の力をもってして、古典翻訳というよりも、異世界舞台の現代小説として、とてもフラットでわかりやすい源氏物語を再構築されています。

    光君が主人公だった上・中巻では、一人の希有な男の五十年余りの一生を追う中で、無数に貼られていた伏線が、数ヶ月どころか、数年、数十年、五十年の単位で見事に回収され尽くして結実する見事な構成を、本当に心地よく体感させていただきました。

    対して、この下巻では、狭い世界と時間軸の中での、主要キャラクターの濃密な関わり合いが起こす恋愛悲劇をどっぷり楽しめました。そして、いや、この後まだあるんでは…と思わせる、あっけないラスト。
    紫式部って、エンタメをよく知ってた人なんだろうなあ…読者の想像力や期待をうまく掻き立ててます。

    なんとなく思ったのですが、光君の死後を描いた第四十二帖から宇治十帖までって、書かれた当時は、現代小説でいうところの、番外編(「〇〇キャラ編」、「後日譚」、「スピンオフ」)みたいな位置付けだったのではないかと。
    本編の光君の話の中にも既にスピンオフ的な章(帖)はいくつもあるのですが。

    壮大な物語が終わった後で、作者が書き足りないと思ったお気に入りキャラや、没ネタの書きまとめ、はたまた、読者に「その後どうなるの?」と意外と人気だった幼児キャラ二人(薫と匂宮)の成人後を書いてみた…みたいな。

    宇治十帖は実は作者が違う説もありますが、
    それであれば、ファンの二次創作(同人誌)が世間の支持を得て公認続編になってしまったのだから、それはそれで、個人的には考えると楽しい気分になります。

    話がそれましたが、そんなしょうもないことをつらつら思ってしまうくらい、角田さんの訳が、読みやすくて面白くて、馴染みやすくて、キャラ立ちしていて、そして、現代のエンターテインメント小説としての完成度が高かったいうことで…。

    まだ源氏物語を読んだことない人には、これからこの角田訳を真っ先に勧めたいです。

    最後に。
    数年に渡ってこの大作を訳し切って、自分の小説作品のようにまでしてしまった角田さんに、心からの敬意を。
    お疲れ様でした。
    そして、楽しい時間をありがとうございました。

  • 角田光代訳『源氏物語』を読み終わりました。下巻は、光源氏の息子として育てられながらも、女三おんなさんの宮みやと柏木かしわぎの子でもある、薫かおる。今上きんじょう帝と明石あかしの中宮ちゅうぐうの子である、匂宮におうみや。このふたりを軸として進んでいきます。全体を通して不器用な登場人物が多く、上巻、中巻に比べると「心の通じなさ」「ちぐはぐな感情」「愚かさ」という面が強調されているように思いました。同時に、薫と匂宮ふたりの力関係が対等であるが故に生まれるドラマは、前巻までにはない展開を生み出しており、その”上手くいかない部分”にこそ下巻の面白さや独自性はあったように思います。

    薫が想いを寄せた大君おおいぎみは、彼のアプローチの仕方が変(というか下手くそ)なため、気を病んでばかりだし、中なかの君きみと想いを遂げられた匂宮は、釣った魚に餌はやらないとばかりにすぐ他の女性に目移りしてしまうし。主役として添えられているふたりは容姿端麗で生まれも役職も立派な割に、どうにもこうにも"下手くそ"な点が多く、「なんじゃこいつら」と思う場面が多くありました。
    おそらくそれは、光源氏という存在が読者の中にいるというのもあって、どうしても彼と比べずにはいられない、というのもあるでしょう。下巻の中心となる「宇治十帖」を読んでいると、「光君ならもっと上手いことやっただろうなー」なんて思うことがよくあり、あんなにすちゃらかでダメな部分もあった男なのに、それがどうにも懐かしく思えてしまうのでした。

    最後に登場する姫君、浮舟うきふねは、薫に「人形ひとがた」と呼ばれ、流されるように薫と匂宮のあいだをゆらゆらたゆたう存在です。そのため、これまで登場してきた姫君に比べ、確固たる個性というものが希薄であり、その分負わされる苦悩も非常に大きいものでした。そんな彼女を物語の最後に置いたのは何故なのか。浮舟は、最後に言い寄ってくる男たちすべてと縁を切り、ひとりで生きていくことを選択します。物語の幕切れは唐突で、まだ続きがあってもおかしくないような、浮舟や薫があの後どういった選択をして生きるのか考えずにはいられない、そんな終わり方をします。山崎ナオコーラ『ミライの源氏物語』では、浮舟と桐壺を同じ「受け身のヒロイン」として見ることで、最後に浮舟が「拒絶」をすることに意味があると書かれていた。角田光代のあとがきには、男に頼らず生きていく個、自分自身を手に入れた女性である浮舟は、これまで登場した女性たちのひとつの到達点かもしれない、と書かれている。作者である紫式部はどんなことを考えてこの帖をラストに持ってきたのだろう。上記した捉え方はとても正しいように感じるけれど、それはいまの時代の文学観、倫理観に合わせて考えたものであって、必ずしも正解とは限らない。いま私がぼんやりと思うのは、過去の、光君がまだいた頃の帖をまた読みたいなということで、あの光輝いていた時代の物語をもう一度味わいたいなということだ。各帖に登場するそれぞれの登場人物に再会することで、今度は親しみを覚えながらまた新たな魅力を見つけられそうな気がする。『源氏物語』が長く愛される要因のひとつは、きっとそういうところにあるんじゃないだろうか。

    『源氏物語』の作品の魅力を一言で言い表すのは難しい。感動的な物語、というよりも、人間の業を見つめた部分のあるお話で、かと言って、むやみやたらに小難しいわけでもない。そもそも帖によって大きく色合いが変わるし、時代も主人公も、登場人物の心も移り変わっていくことから、一概に「ここがすばらしい」ということを説明するのは難しく、読む人によってどこに面白さを見出すかは変わるだろう。それはつまり、物語の豊かさ、文学の懐の深さ、人の心の複雑さが凝縮されていることも意味していて、変わりゆくものと変わらないものの、美しさを、そして儚さを知った気がします。
    角田光代さんの訳文は平易で読みやすく、現代の小説と同じ「軽さ」がありながらも、作品の本質的な良さは失われていません。はじめて手に取った『源氏物語』が角田光代さんの訳でよかったなあと思います。

    ここまで読んでいただきありがとうございました。『源氏物語』を愛読する方にとっては見当はずれな感想や、読みの浅さを感じる部分もあったかとは思いますが、そんな拙い感想をあたたかく迎え入れてくれたおかげで最後まで感想を書くことができました。
    いずれ他の訳文も読んでみたいなーとは思いますが、いまは1000年間愛読される本の読者の一員になれた喜びにひたりたいと思います。

  • 中巻を読んでから約一年半。感慨深くもやっと読み終わりました。
    雲隠で光源氏を喪ったあと、子孫たちによる貴族社会が描かれ、有名な「宇治十帖」が続くのもここから。
    それにしても、”光源氏”という圧倒的なカリスマがいない下巻では、登場人物がみな泥臭い。匂宮と薫がすごく高貴ではあるんだけど、うまくいかずに翻弄され続ける感じが不器用で人間らしい。
    辻斬りのように女遊びしまくっていた光源氏とは雲泥の差といっても過言ではないと思う。
    大君と中の君の姉妹をめぐり、そこに浮舟が加わってますます混迷を極める複雑な恋愛模様が面白くて、だから夢浮橋まで読んだ後の「えーっ!ここで終わり!?」の驚きとガッカリをみんなにも味わってほしい。1000年前の読者たちもそう思ったのかなぁ。世のはかなさよ。
    大君を一途に想い続ける薫が私は好きだな。大君にそっくりな浮舟を身代わりの人形として想い続けている事実は残酷なことでもあるんだけれど、そこから育まれていく二人の新たな関係性というものまで見たかった。
    浮舟が意志をもって行動したというのがあったからこそ、夢浮橋からそれが始まるのではないかな、とひっそり続きを妄想。

  • 637ページに渡る下巻、1週間かけて読み終わりました。源氏物語のうち、光君が亡くなった後の宇治十帖。スーパースターとも言うべき光君とは違い、人間臭さが溢れている男2人、女3人の物語。最後は「えっ、これで終わり?」という呆気なさで終わってしまうけれど、訳者あとがきで書かれているように、これから先は読者の想像に委ねられているのだと思う。
    何にしてもこの大長編を読み終えた達成感がものすごい。そして、これを訳した角田光代さんや編集者さんの偉業に拍手を送りたい。とても読みやすい訳で、すらすらと読めた。読書好きとして、源氏物語を通読できて良かったし、ありがたく思う。

  • 下巻をやっと読了しました!8月に中巻を読み終えてから、他の図書館予約本が何冊も届いてしまい時間がかかってしまった!
    下巻が一番好き。上中巻で男たちの好色ぶりにウンザリしてたけど、匂宮のクズさは突き抜けた感あり!薫のヤンデレも少し笑える。
    いつもの角田光代さんの文章を期待するとちょっと違うかもだけど、全五十四帖、読了後の達成感は半端ない。

  • 220811*読了
    この壮大な物語、日本文学の歴史を形造った物語を読み終え、満ち足りた気持ちである。

    下巻は光源氏亡き後、三の宮との子(実は柏木との子)である薫と、帝と明石の中宮の子である匂宮。
    堅物と色好み、対照的な二人と、光源氏の腹違いの弟である八の宮の三姉妹の恋物語。

    光源氏の時代は、彼自身が幻想的で神々しい存在だったので、彼がその名の通り光り輝いていたし、関わる女性も個性は様々ではあるけれども自分を持った女性ばかりだった。
    宇治十帖は男性側も完璧とは言えず、うまくいかないことばかりだし、女性の方も何だか不安定。
    全体的に華々しさよりも、鬱屈とした感じが漂っている。
    でも、それがまたおもしろい。昼ドラ的というか。
    こんな小説が11世紀に書かれていたと思うと、おもしろい物語の真髄って普遍なのだとつくづく感じます。

    日本人として、源氏物語を読み切るというのが、こんなにアイデンティティにぐっとくるものだとは思わなかった。
    角田光代さん訳は本当に読みやすく、古典とは全く思えない瑞々しさでした。
    間違いなく、源氏物語は好きな小説と言えます。読めてよかった、本当に。

  • 女子栄養大学図書館OPAC▼ https://opac.eiyo.ac.jp/detail?bbid=2000035420

  • やっと読み終わり。
    長い長い・・・長かった。やっと読めた。
    というのが何よりもの感想。
    初めて源氏物語を読めたという感慨が次の感想。
    この全集もこれですべて読めたというのがその次の感想。

    源氏物語は、この下巻の宇治十帖が面白いと思いました。
    日本文学独特の物語の進み方にめんをくらうところもありつつ。全体的には読めてよかったと思いました。

  • 前の光源氏が主人公の話とは打って変わって俗っぽい人間ドラマになる。序盤の恋する蔵人少将の見苦しさから絶好調だ。

    薫と匂宮、名前が嗅覚関係で似ているな、と思っていたが、薫が香りを放ち、匂宮がそれを女性から嗅ぎ取るのか!と中盤に気付き、伏線回収された気分だった。宇治の三姉妹を挟んで何度も三角関係になるのが面白い。
    浮舟は名前の通り、二人の間をフラフラするし。
    (名前の由来になった匂宮に抱かれて舟でデートするシーンはロマンチックだった)
    角田さんのあとがきの浮舟の解釈も唸った。

    「袖ふれし人こそ見えね花の香のそれかとにほふ春のあけぼの」

    この歌、薫と匂宮どちらの名前も入っている。
    1000年前にこんな近代的なドラマを描いた紫式部はすごいなあ。言葉遊びのセンスも抜群。

    現代のとても美しい日本語で書かれていて読みやすかった。表紙もシンプルながら素敵。
    めちゃくちゃ面白かった。読破できて良かった。

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著者プロフィール

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。90年『幸福な遊戯』で「海燕新人文学賞」を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で、「野間文芸新人賞」、2003年『空中庭園』で「婦人公論文芸賞」、05年『対岸の彼女』で「直木賞」、07年『八日目の蝉』で「中央公論文芸賞」、11年『ツリーハウス』で「伊藤整文学賞」、12年『かなたの子』で「泉鏡花文学賞」、『紙の月』で「柴田錬三郎賞」、14年『私のなかの彼女』で「河合隼雄物語賞」、21年『源氏物語』の完全新訳で「読売文学賞」を受賞する。他の著書に、『月と雷』『坂の途中の家』『銀の夜』『タラント』、エッセイ集『世界は終わりそうにない』『月夜の散歩』等がある。

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