神々の沈黙: 意識の誕生と文明の興亡

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (632ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314009782

作品紹介・あらすじ

3000年前まで人類は「意識」を持っていなかった!古代文明は、意識を持つ前の「二分心」の持ち主の創造物。豊富な文献と古代遺跡の分析から、意識の誕生をめぐる壮大な仮説を提唱。

感想・レビュー・書評

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  • 前2000年期までは人間たちは意識を持たず、「二分心」の命令に服従していたという仮説を打ち立てた本。
    意識とは言語の比喩から形成されるものであって、言語が生成される以前には意識は存在しないとし、言語が開発される以前は確固たる意識がなく、「二分心」を持っていた。意識は言語の獲得と同時に二分心を崩壊させいわゆる「心」を作り出す。この二分心の名残としてイーリアスや初期旧約聖書文献、ヘシオドス等を紹介しつつ、仮説を組み立てていく。
    二分心とは、そもそも脳の可塑性に注目されて作られた仮説である。脳は、左右二つの半球から出来ており、一部の脳の機能が失われれば、それを補う形で脳のほかの部分が発達し、その機能を補完する。この可塑性に注目し、左半球が失われた人たちの脳に注目し、右半球にも左半球の言語野に相当する部分があったのではないかと推測する。その結果、脳梁が発達する以前の左右半球が分割されていた時代には、左右半球に言語を司る部分があったのではないかと推測されるわけである。右半球の言語野から発せられた声は、今のニュアンスで言うところの神の声と同じ作用を及ぼすことが推測される。そのことを立証するために、統合失調症における幻覚を例にこの仮説を立証していく。

  •  この手の本は何冊か読んだのだが、難しくよくわからないのが本音だ。大体「心の空間」からして得体のしれないもので、なぜスーパーコンピューターでもないのに過去のいやな記憶を鮮明に覚えているのか、読めば読むほど謎が深まるばかりである。時間を空間化すれば過去や未来も自由自在に行き来できる(というか無理やり連れていかれるというか)のは理解できる。問題はなぜ動物の延長上の存在でしかない人間の内部にそんな宇宙にも匹敵するような空間が存在するのか、不思議でしょうがない。そんな謎や不思議は脇において、古代人の心の在りように思いをはせるのが正しい読み方なのかなと思ったりした。実際第二部における古代世界の分析がなかなか面白かった。
     こんな人におすすめ。
     1.意識について考えてみたい人
     2.古代世界、古代人にロマンを感じる人
     3.人間精神のアップデートなど本気で必要だと思っている人

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  • 古代の人々は我々のような自我を持たず、日常的に聞こえる内なる神の声に従って生きてたのではないかという驚愕の仮説。ちょうど統合失調症患者のように。
    しかし都市に住み文字を読み書きするようになるにつれ、その声が聞こえなくなり人々の間に不安が走る。

    当初はデルフォイ神殿の巫女や卑弥呼のような代理人に伺いを立てていたが、それでも収まらなくなると神との契約を文書に記した強固な宗教が生まれた。
    知恵の実を食べ自我に目覚めてしまった人たちは神の楽園を追放され、孤独と不安と共に生きることを余儀なくされ現代に至る。

    その仮説に則ると、なぜ古代ではあんなにも巨大な王墓の建設に人々が従ったのか、そして古いものほど大量の生贄が共に埋葬されているのかが何となく理解できる。
    スペインに征服されたインディオたちには生贄の風習があったが、彼らは古代的な精神構造であったがゆえに、易々と蹂躙されたのではとも。

  • 確かに独創的で面白いbicameral mindの仮説だが、50年近く経った現代では無理がある内容が多い。言語や文化は段階的に発達しただろうから、遺跡の像や古文書に変化があるのは当然だが、それを紀元前1000年より前の人は統合失調症状態だったとなると自然淘汰をクリアできないだろう。最後まで未開の伝統社会を生きてきたアマゾンやニューギニアの部族を観察した報告とも一致しない内容が多い。著者は、同性愛は想像が引き起こした二分心崩壊後の人間特有のものだと言うが、どうやって動物でも起きている同性愛を説明するのか。考古学的な根拠から二分心を持ち出す結論は無理がある、語彙に変化があるとか神の姿が消えたことが科学的な理由になり得ない。統合失調症だと疲れ知らずでピラミッド建設にも向いているなんてことまで言ってるが、体力の温存なくして巨大事業を成り立たせる生産性は確保できないだろう。現生人類が認知革命を起こしたのは間違いなくホモ・サピエンスになり得たタイミングである方が考古学的な証拠に合致するであろう。言葉による比喩、定義があって初めて意識が生まれるのであれば、人工知能でも簡単に意識を作れてしまうし、抽象的な言葉を知らない人は皆んな意識が無いってことになってしまい、明らかに欠陥がある考え方。意識がなくても車の運転ができるなど、行動経済学でいうシステム1、2(ファスト&スロー)を証拠のように論じているが、脳は常に考えるほど勤勉ではないだけで意識や認識がなければ無意識の行動も成り立たない。自然を観察し、動物の痕跡を分析する認知能力があったからこそホモ・サピエンスは世界中に分散して生態系を破壊し、道具を開発し、農業・家畜に適した動植物を見出してきたのであって、二分心が唱えるような歴史像は真実とはほど遠い妄想だ。読んでいてシュメール文明宇宙人説のゼカリア・シッチンと同じ論調を感じたが、こういうトンデモ話を押しつけてくる本は突っ込み所もたくさんあって読み物として楽しめたりもする

  • # 一章
    ## 意識は狭い
    C. G. Jungが意識はスポットライトのようなものだといっていたことを思い出した。Recognition(再認)できてもRecall(再生)できないことがたくさんある。意識下に容易に現れるもの以上に、なかなか意識に上らないもののほうがはるかに大きいからだ。

    ## 意識は概念に必要がない
    概念は、対象物自体、私の言葉でいえば、知覚的経験を必要としない。概念それ自体、例えば木という概念は、個々の木を見るという経験なしに存在しえる。そういった概念を発生させる、構造的な性向があり、性向の構造が、概念構造を生む。その概念構造は、その動物の知覚的な構造に依存する近くのしやすさや、その世界様式によく一致するように設計されている。つまりユクスキュルの環境世界を思い出せはすっと来る。
    そう考えると彼の言は一面的でもあるように思える。この構造は、意識、もっと言えば経験的現象が「起こらなくても」、概念が成立し得ることを意味するが、なぜそのような、経験を受容するような概念構造がはっせいしているのだろうか、という疑問を生む。概念は、意識なしに存続し保存されるが、意識をあるあり方で、構造化して、整理するための体系が概念であって、経験をそれぞれの生物の形態に応じて、型にはめているという意味で、相互依存的だともいえるだろう。

    であるならば、なぜ意識というものが生まれたのか?ユヴァル・ノア・ハラリだったか、E.フラー・トリー だったか、脳の進化をハードよりとソフトよりの二つに分けた考え方を示してくれていたが、意識の誕生はその、ソフトよりの進化によって生まれたのだろう。

    ## 学習に意識は必要ではない

    ケリー・マクゴニガルの「スタンフォードの自分を変える教室」を思い出す。あれは一種の行動療法
    a behavioral treatment approach だ。意識下にないものでも、学習的な行動の修正(といういい方が矮小な、一面的、治療的で狭い概念だが)が行われる。


    ## 内省

    この手の本を開いて最初のにまず思うのは、そもそも、「思考」「概念」「意識」といっている、我々という存在は、それを言っているときにないを言っているのわかっていないのにもかかわらず、それらの言葉を使って何かを指し示そうとしているという奇妙な感覚だ。我々は、語りえないものを語っているのではないのか(ウィトゲンシュタイン)。言語を超克しなければならないような問いを立てているのではないか?そしてそれをもって何をなそうとしているのか?

    F Nietzsche曰く、「哲学者は、異常なものを体験し、見て、聞き、怪しみ、キボウシ、故目見る人間」といった。つまり、超克である。

    M Heidegger曰く、「語句の中で存在者が存在者として自己を開示するというようなこと...というのは、存在者と存在者として言うということは、前もって、存在者を存在者として理解すること、つまりそれの存在を理解することが含むからである。...人間がその本質の根拠においてものを言うもの、唯一のモノをいうものであるが故こそ、人間は然りと否とを言うものなのである。」




    つまり、ゲーデルの第一不完全性定理やアランチューリングの停止性問題だ。ある演繹体系内で語りえるのは、体系が健全である限り、トートロジーであり、自己言及以上のなにかは生み出しえない。もし超克してしまったとしたら、それは論理的には飛躍があり、体系を壊してしまっていることになる。語りえないものを語ったわけだ。それにも関わらず、哲学者は言語を超克しようとする。だから私はウィトゲンシュタインは心惹かれながらも、彼は哲学者ではないと思うのだ。

    彼もまた無意識だし、無邪気さがあるが、そういった違和感、気持ち悪さは棚に置いておいて、ページ進めなければ、多くの本が読めなくなる。

    仕事をしていてもよく思うことがある。言葉に騙されていると。多くの場合は、言葉は道徳(芥川龍之介)のようなものなので、何も考えないことを助けてくれる。しかし、それを全く自覚できない人に、思考を使うことはできない。彼らはしゃべることはできるが、考えることはできない。しゃべることができることと、概念を使うことには大きな隔たりがあるからだ。

    ## 意識は必要なのか?

    彼はほかに理性や洞察といったものを例に挙げながら「意識」なるもののあやふやな足場を示す。
    意識は理性の座でもなく、創造的な推理にも必要ない、と。意識がなくても、創造的なひらめきができるし、学習もできる。
    そこで、意識なしでの存在としての人間を仮定し、背理法のように、意識とは何か?を考えてみようという彼の旅路がここに見えるようになる。


    # 5章 二分心
    神々が死に、人々が神の園を離れ、彼らの声が聞こえなくなるとともに、自我や意識、理性といったものへの信奉が広がった歴史を語ったのは、この本だけではない。

  • 読み進めるうちに、「そんなわけがない」が「そういったこともあるかもしれない」に変わり、最後には「きっとそうに違いない」とまで自らの認識を変えてくれるような本にはそうそう出会えるわけではない。その点で本書、『神々の沈黙』は驚くべき一冊である。

    我々は人間の意識というものはア・プリオリなものとしてホモ・サピエンスの誕生と共に生まれたものだと思い込んでいる。しかし、1972年に出版された本書が提示するのは、わずか3,000年前まで人類は意識を持っていなかったのではないか、という大胆な仮説である。即座に「そんなバカな」と反応してしまいそうなこの仮説が、本書を読み進めるうちに冒頭のように受けとめられてくるのである。

    シーナ・アイエンガーが『選択の科学』で明らかにしたように、無数の選択肢の中から何かを選ぶような意思決定とは、端的に言って人間の心理にとってストレスとなる。それはかつての人類においても当然そうであり、現代以上に生死を分けるような選択が多かったに違いない古代社会においては、そのストレスは現代よりも大きなものだったのではないか。そこでかつての人類は神託や預言という仕組みを用いて、”神々”にその意思決定を委ねることでストレスから逃れようとした。

    その証拠として本書で提示されるのは、ホメロスの『イーリアス』に代表されるような古代の文学作品である。そこでは人間という主体が意識的に何かを思考するのではなく、常に”神々”に命じられるがままに受動的に行動する人類の姿が浮かび上がってくる。一方、人類が言語を意のままに操るようになるにつれて、その言語表現が複雑さを増していくにつれて、徐々に人間は意識を手に入れ、神託や預言に頼らない能動的な意思決定が出来るようになったのではないか。かくして人間の意思決定をサポートしていた”神々”は沈黙するに至る。これが本書が提示する大胆な仮説である。

    直接的な証明は不可能なこの仮説について、前述のような古代文学の叙述表現の変遷や、言語処理を操る左脳と感性処理を操る右脳の脳科学的な違い、統合失調症などの観察を踏まえて、読み手はこの大胆な仮説の信頼性が高まり、自らの常識が変化する様を驚きと共に体感できる。

  • 人間が意識を獲得したのは今から3000年前からであるとの衝撃的な仮説の表明から始まります。
    人間の脳は論理的思考を司る左脳と想像力を働かせる右脳から構成されていると言われてますが、紀元前1000年頃まではそれまでは神々の声を聞く右脳とそれに従う左脳であったとして、これを神々と人間の二分心と名付けています。
    古代の粘土板、彫刻、碑文や「イーリアス」、「オデッセイア」などのギリシャ文学、旧約聖書などを分析して精神構造の二分心から神々の声が聞こえなくなっていく様子から現在の意識への変化を検証すると共に、神託や宗教といった社会制度さらには憑依、催眠、統合失調症などの心理学的現象も分析して二分心の痕跡を見出すのが、600ページにも及ぶ本書の内容です。
    とても信じられないトンデモ本のような仮説展開ではありますが、検証や分析にとても説得力があったことと、まだまだ未解明な人間の意識問題なので、こんな説もありだなと思いとても興味深く読めました。また、最初は創造主である人間の指示で動いていた人工知能も、だんだんと人間の指示を逸脱するようになって。。。などとSF的な想像も楽しめました。

  • ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』(2005、紀伊國屋書店)を読む。

    76年の原著を米国で心理学を修めた柴田氏が訳したもの。

    著者のジェインズは心理学を専攻し、プリンストン大学教授として動物行動学を研究し、のち人間の意識へと興味を移しています。

    本書では意識の誕生に迫るべく、考古学、歴史についても掘り下げつつ、人類における哲学と意識の在り方に迫っています。欧米式の知識人というべく、プラグマティズム一辺倒でなく、ギリシャ詩に「人の意識の在り方」を探ってみたり、権力者の埋葬形態から残された人民たちの心の変化を類推したりと分野を問わぬ考察ぶり。

    簡単にまとめてしまうと、文字を持つ以前の人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分との2つ、すなわち「二分心」を持っていたとの仮説を提示しています。

    評論家に「ソフトウェア考古学」と評されただけあり、証明も反証も困難な推論の世界ですが、思考実験として実に興味深く。これで生涯遊べてしまうレベルです。

    この二分心は現代人のココロにもまれに発現し、統合失調症として知られます。古代社会が、あるいはギリシャの神々が、あるいはジャンヌダルクが、「声」を無上なる神の命令ととらえてひたすらに目的に邁進した姿勢。この「声」に対する受容プロセスはまさに統合失調症そのものだと。

    文明以前の人類はみなこの統合失調症の状態にあり、やがて文字を持つことで逃れ出してきたが、ときに先祖返りを起こすものが出るという衝撃的な解釈。

    1982年の前書きを読むと、著者は続編を予定していたようですが、完成を見ることなく97年に脳溢血で死去。唯一の著作としてこれが伝わるのみです。

    【本文より】
    ◯『イーリアス』の英雄は、私たちのような主観を持っていなかった。彼らは、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の〈心の空間〉も持っていなかった。

    ◯現代の統合失調症患者が聞く「声」は、患者本人に劣らず、いや、しばしば彼ら以上に「考える」。こうしてナトゥフ人が聞いたと私が想像している「声」は、やがて、王自身が言ったためしもないようなことを即興で考え出し、「言う」ようになりえたはずだ。

    ◯(統合失調症について)彼らはパニックに陥るが、パニックは彼らに起きているのではない。彼らはどこにもいないのだ。どこにも拠り所がないのではない。「どこ」自体がないのだ。そしてそのどこでもない場所で、どういうわけか自動人形になり、自分が何をしているのかわからぬまま、自分に聞こえてくる声や他人に操られ、異様でぎょっとするような振る舞いをする。(中略)だが、じつは彼らは「二分心」に逆戻りしているのだ。

  • 勝手な偏見で思っていたより科学的な内容が多かったが歴史を紐解きながら科学的にも分析することで説得力があるし面白かった。
    古代の人々の精神構造が異なるのは考えもしてなかったが、本書の説明で昔の巫女や神官だけが聞こえる声だったり占いだったりが地域や文化問わず経た経験となるとたしかに神の声を聞いて判断していたんだろうと思う。
    そう考えると小説やマンガで扱う古代人の描写はあくまでも現代人の視点でのもので正確ではないんだろうな。
    キリスト教の三位一体も感覚的に腑に落ちなかったのが、本書の説明で納得したしようやく理解できた。

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