感覚の幽い風景

著者 :
  • 紀伊國屋書店
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感想 : 4
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  • Amazon.co.jp ・本 (211ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314010078

作品紹介・あらすじ

言葉はいつもちぐはぐ。いつも外れ。捉えたとおもえば零れ落ち逃れ去る、そんな感覚の深淵へ。身体論の名手、珠玉のエッセイ集。

感想・レビュー・書評

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  • 対象物を深く考察することにより辿り着ける場所がある。鷲田さんがわたしをそこまで連れて行ってくれるのだけれど、読み進めるうちにだんだん理解が追いつかなくなってしまった。何度も挫折を味わいながら、やっと読了。

    口に幸不幸が集中すること、関心のあるものにふれること、生きる意味を考えること、他者を通してじぶんを認識すること、寂しさを感じるのは、他者の意識の宛先がじぶんにないからだということ…。

    話の筋とは関係ないのだけれど、"命をつなぐための算段にすべての時間を費やすしかないのが動物である"という一文は、生きることに対してモヤモヤしていた気持ちを取っ払ってくれたような気がする。

    p2
    わたしたちの感覚は、ふつうなにかに襲われることで起動すると考えられているが、あとから振り返れば、むしろ迎えに行ったとしか思えないことのほうが多い。迎えに行けないときには、感覚はじぶんでじぶんを搔きむしり、無理やりにでもみずからを起動させる。

    p12
    こんなにまでして生きることがどうしても耐えがたいとおもうとき、あるいはその存在がひとびとのあいだにないがごとき扱いを受けたままであるとき、あるいはじぶんの存在の軸とでもいえるものが消え失せただ憔悴のなかに身を置くしかないとき、そのように存在の乏しさに打ち棄てられていると感じざるをえないときにも、ひとは食うことを拒む。その存在が塞ぎ、食うということへと向かわなくなる。

    p13
    ここで霜山が「人間存在の可塑性の秘密」と言っているもの、それは、世界を分けるということー味わい分ける、嗅ぎ分ける、見分ける、聴き分けるー、そしてそれによって世界から何かを選ぶというところにひとの生存がかかっているということであろう。じぶんにとって望ましいものを選び、受け入れがたきものを拒み、他人とのつながりや別れを選ぶ……、そのなかにこそひとがひとりひとり取り替えようのない「だれか」であるという事実の基礎があるからだ。

    p16
    一般に、物に触れるということは、ある距離を置いた対象への関心というものがなければ起こらない。

    p18
    意味の不在が感覚麻痺として現象する。西欧語のセンスが「感覚」と「意味」という意味をあわせもっていることには、深い意味があるようにおもう。

    p20
    他者たちのだれのうちにもじぶんがなにか意味のある場所を占めていないと感じるとき、ひとは「わたし」の存在の消失という事態に立ちすくまざるをえない。

    p23
    感情を導いたり、抑えたりすることについてのわたしたちの無力を「人間の縛り」と呼んだのは、哲学者のスピノザである。(ちなみに、スピノザの『エチカ』第四部の表題に掲げられたこの言葉は、サマセット・モームの小説の題にも用いられており、邦訳ではそのHuman Bongeageが「人間の絆」と訳されているが、これは誤解を生みやすい訳だ。)

    p24
    口は不思議な器官である。からだの他の部分にはそれほど機能が重層しているわけではないのに、口にはわたしたちのさまざまないとなみが密集している。食べる、舐める、飲む、息をするだけではない。話す、笑う、泣く、唸る、歌う、そして愛玩する。つまり、食事、語らい、感情の表出、歌唱、そして性の交わり。どれひとつを欠いても、人生が成り立たないくらいに生きるうえで大事なことを引き受けている。だから幸福はここに集中する。おいしいものを食べ、酒を嗜み、喉を潤し、笑い声をあげ、心ゆくまで歌い、そして接吻する、あるいは他者のからだかに吸いつく。不幸も、だから、ここに集中する。何を食べても不味く、言葉を吐き捨て、あるいは失い、歌を忘れ、身を合わすことを怖がる。

    p37
    なにかじぶんより大きなものに包まれていたい、このじぶんの存在をほかでもないこのじぶんとして慈しんでほしい、そのままでそこにいていいんだよと言ってほしい……そういった受け身の経験のなかに身を浸したいという願望が、「癒し」のなかには強くある。

    p40
    もう消えてなくなればいい、とおもうことがある。じぶんが、世界が。そういう想いが、日常のあまりまえの光景の背面から音もなく滲みだしてくるのをひとはとどめることはできない。その水は石清水のように透明であるが、ときに溶岩のように土色になって、あるいは爛れのように血の色をして、噴きだしてくることもある。

    p49
    物の感触、ひとの感触というのは、接触したから生まれるものではない。それに密着するのではなく、対象に関心をもちつつある微かな隔たりのなかでそれに触れること、そう、まさぐるという、対象へのはたらきかけのなかではじめてひとは物に、人に触れる。

    p56
    皮膚がそれ自身に接するところ、折り畳まれるところに「魂」があるというのは、たしかにとても魅力的な思考だ。「心」を見えない内面としてとらえたり、その奥底について考え及んだりするより、それを表面の効果として語ることで、「心」は見えるものになる。ひとの顔やふるまいや佇まいを眼にすることで、そのひとが侵されている悲しみを知るのだから。

    p60
    言葉と音の回転扉、それが〈声〉だ。声は言葉として意味(メッセージ)を載せるが、同時にそれ自身の肌理をもっている。その肌理が意味とは別なかたちで他者にふれる。声はいつも二重奏をかなでてきたのだ。

    「《私のいうことを聴いてください》というのは、《私に触れてください、私が存在することを知ってください》ということだ」ーそうバルトは書く。(中略)看護婦は、声を聴くために、患者の瞳をじっと見つめ、知らないあいだに布団に手を当てている。声の肌理を聴くためには、「あなた」にふれるためには、言葉をもういちど身体の振動にまで連れ戻さねばならない。
    そのためにはさらに、その振動に同調できるところまでじぶんの身体のこわばりを解かねばならない。じぶんのものではない言葉をその肌理ごと迎え入れるために。

    p83
    世界の表情が、気づかぬうちにのっぺらぼうになっている。
    いつごろからか、そういう、顔のない世界にひとは生まれ落ちることになった。長らく、透明な覆いは誘惑の形象であった。「さわっちゃだめよ」(ノリ・メ・タンゲーレ=わたしに触れてはならない)ー屈んだマグダラのマリアの前に立つイエスから、ストリップティーズの踊り子まで、その言葉が誘惑の原点にあった。タブーはアンタッチャブルであるがゆえにひとの欲望を深く吸引し、ショーウィンドーは手に触れられる距離にあるのにさわれないというもどかしさにひとを狂わせてきた。

    p96
    じぶんが感じていること、たとえば感覚とか気分とか密かな想いについて、語るのはむずかしい。いつも浮ついているか、言葉足らずの感じがして、それはそれはもどかしい。どうして言葉がすぐに出てこないのだろう。どうしてどの言葉も過剰であったり過少であったりして、感覚や気分や想いをぴたり言い当てることにならないのだろう。
    じぶんが感じていることについてきめこまかに語りたいとだれもがおもう。濃やかに、濃やかに。けれども、言葉はいつもちぐはぐ。いつも外れ。

    p114
    だれかとつながっていたいというのは、じぶんがそのひとに思いをはせるだけでなく、そのひともまたじぶんのことを思ってくれているという、そういう関係のなかに浸されていたいということだ。
    寂しいから、とひとは言う。だが、寂しいのは、じぶんがここにいるという感覚がじぶんがここにいるという事実の確認だけでは足りないからだ。ひとがもっとも強くじぶんの存在をじぶんで感じることができるのは、褒められるのであれ貶されるのであれ、愛されるのであれ憎まれるのであれ、まぎれもない他者の意識の宛先としてじぶんを感じることができるときだろう。(中略)だれからも望まれていない生存ほど苦しいものはない。老幼を問わず。

    p118
    「もし〜できれば」という条件の下で、じぶんの存在が認められたり認められなかったりするという経験を、子どもはこうしてくりかえしてゆくことになる。じぶんの存在はひとに認められるか認められないかで、あったりなかったりする、そういうものなのだ、という感情を募らせてゆくのだ。

    このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。つまり、なんの条件もつけないで「このままの」じぶんを認めてくれる他者の存在に渇くということだ。

    p120
    ひとが生きるというのはむずかしいことである。ひとは生きるということに対して意味を求めるからだ。ぼんやりただ生きていられればいいのだが、ひとは何かをしながらそれをすることの意味を同時に考える。「わたし、なぜこんなことをしてるんだろう」「わたしがここにいることになにか意味があるのだろうか」「これはぼくにしかできないことなのだろうか」「これをするのはほんとにぼくでなければならないのだろうか」……。そして答えが見いだせないときには、何も考えないでただ生きているということすら苦しくなってしまう。生まれてこなかったほうがよかった、じぶんなんかいっそのことぱっと消えてしまえばいいのに、もう終わりにしたい……、と。

    p123
    「わたしのことを想っていてほしい」「わたしをこのまま認めてほしい」というのは、受け身の姿勢である。じぶんのことを想う、あるいは認めるひとがそのひととして存在するためには、そのひと自身がじつはだれかに想われて、認められていなければならないはずである。ということは、みなが想われる側、認められる側にいては、他者を想うこと、認めることそれじたいが成り立たない道理である。つまり、わたしたちはじぶんがときに想う側、認める側に回らないといけないということなのだ。それが「ささえあい」というものである。他人に関心をもってほしいとおもうだけでなく、他人に関心をもとうとすることが、同じくらい必要になってくるのだ。そういう意味で、他者への想像力というものが、このばあいほど大切になることはない。「つながっていたい」「ぬくもりがほしい」とひりひり感じている子どもたちに、他の子どもたちのこと、同じようにひりひりしている大人のことをこそ伝え、そういうひとたちへの想像力を膨らませるようともにつとめることが、「大人」にほんとうに求められていることだと思う。

    p158
    もっとも、〈わたし〉を縫い上げているはずのわたしの自己解釈やセルフ・イメージは、しばしば他者たちによって否認される。とくにわたしたちの可視性にかんするかぎり、他者はこのわたし自身よりもはるか近くにいるわけで、だからわたしの自己解釈と他者の証言とがくいちがえば、修正しなければならないのはわたしの解釈のほうである。

    p178
    口というのは、わたしの身体のなかでももりわけ、幸福が集中して現れるところだ。美味しいものを食べ、美酒に唇を湿らせ、おしゃべりに興じ、歌い、笑い、そして接吻する。裏を返せばそれは、不幸が集中して現れるところでもあるわけで、ひとはしばしば食を拒み、言葉を失い、歌を忘れ、慟哭し、接触を恐れもする。

    p183
    (前略)手の指というのは、脚の指とはちがって、ひとの第二の顔といっていいほど豊かな表情があるからだ。ひとは指で、顔ほどではないにしてもかなり繊細なコミュニケーションができる。微細な運動ができる。身体の末端ではあるが、人格が相当に浸透している部分であり、顔と同様、見える心、見える知性でもあるのだ。

    p186
    命をつなぐための算段にすべての時間を費やすしかないのが動物である。文化は余剰の時間のなかに生まれる。

  • 手と顔は〈文化〉を引き受ける場所だから隠す必要がないのだという主張には目から鱗が落ちる思い。首肯せざるを得ない。
    身体的な感覚を書かせてこれ以上うまく、そしてやさしく紡いでくれる人をわたしは他には知らない。生きるということは、ああ、触れる、ということなのだと。

  • 読書中

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著者プロフィール

鷲田清一(わしだ・きよかず) 1949年生まれ。哲学者。

「2020年 『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鷲田清一の作品

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