〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (301ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314011211

作品紹介・あらすじ

世界最高峰の学者だけが教壇に立てる「ギフォード講義」をもとにまとめられた本書で著者は、脳科学の足跡を辿りつつ、精神と脳の関係、自由意志と決定論、社会性と責任、法廷で使用されはじめた脳科学の成果の実態などを、やさしく語りかけるように論じる。行き過ぎた科学偏重主義に警鐘を鳴らし、人間の人間らしさを讃える一冊。

感想・レビュー・書評

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  • ガザニガは分離脳の研究で有名な脳神経科学者である。分離脳とは、右脳と左脳を中央で接続する脳梁と呼ばれる神経線維を病気かもしくは外科治療によって失った患者の脳である。脳梁がなくなっても、患者は外面的にも内面的にも比較的不自由なく生活を行っていくことができるのだが、うまくデザインされた実験によって分離脳患者は右脳と左脳で完全に分離した意識体を持っていることがわかった。そして、それにも関わらず意識は統一された自己として自らを認識して行動統制を行うのだ。左半球は視野の左半分が見えていないにもかかわらず、そのことに気がつかないのだ。

    ガザニガの分離脳の研究としては、多くの脳科学のポピュラーサイエンスの本で紹介されるニワトリとシャベルの絵の実験が有名だ。
    左半球(右視野)にニワトリの足の絵、右半球(左視野)に雪景色を同時に別々に見せて、見たものに関係する絵を選択してもらうと、右手はニワトリを、左手はショベルをそれぞれ指さす。これに対して説明を分担する左半球は、見ていないショベルを左手が指したことに対して、「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使うから」指したのだと答えるのである。興味深いことは、「わかりません」とは答えないことである。通常は脳梁を通じて右半球の活動も左半球に共有されるが、脳梁がなく雪景色を見たことを知らない左半球は、右半球(左手)が指さした絵を見て、まさに左半球は自分が選んだものだとしてその状況を解釈しようとするのである。つまり、左半球は自身で起こっていることについて状況と矛盾しない後付けの答えを見つけるのである。ガザニガはこの左半球の役割を「インタープリター」と呼んでいる。

    右半球の情報は入ってこないとしても、情動、視覚、体性感覚は右半球を通して身体に影響を与える。したがって分離脳患者の左半球は、自らが認識する状況に辻褄の合うストーリーを仕立て上げると、それをまったくの真実と疑いもなく信じこむのである。左半球にとって事実は重要だけれども、かならずしも事実は必要ではないのだ。それは、有名なニワトリとシャベルの実験のように非常に不思議な印象を与える。さらに不思議なのは、当の本人がそれを全く不思議だと思っていないことである。

    ガザニガたちの分離脳患者の実験により、右脳と左脳のそれぞれに得意な領域があることが明らかにされてきた。俗によく言われる右脳派と左脳派の違いなども一部はこれらの研究から来ているのだが、脳の右半球と左半球の違いは、科学的にも一定の根拠があることが示されているのだ。
    「二つの半球で起こる意識的な経験は明らかに異なっている。片方は推論を引きだせる世界に生きているが、もういっぽうはそうではない。右半球の世界は額面とおりでしかない」

    また視覚処理にも左右で独自の役割を持っている。こちらは右半球優位である。特に右半球は三次元世界を脳内に構成する視覚インタプリタ―が入っているのである。鏡像反転の像を判別する、線の向きのかすかな差異を検知する、頭の中で対象物を回転する、絵の一部から全体を推測する、といった高次の作業は右半球で行われ、左半球はそういった能力は著しく下がる。

    もう少し一般化すると分離脳の研究によって左右の半球での役割分担の違いの研究がされてきたが、むしろ「脳は二つのシステムに分けられるのではなく、複数のダイナミックな精神システムの集まりととらえる」べきでもある。

    例えば、脳の機能局在はかなり細分化されていて、損傷個所によって人工物の区別はできるのに動物の区別ができなくなったち、トースターが認識できなくなたり、果物が認識できなくなったり、といったかなり不思議の症状を呈することがあるようだ。

    「意識は総合的な単一のプロセスではないというのが定説だ。意識には幅広く分散した専門的なシステムと、分裂したプロセスがかかわっており、そこから生成されたものをインタープリター・モジュールが大胆に統合しているのだ。意識は創発特性なのである」

    さて、本書は、2009年に2週間に渡り行われたギフォード講義を書籍化したものである。原題は”Who’s in Charge? Free Will and the Science of the Brain”である。「自由意志と責任」が本書のテーマだ。日本語のタイトル『<わたし>はどこにあるのか?』がそのことを示していないので、本書の後半で犯罪責任などどうしてこんなどうも専門でない話題を延々と続けるのだろうと思いながら読んでいたのだが、どうやら脳神経科学に関する膨大な知識が積みあがってきた現代において、ギフォード講義を行うことを機会として、自らの興味を持つ「自由意志と責任」を自分なりにまとめて語るというのが目的であったようだ。「自由意志とはそもそもどういうことなのか?」という問いに、ぼんやりとながら答えが浮かんできそうなところまで来たので、意気揚々とそこに付随するであろう責任論に切り込んでみたというところだ。一方で、それこそが著者が伝えたいことでもあるのだから、日本語のタイトルは『<わたし>はどこにあるのか』といった曖昧で思わせぶりなものではなく、著者の意を汲んだ原題に近いものにすべきであったことは明らかである。

    「私たちの主観的な自覚は、意識上に浮かんできた断片的な情報を説明しようとする左半球の飽くなき追求から生まれ出ている。「浮かんできた」と過去形で表現しているように、これは後づけの解釈プロセスだ。インタープリターは、意識に入りこんできた情報からしかストーリーを紡ぐことはできない。意識は時間のかかるプロセスだから、意識にのぼったことはすべて過去のできごとだ。既成事実である」という認識はおそらく多くの脳神経科学者が共有するものだ。「この後づけ解釈プロセスこそが、自由意志、決定論、自己責任、倫理基準という壮大なテーマに深く関わってくる」からこそ、それを語る誘惑にかられることになったのだ。

    ガザニガは、「人間は自分の行動を説明できて、責任が持てる主体なのか」と問う。果たしてこの問いは正しい問いなのだろうか。
    これに対して、脳の精神状態だけで自由が決定されるわけではなく、単純な原因と結果ではなく、主体というものはハードウェアとソフトウェアからなるシステムの複層的な動きとして捉えなくてはならないとする。そして次に、責任というものが、単独の人間の脳から生まれるのではなく、社会の関係の中にあってはじめて意味を持つものであるということだ。

    「責任感と自由が存在するのは、人間どうしのやりとり、つまり脳と脳のあいだの空間である」

    そこから、リベットの実験、複雑系から生まれる創発性、対称性の破れ、などを持ち出して、人間の何らかの行動に対してその当人の罪を問い得るのかといった議論を行う。その試みは決して成功しているようには感じられない。ほとんど誰もそれに成功していないのだから当然なのかもしれない。そのひとつの理由は、著者が精神異常者は罪に問えないという前提であり、「精神状態は、無罪か有罪かを決める重要な判断材料だ」としているからのように思われる。そこには責任と罪といった社会的ではあるが、根源的ではないものを、根源的に語ろうとするレベルの混在の問題があるのではないか。もし、責任と自由意志を論理的に語りつくすのであれば、例えば青山拓夫が『心にとって時間とは何か』で論じたような議論が必ようになるのではないだろうか。

    もっとも、「あとがきにかえて」で次のように書いてしまうようでは、このテーマに迫るための資格がないのかもしれない。本質的な思考において、まず逃れるべき制約 - 人間主義という制約 - から逃れられていないことを白状しているのである。

    「科学が生命、脳、精神の本質をどれほど解きあかそうと、私たちが大切にしている人間としての価値は崩れない。私たちは人間であって、脳ではないのだ」

    ”人間としての価値”が崩れてしまうのかもしれない、いやもはや崩れてしまったのかもしれない、といった危機感の上でしか、自由意志と責任の誠実な議論は成立しない。思うに、著者に求められているのは、すくなくとも自分が読者として求めるのは、分離脳患者の研究から導かれる脳神経科学的洞察であり、ここで主題とされるようなかつて倫理・道徳と言われた領域に関わるところではないのではないだろうか。


    訳者あとがきの最後、つまりこの本の最後に、「本書を通じて、科学と社会倫理が火花を散らしてぶつかりあう知の最前線をかいま見たあと、「でもやっぱり昼飯ぐらい好きに決めよう」と思っていただければ幸いである」と、うまいこと言ってやった風に訳者が置いた文章は、まったく余計なもので、著者の議論を損なう最も避けるべきものように思う。タイトルのミスリードとともに(タイトルの方が罪は重いが)、残念なところである。

    後半批判的なレビューになったが、分離脳についての知見を披歴するところは流石の説得力がある。ガザニガの本格的に分離脳を扱ったであろう他の著作を読んでみたい(なので、早く他の著作もkindle化を望む - kindleでしか読めない体になったので...)


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    『心にとって時間とは何か』(青山拓夫)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065180228

  •  2日前、ノーベル医学生理学賞の発表がニュースになっていた。「脳内のGPS(衛星利用測位システム)」がどのように働くのかを解明したとして3人の研究者に授与すると発表した。それだけ、脳は人間にとってまだ、未知なる領域が残っている。

     そんな脳に関して考えて行ったのが今回の本だ。脳とは何か、人間にとって脳はどういうものかを問い、解説している。

     脳の配線に関して、脳を制御しているのは一つのものではなく、いろいろ張り巡らされていてかつ、物事を認知する能力を持つ脳は分担が決まっていて特定の領域で処理すると言う2重構造になっているそうだ。

    そういえば、「脳は有り合わせで出来ている」と言うのを読んだことがある。本能に基づいて判断する「古い脳」に、今の人間が考えたり、行動するような複雑な「新しい脳」が重なる2重構造ならなっている。その影響で、食べ物を必要以上に蓄えようとして肥満になる人が出る。

     脳の構造がもっと明らかになってくれば、今話題になっている「イスラム国」のような邪悪な集団に加担しようという誘惑にかられずに済むような研究が出てくる可能性が出てくるかも知れない。

    http://www.sankei.com/life/news/141006/lif1410060055-n1.html

  • ガザニガの本のカバーはスキンヘッド率が高いな、しかも今回は乳首まで(笑)。内容はそれに輪をかけて刺激的。本書でくみ上げられる知見を評するのに、「トンカツ問題」に還元するお粗末な訳者あとがきは論外として、日本人にはどだい馴染みが薄い「自由意志」の議論に思い悩む必要もあるまい。翻訳タイトルの「<わたし>はどこにあるか?」旅に出てもわからないし、単体の脳をどれだけ探っても見つかるまい。原題の「責任者は誰か?」「責任感と自由が存在するのは、人間どうしのやりとり、つまり脳と脳の間の空間」で、社会的接触から生まれる。
    見返しには「私たちは人間であって、脳ではない」、あとがきにも「人間であることのすばらしさを、科学に奪われてなるものか」。認知神経科学の第一人者にして、まさに"アメリカの養老孟司"。「私たちは人間であって、脳ではないのだ。脳が作り出す精神が、他の脳と作用しあった時に生じる抽象作用、それが私たちだ」。読みながらずっと小林秀雄の言葉が思い浮かんだ。

  • <わたし>はどこにあるのか
    認知神経科学の父とも言われるガザニガによる脳科学の講義についてまとめたものである。脳科学の進歩によりどのように脳の機能が解明されてきたかを説明しながら、意識や自由意志、人間の社会的関連性や法律や文化について議論している。そしてそれらの影響と脳の関係についても議論していて議論の幅が広い。
    脳は脳細胞、脳神経からできており、さらに原子、分子からできているため物理法則から逃れることはできず、決定論から逃れることはできないと言う考え方がある。それに対しては、量子力学の確率的な可能性よりも複雑系の考え方をとり結果は予測できないとしている。しかし、どうもごまかしているように感じてならない。つまり予測することができないので意識は決定論では説明できない、あるいは決定論的ではないと言っているように思えるが、果たして正しいのだろうか。
    脳の基本的な配線は、生命の遺伝的プロセスと自然淘汰により作られており、DNAに書き込まれている。そして、脳は各部の脳神経組織による分散処理システムであり、左脳のインタープリターが見たり聞いたりした現象を説明していると言うことが示されている。そしてそれらは脳障害の事例や心理学的な実験を含めて説明されており興味深く、それらの機能の範疇でしか作動しないと言うことでもあり、人間あるいは個人の限界を感じざるを得ない。
    また、機械なら故障は修理すると言うことになるが、人間の行動の問題は脳の故障として直すのか、それとも自由意志の結果だとして罰を与えるのかという議論も興味深い。
    人間の行動に関しては脳が勝手にやったのか、自由意志による選択によって行動したのかと言うことは重要な問題であり、人間社会の法律判断、選択による自由などについて法廷でも脳科学が判断に使われ判決に影響している。
    興味を引く議論は多々あるが、やはり自分が自分をコントロールしていると言う感覚は存在している。それはどうやら各部の脳の活動のダイナミクスの中で生じている感覚を意識と呼んでいるだけではないのか。つまり、実際のところ何も存在しない、言ってみれば「空」なのかも知れない。

  • 脳科学だけでなく、物理学、生物学、政治哲学まで幅広い分野を横断している素晴らしい書籍である。自由意思への解釈については、ネガティブなものからポジティブなものに変わった。時間をあけてもう一度じっくり読みたい。

  • Xでメチャクチャ面白い的な評判を見て興味を持って読んでみたものの、面白く感じるためには一定の知能レベルが必要なようで、ほどなく積読となってしまった。
    まえがきまでは面白そう!って感じだったんだけどなぁ

  • 「講義」をベースに構成された本というだけあって、ガザニガの「語り口」は実に融通無碍・変幻自在の展開を見せる(ガザニガ自身が「何の話をしているんだ?」と我に返るところで笑ってしまう)。だが、その「ゆるさ」にダマされてはいけない。ベースにあるのは豊富な脳科学の知見、そして政治思想・倫理学・哲学といったジャンルを自由自在に越境・横断する知の蓄積なのだ。だから読んでいて野蛮さすら感じられる。たしかにここまで手を広げられると各分野のスペシャリストは眉をひそめるかもしれない。それもガザニガは「織り込み済み」だと思うが

  • 世界最高峰の学者だけが教壇に立てる「ギフォード講義」をもとにまとめられた本書で著者は、脳科学の足跡を辿りつつ、精神と脳の関係、自由意志と決定論、社会性と責任、法廷で使用されはじめた脳科学の成果の実態などを、やさしく語りかけるように論じる。行き過ぎた科学偏重主義に警鐘を鳴らし、人間の人間らしさを讃える

  • メモ:私たちは人間であって、脳ではない。
    カバー折り返しの文言より

  • 脳は、配線された無数の専用回路の集まりであり、無意識下で無数の並列分散処理を行っている。また、「意識」は、並列分散処理の結果を統合しているインタープリター・モジュールであり、総合的な単一のプロセスによって生成されるものではない。
    では、何故「私」は主体性を持った自己であるとありありと認識しているのであろうか?著者は、複数の脳の関わりについて言及する。複数の脳が関わるとにより、社会的な相互作用が発生する。他者の情動や行動をそれぞれが理解するなど。この社会的な相互作用の中に私たちがいると著者は指摘している。
    私たちは意思決定装置であると同時に、これらの相互作用が脳を制約するという二層の構造を持っている。この構造が、「確かに感じる」というありありとした意識であり、責任ある動作主たる我々であると結論する。脳は物理的な機械処理をしているに過ぎないという主張から一線を画す著者の慧眼に感服。

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