- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314011495
作品紹介・あらすじ
進化の末に、動物は「賢さ」を獲得した。
それは人間も、サルも、カラスも、イルカも、タコも、みんな同じである。
われわれは自分たちだけが賢いと思っていないか?
心理学との境界線を行くユニークな動物研究の分野を開拓してきた著者が、動物行動学の歴史から最新の研究まで、豊富な事例を示すとともに読者へと問いかける。ドゥ・ヴァールが新たに提唱する「進化認知学」とは――
人間中心の科学から脱却し、動物の認知とは何かを見つめなおす。
驚きのエピソード満載、著者自身の手によるイラスト多数。待望の最新作!
●チンパンジーは食べ物のありかを知っていることを悟られないようにふるまう
●カケスは相手が何を欲しがっているか見極めてプロポーズの贈り物を選ぶ
●アシナガバチは一匹ずつ顔が違い、仲間の顔を見分けている
●タコは自分を攻撃した人間を覚えていて、怒りをあらわにする
感想・レビュー・書評
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秀逸なタイトルだと思う。本書の主眼は、動物にはそれぞれの「ウンベルト」があり、それゆえ動物それぞれの特性を理解しなければ、その世界を理解することはできない、ということにあると思えるからである。そして、このタイトルは、それを探求していく進化認知学という著者が提唱する学問の方法論を見事に表現している。なぜ、チンパンジーが人の顔を見分けるテストを行うのか、チンパンジーの顔を見分けるテストを行うのが本来ではないのか?というわけである。本書で紹介されている動物たちの生態が興味深いのはもちろんだが、いったい、人間はどうすれば動物たちそれぞれのあまりにも異なる世界を把握できるのか、学問の進化としても大変に面白い。進化ということを考えたとき、人間だけが特別ということはないし、すべての種が必要な進化を遂げて環境に最適化している、という視点はとても重要に思える。
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進化認知学:人間とそれ以外の動物の心の動きを科学的に解明する学問を一般向けに教えてくれる本。著者は動物行動学の権威である。
いわゆる「動物」が、人間に劣らない認識力や文化さえ持っているのは、NHKの「ダーウィンが来た」とかを見ていると「当たり前じゃん?」くらい思うことなんだけど、まあ、そう思うのはただのイメージにすぎない。
そこに、本当に科学的な知見を与えてくれるのがこの本で、これまでの「動物は人間より劣るもの」という理解に一石を・・・いや一鉄槌を投じるものである。
話はすごく面白い。
例えば人間は、象やチンパンジーの知能を量るために、棒を持たせたり失敗した時のペナルティを課したりする実験を行い、上手く行かないからと言って「劣」のレッテルを貼ったりする。
しかしもともとそれらは、彼らの関心や生活実態にない道具なんだから、使いこなせなくて当然なのである。つまり実験とか言いつつ、所詮は人間の尺度、上から目線に過ぎないのである・・・云々。
すごく面白いんだけど、うーん、翻訳が非常にまずい。逐語的には正確なのかどうか、全然意味が伝わって来ない悪文のオンパレード。いかにも、内容をまったく理解していない訳者と、この本を読んで学ぼうかという読者のことをまったく考えていない監訳者の共同作業といった趣である。訳者は類書をいくつも翻訳しているので、内容を理解していないというわけではなさそうだけど。(監訳者は「非常に読みやすい訳」と評価している)
翻訳のまずさがわかるほどオレは日本語ができるのか、という辺りは内緒で・・・。 -
動物行動学の奇才が、自らの研究をふまえて一般向けに書いた科学啓蒙書シリーズの1冊。
彼の著作はいつもそうだが、随所にちりばめられた動物たちの驚愕エピソードを読むだけでも、十分に面白い。本書の中の例を挙げると……。
《チンパンジーは1コミュニティ当たり15~25種類の道具を使い、その種類は文化や生態環境の状況によって変わってくる。たとえば、あるサバンナのコミュニティは先を尖らせた棒を使って狩りをする。これは衝撃的だった。狩猟用の武器を使うようになったのも、人間ならではの進歩と考えられていたからだ》
このようなエピソードが山盛り。しかも、著者の専門である霊長類のみならず、さまざまな動物についての話が広く集められている。
そうしたエピソードを楽しんで読むうち、著者が提唱する「進化認知学」の面白さが、すんなりと理解できる。
進化認知学とは、「人間とそれ以外の動物の心の働きを科学によって解明するきわめて新しい研究分野」(松沢哲郎の「解説」より)である。
「人間だけが○○できる」というたぐいの思い込みが、近年、動物の認知の研究によって次々と覆されてきた。本書はそうした研究の最前線を手際よく伝える、秀逸なサイエンス・ノンフィクションである。
『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』という挑発的なタイトルは、原題の直訳だ。
このタイトルには、「この世界で人間だけが特別だ」と考える人間中心主義への痛烈な批判が込められている。
《認知には唯一の形態など存在せず、認知能力を単純なものから複雑なものへと格付けすることにはまったく意味がない。ある種に備わった認知能力は一般に、その種が生き延びるのに必要なだけ発達する》
にもかかわらず我々は、人間に備わった認知能力の形態だけを唯一の尺度として、動物にもあてはめてきた。人間の基準で動物をテストし、「人間にある認知能力が備わっていないから、この動物は劣っている」と決めつけてきたのだ。
だが、本書に紹介された“動物たちの驚くべき認知の世界”に触れると、一つの基準で認知能力を比べることの愚かしさがわかる。
そして、「そもそも賢さとは何か?」という根源的な問いをも、著者は読者に突きつけるのだ。 -
辛島における猿の芋洗い行動の伝播は教科書に載るほどに有名だが、それがいかに衝撃的であったかは本書でも取り上げられている。いわゆる「サル学」の分野では日本は間違いなく先進国で、辛島の報告を行なった今西錦司、本書に解説を寄せた松沢哲郎などは本書内ではほとんどレジェンド扱いである。本書は、彼らに強く影響を受けた「サルと寿司職人」などの著者が、動物行動学と比較心理学を統合した新しい学問分野を紹介するもの。
B・F・スキナーらが創始した比較心理学では、動物を人間心理のモデルとして扱いながらも、「連合学習」を重視するあまりそれぞれの動物の置かれた環境を軽視する傾向があった。これに対し、動物固有の「ウンヴェルト(環世界)」と動物の行動の因果関係を重視する動物行動学に、人間中心ではない動物たちの「認知」を研究の中心に据えるドナルド・グリフィンの知見を加えた「認知動物行動学」を対峙させつつ統合したのが著者の唱える「進化認知学」。これによれば、生物の認知機能はそれぞれの生き物の必要性に適応しつつつ進化した、ということになる(「生物学的に準備された学習」)。逆に言えば、必要とされるならば異なる生物に同じ(相似)能力が別々に現れる(収斂進化)のだ。
著者は数々の有名な動物の認知に関わる実験を挙げ、人間の認知が特別だとする言説に改定を迫る。例えば、言語の使用が人間の思考過程を特別なものにした、とする定説を批判し、多くの動物はボディランゲージなどの自らの環境に準備された情報を学習して利用していることを見落とすべきでない、とする。同様に、他者の心理を推測する「心の理論」についても、ある行動の模倣の際、行為者の意図まで汲み取る「真の模倣」についてはむしろ人間よりも類人猿によく当てはまることを指摘する。また、動物実験の手法についても人間中心の環境設定をするのではなく、動物たちが通常置かれた生態的・社会的環境を考慮した設定にすることで、認知機能は人間にのみ発現した跳躍などではないことが実証されるはずだとする。
アリストテレスの「自然の階梯」を著者がまるで人間を頂点とするヒエラルキーを表現したものであるかのように批判的に扱っているのが少々気になるが、アリストテレスの意図は勿論そのようなものではなく、「神は跳躍しない」即ち生物宇宙の構成には断絶はないことを表したもので、むしろ著者の意見とベクトルが同一だ。はじめから認知に関わる帰納的な一般論を探究するのではなく、それぞれの事例研究から認知に共通する構造を炙り出していくという進化認知学の手法も、偏執的なまでにフィールドワークに拘ったアリストテレスと通じるものがあると思う。 -
ぼくは動物は、少なくとも哺乳類は、それなりにものを考えていると思っている。当然感情も意思もあるし、個性もある。ペットの犬や猫と一緒に一緒に暮らした経験を通して、それを疑う理由はなかった。人間に比べればバカだなあ、単純だなあと思うことはあったけれど、それを言うなら連中だって人間を見て、足遅っ、とか、ネズミも獲れないんだ、と思っているだろう。逆に言えば人間と、人間以外の動物の違いはその程度だ。程度の違いであって、質の違いではない。
だから猿が芋を洗う、カラスがクルミを道路に落として車に割らせる、と聞けば、へー(思っていたより)頭いいんだ、とは思うが、意外だとは思わない。群れで暮らす猿や狼やイルカたちは、言葉に代わる方法でコミュニケーションを取ってて不思議はないと思う。人間ができることを、動物がやってはいけない理由はないだろう。
ぼくはずっと、ほかの人もそう考えているだろうと思っていたのだが、欧米の動物学の本を読んでいると、たまにどうもそのあたりの出発点が違うんじゃないかと思うことがある。デカルトは動物には魂(?)がなく、自意識もなく、単に刺激に反応しているだけである、という説を唱えたらしいが、ひょっとしたら未だにそういう見方が基本にあるんじゃないだろうか。だからこそ科学的に動物の振る舞いを調べる方法論が発達したのかもしれないけれど。
本書はつまらなくはないのだけれど、動物にも当然知的能力があるよね、と思っているぼくのような読み手にとっては、驚きはあまりない。 -
個人的な話で恐縮ですが、昔、実家に室内犬がいまして。
ある日、母が鍵を忘れたまま外出して、帰ったら先に帰った祖父が鍵を閉めていて家に入れず、呼び鈴を鳴らしても耳が遠い祖父には聞こえず、さてどうしようとなったら室内犬が扉越しに吠えていて、「たすけてー」と母が言っ(てみ)たら犬が祖父を呼びに行き、玄関まで連れて来て事なきを得た、なんていう話がありました。
こういうエピソード、結構ありふれてますよね。その割に動物の知性が認められていないのは、なぜか。人間側の姿勢に問題があるんじゃないのか。本著では、霊長類研究の第一人者がそれを紐解いていきます。
動物の言語理解能力については、ボノボが(表情で読み取られないよう)顔を隠した人間から「鍵を冷蔵庫に入れて」と言われて見事に遂行した事例なんかが紹介されています。他にも、忖度もする。文化やファッションもある。政治だってある。
それらを人間が素直に受け止められていないのは、固定観念とプロトコルの問題で、特にプロトコル…と私はざっくり表現していますが、本著では動物の立場からの視点を「ウンヴェルト(環世界)」と呼んでおり、早い話が動物と人間の間では同じ物にアクセスする時でも使う感覚(視覚とか嗅覚とか)からして全然違ったりするよね、という話で、肯かされました。
しかし、馴染みのない分野であることもあって、あんまり読み進まず。文章はそんなに難しくないと思ったんですが。。なんかビックリするくらい頭に入ってこず、おかげで読了するのに結構時間がかかりました。
とは言え内容的には動物って凄い的な事例が並んでいて、そこをトリガーに話が進んでいくシンプルな構成です。進化認知学というモノの概要を知るには良い本だと思います。
そこを下敷きにそれ以上の学びを得るというものではなく、タイトル以上でも以下でもなく、少し冗長なようにも感じました。
ちなみに、本文中に「奇妙奇天烈な結論」という表現があったのですが、原著ではどんな表現なんだろう。。本文中に誤植が2箇所あったのは残念。 -
やっと読み終わった。ずいぶん時間がかかった。
タイトルは「人間は賢いのか」という疑問形だが、もちろん論旨は「動物の賢さがわかるほど人間は賢さを定義できていないし、だから当然測定もできやしない」である。
スティーブン・グールドが『人間の測りまちがい』で人間の人種・民族間の知能の測定方法の誤り(たとえば、生得的な知能測定のつもりが如何にアメリカナイズされているかを測定する内容だったとか)を告発し、白人を特権的な地位から引き摺り下ろすのに一役かったが、本書ではその対象が人間という種全体に及んでいる。
どうもアメリカはキリスト教保守派という票田があるからかエセ科学がはびこっていて、こうした一般向けの科学書を書く人(著者や上記グールドやドーキンスなど)は闘志をむき出しに書かざるを得ないようで、これも読んでいて非常に疲れた。日本人向けだったら半分ぐらいの内容で済んだと思う。 -
異なる立場の考え方に対する攻撃的な口調に終始する。淡々と語ってくれたら興味深い内容なのだが、読んでいて怒りのはけ口にされている気分になる。
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賢さには、たくさんの種類がある。
例えば、言語。
人間は言葉を喋る。犬や鳥は、今のところ人間の言葉を喋らない。だから、犬や鳥は無能なのか?
犬は人間の1億倍ほどの嗅覚をもつ。
鳥は宇宙を駆ける翼をもつ。
どちらも人間にはない能力である。
種によって、または人によって、賢さの基準は違うんだな、と考えさせられた本だった。