恐怖の法則: 予防原則を超えて

  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326154357

作品紹介・あらすじ

人々は恐れるべきでないときに恐れ、恐れるべきときに大胆であったりする。民主制国家において時として「危険に対する人々の狼狽」は集団、都市、ひいては国家に多大な影響を及ぼす。人々の恐怖/不安と法や政策の関係はどのようにあるべきか。熟議民主主義・合意論をリスクや恐怖/不安という現代に欠かせない視点と交錯させ論じる。

感想・レビュー・書評

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  • 社会がリスクや不確実性による恐怖に直面したとき、それへの対処として様々なものが考えられる。その中の代表的なものの一つが「予防原則」と呼ばれるものである。予防原則とは、「潜在的な危害が認められる場合、たとえ因果関係が明確でなくとも、規制主体は防御するための対策をとるべきである」という考え方に基づいている。

    このような事例は、地球温暖化や核保有といったグローバルな課題、遺伝子組み換え食品や有害物質の規制といった科学的なリスク管理、テロやパンデミックといった社会・経済的な動乱をも引き起こす出来事など、様々な領域で見ることができる。

    この本は、予防原則に一定の役割を認めつつも、その他の方法も含めて、我々の社会がこのようなリスクや不確実性にどのように対応していくべきかを探究した本である。

    本書ではまず、恐怖への対応として一般的に提唱されている予防原則にどのような限界があるのかという点に触れている。最初に思い浮かぶ課題は、予防原則自体がその適用の基準(どの程度の大きさの危険があれば適用されるのか?どの程度の規制が妥当なのか?など)が曖昧であるという点である。

    しかし筆者は、より本質的な課題は、予防原則自体が予防原則を適用不可能にするという点にあると述べている。すなわち、予防原則に基づいて規制を課すこと自体が新たなリスクを生むことがしばしばあり、規制すること自体が予防原則違反になってしまうという状況である。

    予防原則自体が、このような曖昧さや論理的な一貫性の不備を抱えていながら、実際の政策において頻繁に検討される背景には、我々がリスクや不確実性について考える際の、行動経済学、認知心理学上の傾向がある。

    筆者はそれを、
    ・想起可能性ヒューリスティックによって、あるリスクを他のリスクより起こりやすいものと考えてしまう
    ・確率無視によって非常に小さい(がカタストロフィックな)リスクを過大に評価する
    ・損失回避性により、現状から損失が出ることに対して回避的になる
    ・自然のものを信頼し、人工物や人為的な施策に対して懐疑的になる
    ・システムの存在を無視し、リスクはシステムに内包されていることや、システムに介入すること自体がリスクを生むことに気が付かない
    という5つに整理をしている。

    恐怖というのは心理的な現象であり、恐怖は我々の認知に対する社会的な影響や、それに対する心理的な反応に左右される。筆者は、我々自身の心理的な傾向や、メディア、社会集団内のコミュニケーションなどの役割を例に挙げながら、我々がリスクや不確実性に必ずしもうまく対処できないということを説明している。

    これらは、予防原則に代替する方法を検討する際にも有益な視点を与えてくれる指摘である。

    本書の後半において、筆者は予防原則を補完するその他の対応方法について、検討している。それらは、費用便益分析と、リバタリアン・パターナリズムである。

    費用便益分析は、政策科学の分野で頻繁に取り上げられ、実際の政策形成においても適用が進められている。今敢えて費用便益分析に注目することにはやや意外性もある。しかし、費用便益分析は、何が実際に問題となっているかについてより具体的な感覚をもたらすことで、我々がリスクや不確実性に対して過剰、もしくは過小な反応をすることを、是正する機会を与えてくれる。このことは、予防原則を補完する大きな特徴であると言えるだろう。

    筆者は、費用便益分析の適用にあたる留意点について、いくつか述べている。最も重要な点は、リスクの内容や人の相違によって、費用便益分析のベースとなるVSL(統計的生命価値)が異なるということについて、どのように考えればよいのかということである。

    人間の認知的な側面や所得水準・価値観の違いなどから、統計的には同じような確率のリスクに対しても、異なる人や集団が異なるVSLを提示する。しかし、筆者によれば、それらを単一の値に集約・集計するのではなく、ある程度のまとまりの中で、異なるリスクに対することなる社会的態度を取り込んだ分析を行うべきであると述べている。

    例えば、所得水準が異なることによりVSLが異なる集団について、同一のVSLに集約した政策を実施するのではなく、所得の格差を補助金で是正する施策を講じながら、異なるVSLに基づいた適切な規模・水準の規制や誘導を行うべきであると述べられている。VSLを平均値や中央値に集約して一律の政策を実施することは、貧しい層に強制的に高価な社会政策を選択させることになり、社会全体の厚生は高まらないという結果になる。

    筆者が紹介するもう一つのアプローチは、リバタリアン・パターナリズムである。これは、人々の選択肢を残しながら(リバタリアン)も、その認知や選好の偏りを是正するような施策を打つ(パターナリズム)というアプローチである。

    多くは行動心理学の研究成果を活用したものである。例えば、デフォルト・ルールを設定することで、そこから別の選択肢に移るコストがそれほど大きくなかったとしても、人々はデフォルト・ルールを選択する割合が高くなる。また、リスク回避に対する支払意志額(WTP)は、最初に選択肢として提示される額のレンジに大きく左右される。その他にも、選択肢が提示される文脈に依存的になるというフレーミング効果も考えられる。

    規制主体は、規制を実施するべきかを判断するために必要な情報を十分に持っていることはあまりない。しかしそのような場合でも、リバタリアン・パターナリズムによる施策は、人びとの選択肢を残しつつも、ある程度の誘導効果でリスクや不確実性に対処する手を打つことができる。そのような意味で、このアプローチは費用便益分析を代替する有効なものの1つであると言える。

    筆者は本書の後半において、これらの規制、誘導を行うことと自由や民主主義との関係についても論じている。筆者には行動経済学などの著作もあるが、本来の専門分野は法哲学であり、社会が恐怖へ対処する方法が自由への過剰な侵害にならないこと、そしてその決定プロセスが熟議による民主主義的な意思決定とある程度の整合性を確保するために、留意すべき点について考察している。

    立憲民主主義社会においては、規制や誘導を伴う措置は、憲法に定められた範囲内で立法府による立法行為によって根拠づけられる。そして、その行為に対するチェック機能は、裁判所による憲法判断を通じて果たされる。筆者も、基本的にこの枠組みを前提にしながら、議論を組み立てている。

    重要だと感じた点は、恐怖への対応が特定の集団のみに課される自由の侵害につながる可能性がある場合、裁判所はより厳しい基準で審査をすべきであるという指摘である。テロリズムへの対処や貧困層、マイノリティを対象とした規制などがそれに当たる。また、恐怖を感じる当事者と規制を受ける当事者が異なる場合にも、バランスの取れた判断がなされない可能性が高まるため、慎重な判断が必要である。

    全体を通して、提言や指摘の内容は正攻法の内容であると感じた。まったく新しいスキームが提示されるということではない。むしろ恐怖への対応という、社会が感情的な反応をしがちな状況において、社会が公正でバランスの取れた対応をするためには、本書に書かれているような人間の特質や、それぞれの対処方法の特徴を頭に入れた上で、検討をする必要があるのだということを気付かせてくれる本であると感じた。

  • 前に読んだ『熟議が壊れるとき』が専門家の先生方の翻訳でかなり読みづらかったのと比べると、こちらは神戸大学の学生さん方の訳が下地になっているので非常に読みやすく理解しやすくて助かりました。内容的には、この分量で解説しなきゃいけなかったのかどうか疑問。

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著者プロフィール

ハーバード大学ロースクール教授。専門は憲法、法哲学、行動経済学など多岐におよぶ。1954年生まれ。ハーバード大学ロースクールを修了した後、アメリカ最高裁判所やアメリカ司法省に勤務。81 年よりシカゴ大学ロースクール教授を務め、2008 年より現職。オバマ政権では行政管理予算局の情報政策及び規制政策担当官を務めた。18 年にノルウェーの文化賞、ホルベア賞を受賞。著書に『ナッジで、人を動かす──行動経済学の時代に政策はどうあるべきか』(田総恵子訳、NTT出版)ほか多数、共著に『NOISE──組織はなぜ判断を誤るのか?』(ダニエル・カーネマン、オリヴィエ・シボニー共著、村井章子訳、早川書房)ほか多数がある。

「2022年 『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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