- Amazon.co.jp ・本 (403ページ)
- / ISBN・EAN: 9784326653577
作品紹介・あらすじ
単なる方法であるはずの「個人主義」が、なぜ人々の思考をこれほどまでに拘束するのか?-M.ウェーバーの中で極限に達したひとつの思考様式こそが社会科学全体を呪縛し続けているのではないかという問いへの新たな深化がここにある。
感想・レビュー・書評
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筆者によれば、多くの社会学や哲学は、カントの用意した「個人」という枠組みの中でひたすら自己産出を続けてきた…としたうえで、「個人」に依拠する思想を厳しく論難する。さらに、社会学は「社会」という名を冠しながら、実際に対象としているのは「個人」(か擬個人化された組織)ばかりであるとする(その代表例が、アンソニー・ギデンズ)。
そのうえで、社会学でこれまで扱われている「社会」は、「個人」により操作可能なものという前提に成り立っており、しかもそのことに気づかず自己産出していて、さらに自己産出していることにも気がついていない、という。この筆者の苛立ちが、本の端々から感じられる(本当に社会学がそうなのかどうかはわからないが)。筆者は、「社会」について、「それ自身を目的とした自己言及が循環することによって形成されていく」(p.315)とする。
印象的だったのは、「「自由な個人」を勝手に想定し、前提として議論を組み立てること」に警鐘を鳴らしている点。これは歴史学でも「変革主体」という塑型でかつてあったものだし、今でも「変革主体」は言わずとも「自由な個人」を理想型にした議論というのはよくある話である。
しかし、自らが「外部である」ということをやめて、自己言及を続けることが本当に可能なのかということについては、もうひとつよくわからない。語ることがシステムを産出することでしかないとするならば、いくら「社会」や「個人」についてその外部に出ようとしても出られないわけだから、もはや語ることをやめるしかないのではないのか…。
この点、筆者は「問題をあえて突き詰めないこと」という選択肢を提示する。「個人」に終始する人々が熱中する論点を外して思考を再出発することを提案している。その理屈は、わかる。でも、「その論点を外した思考」もまた、「個人」をめぐるゲームの中にあるのではないか…。
まあそれでも、「自らが外部である」という言説には僕もうんざりしているので、その点はこの本に共感するところ大である。それが〈「自らが外部であるということをやめよう」という外部〉にあるのだとしても…。詳細をみるコメント0件をすべて表示