社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

  • 勁草書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326653775

作品紹介・あらすじ

なぜ「対立」は生まれたのか?保守運動家・フェミニストへのフィールドワークと、膨大な資料分析から、「対立」の背景を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 00年代半ばごろに吹き荒れた「ジェンダーフリー」への「バックラッシュ」の嵐。
    あれは一体なんだったのか。論争のフェミニスト側当事者であった著者たちが、保守側の当事者を訪ね、検証したまとめ。
    あのげんなりする感じは、あれが学術論争ではなくイデオロギーの押し付け合いとヘイトの塊だったからか。

    「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」を実践するような内容。
    そこでまっさきに自らを俎上にのせるのがこの本のすごいところ。

    登場するいろんな人がそれぞれの信念に従って持論を述べる。
    フェミニズム側からみると反論したくなるような意見も多々あるけれど、それに対する著者たちの見解は語られない。
    これは論争の続きではなく、あくまであの騒ぎの検証だから。

    なんだか風車と闘っている人がいっぱいいる。
    相手が風車なら攻撃されたって怒らないし多少のことでは倒れない。
    でもドンキホーテ同士が出会ったら、話は噛み合ってないのに本物の決闘が始まってしまう。

    保守は「ジェンダーフリー=性差を無くそうとする思想」という思い込みを根拠にフェミニズムを攻撃する。
    フェミニストは想像上の「いかにもそういうこといいそうな感じ」の人達をバックラッシュ派として弾劾する。
    どちらも脳内の「悪の組織」みたいなものを攻撃しているんだけど、「フェミニスト」と「保守」は実在しているから、誤解曲解の上に立っても喧嘩はできる。

    私はこの論争をリアルタイムでみていた。
    保守側のものも一応読んだけど、相互理解のためじゃない。論破するために読んでも気持ちの理解はできない。
    だから「バックラッシュ派は書いてあることを読みもせずに曲解しては難癖をつけてくる既得権にすがりたい人」というイメージを持っていた。
    この本に出てくる保守にはそういう人もいるけれど、そうじゃない人もいる。
    話の通じない人よりも話の通じる人のほうが怖かった。

    日本時事評論(保守紙)の山口敏昭編集長は、フェミニズムの文献を読み、理解した上で反対する。
    そこまでは思想の違いだからわかるんだけど、内容を理解してなお「注意を惹くため」曲解のプロパガンダを発する。
    多分、曲解というよりは多少大げさにいってみた程度の認識じゃないかと思う。

    映画の「不都合な真実」を思い出した。あれはプロパガンダのうまさが怖かった。
    出した人が誇張を理解していても受け取る人はそのまま信じてしまう。
    そこを煽ることの怖さをわかっていない。
    だけど例えば「ジェンダーチェック」に疑問を出さなかったり、隙をついて条例を通しちゃいましょうというフェミニズムの側も、同じことをしている。

    どちらも、多少手続きに誤りがあっても、正しい答にたどりつけば良いと思ってる。
    自分の思想を信じているから、正しい手順を踏まないと答がゆがむかもしれないことに気づかない。というか方法が正しくないことにも気づけない。

    p98の、山口編集長の言葉はなかなか衝撃的だった。
    “フェミニズム運動はレッテル貼りがうまく、「右翼」や「新興宗教団体系」、そして「バックラッシュ」「バックラッシュ派」などといったレッテルをすぐ貼ってしまう。そして「敵/味方」「善人/悪人」といった単純な対立構造を仕立て、自己の正当性を誇示するが、違った意見を聞き入れる寛容性をもたないのではないかと思う”
    うわあこれこのまんま私が保守にいだくイメージだよ。
    お互いに対話も検証も絶対的に足りてない。と思う反面、やっぱり私は保守が嫌いだから「曲解キャッチフレーズをあれだけ出しておいてどの面下げてこのセリフが言えるのか」とも思ってしまう。


    文章も作りもわかりやすくて読みやすいけれど内容を飲み込むのに気合いがいる。
    「この人はこういう意見」「この主張はどこから来ているんだろう」という読み方をしようと思っても、やっぱり無知と偏見にもとづいた差別的な言葉はみるのがしんどい。
    論争自体が気力を削りあうような実のないバトルだったから、ふりかえりも滅入る。
    でもしんどいから見ないまんまで批判したら、ここで論じられている無根拠な論争をなぞってしまう。

    図書館で借りたのを休み休み読んでいたら時間切れ。5章まで。
    続きは気力を養ってから。



    しっかり読まなきゃと思いながら頭の片隅に浮かんでいたのは「君が代・日の丸」のこと。
    私が高校生の頃は今ほど右傾化していなかったから、卒業式の対立はあったけれども今より健全だった。
    反対する教員がまだ生き残っていて、歌わせたい人たちとなんかやってた。
    まさに「なんかやってた」という感想しかなかった。
    「私の卒業式なのにどうでもいい人がどうでもいいことで争っている」と思っていた。
    今は大事な部分で闘っていたんだとわかるけれど、当時は知らなかった。
    愛国教育は受けなかったけど論点も教えてもらわなかったから、何を通そうとしているのかがわからなくて、ただ諍いを嫌悪した。
    だからこの国旗国歌問題を知ろうと思ったのは最近だ。それまでは「なんか面倒くさそう」と思ってたから。

    この本の中の論争も、しばらく追っていたけれど重箱の隅でケンカしているように思えてきて離れてしまったんだった。
    これだけ「おおきな」争いだけど、この界隈に興味のない人は論争の存在さえ知らない。
    そこが問題なんだよなきっと。


    『自由論』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4003411668自分の理論を強くしようと思ったら敵対する思想を学びなさい、それもただ読むんじゃなくて、その陣営で論陣を張れるくらいにしっかり理解しなさい、ってなことが書いてあった。

    『性教育裁判―七生養護学校事件が残したもの』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4000094653 根拠も検証もない批判で教育に口出しされた事件

  • 出たときから、読んでみたいなー、買おっかなーと思っていた本。あまりの忙しさと、とある人の「あんな人たちの本読まなくていい」発言でちょっと気持ちをくじかれたが、やっと12月に入手。

    私はたぶん、フェミちゃん周辺の本や書き物を人よりは多めに読んでいるが、この本を読んで、どうも90年代半ば以降がごそっと抜けてるんやなと思った。90年代終わりから2000年代初めは、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、死人が出たり病人が出たり、自分の周辺がてんやわんやだったせいもあるのだろうが、「男女共同参画社会基本法」が成立したことは私の記憶には全く残っていない。

    この基本法制定以降、都道府県や市町村で「男女共同参画条例」がぞくぞくと制定されたこともほとんど記憶になく、条例制定をめぐって各地でいくつか悶着があったことは知識としては知っていたが、具体的に何が問題になっていたのかは知らなかった。

    法にしろ条例にしろ各地の施設名称にしろ、「男女平等」ではなくて「男女共同参画」というフシギな言葉になったいきさつもよく知らずにいるが、「男女共同参画って、何なん?」というギモンは、いつしか私の中に育っていた。

    「ジェンダー」という言葉も、自分自身が「こういうことや」と説明できずにいたので、ずっと長いこと自分の書くものでは使わなかった。「ジェンダー」が(わかったかも!)と思う瞬間はときどきあったのだが、考えていると、またぐるぐるしていた。フェミちゃん周辺の本やジェンダーが何とかいう本は、それなりに読んだりしていたが、そういう本はなんだかどんどん難しくなっているように思えた。

    そして、「バックラッシュ」と呼ばれた、2000年代半ば以降の"ジェンダーフリー"に対するバッシングの動き。私は当初この言葉を聞いた時には、だいぶ前に訳本が出たスーザン・ファールディの『バックラッシュ』の本のことを思い浮かべたものだった。その後、「バックラッシュ」と名指して批判する側の言い分に私も少なからず影響されて、バックラッシュ派=古くさい主張をする保守ごりごりの人、という印象になっていった。

    …そんなことを、この本を読みながら思い出していた。

    この本の著者たちは、2005年以降、フェミニズム側と保守側で悶着が起こった地域を訪ね、「バックラッシュ派」と呼ばれた人たちと会って、その行動に至った背景や思いを聞き取ろうとしてきた。また、その動きに直面した側の人たち、フェミニストと呼ばれる人たちや、地元の住民たちにも会って、話を聞いてきた。

    著者たちは、自身が「フェミニストである」と明言して、バックラッシュ派の人たちとアポを取り、会っている。お互いに、会うまでは相当の緊張もあったと書いてあるが、実際に会って話をしてみれば、立場の違いはあり、主張に同意できないところは残るものの、「なぜこの人たちがフェミニズムを批判するのか、どういう人たちで、どういう考えにたっているのかについて、聞くということをそれまで私自身もしてこなかったことを思い知らされた」(p.96)と、宇部を訪ねた山口智美は書いている。

    それは、千葉、都城、福井を訪ねた章でも同じで、「こちらは相手を「恐ろしいバックラッシャー」、向こうは「過激なフェミニスト」と、お互いのイメージを胸に初対面の時を迎えた」(p.209)が、それでも会ってみれば、対話への糸口が全くないわけでもない、運動体の問題点や運動の方法に関してなど興味関心が共通することもあり、思った以上に互いの姿が似ていると発見することもあった、という。

    ▼市民運動化していく保守運動と、体制保守化していくフェミニズム。山口県宇部市の事例は、多くの論点を私たちに残した。「正義」というものは、中央から地方へと啓蒙されるものなのか。国家および行政が、「特定のジェンダーイメージに基づいて生きたい」という市民に対し、「性役割にとらわれずに生きる」ことを求めるというのは、どこまで正当化しうるのか。「抑圧される側からの批判」を続けてきたフェミニズムだが、政治権力を運用する側に立った際に、それまでの方法論をそのまま使うことは、大きな危険を伴う。(p.330)

    そして、「男女平等」にしろ「男女共同参画」にしろ、"男女"でええんやろかと考えるようになった私には、4章の都城での条例づくりの話、市町村合併前の都城市の旧条例にあった表現のことは、印象に残った。

    ▼都城市の旧条例で使われた「性別又は性的指向にかかわらず」という簡潔な表現は、考え抜かれた文言である。「性別にかかわらず」により、「男であるか女であるか」そのどちらであるかを問わない。性差別がないことはもとより、トランスジェンダ-、性同一性障害、インターセックスなど、性別は男か女かに判別できるものだという性の二元論に合致しない人の人権を考慮すべきであるとする。一方「性的指向にかかわらず」では、性的意識の対象が異性、同性、あるいは両性のいずれに向かうかにとらわれないことを指す。つまり、そのいずれであっても人権が尊重されるべきであると説いていることになる。したがってそれらを組み合わせた「性別又は性的指向にかかわらずすべての人の人権」という表現は、幅広い層の性的少数者の権利擁護を明文化している。(pp.156-157)

    5章で書かれる福井の図書問題のところでは、私自身が男女共同参画とついた施設の図書室で3年間はたらいた経験を振り返ってみて、この本でも書かれているように、「男女共同参画にふさわしい図書とは何か」ということ、図書館との違いは何なのかということは、いまもあまりよくわからんなーと正直思う。

    『奥むめおものがたり』を読んだあとに、読みかけていた残りを集中して読んだこともあって、ヌエックのことを書いた6章「箱モノ設置主義と男女共同参画政策」では、あの本でさらーと書かれていた、ヌエック設置に至るあたりは、そうなっていたのか~と思った。

    この本によれば、ヌエックは、「全国の女性運動が国に要望してできた」のではなく、「高度経済成長により潤沢になった国家財政を背景に、文部省所管の社会教育施設を青少年にとどまらず、「婦人」へと拡張するために構想されたもの」(p.257)だった。そこには、国民を「オシエ・ソダテル・ミチビク」という官僚トップダウンによるシステムの香りがある。

    ▼当時の文部官僚の語りを追うと、事実は「女性たちが要請」したわけではなく、新たに建物を建てて、そこでの事業で女性や女性団体を組織化し、傘下に置こうとしていたことが明らかだ。(p.271)

    奥むめおらが結成した全国婦人会館協議会、いまの全国女性会館協議会のこともここには書かれている。
    ▼ヌエックは「研修、調査研究、情報、交流の四つの機能を有機的に連携させることにより、女性教育の振興を図り、もって男女共同参画社会の形成を促進」を掲げ、研修を事業の柱としている。しかしながら、…その看板である研修事業の三分の一以上が外部業者に丸投げされている…。(p.267)

    中でも全国女性会館協議会は、1997年以来、文科省の委託事業を継続して受けており、このNPOに「ヌエックは主たる事業であるはずの「女性リーダー教育」事業を委託している現状」(p.274)だという。

    ▼戦後から70年代頃までは、女性運動においても権力を問う議論が見られたが、80年代以降、女性学・ジェンダー学が広がりはじめ、現在では箱モノ設置主義という行政施策のあり方を問う議論はほとんど見られない。税金の使途の妥当性、官と民の関係、国と地方の関係を見直すという視点から、ヌエックをはじめとする男女共同参画センターのあり方を再検討することが、改めて求められている。(p.276)

    公立の男女共同参画センターの多くに図書室的なものが設けられているのは、ヌエックをまねっこしてのことであるらしいが、そういう"形のまねっこ"は、各地の条例づくりにおける"モデルのまねっこ"とも通じるように思え、そんなふうにできてきたセンターや条例を「市民の要望でできた」とか「女性たちの要望が実って」と言うのは、やっぱり違うように感じる。(事業内容や事業名称の"まねっこ"も、あちこちにかなりたくさんみられるのだ。)

    この本の主張は、巻末の「結びにかえて」にシンプルにまとめられている。私はこれに、けっこう共感する。そして、フェミニズムだけの問題とちゃうよなーと、それもつくづく感じる。
    ・フェミニズムの運動は、中央から地方へのトップダウンで進められるべきものなのか。
    ・文化やコミュニケーション、振る舞いや内面の批評ばかりへと、フェミニズムの対象が偏っていてよいのか。
    ・貧困や暴力、差別や排除など、具体的な危機が多数ある中、「ジェンダーの危機」ばかり叫んでいてよいのか。
    ・ジェンダー概念を「知っている者」から「知らない者」へと啓蒙、啓発する、そうした「キヅカセ・オシエ・ソダテル」活動にばかり偏っていてよいのか。
    ・フェミニズムはこれまで以上に、実証的な分析と、実効的な活動と提言とを行なっていく必要があるのではないか。(p.334)

    この本で言及される人のほとんどについて、注で生年を書いてあるのだが、著者についてはその生年情報がなくて、ちょっとフシギ。世代差もそれなりにあるように思うので、著者の生年も入れてほしかったなーと思う。

    知ってる人の名もずいぶん出てきたので、読んだ人がいたら、いろいろしゃべってみたい。

    *『社会運動の戸惑い』特設ページ
    http://www.webfemi.net/?page_id=1154
    (正誤表もあり)

    (1/4了)

  • 図書館で予約したら80人待ちとか言われ、た割には早く順番が来て、しかしここ最近で最も忙しい時に来たので、一章しかちゃんと読めず。延長もできないしね、まだ待ってる人いるでしょうから。

    読んだのは斉藤正美による「第五章 男女共同参画とは何か」。推進員になったひとが、まず勉強し、その人たちが市民を啓蒙する。だけど行政側に、こういうのが共同参画だ、という方向性がない。というのに驚愕。すすんで委員になる人は真面目ではあるが。

  • ジェンダー

  • 【目次】
    まえがき [i-vii]
    目次 [ix-xiii]
    本書に登場する地域名 [xiv]

    第一章 「ジェンダーフリー」をめぐる対立 〔山口智美・荻上チキ〕 001
    1 「ジェンダーフリー」と「男女共同参画」の誕生 002
    「ジェンダーフリー」の登場/女性学・ジェンダー学者の関わり/ジェンダーフリーの広がりと意識啓発事業の拡大/バーバラ・ヒューストン誤読事件とその後の混乱/「男女共同参画」の誕生/クリスティーヌ・デルフィの「ジェンダー」をめぐる混乱
    2 反フェミニズム運動とジェンダーフリー批判 019
    「バックラッシュ」の展開とジェンダーフリー/メディアと政界の動き/「ジェンダーフリー」批判の高まりと反「男女共同参画」言説の展開/中央政界とネットメディアの動き/反フェミニズム書籍の出版/「行き過ぎたジェンダーフリー」と「過激なフェミニズム」
    3 「バックラッシュ」の退潮とフェミニズム 034
    ジェンダーフリーの没落と「バックラッシュ」の退潮/フェミニストの言論と実証研究の欠落

    第二章 地方からのフェミニズム批判――宇部市男女共同参画推進条例と『日本時事評論』 〔山口智美〕 049
    1 日本時事評論との出会い 050
    2 基本法から「モデル条例」へ 054
    3 『日本時事評論』とは? 057
    『日本時事評論』という新聞/新生佛教教団とは?/日本時事評論と「良識取返し国民運動」
    4 ひっくり返された宇部市男女共同参画条例案と保守の動き 062
    山口県大泉副知事の就任と男女共同参画推進条例制定/宇部の条例制定と「住民参加」の限界/条例案への「バックラッシュ」の展開/同日に開催された/二つの集会/条例の制定へ
    5 「モデル条例」への反発と地方議員の役割 074
    「条例のつくり方」と「モデル条例」への批判/広重市郎市議の果たした役割
    6 日本時事評論の役割 078
    山口県での観光、バーベキューと対話の積み重ね/『日本時事評論』のメッセージをと戦術
    7 宇部条例は「歯止め」の役割を果たしているのか 086
    日本時事評論がみる宇部条例の成果/条例と基本計画の使い方
    8 宇部条例への注目と「モデル条例」のアイロニー 090
    条例をめぐる複雑な状況/保守勢力の「モデル」になった宇部市条例
    9 フェミニズムをどうみているのか 093
    反フェミニストたちの暮らし、信仰と思い/山口編集長のフェミニズムへの視点
    10 男女共同参画の一〇年間は何だったのか? 099

    第三章 千葉県に男女共同参画条例がない理由――条例制定運動の失敗と保守の分裂 〔山口智美〕 107
    1 唯一条例がない県・千葉 108
    2 男女共同参画条例案をめぐる顛末 110
    堂本県知事就任と男女共同参画条例づくり/堂本知事と担当課長の条例づくりへの思い/条例案上程と「バックラッシュ」/自民党案上程と廃案
    3 「良識的な条例づくり」を目指した日本会議系保守運動 118
    審議会方式の条例づくりへの批判/「過激なフェミニズム」のシンボルとしての千葉県/日本時事評論と運動への関わり
    4 保守の分裂 125
    もう一つの保守の動き/千葉展正と日本会議 / 日本時事評論の対立/自民党DV条例案への危機感/自民党条例案への反対運動
    5 フェミニストの動きと千葉県条例 135
    6 条例廃案後の千葉県と、運動の衰退 140
    森田県政以降の男女共同参画とフェミニズム運動/条例運動後の保守と男女共同参画
    7 千葉県条例をめぐる運動が提示した課題 143

    第四章 「性的指向」をめぐって――宮崎県都城市の条例づくりと『世界日報』 〔斉藤正美・山口智美〕 147
    1 フェミニズムへの「バックラッシュ」と世界日報 148
    『世界日報』との接触/きっかけとしての、都城の男女共同参画条例
    2 都城市男女共同参画社会づくり条例 153
    宮崎県都城市/市民、市職員、議員の人的ネットワーク/男女共同参画推進懇話会の設置/性的少数者を「見える化」したい/岩橋辰也市長とたもつゆかりアドバイザー
    3 条例への反対の動き 166
    世界日報の世界観と同性愛・両性愛批判/地元の情報提供者と「ブリーフィング」の開催/保守系内村仁子議員の反対理由/保守系 有満忠信議員が反対に回ったわけ/異なる「市民の声」の存在の指摘
    4 旧条例の制定から新市長による条例再制定まで 179
    条例再制定に至る議論/市町村合併、新市長誕生、そして新たな条例の制定へ/尾辻大阪府議来訪と地元での受け止め
    5 世界日報によるインターネット戦略 192
    6 条例をめぐる係争から見える課題と「市民参加」の内実 193
    7 都城のこれから 195

    第五章 男女共同参画とは何か――ユー・アイふくいの図書問題をめぐって 〔斉藤正美〕 201
    1 男女共同参画センターの運用 202
    ユー・アイふくいの図書問題とは/男女共同参画センターの情報資料室/図書批判の動き
    2 推進員活動をしていた「バックラッシュ派」 208
    世界日報記者が男女共同参画推進員?/図書への異議申し立てをした推進員
    3 男女共同参画推進員という制度 215
    筆者も推進員に応募してみた/男女共同参画推進員制度と地域における運用/福井県男女共同参画推進員の活動と思い
    4 図書問題 223
    推進員から出た男女共同参画への疑問/男女共同参画にふさわしい図書とは何か
    5 インターネットの活用 234
    フェミニズムによるネット発信とその課題/インターネットと世界日報
    6 現在の福井の男女共同参画政策 239
    7 「男女共同参画」の意味を問い直す機会の損失 242

    第六章 箱モノ設置主義と男女共同参画政策――国立女性教育会館(ヌエック) 〔斉藤正美〕 247
    1 ヌエックや男女共同参画センター事業とのかかわり 248
    2 ヌエック問題とは 249
    事業仕分け/「箱モノ」批判の展開
    3 ヌエックと男女共同参画センター設立の背景 254
    女性教育施設設立の沿革/ヌエック設立の背景
    4 婦人教育・女性教育 257
    戦前・戦後の「婦人教育」の流れ/「女性教育」とは何か/ヌエックの女性教育の対象/官僚の語りと当時の女性運動
    5 運営体制 266
    官僚が果たしてきた役割/女性学・ジェンダー学者などのヌエックへの関わり/「女性運動」の要請という新たな語り
    6 ヌエックと全国女性会館協議会 272
    7 箱モノ設置主義と意識啓発事業の限界 276

    第七章 フェミニズムとメディア、インターネット 〔山口智美・斉藤正美〕 283
    1 フェミニストのメディア活用の現在 284
    2 女性学の書籍刊行と女性運動―― 一九八〇年代 285
    女性学の台頭/女性運動のメディア批判/「女性とメディア研究」と台頭
    3 「ジェンダーとメディア研究」と行政―― 一九九〇年代 290
    「ジェンダー」の登場と研究者の行政施策への進出/行政との連携による「ジェンダーチェック」「ジェンダーフリー」と規制の流れ/条例策定運動における表現規制問題
    4 フェミニズムによる情報ネットワークの構築―― 一九九〇年代 298
    北京女性会議とインターネット熱/JJネット――FAX通信網
    5 「バックラッシュ対抗」をうたいはじめてから―― 二〇〇〇年代 303
    アジア女性医療センターと「バックラッシュ」対抗としての情報発信/ファイトバックの会のテレビ番組利用と「バックラッシャー」イメージの構築/対抗手段としてのメーリングリスト/ブログ、まとめサイト、ミクシィなどでの「バックラッシュ」への対抗/「バックラッシュ」への対抗として始まったポータルサイトWAN
    6 フェミニスト・メディアの今後にむけて 319


    結びにかえて〔荻上チキ〕 [325-335]
    あとがき [337-345]
    調査記録 [xxxv-xxxviii]
    参考文献 [xi-xxxiv]
    事項索引 [iv-x]
    人名索引 [i-iii]

  • 「男女共同参画」とかの部分はなかなか難しかったけど、保守の人たちとフェミニズム側の人たちが対話を通じて、思想を超えて繋がる瞬間みたいところが読んでて安心したなぁ・・・!

  •  感想ではあるが、非常によく調査して書いた本だとは思う。反フェミニズム運動の当事者にわざわざインタビューしたり、フェミニストの翻訳のまずさを指摘したりする、その度胸は大いに認めても良い。
     ただ、フェミニズム運動が、どのような背景を持った組織に、どのように阻まれたのか、という点については、もう少し考察の余地はあると思う。フェミニズムに限らず、市井の人々の声をどのように政治に反映させるのか、という軽視してはならない点について、もう少し配慮は必要かと思う。ことに、先般の『はだしのゲン』の一件をみるにつけそう思う。

  • 互いの実像を見ずに対立したフェミニズムと保守系反フェミニズム運動。存在しない怪物の姿に怯え、恐れを抱く。そうしたことに時間を費やす間に本来直視すべきだった社会課題は、置き去りにされたのではないか。(※後日改稿予定)

  • 367.1||Ya

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。モンタナ州立大学社会学・人類学部准教授。専攻は文化人類学、フェミニズム。共著に『ネット右翼とは何か』(青弓社)、『海を渡る「慰安婦」問題』(岩波書店)、『社会運動の戸惑い』(勁草書房)など。

「2023年 『宗教右派とフェミニズム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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