グラマトロジーについて 上

  • 現代思潮新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (395ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784329000293

感想・レビュー・書評

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  • 前期デリダの主著。ずっと前から読もうと思っていて何回か挑戦したが毎回挫折した。なんとか1部を読み終えて、2部に行ったらするする進んだ。1部で挫折していた人は1部を読み飛ばして、2部から始めてもいいかもしれない。

    2部は、いつものデリダだ。レヴィ=ストロースとルソーの本について、時間をかけて、ゆっくりと読んでいく亀の歩み。デリダ自身に余裕と遊び心があるのが感じられる。

    対して、1部は思考が凝縮されていて、歩みも速い。プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、フロイト、レヴィナス、ソシュール、西洋哲学の代表的思想家が総登場して徹底的に批判検討される。まずテンポが速すぎるし扱う領域が広すぎるので、追いつけなくて当然。若気の至りだろう。けれど思考が凝縮されてマニフェスト化しているから、『グラマトロジーについて』が前期デリダの主著と呼ばれているのも納得できる。

  • 「真理」とは何だろうか。目の前にはっきりと表れ、誰にも疑えないもの、それが真理だろうか。われわれはそもそも、真理とはこれこれである、と名指したり、言ったりできるのだろうか。むしろ真理とは現象の背後に隠され、感覚ではとらえきれず、理性によって把握したと思っても、それをすり抜けてしまうようなものではないだろうか。
    この本を読んでいるとそんなことを考えさせられる。デリダがこの本で目論んでいるのは、問題を分析し、明晰にし、答えを出すことよりも、すでに与えられた(と思われている)答えに疑問を付し、問いに差し戻して、分からないことを分からないと認めること、複雑性がいかなる意味で複雑であるのかを明らかにすることであるように思われるからだ。
    デリダがこの本で読解するのは、レヴィ=ストロースとルソーのテクストである。それはこの二人の哲学者が、ヨーロッパの時代を特徴づける「音声=ロゴス中心主義」をもっとも鮮明なかたちで体現していると思われるからである。この本は、パロール(声)とエクリチュール(文字)をめぐる哲学書である。
    哲学はエクリチュールを貶めてきた。対話を好み、決して書かなかったソクラテス。哲学者は自分の真理を言明する。すると彼は自分の言葉を、声として聴く。「自分が話すのを聞く」。デリダによれば、この「充溢したパロールによる真理の現前」こそが、哲学の歴史をこれまで形作ってきた。文字は、声に劣るものとして、下位に位置付けられていた。
    レヴィ=ストロースは未開社会が文字(エクリチュール)を持たず、それにもかかわらず彼らの文化が代数学によって表現されるという事実のために、そこに西洋を相対化する「野生の思考」を見る。
    しかしデリダに言わせれば、それこそ「理性」を重んじる西洋中心主義の見方に他ならない。(デリダはとりあえず彼が代数学という数学に依拠していた事実は無視しつつ、)彼がソシュールの音声中心主義の言語学に依拠していることを指摘する。レヴィ=ストロースが未開社会を描き出すときに、彼のテクストに現れているのは、「声の社会を破壊するものとしての文字技術の脅威」という構図である。しかしデリダはそれは未開社会の本当の姿ではないと言う。
    なぜなら「エクリチュールなき未開社会」にもエクリチュールは存在するからだ。トーテムに代表されるシンボルの体系がそれだ。すでにエクリチュールの差異の戯れは存在し、そのためにパロールによる「現前の形而上学」の出現を抑えているのである。未開社会はパロールが優勢な社会なのではなく、すでにそれ自体が一つのエクリチュールであるシンボル体系のせいで、いわゆる「文字」が明示的に出現していない社会なのだ。
    レヴィ=ストロースは未開社会の中に西洋を見ているにすぎない。彼らに「文字に優越する声」という西洋の理想を投影しているにすぎない。
    次いでデリダは、ルソーの読解、とくに彼の『言語起源論』の読解に移る。
    ルソーは話すことによって他人に理解されようとする。ところが彼は(おそらく彼の個性によって)いつもこの試みに失敗してしまう。彼は言いすぎたり、言い損なったことを補おうとして喋りすぎたりして、結局は他人との意思疎通に失敗する。ともかくも彼はいつもそう感じる。だから彼は、自分を理解してもらうために、書き始める。パロールによって失敗したことを、エクリチュールの力を借りて、実現しようとする。しかし文字は、声の代わりにすぎない。彼の声のようにうまく彼自身を表してくれない。
    文字は、ルソーにとって、必要だが、決して本物の代わりにはなれない代補である。
    だから彼も西洋形而上学の伝統である、「音声=ロゴス中心主義」の系譜の中にいる。彼の思想のほとんどすべてが実はそれの反映である。政治においては、直接民主主義。これは声が直接届く範囲における小さな民主的都市国家を意味していた。彼にとっては政治が文字によって媒介されるというのは我慢がならないことだった。だから彼は、代表制=間接民主制を否定した。彼にとっては選挙で選ばれる代表者は、主権者の声を代弁する代補である。ちょうどそれは文字と同じ位置にある。経済では、商品の価値を代理する貨幣。商品は使用者の欲望を満たすが、貨幣は満たさない。それは商品の代わりとして役立つにすぎない。『言語起源論』における彼の主張もそうである。感情の自然な発露としての音楽が言語の起源である。文字は必要だが欠陥の多い代用品にすぎない。
    デリダは、ルソーのテクストを読み解くなかで、繰り返し現れる「代補」概念に注目し、そこに疑問を投げかける。代補は本当に代補なのか。代補されるものと代補するものとは、主従関係ではなく相互的ではないのか。言語の起源ということを考えたときでさえ、最初のパロール(声)の前に、エクリチュール(文字)が存在するのではないか。
    そもそもテクストを読解するとはどのようにあるべきか。「テクスト外なるものは存在しない」とデリダは書く。テクストを読むとは、超越的読解、意味されるものを探求することではない。哲学であれ、例外ではなく、すべてはエクリチュールとして、テクストとして、エクリチュール(書くこと)とレクチュール(読むこと)として、超越的な意味されるものの探求としてではなく、つねに意味されるものに先行する意味するものの戯れの痕跡として読解されねばならない。
    われわれはつねにすでにエクリチュールの戯れの網目の中に捕らえられている。すべてはテクストによって織りなされている。文字以前の純粋な声(パロール)、エクリチュールに汚染される以前の自然のままの声は、そもそも存在しないのではないか。そのような立場からすれば、「たんに現前や不在の戯れを屈折させたり、移し替えたりすることができるだけ」の「還元不可能な錯綜性」としてのエクリチュールの差延作用が生み出したものとして、テクストを読み解かなければならないことが、見えてくる。
    ところが哲学史においては、声はつねに文字に優位していた。形而上学の掃討に哲学が乗り出すときでさえそうだった。

    「そこには一つの法則が存在する。経験の観念は、それを用いて形而上学や思弁を破壊せんとするまさにそのときでさえ、その機能の何らかの点において、少なくとも現前という価値によって、なお存在論=神学の中に基本的に刻み込まれている。この観念は、現前との関わり合いをけっしてそれ自身において解消することはできないだろう。経験は、充溢が感覚的単純性であれ神の無限の現前であれ、つねに或る充溢に関係している。まさにそれゆえに、ヘーゲルやフッサールに至るまで、或る種の感覚論と或る種の神学との連累性〔共犯性〕を指摘することができるだろう。…」(下巻p.271)

    堕落。失われた現前の代補としての記号。希求される現前。「イデア界」(プラトン)。「自然に帰れ」(ルソー)。「原始共産制」(マルクス)。そして神と顔と顔を合わせていた「エデンの園」。繰り返し現れているのは同じモチーフである。それは根深い形而上学である。だから「現前の形而上学」は最後に残された形而上学なのだ。
    パロールをそのまま写し取ったものとしての表音エクリチュール=アルファベットは、それの対極である事物そのものを絵画的に表現する象形文字よりも、経済的であり、合理的である。哲学(=科学)の運動は、あらゆる形而上学を排撃しつつ、こうした事物の現前そのものを差延し、抽象的記号によって置き換えることで経済的に合理化し、理性によって自然を制圧する運動だった。歴史とはこれ以外のものではない、つまり事物と一対一に対応する絵画的エクリチュールと、極度に合理化された経済的な抽象的エクリチュールの両極の間の振幅が歴史なのだ。

    「商人は書法記号の一体系を案出するが、この体系は原理的にいかなる特殊言語にも結びついていない。この文字言語(エクリチュール)は原理上、あらゆる言語一般を書写することができる。(中略)アルファベット文字は純粋な<代理するもの>に関わるだけである。それは<意味するもの>の体系であって、この体系の<意味されるもの>は<意味するもの>である、つまり音素である。」(下巻p.300)

    エクリチュールの一方の極には、エジプトの象形文字が、他方の極には代数学がある。アルファベットは最後から二番目に合理的なエクリチュールである。したがって歴史はこの運動を推し進めてきた哲学(科学)の歴史と、すなわち哲学史(科学史)と一致する。しかしこの合理化の運動の最後の障害となる残された形而上学がある。それが、アルファベット・エクリチュールそのものに潜む陥穽である「現前の形而上学」、「自分が話すのを聞く」というかたちで現れる「真理の明証性」なのだ。哲学はここにおいてつまずく。哲学は表音エクリチュールが生み出す現前の形而上学の中に、つねに閉じ込められてきた。というよりもこの表音エクリチュールがひとつの閉域としての時代、「ヨーロッパの時代」とでもいうべきものを形作ってきたのである。
    <超越論的シニフィエ>に対してデリダが提示するのは、エクリチュールの戯れ、絶えざる差延作用の根源としての<原エクリチュール>である。パロールとエクリチュールの対立以前に位置しているような純粋で絶対的なシニフィエ、透明な声だけがその反響の中に捉えることができるシニフィエはあるのだろうか。デリダはそのようなものはないという。つねにそれ以前に<原エクリチュール>が存在する。ルソーが夢見たような文字以前の純粋なパロールは存在しない。純粋な真理は存在しない。それは記号の中にだけある。つねに記号が先行し、その差延作用が先行している。ならばその<原エクリチュール>とは何なのだろうか。それも根源そのものではない。それは記号の差延作用そのものなのだ。人は根源には到達できずに、その差延作用の痕跡をいつも発見するだけだ。なぜなら根源はないからだ。

    「しかしルソーが、人は「声を書くのであって音色を書くのではない」と言いえたとすれば、声は文字言語を可能にするまさにそのものによって、すなわち子音と分節化によって音色から区別されるのである。(中略)文字言語による変質は、一つの根源的外在性である。それは言語活動の根源である。このことを、ルソーは明言することなしに記述している。人目を忍んで、内証のうちに。」(下巻p.303)

    このように書くことで、デリダは、文字に汚されない自然のままの声に美しい幻想を見ていたルソーの夢をあえなく砕いてしまう。
    この本でデリダが暗に依拠しているのは、生命科学と情報科学の発展だろう。複製のミスによって蓄積された差異が進化を生み出していくDNAはまさしく「差延作用のある文字」そのものだし、ソフトウェアの背後で動いている、発音されることもなく読まれることもないプログラムは、ライプニッツの夢を実現し、エクリチュールの極限の力を解放したものだと言える。時代は、エクリチュールの力の圧倒的支配下にある――いつの時代もそうであったように。
    われわれは語るが、それらを語ることを可能にしている言葉の来歴を知らずに語る。それは哲学者であれ同様である。われわれは言葉を書物から、書かれたものから知らずに借りてくる。パロールの中には自然のままのものなどない。すべてはテクストの中である。実はわれわれが語っているのではなく、エクリチュールが戯れているだけなのである。

  • エクリチュールの根源、その彼方を問おうとする書。
    ソシュールやハイデガーを批判的に検証しつつ、ロゴス中心主義やエスノセントリズムによってエクリチュールが貶められてきたことについて論述してあります。
    が、いかんせん難解なので、こちらの理解が追いつきません。
    読み返しの必要を痛感させられる本です。

  • パロールとエクリチュールの二項対立の分析から、現前の形而上学脱構築を切り開くデリダの原石。翻訳は読みやすいわ用語が的確だわでとても何十年も前の本とは思えん

    いわゆる初期デリダに関してはこの一冊で足りる気すらある 入門書さえあれば簡単なので難解というイメージにおくさず読むべき

  • 各瞬間の意識は実体としてあるのではなく、一瞬前の意識を差異化する作用ないしは関係性として・えなければならないというのだ。こうした言説から、「差異としての時間から出発して、それとの関係で現在を考えなければならない」というジャック・デリダの「差異」の概念を連想したとしても、それほど不自然ではないだろう。-前田愛『文学テキスト入門』p23より

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著者プロフィール

ジャック・デリダ(Jacques Derrida):1930-2004年。仏領アルジェリア生まれ。エコール・ノルマル・シュペリウール卒業。西洋形而上学のロゴス中心主義に対する脱構築を唱え、文学、芸術、言語学、政治哲学、歴史学など多くの分野に多大な影響を与えた。著書に『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』『ヴェール』(シクスーとの共著)『獣と主権者Ⅰ・Ⅱ』ほか多数。

「2023年 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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