広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー) (廣済堂ライブラリー 18)
- 廣済堂出版 (2002年10月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
- / ISBN・EAN: 9784331850176
作品紹介・あらすじ
消費社会と都市の関係を揺さぶる広告の香具師的本能。かつてパルコは、渋谷のたたずまいそのものを広告化した。しかし、「80年代」的な広告戦略はもはや通用しない。
感想・レビュー・書評
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まぁ、言いたいことはわかるが、映画の比喩としての「トゥルーマンショー」は飛躍し過ぎな気がした。『都市のドラマトゥルギー』から続く東京論ブームの終着点かな?
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ゼロ年代の空気が覆い尽くしてる本
今となっては古くさい言葉が並ぶが、それこそが当時の空気だろう。
広告が文化を介在し、自らの存在を隠蔽した幽霊として我々を付き纏う様は、今も変わっていない。ブランド品を身につけ、そのストーリーを纏うことは、ブランド品の宣伝と対になっている。
ただ、携帯からSNSへと認知可能な情報量が増大していくことによって、各々が相対化されると、広告はもはや幽霊でいることができなくなる。
到来するのは、もっと乾燥した、自覚的な記号論による差異の消費と、反対に物自体の機能に最小限の充足を求めるミニマリスト的な消費の2つが共存する世界なのではないかと思いました。 -
第1章 トゥルーマンショーの広告論
「資本の論理の至上命題は、差異を見いだせ。そして利潤を得よ」
「トゥルーマンショーの広告論(隠れる広告)、広告は自らがあらわれる場所・舞台を固定することはなく、さまざまなメディアを横断する。」
第2章 80年代 渋谷の神話と構造
「西武・パルコが実験した広告=都市の方法論は、さまざまな形で応用されていく。ららぽーと、ヴィーナスフォート、晴美トリトン、つかしん。」
「生産者は広告という意味装置を用いてモノに過剰な意味とイメージを付加し、消費者はそのイメージ、意味がつくりだす微小な差異を求めてあくなき競争を展開する。」
「広告によって意味づけ=記号化された商品を消費することによって自らのアイデンティティを模索していくという、消費社会論的な私像」
第3章 広告=都市の死
「ディズニーランドにおける空間的な自己完結性。建物、土手、木々等の障害物によって内側からは外の風景が見えず、園全体が周囲から切り離されて閉じた世界を構成している。園全体を俯瞰することのできる超越的な地点がない。」
「広告=都市の構築者は、単なる客寄せ商業施設ではなく、文化・生活・環境を豊かにするものであることを強調する。」
「Q-Frontにおおいては建築的な操作は存在せず、情報へのアクセス可能性が第1義的な意味を持つ。」
「かつてのメディアコミュニケーションは、送り手=公的な責任を持つ存在/受けて=私的に解釈する存在が前提であった。しかし、現在は見られること=接続されること自体を目指す接続指向が強くなった。」
「コミュニケーションのためのコミュニケーション、伝達意図の伝達、つながりのためのつながり。ケータイは、繋がりの社会性を表面化させた。」
「ケータイは、第3領域を過剰に社会化された空間、見られていないかもしれない私に絶えず向かい合わねばならない過剰な儀礼空間へと変容させた。」
「制度化された身体を持たず多様なメディアに寄生しながら、日常世界の文脈秩序を乱し続ける、というメディア寄生的な広告の本能」
結章 広告化せよ、そして広告にあらがえ
「広告、メディア、受け手の身体という3変数が、広告のメディア寄生性を媒介として、複雑に絡み合い、消費社会における都市の一を変容させていくという社会的ダイナミズム。 これらとの消費社会の関係。」 -
カウントダウンTVが、一般視聴者の取り込みを断念し、音楽業界へのプロモーションとして、アーティストが出演しやすいようにトークなど無駄な部分を一切排除して、結果的に一般視聴者に受け入れられた点はやや面白い。
全体としては、あまり参考にはならなかった。 -
[ 内容 ]
消費社会と都市の関係を揺さぶる広告の香具師的本能。
かつてパルコは、渋谷のたたずまいそのものを広告化した。
しかし、「80年代」的な広告戦略はもはや通用しない。
[ 目次 ]
第1章 『トゥルーマン・ショー』の広告論(『トゥルーマン・ショー』の世界;資本というリアル ほか)
第2章 “八〇年代”渋谷の神話と構造(都市の発見;都市の記号論/記号論の都市 ほか)
第3章 広告=都市の死(“ポスト八〇年代”の渋谷;「脱出後」のトゥルーマン ほか)
結 広告化せよ!そして広告にあらがえ
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
読了。図書館
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近代社会における広告について語る上で著者はまず、映画『トゥルーマン・ショー』を引き合いに出し(一応コメディなのか?らしい。)、その主人公であるトゥルーマンを取り巻く存在が以前(70年代とか80年代)の我々がかつてそのような状態であったのではないか?という形で提起し、実際に広告の展開を追いながら、現在の東京の(渋谷がメイン)の姿を見ていく。
以前のマス広告のあまりにも強靭なそのパワー(権力に、畏怖と驚きを持った。そして純粋に、当時戦略を考えた人、すげーと思った。
渋谷、池袋という場が何故あんな感じに作られたのか、その理由が読むと分かります。凄い戦略だったんだなあと。
ケータイの登場により、全くの閉鎖的空間は成立せず、外との関わり、つながりのコミュニケーションが広告=都市の姿を変容させてしまったという。ケータイの力が今後の広告の要ということなんかは述べられていないんだけど、現にケータイビジネスの盛り上がりが昨今激しい中、それは正にここに帰結するのではないだろうかと思ってみたり。(※本文とはずれた話)つながりを生かしたケータイビジネスなどを自分も考えてみたいものだ。
広告の歴史は面白い。今度ほんと広告関連の古典を読もうと改めて想った。
こないだの新聞で、中国に進出するとか言ってたパルコ。中国ではどんな戦略をとるんだろう。
<キーワード>
【一章】
★(広告の)<隠れ>モード
「広告がが自ら『広告である』と自己主張することなく、日常生活の中に偏在している姿のこと」(p23)
★シーヘヴン
「私たちが生きる現代都市の構造を、極端な形で表現した摸像なのである」(p31)
★脱文脈性=メディア寄生性
制度化された特定の表現形態を持たず、身を潜めるとさえ思えばアメーバの如くあらゆる形を柔軟にとり、適応して多用なメディアに寄生しながら、日常世界の秩序だった文脈を乱し続ける。
★メディアはマッサージである
メディアが受け手に対して及ぼす身体的効果
★差異の<創出>
大きな機能的差異が無いが故に、イメージなどの差異を敢えて無理やり創り差別化する。
→広告の使命
【二章】
★広告の幽霊化
★”日常性からの脱出”の演出×人間性を甦らせる装置 = エンターテイメントとしての商空間
★<文化>というコード
広告に「秩序(を求める←うるさくすんな派)/無秩序(を求める←広告のカオスが好き派)」に<文化>要素をブッコむ事で、正当化?都市の景観に溶け込ませる。
←メセナ的理論
★広告=都市・渋谷
★「<80年代>渋谷のような広告=都市において、人々は『都市空間の提供する舞台の装置や台本に従って、すでにその意味を予定された役割を場面ごとに<演じて>いくことで、逆に他者達のコミュニケーションのコードを共有していく』」
★パノプティコン的
(※パノプティコン…監獄建築。囚人達からは看守は見えないが逆は見える←見られているか分からないので常に気が抜けない。←不安)
支配者(戦略を考えた人)の<台本>(←ex、渋谷ではこういう服を着なければ!)を進んで受け入れる。
【三章】
★アイロニカルな視点
らしさ、<台本>に沿う事を否定的に見る。「うさんくさい」と思う視点
★<つながり>の社会性
?コミュニケーションの内容の疎通の成立<コミュニケーションの接続の成立
?行為の接続が周りから見て変ではないかどうか
★儀礼的無関心
ex、電車でむやみにひとに話しかけない。
無関心を装う事が暗黙の了解としてある意味強要される
ヴァルターベンヤミン、ミッシェル・フーコ、ニクラス・ルーマン「社会システム論」
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2005.12 トルーマンショウのお話からはじまって、PARCO論など、分かりやすく読めました。下流社会の三浦展さんは、仕掛けた側の自分に、なぜ取材に来なかったんだ!とおっしゃってますが。
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¥105