オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334032661

作品紹介・あらすじ

行き場を失ったエネルギーが男も女も不幸にする?女性のからだについて、思春期、月経、性、出産という、もっとも本質的なことについて再考する。

感想・レビュー・書評

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  • 内容が著者の主観に寄り過ぎている、という以前に、明らかに研究と調査が不足・間違っている箇所が(「少し」というレベルではなく)多々あることが気になりました。
    愚者だけが自分の経験から学ぶべきだと信じている、とはビスマルクの弁。この本の著者は、実践者に取材したのでしょうか??
    主張さえ優れていれば事実確認は二の次では、女性の身体を解放するどころか、偏見や無知に基づく差別を助長する危険があるのでは……。

    「30代以降、未婚、子供・パートナー・キャリアなし」で、性エネルギーの行き場を失いオニババ化した女は身体感覚が鈍いため経血コントロールできない……ということが命題の一つだと思います。
    が、私は、この条件を全て揃えていますが、普通に経血コントロール可能です。
    私の知っている経血コントロールが出来る方々を見ても、経血コントロールの条件は、性エネルギー云々の前に、食生活や日用品による影響が強い気がするのですが、そちらへの言及があまりないことが不思議です。
    大切なのは、性別以前に「人」として健康であることではないでしょうか。

    また、本の中で、アーユルヴェーダや先住民族の例を用いているのですが、アーユルヴェーダや先住民族は、性別よりも先に「個人」を尊重する側面があることに触れられていません。
    個人の資質、才能、天命の中に「性役割」があったら、それに準じて生きろ……とは考えられていました。
    高度な精神文化と持続可能な社会があったといわれる北米先住民族は、母系社会で、広義における女性の権利と政治的参加が認められます(もちろん現在の資本主義社会とは異なる社会制度ですが)。
    そこについて、追求されていないのは何故でしょうか。
    著書は「資本主義が女性性を奪った」といった視点も打ち出しているのですが、個人の才能や資質を無視して「女性に産まれたからにはメスとして生きろ」とする発想は、逆に「十把一絡げの部品人間」をよしとする資本主義的な考え方である気がします。

    何より、女性がオニババ化するのは、頭ごなしに「女はこう生きろ」と他人から生き方を強要されやすい社会だからでは?
    そうした固定概念の押し付けは、女性はもちろんのこと、男性にとっても不愉快なもののはず。
    「本当は子供が好きだったが、産めない女は駄目だと否定されて、いつのまにか他人の子供まで憎くなった」と仰った不妊女性もいらっしゃいます。
    固定概念の押し付けをやめたら、オニババ化する女性は減るのではないかと個人的には感じます。

    女性の身体性(男性も!)を取り戻すのは本当に大切だと思うのですが、この本を読んでも身体性が取り戻せるかは分かりません……。
    逆に、身体性から遠ざかったりして……。
    身体感覚を得たい場合、この本のような適当で掘り下げの浅い情報ではなく、本物の「昔の人」の知識を知ることが有効ではないか? と思ってしまいました。

  • とてもまじめな書籍であると感じるが、タイトルについて、述べると、
    やはりふさわしくない。鬼婆という単語は何度か出てくるが、それよりも、
    もっとまじめに、女性の性について書かれているので、違う気がする。

    少し、女はセックスして何ぼみたいな節が見え隠れ・・・、著者もそんなことが言いたいわけではなかろうが、そう感じてしまうこともある。
    しかし、そんな簡単にパートナーが見つかるのであれば、まったく問題ないが、そんな簡単に体を許す預ける関係にはならない。
    だから、さみしい。

    だが、セックスこそが、幸福度の重要なパラメータであるとの記事を見たことがある。
    体を通じる関係はきっと、精神的にはも深いつながりがあるという証拠なのだろう。
    体ありきではなく、それはきっとそれについてきた結果なのであろうと。
    そう今日この頃思うのであった。

  • 最近数人にこの本の内容について聞かれたり紹介する機会があったので再読。奥付を見ると2004年の本であるが、未だに女性たちは身体性を取り戻していない。布ナプキンが流行るなど、身体に向き合い始めた女性たちも微増しているといったところか。
    内容としては、

    ・現代の女性が自分の身体や性に向き合っていない
    ・親世代も女としての生き方を強要しなくなっている
    ・自身の女性性ときちんと向き合い、うまく女性としての力を使わないと「オニババ」になってしまう
    ・力の使い方としてはやはりセックスや出産がオススメ
    ・「負け犬」と自称するのは仕事に恵まれ恋人を見つけられるような、結局は勝ちの人で、そうでない大半の女性が心配
    ・一世代上の女性たちは生理用品がなくても経血をコントロールできた

    などなど。

    某女優さんが、更年期になった時「女性ホルモンが少なくなっているからなわけだから」と、AVを観まくって乗り切ったという話があったが、やはりきちんと自分の身体や性欲、パートナーと向き合わないと不定愁訴などが起きるのだなあと納得した。

    日本の神社は女性性の象徴という説があるらしい、鳥居が入り口、参道が産道、お宮は子宮、鳥居をくぐって入ってくる神輿が精子。深い性の象徴を建造物として祀っていた国民性はどこに行ったのか。
    夜這いなどの文化もなくなり、日本人は性に対して非常にクローズになった。その反面、風俗や袋とじの中途半端な欲望は垂れ流しで、まったく憤慨ものである。

    「卵子には個性があり、子宮口には心がある」という下りには非常に得心が行くところがあった。
    具体性と抽象性がバランスよくちりばめられており、身体というものはすごいものだと改めて思った。この本を読んで、感じ入るところや思い当たるところがあればそれでよいと思うし、これからでも自分の身体に向き合っていけばいいのではないだろうか。

    この本を読んでキーキー言う人は、自分を否定されたような気がするのだろうか。向き合う勇気がないだけではないだろう? それこそオニババ化の始まりではないだろうか、と思ってしまうのだが・・・

  • 色々意見の分かれる本だと思うけど、私は納得する部分もかなりあった。
    田舎者の親や親族から言われるような、「早く結婚しなさい」「子供を産みなさい」という鬱陶しくてしょうがなかった事を多少突飛で、理論破綻したところもあるけど、学者として女性の出産等を世界でフィールドワークする中で、あくまで著者の「思うところ・事実を元に著者が実感した事」として語っている。

    ・ナプキン普及前、生理の時は女性はどう生活していたのか?とか
    (だって着物だし、パンツないし)
    ・昔はどんな出産だったんだろう?とか・・・
    (だって、病院とかたくさんないし)
    今までふと浮かんでは消えてた疑問について書いてあったりして面白かった。

    一番印象的なのは、最後の方になると繰り返し出てくるフレーズ。
    「からだのほかに向き合うものというのはない」
    「からだが無くてもできるようなことは、からだを持っているときにしなくてもいい」
    「今、からだを持ってこの時を生きている」
    著者が一番いいたいのはここであって、「誰でもいいから結婚したほうがいい」とか、「子供を産んだほうがいい」とかは、からだに向き合うための方法論でしかない。
    女性は他の方法でも可能だけれども、女性である事を最大限活かして、パートナーを持ち、出産・子育てをすることで、自然とカラダに向き合えるのだ、と言いたいと私は解釈した。

    最近は、自分自身が子供を産み育てる中で、自分や子供の生き物としてのリアルな姿(胸からおっぱいが出る、とか、食べる→排泄するのループとか)を逃げられない現実のものとして目の当たりにしていることもあり、著者の言葉や周囲のオトナたちが言っていた事を改めて納得させられる日々でもあったので、余計この本がすんなり読めた。

    自分が大人になってからの10年強を改めて振り返ってみても、自分の体の状態を全然意識せず、意識的に無視できる状態にしていた気がする。
    妊娠や出産を意識した時に初めて自分の体の状態が気になるようになった体験を振り返ってみても、もう少し女性としての知恵がオトナから子供へと受け継がれていってもいいのかもしれないなあと思った。

  • 医療の力に頼りすぎず、女性が本来持つ力を活かして月経や出産を乗り切れという内容。
    昔の女性たちがどのようにして月経や妊娠、出産を経験してきたのかが書かれており、初めて知る内容が多く、興味深いと思った。しかし、「女性は男性と交じり、妊娠と出産を経験するべき」「そもそも恋愛をしなくなった若者が危険」「恋愛をする人が減ってきている中で、出産を経験する女性はまだマシ」「メスとして強くない人が多い」というような偏った意見が散見され、賛同できなかった。また、題名の「オニババ」という言葉も女性蔑視のニュアンスが含まれているように見え、不適切な表現だと思った。全体的に考え方が古い気がする。

  • 古くないか……?今も賛同している人たちがいることに頭が追いつかない…………

    苦痛すぎて全然読み進められなかった
    結局男性にちょうどいい女性を作り出そうとしているだけという印象
    オニババっていう表現もそもそも気に入らなかった(じゃあ読むなよてハナシ?)

    村田沙耶香の本で語られる悪い意味での「普通」って感じ

  • タイトルは強烈だが中身は切ない。閉経直前に読んでも、得るものがないわけではないが、若い女性に読んでほしいかな。ただ、鵜呑みにするのはちょっと危険かも。十代の出産とか蓄妾制とか、だいぶ現実的でない過激な発想もあるし、牽強付会な記述がないでもないので。雛祭りの菱餅が女性器を表すって、本当かなあ。

  • おもしろいです。今流行りのコウノドリと真っ向から対立する主張!コウノドリ好きな人読んでる人はこれも読むべき。どちらかに偏るべきでない。両方の見方を知った方がいい。と私は思うので。

    タイトルが激しいけれど、言いたいことはわかる。主張も納得できるけれど、大学の先生なのに根拠が曖昧だったり無茶苦茶!笑
    ほぼ私の考えでは!って感じです。

    多分まとめると、

    子供を産むってことはとても素晴らしいこと。
    今は産まない選択の女性も増えているけれど、実は女性の体や心のために、子供を産むことは必要なこと。
    本来必要なことなので怠ると、
    少子化などの社会的問題以外に、女性の体や心が悪い方向(更年期障害や、他人に厳しいババァになったり、性欲ババァになったり=オニババ化)へ進む原因になる。
    産まない選択をする理由は、身体的な問題以外なら、日本の社会や病院主義が生み出している。
    お産は本来誰もが経験すべきもので、自然の営みだから怖いものではない。しかし今の日本ではお産は危険だ、辛い、厳しい、苦しいというイメージが先行してしまっている。
    日本政府の少子化対策や女性が活躍する社会の政策は全て的はずれ。女性が男性化する必要はない。女性だけが産むことができ、それは絶対に男性に代われないこと。女性が産みやすい社会の仕組みを男性とは別につくらなければ、女性の活躍もクソもない。


    産むリスクだけでなく、産まないリスクにもフォーカスすべき。


    というような感じだと思います。
    私も実際これを読むまでは、すごい痛いらしいし死ぬかも知れんし、死ななくても五体満足でいられなくなるかも知れないし、お金だって何億もかけて、なぜこの今の幸せを捨てて子供を産まなきゃいけないんだ!と思っていました。わざわざなぜ自分の体を傷つけ、死の危険に晒す必要があるのかと…子供は可愛いけれど、そんなに自分も立派な人間ではないし、子供を育てることは何億もかかる贅沢で、私にはそこまでの贅沢は必要ないなぁ、と。

    これを読んで、お産はただただ危険で痛くて怖いもので、子供は何億もかかる贅沢品、ではないことがちょっとだけわかりました。


    確かに覚悟のない母親や認識の甘い母親はいると思うのでコウノドリみたいな主張も必要。だけども、それだけ読んでたら、え、私はそんな立派でも子供好きでもないから、私は無理…となってしまうかな、って思います。

  • ヒステリックなフェミニズムが一段落しやっと地に足がついた女性論(決してそれにとどまらないが)が出てきたという印象を持った。子どもを産むことが実は至高体験なのだという今では忘れ去られた身体性がこのこの本の軸になっている様に思う。そして、セックスを楽しみ、子どもを産み育てる知恵の伝承がとぎれたことを自覚すると、今日の日本の病んだ原因が浮かび上がってくる。女性の身体性伝承の変調は著者の親の世代(現在70才台)からだと説く。「そもそも女の幸せは…」といった制度化された知恵や共同体ぐるみで産まれた子どもを育てていく風習や助産婦の助けを借りる自宅出産などがこの世代以降ついえ去ってしまう。全てが経済軸に一元化されてしまったために起こった変化のように思える。そういう意味で著者はこの本を通して、女性の身体論を超えて結果的にもっと多くのことを考えさせることになる。女性でないとこういったラディカルなことは書けない。男がこれをやると理論が勝ってしまって身体性が薄れてしまうような気がする。

  • 女性の身体を大切にしないことでオニババ化するという理屈がみょーにリアルで怖かった。
    女性であることを受け入れ、自分を大切にしていくといくことの必要性を実感した。

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著者プロフィール

1958年山口県生まれ。兵庫県西宮市で育つ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学PhD(疫学)。作家、疫学者。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。専門は疫学、母子保健。著書に、『オニババ化する女たち』(光文社新書)、『死にゆく人のかたわらで』(幻冬舎)、『女が女になること』(藤原書店)、『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』(ミシマ社)、『女に産土はいらない』(春秋社)、『セルタンとリトラル』(弦書房)、『ケアリング・ストーリー』(ミツイパブリッシング)など、きものについては『きものは、からだにとてもいい』(講談社+α文庫)がある。編著に『赤ちゃんにおむつはいらない』(勁草書房)、共著に『気はやさしくて力持ち』(内田樹、晶文社)、『ヒトはどこからきたのか』(伊谷原一、亜紀書房)、訳書にフレイレ『被抑圧者の教育学』(亜紀書房)などがある。

「2024年 『六〇代は、きものに誘われて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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