新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (187ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334036201

感想・レビュー・書評

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  • マックス・ウェーバーの書を、その時代などの背景から解説している。なぜプロテスタントが資本主義の精神を持ち合わせていたか(救済されているという確信を持つため)については面白かった。
    ニーチェとの共通点にも触れられており、個人的に嬉しかった。
    前半は面白く読めたが、後半は難しく理解を諦めた箇所が多々あり、機会があれば再チャレンジしたい。

  • 「マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は不思議な論文です」という一文から本書は始まる。その理由は、「資本主義」と銘打っているにも関わらず、経済システムとしての資本主義にはほとんど触れられていないからだという。しかしながら、この論文が古典として読み継がれる理由は、「資本主義」がもたらした現代社会の課題を分析する上で有益な洞察が含まれているからである。資本主義社会を理解するにあたって、その成立を支えた原理のようなもの、つまりプロテスタンティズムの倫理、にまでさかのぼることで見えないものが見えてくるのだ。

    著者は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というタイトルが長いために、本書の中では短縮型を使う。一般的には『プロ倫』という略称が使われることも多いが、著者はそれを内輪の隠語で、小馬鹿にしたようで趣味が悪いとして使わず、『「倫理」論文』と呼称する。この辺りに同論文に対するレスペクトが感じられる。

    また、複数の訳書(大塚訳、梶山訳、中山訳)があることが知られているが、引用するにあたって、それぞれどの訳で何ページ目にその引用があるのかを”O”、”K”、”NK”の文字とともに引用文の後に示すようにしている。こういった丁寧さに好感が持てるし、また著者に対して信頼を置くことができるのである。

    本書は基本的に、「倫理」論文、とくに『宗教社会学』に所収されるにあたって改版されたものを構成に沿って解説していく。とてもよく勉強になったので、ここでも備忘録とともに、追いかけていこう。

    【ベンジャミン・フランクリンの勤勉・節約・正直の倫理】
    第一章で例に挙げられるアメリカ建国の父の一人でもあるフランクリンの言葉は、勤勉・節約・正直の倫理が広まっていた証であり、またそれまでのキリスト教の論理とは違い、良心の呵責なく誠実に営利を追求する、つまり疚しくない良心、を持つようになっていることを示している。こうしたフランクリンが抱いていたような「合理的な利潤追求や職務の遂行を義務とするような「職務義務の思想」はどこからきたのか」というのがウェーバーの問題意識だという。

    また、フランクリンは、『資本論』におけるマルクスの労働価値説の説明にも引用され、価値の本質が労働であることを見抜いていたと指摘する。
    「およそ商業はある労働と他の労働との交換にほかならないのだから、すべての物の価値は労働によって最も正しく評価されるのである」
    ウェーバーはまさにこのような公正な取引を求めるフランクリンの「資本主義の精神」を問題としていた。その観点において「倫理」論文は、マルクスの『資本論』に対する応答でもあったのである。今日の資本主義社会に対してわれわれはどういう態度をとるべきか、という問題の文脈で「倫理」論文が読まれる理由があるという。

    【ルターによる天職概念】
    「倫理」論文によると、ルターの宗教改革における聖書のドイツ語への翻訳において天職(Beruf)という言葉が採用され、これが世俗の職業が天から与えらえた使命であるという観念を生んだという。
    一方で、ルターの天職だけでは、資本主義を成立を支えた精神の獲得へは至らない。それにはカルヴァンによる「予定説」が必要になってくる。

    【カルヴァンの予定説】
    カルヴァンの予定説から禁欲的倫理が導かれて、禁欲的行動につながったが示される。
    カルヴァン派にとって、人間は神の容器ではなく、神の道具であり、地上での「神の栄光」を増すために人間が働くのである。ここにルターとカルヴァンの違いがあるという。カルヴァンの教えを敷衍すると、救いの確証は労働の成果から得られ、またそこからしか得られない。すでに決定されている救いは、祈りや、呪術や、お布施や、修道士的禁欲によってはもたらされないのだ。それは、日々の労働の成果を通して確認しなくてはいけないことであり、そのためにその禁欲的行動が義務化されるのである。

    また、このことにより天職の概念もルターのものから若干変容し、職業の変更もそれが神の栄光を増す場合においては肯定されるようになる。また、得られた財産は神から委託されたものであり、その浪費は慎まねばならないし、その維持と増加に心を砕く必要が出てくる。その財産が大きければ大きいほど、救いの確証が得られる代わりに、その責任も大きくなるのである。

    【資本主義社会の「鋼鉄の檻」】
    こうして、プロテスタンティズムの倫理は、非合理的な富の追求を神の栄光の名のもとで正当化し、推奨化した。同時にマルクスの剰余価値の生産者としての労働者を準備することとなった。またこの職務に忠実で勤勉な労働者を企業家が搾取することを「合法化」することによって近代資本主義の前提条件が整ったのである。

    このシステムは、プロテスタンティズムという宗教的な支えがなくなった後も「鋼鉄の檻」(というよりも固い外殻といったニュアンスが正しいという)として、われわれの考え方や社会システムを支配することとなったという。こういった点が「倫理」論文が、特に日本では、現代社会の根源的な問題を論じた一種の文明論として読まれることになった理由である。

    【末人とニーチェの思想との関係】
    「倫理」論文は、まずはマルクスに対する応答であり、その後のウェーバーの歩みはニーチェの問いに対する応答の試みであったと著者は指摘する。ウェーバーによるニーチェへの言及は次の末人に関わる部分である。

    「そしてこの巨大な発展が終わる時、まったく新しい預言者が現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも――もしそのどちらでもないとするなら――、一種異様な病的尊大さで粉飾された機械的化石化に行きつくことになるのか、それはまだ誰にも分からない。だがもしそうなれば、こうした文化発展の『末人』たちにとっては、次の言葉は真理となるだろう。『精神なき専門人、心情なき享楽人。この無に等しい者たちは、自分たちこそ人類がいまだかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう』と」

    「末人」は、二―チェの『ツァラトゥストラ』に批判的にでてきたものである。「末人」を生む人間の矮小化がキリスト教の影響であったというニーチェと、資本主義の精神がその行く末に「末人」を生むというウェーバーの思想は絡みあっているという。

    カルヴァンの教えは、自分たちが神から選ばれた特別な存在であるという、貴族主義を生みだし、罪を犯した隣人を援助するのではなく、憎悪するようになる。プロテスタンティズムの倫理が一種の排他性と攻撃性を孕むものであることをウェーバーは見抜いていたという。それはウェーバーのすぐ後の時代において大きな問題となるものであった。

    「「倫理」論文にそくして言えば、プロテスタンティズムの禁欲的精神そのものにある種の攻撃性が潜んでいるのであって、それこそが近代世界を生み出す原動力であったのではないか、ウェーバーの「倫理」論文の本来の主題もそうしたプロテスタンティズムの問題を批判的に明らかにすることにあったのではないか、というのです」

    【まとめ】
    著者は「おわりに」と題した節において、次のようにまとめる。

    「ウェーバーは近代世界というものの特質、それをもたらした淵源をめぐるマルクスならびにニーチェの問題提起を正面から受けとめて、彼らの議論と対決するかたちで自らの見解を形成していったのでした。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を出発点にして、ヨーロッパの近代とそれがもたらした諸事物についての精神的・歴史的起源を明らかにするという一連の宗教社会学の作業は、マルクスとニーチェの問題提起に対する応答の試みでもありました」

    マルクスとニーチェという巨人は両者とも宗教を否定した、一方は無視をするという形で、もう一方は徹底的にその害悪を遡上に上げる形で。ウェーバーは、これに対して彼らが問題とする近代世界が、深くプロテスタンティズムの宗教倫理に根差したものであることを指摘しつつ、宗教的実践がなくなった後もその影響が残る、皆が自明のものとしてみなすような資本主義の精神とシステムを可視化するのである。その意味でも、ウェーバーは現在でも読まれるべき思想家であると言える。

    新書版であるが、気合のこもった良書であり、ウェーバーの「倫理」論文および宗教社会学の入門としてお勧めできる本である。

  • 内容が自分には難しいようだ。途中で断念。

  • 新書文庫

  • 欧米人の基盤というか本質を為す環境の理解が深まる。キリスト教、ユダヤ人という存在の大きさを改めてわかった。
    西洋思想、西洋史はなんとも理解しずらいとずっと思っていた。明らかに根幹が異なっており、表面的なことを教わっても本質が見えてくることは無かった。本書ではその点に資本主義、キリスト教、哲学の面から切り込んでいる。
    特に欧米では、過去を批判し、言い換えることで歴史は進んできたが、結局は根っこは変わっていない。明らかに見た目も違う多様性を持った人達が集まる欧米では、集団の形成や離散は頻繁に起こる。その際にその理由を宗教や哲学に求めているようにも見える。
    こらまでは、その切り口についての知識がなく漫然としか理解していなかったが、欧米と日本の違いを理解するためのひとつの視座として理解した。

  • 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の解説というスタンスで出版されているが、内容は濃い。

    「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を分解するにあたって、プロテスタントに関する歴史解釈が非常に興味深かった。
    少々長いが、以下は引用。

    「ローマ・カトリック教会の伝統を打破する宗教改革の試みはルターに始まって、カルヴァンや禁欲諸教派の「宗教」によって徹底されて、これはやがて宗教・教会だけではなく政治体制そのものの変革に結実する。
    イギリスのピューリタン革命から名誉革命、フランスの大革命はその実現であったという理解はわれわれヨーロッパ史・世界史の常識的な理解とも対応します。
    これに北アメリカに渡ったピューリタンによる民主主義の実検、そして北アメリカの独立革命がひるがえってフランス革命に影響を与え、このフランス革命がヨーロッパさらにはラテン・アメリカ諸国へと波及する「環大西洋革命」へとつながる観点を入れたとしてもウェバーの見方はこれとさほど大きな齟齬無く適合することになります」

    今日われわれが自明のものとしている近代世界の成果である、自由や平等、あるいは民主主義をはじめとする理念やそれに基づくさまざまの政治制度や文化的事物は(もちろん古代ギリシャ・ローマの遺産や様々な要素ですが)その多くはキリスト教、とりわけプロテスタンティズムに起源をもっている

    以上が、マックスウェバー・ニーチェ・カールシュミットらが一致しているプロティスタンティズムに関する価値評価である。

    では、プロテスタンティズムとは何か?それを端的に表しているのが
    「ユダヤの神観念を再興することによって、呪術(カトリックにおける秘蹟)の復活に終止符を打った」ということである。
    つまりプロテスタンティズムはカルヴィニズムに代表される禁欲的プロテスタンティズムは「世界の魔術からの開放」という古代ユダヤ教に始まる宗教史的過程の終着点として位置づけられる。

    「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の改訂時に大幅な加筆がなされたのが「世界の魔術からの開放」であるため、Mウェバーの重要な論点のひとつと考えられるのである。


    ニーチェの「ツラトゥストラ」との対応もよく言われるようですが、
    「かなしいかな。やがてその時は来るだろう、人間がもはやどんな星も生み出さなくなる時が。ななしいかな。もっとも軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう」

    ニーチェの言葉を自著の「自分たちこそが人類最高の段階に達したと自惚れる末人」に対応させているということから、ルサンチマンに見られる心の疚しさを、カトリックにおける「罪の感情」に対比させつつ、それらとの対決の糸口を「世界の魔術からの開放」に求めたのではないか?というのがこの本の主題となっている。
    「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というと、プロテスタントの歴史や考え方を解説している部分に重きを置いているように錯覚する方も多いと思うが、
    ここではきちんと宗教的態度や、倫理的精神的態度こそが本旨といえます。

    最後にルター派とカルヴァン派、それぞれの神の寵恩に対する考え方の違いをうまく整理してあったので、抜粋しておく。

    ルター派
    神の寵恩は、神の力強い働きに対する信頼と、それによる罪の感情の苦悩からの開放であって、人間の側の能動的な意思や信仰に基づく善行や功徳は何らかの意味を持たない。

    カルバン派
    人間の救済はあくまでも「神の栄光」のためである。神は自分の栄光を示すために世界の救済の計画をあらかじめ立てられた。人間のために神が存在するのではなく神のために人間が存在する。信徒はひたすら神からの救いを受動的に求めるのではなく、「神の栄光」のために神の僕となって働かねばならない。

  • 非常に面白いし分かりやすい。

    原本(翻訳版)が厚くて読む気がしなかったのでこちらを。
    経済も元をたどれば哲学とか宗教に基づく、
    というのがすっきり入ってきた。

    これ読んでから日本史を勉強し直すと色々気付けそう。

  • この本を読む前提としてマルクスやニーチェなどの思想、著作に関する知識と理解が必要なため、本書だけでプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神がなんたるかを理解するのはムリです。
    本書ですら自分のようななんの予備知識もない人には用語も文も難解の極みです。

  • ウェーバーのプロ倫かと思っていたら、その解説書だった。しかも、さほど分かりやすくもなかった…orz

    資本主義の起源というより、プロテスタンティズムを中心とする宗教の話が大半だった。
    ウェーバーをマルクス、ニーチェ、シュミットとの関連の中で語った部分は面白かった気がするが、あまり頭に残ってない上に、他はよく分からなかった印象。
    これは本物のプロ倫を読むべきか…。

  • 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と言えばマックス・ウェーバー。
    世界史専攻だったんで、一問一答式にこの組み合わせは覚えました。それがなんなのかは知りませんし、当時から知る気もなかったと思います。
    ただ、なんか予期せぬところでこの単語と出会い、その度に、ところでこの本なんなの?と思ってました。良さげなの見つけて読んでみました。


    感想。結構面白い。でも前提知識が足りず、この本について語れるほどのモノは身に付けられず。あんま宗教のこと考えたことないし。一つ教養が身に付いたかも。

    概要。
    間違ったこと書いてたらごめんなさい。あくまでも私が読み取ったことです。

    まとめると、キリスト教の中でも禁欲的なプロテスタント。その主流派カルヴァン派。彼らの教義『予定説』。絶対的な創造者である神、神の被造物である人間(アダムとイブ)は禁断の果実を食べて追放される。神が人間を許しすか許さないか、救うか救わないかは、人間側の努力でどうにかなるものではない。誰を救うかは、絶対的な創造者である神の意志のみによる。神はご自分の栄光を示すため、堕落した世界の救済を計画し(予定し?)、それを神が選んだ一部の人間に携わせる。神の道具として選ばれた人間は、一生懸命働く。だから、信者は一生懸命働くことで、自分は神に選ばれている、救われていると信じるのだ。?。働く目的は神の栄光のためであり、私利私欲のためではない。だから、ただただ禁欲的に労働に従事する。結果として貨幣がたまる。でも禁欲的。たまった貨幣は神の栄光のため、労働の拡大に運用される。この精神?思考が資本主義の形成に影響を与えたのでは。ということ。
    以上が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の概要で、それを他の学者との対比も含め解説している。
    あとがき、おわりにの著者の主張はよくわからない。

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著者プロフィール

広島大学法学部教授

「2020年 『不戦条約 戦後日本の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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