修業論 (光文社新書)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334037543

感想・レビュー・書評

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  • 合気道を素人なりに齧っていると繰り返し聞かされる言葉に、「合気道の最強の技はなんですか?」との問いに塩田剛三先生が答えたという「自分を殺しにきた相手と友達になることさ」というのがあります。

    合気道にも流派がありますが、著者の「武道家が目指す『天下無敵』とは、誰にでも勝つということではなく、、だれとも敵対しないこと」との趣旨の言葉も究極的には同じことを指しているのでしょう。

    著者は、ここからそもそも敵とは何か、と考察を深めて、「私の心身のパフォーマンスを低下させるもの全て」と捉え直します。つまり敵が目の前にいないということは今の自分が可能な限り平静である、ということになるのですが、これをさらに進めると平静で無くなる「私」とは何か、という話になってきます。こうして、相対するものと相和す、気を合わせる、すなわち合気道とは決して神秘論ではなく、不測の事態に反応して押し勝つのではなく、外的な全てと同期する技術だということ、それは多かれ少なかれ武道に共通する思考回路だということが解き明かされていきます。

    著者の議論はつねに著者本人の経験から語られるので、例えば西洋やアジアの他の国ではどうなのか、といった、普遍性のある議論にはつながっていきません。しかし、個人の体験として確かに腑に落ちるものを含んでいます。

    戦前から、政治家や軍の将軍などが道場で稽古に励んだと言いますが、それは外敵を路上で倒すためではもちろんなくて、こうした瞬時の平静、言い換えれば危機での判断を研ぎ澄ますためのトレーニングだったとの捉え方は、まさに現代に生きる我々にとっての「修業」の的確な要約なのでしょう。



  • 問い
    修行とは何か。
    自分はどのように修業すべきか。

    答え
    修業は、「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することを目的として行う。それは、実はめざしていたものとは異なるものが得られる過程でもある。
    「道場は楽屋であり、道場の外が舞台である」。舞台とは「真剣勝負の場」である。生業と稽古は表裏一体のものでなければならない

    要するに、生業でのパフォーマンスを上げるために修業する場を自覚的にもつということ。

    キーワード
    修業、天下無敵、石火の機、卒啄の機、木偶坊・操り人形・案山子、弱さ・無知、居着き、科学的と科学主義的、鍛える発想、稽古、瞑想、額縁、狐疑・駝鳥、キマイラ的身体・複素的身体、自我着脱の訓練、安定打座、「我なし、敵なし」、ブリコロール、無刀の刀

    抜粋

    因果論的な思考が「敵」作り出す

    (武術は、)実践的な意味での生き延びる力である。
    戦場では、先頭能力として示される力が、平時では例えば統治能力として顕現する。生き延びるためにもっとも重要な能力は、「集団をひとつにまとめる力」

    「敵」とは「適切な方法を採れば、事前に除去しうるパフォーマンス向上の阻害要因」
    「無敵」とは「私の心身のパフォーマンスを低下させる要素」を最小化(できれば無化)することが意味する。

    「額縁」というのは、「絵を囲っているもの」である。「この中に描かれているのは現実ではありません。絵です」ということを私たちに指示するのが額縁の役割である。=「現実と非現実の境界線」

    目の前に出現した「もの」に、最適の「意味の度量衡」をあてがうこと

    「額縁を見落としたものは世界のすべてを見落とす可能性がある」

    「私たちが適切に生きようと望むなら、そのつど世界認識に最適な額縁を選定することができなければならない」

    瞑想のもたらす最も重要な達成は「他者との同期」である

    「今・ここ・私」という不動の定点と思われたものから離脱して、「今」ではない時間、「ここ」ではない場所、「私」ではない主体の座に移動することである。

    人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。

    (天才は)修業が不要な人のことではない。天才とは、自分のしているルーティンの意味を修業の早い段階で悟り、それゆえ、傍からから見ると「同じことの繰り返し」のように見える稽古のうちに、日々発見と驚きと感動を経験できる人のことである。

  • 幼児の神のくだりが最高に良かった
    なぜ
    レヴィナスと武道に傾倒したのか
    分かりやすかった

    この本は
    価値あると思う!
    上から目線に聞こえたらごめんなさい

  • 師である内田樹先生の本を久々に読んでみた。
    (kindle unlimited で無料)

    やはり良い、文書が美しくまた、読んでいる中で新しい発見がある。

    <琴線に触れたところ(意訳)列挙 及び感想>
    - 修行の極意は、自分が思っても見なかった境地(身体性)を獲得できるところ。なので、目標を立ててやるトレーニングとは一線を画すというところなるほど

    - 無敵とは、そもそも日常的な危機感知から危機回避できる性質 => バキの渋川剛気思い出した!笑

    - 合気道では、組手相手との一体的身体性の獲得が行われる。=> こちらはなるほどと思った。ただ、そういう集合的認知が危機管理に繋がるというクダリは、逆に集合する事で、集団が愚鈍になってしまうことも往々にある気がした。(内田先生と論点が違う?)

    - 瞑想は、日常的にかけてる無意識の額縁を外すこと

    - 龍馬は、武士(修行者)としての身体性に突出していた(ただ、司馬遼太郎はその修行者としてのプロセスは黙殺してた?!)

    - 25歳から、哲学と合気道をズッと鍛錬してきているのはすごい。自身も何らかの方法て身体性を高める鍛錬を続けたい。


    噛めば噛むほど美味しいスルメみたいな本を目指してると、実際にそうだと思う。折に触れてまた読み返したい。

  • 司馬遼の剣豪論というか修業に対する考察が斬新でした。

  • 7月20日に発売されたばかりの、「修業」についての、とても興味深く、スリリングな論考です。巻を措く能わず、ほとんど一気に読了しました。
    著者によれば、「修業」とは、修業している段階にはなぜこれを行っているか分からず、できるようになって初めて遡及的に修業の意味が分かるという仕方で構造化されているものだそうです。
    著者のように、武道に精通しているわけではない私には十分に理解できたと胸を張ることはできませんが、言わんとしていることはとてもよく分かります。
    たとえば、このレビュー。私は著者に敬意を表して真面目に書いていますが、しょせん、ド素人の書評なんて無駄といえば無駄でしょう。
    ところが、レビューをかなりのボリュームで書いた日は、出社後、仕事で書く原稿の執筆スピードが速まるという経験を私はしばしばします。頭がよく回るというよりは、体が勝手に動き出す感覚です。玄妙なものだと感嘆したことです。
    恐らく著者の言う「修業」に最も近い感覚で、皆さんも、少なからず経験しているのではないでしょうか。
    そういえば、華道家元池坊のDVDで脳科学者の茂木健一郎さんが、「型を繰り返すことで脳が最高のフロー状態となり、流れるように動作ができる」と語っていました。これも、著者のいう「修業」に近い感覚かもしれません。
    しかし、本書を読みながら、私は興奮と同時に空しさも覚えました。「修業」を受け入れる風土が、この社会からはほとんど失われてしまったと痛感するからです。
    たとえば、「渋谷区や港区内に事務所を構えるアート系のオフィス」(小田嶋隆さんの受け売り)では、絶対に受け入れられない、というかそもそも全く理解されない概念でしょう。
    それだけでなく、巷には、こうすれば株で儲かるとか、こうすれば駆けっこが速くなるとか、実利的、即物的なノウハウが溢れています。大きな需要があるのでしょう。
    端的に言えば、その需要とは「自己利益を最大化する近道を教えてくれ」と言うことができるでしょう。
    もちろん、それはそれで大いに結構ですし、私自身、「君の行動規範をいくつか挙げよ」と求められれば、恐らく2番目くらいに来ます。
    しかし、そのようなマインドがほとんど疑問も差し挟まれずに浸透していくことには一抹の危惧があります。
    最後にいくつか思わず膝を叩いた行を。
    「人はものを知らないから無知であるのではない。いくら物知りでも、今自分が用いている情報処理システムを変えたくないと思っている人間は、進んで無知になる。自分の知的枠組みの組み替えを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶのである」(P87)
    「競技の本質的な陥穽はここにある。勝負においては、『私が強い』ということと『相手が弱い』ということは実践的には同義だからである。そして、『私を強める』ための努力よりも、『相手を弱める』ための努力の方が効果的なのである。理屈は簡単である。『ものを創る』のはむずかしいし、手間暇がかかるが、『ものを壊す』のは容易であり、かつ一瞬の仕事だからである」(P105~106)
    「東電の原発事故のときに、『想定外の危機については対応しないこと』を、私たちの国の為政者たちが久しく『危機対応』のデフォルトに採用してきたという事実が露呈された」(P134)
    「パニックに陥って、われがちに算を乱して逃げ惑っている人々を集合させ、ひとりひとりが見聞きした断片的情報を総合して、『何が起きたのか、これからどうすればいいのか』を推理するためには、キマイラ的協働身体の構成が急務であるということを知っている人間が必要である。それが沢庵の言う『兵法者』である。けれども、兵法者の仕事を妨害するものがいる。それを『反―兵法者』と呼ぶことにする。『勝負を争い、強弱に拘る』ことをつねとする人間のことである」(P149)
    「自己利益の追求を最優先し、『勝負を争い、強弱に拘る』利己的個体であることの方が、平時においては資源配分の競争において有利である。だから、平時が続けば、人々は自己利益の安定的な確保を求めて、どんどん『反―兵法者』になる。なって当然である。けれども、平時は長くは続かない。どこかで必ず、破局がやってくる。そのときに反―兵法者的な人々は、破局をさらに破局的な状態に導く最悪のリスクファクターになる」(P151)
    「そのつどの個人的なコミットメントに頼ることなく、制度として正義と慈愛を実践する社会システム、それはあらゆる権力者に取り憑く夢想の一種である。しかし、歴史上かつて一度として、『生身の人間の関与抜きの、非人称的・官僚的な正義と慈愛』が実現したことはない。それは正義と慈愛は本質的に食い合わせが悪いからである」(P181)
    ね? これだけでも十分に面白いでしょう?
    司馬遼太郎がなぜ坂本竜馬の修業時代を書かなかったのかについての考察も目からウロコでした。さて、仕事仕事。

  • 手軽に読めるエッセイだけど噛めば噛むほど味がでる書物(あとがき)なのが、内田先生らしい良書です。
    この方、物凄く頭の良い方だと思うので、権威ばって難しく書こうとすればいくらでもできるのでしょうけど、どうやら無知蒙昧なバカな子供(私も含め)を啓蒙することをご自身の天職とお考えのようです。本書のテーマの一つに、「修行や学びは成し遂げた後になって初めて回顧的に理解できるように構造化されている」ということで、本来は、「分かってる人たち」と「分かりようもない人たちたち」に分断されているばずなのですよね。低いレベルに居着いている我らには、文字通り想像もつかない世界があり、そこは本来隔絶されてるのだけど、そこをできるだけ分かりやすく架橋しようとして不思議なサービス精神を発揮しておられ、なかなかこういう人はいない(だから人気)と思うのです。
    内田先生には多くの著作があるのですが、「学び」を語らせると真骨頂で、根っからの教育者なのだろうと思いました。

    あと、瞑想の章で、「自我は額縁であり、必要なときには着脱できなければ危機を生き延びることは難しい。その訓練が瞑想なのだ。」とありました。
    レベルが異なる話かもしれませんが、コロナ禍で大量発生している歪んだ自我の洪水を見るにつけて、「生き残れない集団なんだな我々は…」と感じています。

  • 文化放送の武田鉄矢今朝の三枚おろしで、取り上げられていたのがきっかけで読んでみた。期待した程に良くなかったけれども、次の引用箇所がとても良い。

    p203「そもそも原理的に言えば、「無駄な稽古」というのはないのである。いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得がたい経験である。「なぜ、これほど稽古してもうまくならないのか」という問いをまっすぐに受け止めて、稽古に創意工夫を凝らしたものは、出来のいいプログラムを丸呑みして無駄なく上達し、ついに悩んだことがないというものよりも、しばしば深い。」

    この部分があったからこの本は良いと言える。

  • 戦はいつはじまるか判らない。
    つまり、その瞬間に最大のパフォーマンスを発揮できるようにするのが日々の稽古であり修行である。
    故に「次の○○大会を目標に頑張る…」などというのは、余り賢い発想とは言えない。

    とにかく生き延びること。
    それ以外の、例えば競争相手やタイムなどは全然取るに足らないモノである。

    その生涯を通して走り続けるところに意義がある。
    鉄人レースの醍醐味もそこにある。

  • なぜ僕が内田先生の話に耳を傾けるかというと、
    それは先生の思想が「身体性」に裏付けられているから。
    その「身体性」の元になっているのが、「身体的な」哲学者レヴィナスの思想と合気道なわけで。

    修行について書かれた本書を読むことで、その思想のエッセンスに触れることができました。
    今回も思考の額縁が少しずれるという、心地よい世界観の変化を体験しました。

    「いくらやっても上達しないというのは、ある意味で得難い経験である」という先生の言葉は、
    いくらやってもゴルフが上達しない僕にはとても嬉しい言葉でした。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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