目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

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著者 : 伊藤亜紗
  • 光文社 (2015年4月16日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334038540

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目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)の感想・レビュー・書評

  • スリリングで、広い地平を拓く本である。
    著者の専門は美学・現代アートだが、元々は生物学を志していたという。
    生物と美学と盲目が一体全体どうつながるんだ?といささか不思議な三題噺である。
    最初の疑問が読み進めるうちにほぐれ、3つの視点が見事に調和していく、一風変わった「身体論」の1冊。

    著者がそもそも生物学を専攻したのは、自分とは異なる生きものが世界をどう「感じて」いるのかに興味があったためだという。二十世紀初頭の生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが唱えた「環世界」の考え方ともつながる。体のサイズも構造も、主に用いる感覚器官も異なる場合、当然、とりまく世界のとらえ方も変わるはずだ。ネズミのように鼓動が速く、ハチのように集団として生き、深海の熱水噴出口に住むチューブワームのように地上を想像することも出来なかったら。それはどういう「感じ」なのだろうか。そこが著者の出発点である。
    それが知りたくて生物学を専攻してみたが、著者の目指すところに向かうには、今日の生物学の主流は「細分化」されすぎていた。大きなビジョンが見えにくいのだ。そこで著者が選んだのが「美学」である。「美学」というものは、芸術や美についての認識について、哲学的に探求していくものだという。人が美しいと思うのはどういうものか。美しいと思うということはどういうことか。そのいわく言い難いところを言葉にして「わかって」いこうとする分野なのだ。それは、自らの感覚を理解する、つまり身体で身体を理解しようということにつながる。
    捉えにくいものを捉えようとするとき、先入観や常識は妨げになる。当然だと思ってしまったら、見えるものも見えない。そこで著者が自身の「当たり前」を離れる手立てとして選んだのが、「見えない人」との交流だった。視覚は五感の中でも、重点が置かれる感覚である。五感を持つ人が、得てして最も頼っているのが視覚である。では「見えない人」はただただ視覚を奪われた不自由なだけの人なのか? そのあたりを、視覚障害者へのインタビューや、彼らとの活動を通じて、探っていこうというのが本書の流れである。

    「見えない体」を体験するには手っ取り早いのはアイマスクを付けたり、目をつぶったりすることである。だが、通常、見えている状態の人が急に視覚のみを遮断しても、視覚障害者の感覚を追体験することにはならない。それは四本脚の椅子から脚を一本もぎ取るようなもので、バランスが突然崩れることだからだ。
    そうではなく、視覚障害者の多くは、三本脚の椅子として、安定したバランスを保っていると考える方が近いという。必要な情報を他の感覚で補ったり、配置を覚えておいて日常生活に困らないようにしたりする。
    おもしろいのはブラインドサッカーなど、元々暗がりでやるスポーツの場合、視覚障害者は夜でも昼でも自由に興じられることで、「目開きとは不自由なものよ」ということになる。弱視だった人が全盲になってからかえって転ばなくなったという話もある。
    また、視覚のある人は、得てして、三次元のものを二次元にして捉えがちである。立体図形の見取り図のようなものである。見える人は富士山を横から見た八の字のような形で思い浮かべるが、見えない人はご飯茶碗を伏せたような立体で思い浮かべる。見える人には必ず死角があるが、見えない人は全体を空間として捉えるので死角もないのだという。

    だが、どのように視覚を補い、工夫していくかは、実は、見えない人一人一人で異なるのだという。それぞれが自らの身体に合わせて、世界との関わり方をチューニングしていくのだ。視覚障害者とひとくくりには出来ない十人十色の認識ということになる。そのあたりはバリアフリーを考える上でも参考になりそうな視点だ。

    著者は美術鑑賞のおもしろい試みを紹介している。ソーシャ... 続きを読む

  • 著者の伊藤亜紗氏は、美学、現代アートを専門とする、東工大リベラルアーツ研究教育院准教授。
    健常者は五感、即ち、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で外界の状態を認識し、その中でも、八割から九割の情報は視覚に基づくと言われるが、本書は、その視覚に障害(著者は「障がい」という表記に否定的と語っている)のある人びとは、外界をどのように捉えているのか(「見ているのか」だけではない)を、著者が、視覚障害者やその関係者に対して行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、更には日々の何気ないおしゃべり等から分析し、まとめたものである。
    まず何より目から鱗なのは、「見える人が目をつぶること」と「そもそも見えないこと」の違いの解釈である。前者は、視覚情報の遮断、即ち、見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態であるのに対し、後者は、もともと視覚抜きで成立している体の状態である。著者は、これを更に、4本脚の椅子の1本がない状態(その椅子は傾く)と、もともと3本脚で作られた椅子(その椅子は当然立って
    いる)という、非常に分かり易く例えている。
    そして、そうした視覚障害者が外界を捉える特徴を諸々述べているが、私が印象に残った点は以下である。
    ◆見えない人には「視点」、「死角」がないため、物事の在り方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく、「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」で捉えている。つまり、富士山は末広がりの三角形(台形)ではなく、末広がりの円錐として、月は円ではなく、球として捉えている。
    ◆見えない人は、断片を繋ぎ合わせて全体を演繹する習慣がついている。見えたイメージに固執するということがないため、入ってきた情報に応じて、イメージを変貌自在に変えることができる、つまりイメージに柔軟性がある。
    そのほか全体を通して感じるのは、著者の障害者に対するニュートラルな姿勢である。「障害」を、身体的、知的、精神的な「欠如」と捉えるのではなく、「特徴」と捉えることによって、障害者だからできないことがあるのと同じように、障害者だからできることがあるというスタンスが貫かれている。
    「世界の別の顔」を知るヒントを与えてくれる一冊である。
    (2017年6月了)

  • 呟き程度に。
    知ったからといって自分の中の何かが急にガラっと変わるわけでも無かろうと分かっていながら、長い間知りたいと思っていたことの一つが、この本の主旨です。全盲、特に先天的な全盲の人の世界観というものがずっと知りたかったのです。
    生まれつき目が見えないという状況を必死に想像してみたこともあって、何となく掴めたような気がして、一人勝手に衝撃を受けたこともありました。たとえば色という概念であったり、美的感覚だったり、人間とそれ以外の動物の違いであったり、境界線という概念であったり、いくらでも考えられますが、視覚があるがゆえに情報として入ってくるもの、逆に何らかの制限となるもの、そういったものは山ほど存在していて、それらから解放されている人達はその分ゆとりがあって「見える」人には掴みきれない何かを掴んでいるのではないか、そんなことをぐるぐると考えてワクワクしたり。
    そういった私の混沌とした想像を、この本は、実際の聞き取り調査などを裏付けとして明快に記してくれました。想像だけでは辿り着かなかった箇所の補完やそれこそ「盲点」というところ、沢山ありました。
    こういった本が、想像すらしたことの無い人の元に届いたら、恐らく相当面白いことになるだろうな、というのが専ら漠然とした楽しみです。とことんのところ、自分の基盤を覆す、if、もしも、という仮定にまで掘り下げて物事を考えるという行為は必要な労力が大きすぎて、日頃忙しい人にはなかなか出来ない、寧ろやろうと思わない、というのが実状ではないかと思います。でも、「見えない」世界を考えるというのは、頭を柔らかくするのに間違いなく役立つし、それは自分にとっても他人にとっても必要な優しさに繋がっていると思います。この理屈でいうと、必ずしも「見える」「見えない」でなくても構いません。「聞ける」「聞けない」でもいいでしょう。ただ、本作でも記述があるように、健常者にとって視覚というのは五感の中でも一際重要な位置を占めているというのは恐らく事実です。したがって、まずは導入として「見える」「見えない」を考えるというのは良い入り方だと思います。そこから、自分の知的好奇心などに応じて理解を深めていけばいいのですから。
    問題提起というのか何というか、とにかく入門書としては、ここ数年目にした新書の中で最高の書籍の一冊です。私個人の興味関心にあまりにドンピシャで、もう一歩踏み込んでくれてもいいんだよ、という完全なエゴイズムで★4つとさせて頂きます。今後の執筆活動、楽しみにしております。

  • 自分の考え方が、いかに福祉的視点に偏っているかを痛感する。「どうしたら晴眼者と同じように暮らせるか」だけを模索するのではなく、「彼らはどのような世界を生きているのか」「見えないからこそできることは何か」などということを知らなければならない。視覚障害者に対する単純な興味からこの本を書き上げた著者に脱帽である。障害者をこんなにも笑い飛ばしてもまったくいやらしさを感じない、むしろ痛快さすら感じるところに、彼女の障害者に対する深いリスペクトを感じる。

  • この本は目の見えない人に対する
    インタビューをもとに著者が考察した
    「世界の見方」に関する本だ。

    著者は目の見えない人が世界をどう見ているのか?
    を知りたいと思う。
    「世界の別の顔」を知りたいと思ったからだ。

    別の顔とは何か?
    それは意味付けによって変わってくる
    世界の多様性に満ちた顔のことだ。
    なぜなら「世界とは情報と意味で出来ている」からだ。

    簡単に言うと人の意味付けによって
    物理的に同じ世界に属していても
    見えている風景は全く違ってくるということだ。

    例えば「明日の降水確率は60%である」という情報は
    受け手次第で、無数の意味を生み出す。
    明日運動会の小学生と、傘屋、農家では全然違う意味付けをする。
    つまり「意味」とは「情報」が
    具体的な文脈に置かれたときに生まれるもの。

    同じ情報という現実で作られている世界は
    それぞれが付ける「意味」によって別の顔を生み出す。

    そして著者は別の顔を感知できる
    スペシャリストこそ目の見えない人たちではないのか?
    と仮定して調査と考察を始める。

    見える人が見えない人にとる態度は、「情報」ベースになりがちだ。
    ここ困ってませんか?あれが不足ではありませんか?

    助けるという事は良い事だろう。
    しかし本当に大事なのは対等にお互いが
    人間同士として面白がれる関係なのだ。

    三本の脚で立っている椅子に
    四本の脚で立っている椅子が
    もう一本つけなきゃあ、だめだよ、
    という必要はないのだ。
    三本の足の椅子にはその独特のバランスがあるのだ。
    そのバランスは尊重するべきだ。

    そう確信する著者は目の見えない人たちに
    真剣にかつ好奇心満タンで話を聞く。
    その結果がこの本に記されいる。

    「回転寿しはロシアンルーレットだ!」
    という言葉は実際に見えない人が語った日常だ。
    ユーモアではあるが特に狙ったギャグではない。

    私はこの本を読んだことにより
    新しいメガネ(視点)を手に入れる事が出来た。
    そのメガネは他者をそして自分を理解するための
    最新のナビゲーションになる可能性を秘めている。

    現実はなかなか手強い情報に満ちているが
    意味付けを変えることによって世界は変わる。
    そんな気にもさせてくれた。
    それほどの情報と考察を含んだ
    パワフルで温かい一冊だ。
    何やら面白そうだ!とピンときた方は一読をおすすめする。

  • ブログをこちらに書きましたので、宜しければお読みください。

    http://sommelierofbooks.com/politics/howtoseebyblindpeople/

    『目の見えない人』たちが見る世界は
    『目の見える人』たちの世界とは違うのか?
     
    『目の見えない人』たちはどうやって運動するのか?
     
    そんな疑問に答えてくれる本です。

  • ただのメモ
    ・本より
    ★私見
    ---
    ・福祉ではなく身体論について
    ・4本足の椅子から1本足を取ったら(目が見えなくなったら)倒れるが、元々3本足の椅子もある
    ・生まれつき目の見えない人は、赤いものの集合(トマト、りんご…)から「赤は暖かい色」と理解している
    ・白と赤を混ぜるとピンク、のような混色はイメージできない。机と椅子を混ぜるようなもの
    ・見える人は富士山を平面の三角に、見えない人は立体の円錐にイメージしている。見えることで余計なバイアスがかかってしまうことも多い。
    ★育児をきっかけに他者視点を意識するようになった
    ★この本も他者視点で、他者への理解を促す本
    ★この本より濃かった本で『ぼくには数学が風景に見える』も自分とは違う考えを見れるので面白い

  • 障害を持つことに対する価値観を全く変えてくれる本。
    視覚障害者へのサポートは「情報」の提供に留まりがちだが、その先の「意味」こそ重要である。健常者の価値観を障害者の世界観に押し付けてはダメ。
    ではどうするのがよいのか?「違いを面白がること」「意味を共に創ること」。印象的だったのは、著者が視覚情報を全盲の方に伝えたところ、「へー!そっちの世界ではそう見えてるんですねー!」と、まるで見える世界が、隣人の“オタク、どう?”みたいなカジュアルな距離感だったそう。
    それから、美術館で視覚障害者と共にグループで鑑賞を行うという「ソーシャルビュー」という取り組みも強烈だった。美術鑑賞の楽しさを“絵画などを観ること”自体ではなく“その作品の意味への探究”とした場合、見えないからこその役割があるという。
    図書館で借りたが、良書だったので購入。

  • 伊藤さんはもと生物学者を目指し、のち美学に転じた人だけに、発想が斬新だ。このタイトルにしても、ぼくなんかは新聞の広告を見てすぐ読みたくなった。中身も予想に外れぬ刺激的なものでいろいろ考えさせられた。人はそもそも目に頼りすぎているのではないか。視覚を筆頭に聴覚、嗅覚、味覚、触覚があるが、人はこれらの働きを固定したものと考えてはいないだろうか。たとえば、盲人というと点字を連想するが、実際に点字のできる人はそれほど多くないし、減りつつあるそうだ。目の見えない人は目が見えない分触覚に頼ることが多いと思われがちだが、点字にしても本質的には「読む」という行為を点字を通じてしているに過ぎない。生理学の研究によれば、目の見えない人が点字を読むときには、脳の視覚を司る部分が発火しているのだそうだ。さらには、ある機械を使えば、目の見えない人でも「見える」に類似した感覚を経験できるのだそうだ。見えるということは本質的に脳の機能とかかわるが、要するに人は目によってのみ「見ている」のではないと伊藤さんは言うのである。器官も「目で物の質感を捉えたり、耳で聞いた音からイメージを連想したり、甘い匂いを嗅いだり」(p111)といったふうにそんなにはっきりと分けられるものではない。以上は主に本書第2章の「感覚」の部分。第1章の「空間」では、晴眼者は外界を二次元として捉えがちであるのに対し、目の見えない人は三次元でとらえるとか、「運動」では「見えなくなってからの方が転ばなくなった」、電車が急停車してもよろつかない、ブラインドサーフィンなどの例が報告されている。見えていない分だけ平衡感覚が発達するのだろうか。第3章「言葉」では目の見えない人との美術鑑賞を紹介している。目が見えても自分の顔を人に尋ねるときがあるが、あの要領で目が見える人たちが言葉で絵の印象を伝えるのである。また、「ユーモア」では、障害そのものを笑いのネタにするということが紹介されている。障害者というと腫れ物を触るようになってしまうが、それが二つの世界を分けてしまうのかもしれない。わたしたちは目が見えない人がいろんなことができると「すごいね」と言ってしまうが、「すごい」というのはやはり上から目線で、本当は「面白いね」と言うのがいいのではないか。伊藤さんはそう言う。

  • 視覚は情報量が多く、空間的に広がりを持って捉えられる。

    しかし、視覚を知覚の主役に据えることで、他の感覚からの情報を切り捨てたり、知覚情報もパターン化して捉えたり、多くを切り捨てたりしている。

    視覚障害の人は健常者が切り捨てている情報で空間認識をしなくてはいけないので、健常者とは違う空間認識感覚を持っているとのこと。

    2つの感覚を等価に扱う共感覚的な記述であれば、3本足の椅子の座り心地も、4本足の椅子にしか座ったことのない人に、感覚的に理解しやすいのでは?と思うと同時に、環境の違いから出る言葉(エスキモーの雪を表す言葉や地域による色を示す言葉など)の種類や量の違いなどを考えると、最初に述べられていた”身体論”としては少し弱い感じがする。

    美術館での集団鑑賞の話も視覚障害者の言語と想像力の話であり、見える=”言語から惹起される世界認識”になってしまっていて、それはその時に感覚を通して誤認があろうとも直に得られたものではなくて、経験や知識から作られたものであり、ボクの思うところとはちょっとズレてると感じる。

    少しのズレなのだけれど、美学としては大きなズレではないのかと思う。

  • 著者は東京工大リベラルアーツセンターの准教授で専門は美学・現代アート、というわけで科学寄りの話ではなく、身体からの思想・哲学寄り。
    5つの章に分けて考察していきますが、その章の狙いが最初に1ページ入ってて講義を受けている気分。今日はここまで、とオン・オフしやすいです。

    著者も最終章で言っていますが「情報」対「意味」の対比が通底しており、個人的には第4章言葉での例が一番腑に落ちました。
    例は美術鑑賞でしたが、「これって、本も一緒だ」って。(私の思考が本中心だから……(^_^;))
    誰がいつ作った大きさこれくらいの油絵、というのが「情報」
    (脳内書籍Ver.変換:誰がいつ書いたミステリーの文庫本○○社XX円)
    その作品から受けることが出来る印象・解釈とそれにいたるプロセス、が「意味」
    (脳内書籍Ver.変換不要)
    意味に正解などなく、この情報と意味をライブでやりとりすることが楽しい。
    (変換不要!問答無用!)

    見える人も実は見えてないとか、推理しながら見ることに慣れてない(ので的確な質問が出来ない)とか、普段そうじゃないかなと考えていることを使って説明されているので、とても読みやすかったけれど、そのせいか、あんまり別の目が開いた気がしない(^_^;)けどいい本だと思う。

    装幀 / アラン・チャン
    本文イラスト / 山形 育弘

  • 障害というものをポジティブに捉えるという考え方は新鮮だった。健常者がなんとかしてあげなければ、という発想がいかに愚かだったかを伝えてくれた気がする。目が見えないことが障害なのではなく、目が見えないせいで外が歩きにくいことが障害なのだ。
    文章にユーモアがあって、とても読みやすかった。

  • 2017.8.8再読。
    高齢社会=身体多様化の時代。医療技術や工学技術の発展も、この多様化を加速する。
    人と人が理解しあうために「相手の体のあり方を知る」ことが不可欠になってくる。異なる民族の人がコミュニケ ーションをとるのに、その背景にある文化や歴史を知る必要があるように、これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくる。
    手で「読ん」だり、耳で「眺め」たり……何かをするのにどの器官を使ったっていいじゃないか。
    教科書に書いてあるような知識で障害を捉えてつきあう限り、健常者が障害者をサポートする、その関係から抜け出すことができない。もっと友人として隣人として、お互いに好奇の目を向けあおう。というお話。

    とりあえずTENGA公式サイトのこの記事を読め!そうすればわかる。好奇の目を向けあうっていうのはこういうことだよ。
    https://www.tenga.co.jp/voice/kobayashi/

  • 【状態】
    展示中

    【内容紹介】
    私たちは日々、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―からたくさんの情報を得て生きている。なかでも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の八~九割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか―?美学と現代アートを専門とする著者が、視覚障害者の空間認識、感覚の使い方、体の使い方、コミュニケーションの仕方、生きるための戦略としてのユーモアなどを分析。目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。

    【キーワード】
    新書・視覚障害・障害者・目


    ++++1

  • 近くに視覚障害のある友達がいることもあり、自分の学ぶ分野にも近いということがあり、また、NHKの特集もあり読んでみた。視覚障害があっても「視る」ことはできて、視覚以外のいろんな情報から視ているのだと感じた。

  • 視覚障害者にとっての自身の周りの見方というか捉え方が、目の見える人にうまく理解できる本である。
    「見えない人の美術鑑賞」なんてなんとなく楽しそうである。

  • 視覚障害者は世界を3次元で見るという話になるほどおもしろいなと思った。目が見える人は世界を目で見た2次元でとらえるので「視点」が存在し、見る対象には表と裏、外と内が生じる一方、視覚障害者はそのようなものの捉え方にはならず、常に立体として対象を認識するとのこと。「死角が存在しない」とも説明されている。
    前に読んだ本で知ったユクスキュルの環世界という概念を使った説明は腑に落ちた。

  • 読んでよかった。
    視覚障害者の感覚について書かれているのだけれど、物の見方というか俯瞰する視点というか、そしてそれらを言葉にするということについて考えさせられた。
    大変興味深く、一気に読んでしまった。

    自分メモ:
    4本脚の椅子と元々3本脚の椅子。
    美術館行きたい。

  • ソーシャル・ビューに興味あり!

  • 見えない人は、認知の仕方が違う。大岡山の傾斜を「丘」であると捉え、富士山は二次元ではなく三次元で捉える。ブラインドサッカーや美術館を見える人見えない人の複数でツアーする「ソーシャルビュー」など、これまで気の毒だと「腫れ物」に触るように接してきた障害者への想像力をかきたてる一冊。遠ざけるのではなく、想像しよう。著者はそう言いたいのだと思う。彼らは劣ってるわけでもなく、そして優れているわけでもない。お隣さんとして「そっちの世界も大変だね」と奇しくも見えない人が発した言葉が、気づかせてくれることは多い。障害の「害」をひらがなにすることが何かの解決には、決してならない。子供にも読ませたい名著です!

  • 世の中の大きな誤解。目の見えない人への配慮として「点字をつけてあげればいい」というもの。
    点字が読める視覚障害者は1割ほどしかいないということ。
    私の知人の視覚障害者が点字ではなく、普通の文字を目を凝らして読んでいるのを見ていたのに、気づかずにいた事実です。
    目の見えない人への「配慮」が「健常者様の世界を見せてやる!」になっていないか。
    自分はそうした配慮をできていると思う人ほど読んでほしい。
    生まれた頃から全盲の人でも好きな色がある、という話にも驚かされた。
    たまたま視覚を使ってないだけで「見える」ことには変わりないのかもしれない。

  • 視覚障害を必ずしも可哀想なことととらえない。不自由は多いけれど、そのなかでも工夫のうえ乗り越える独自の世界がある。手話のように。4本足の椅子と3本足の椅子のように、まったく器官の使い方が異なっている。もちろんそれも人によるのだけれど。空間の捉え方や、耳で眺める、ソーシャルビューなどはなるほどなあと思った。

  • 目の見えない人はこうやっていて凄い、ではなく。目の見えないそっちの世界を面白く読ませてくれる本。

    余白があって俯瞰して構成して物事を見る。
    私はすごく視力低いので、裸眼の状態だと耳を頼りにしている感じはある。
    ぼやけるからだれが喋っているか、声を覚える!

    物がいつも同じ場所に無いとき、絶対眼鏡ないと探せないのもね‥
    ほんの少しだけ見えない人の世界に共感してしまったですよ‥見えてしまうから同じでは無いと思いますが。


    絵の鑑賞方法で、見えない人にわかるように絵の状態を言うの楽しそうでした。

    過剰な善意の意味がわかりました。

  • ●:引用、→:感想

    ●事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために使えるように作り替えました。同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。→「「退化」の進化学」で読んだ”進化の反対が退化ではなく、進化と退化は同時に起こる”に通じる。
    ●足で対象を触覚的にサーチしながら、見えない人は道路を歩き、階段を登ります。さぐりながら進み、支えながらさぐる。(略)つまり、同じ「歩く」でも、見える人と見えない人では異なる運動をしているのです。第2章で、目以外の器官を使って「見る」方法についてお話しました。外見上は見える人と同じ「手で触る」行為が、見えない人においては「読む」役割を果たしていた。ここでも同様です。見えない人の足は、「歩く」と同時に「さぐる」仕事も行っているのです。
    ●実際、ブラインドサッカーでは音の出るボールを使いますが、葭原さんによれば、ドリブルしてシュートするのに本当は音なんかいらないのだそうです。音が必要なのはトラップのときだけ。それ以外の動きに関してなら、サッカーは視力を使わずにできるスポーツだということです。逆に視力を使わないことが、プレイの幅を広げることもあります。第1章で分析したとおり、見えない世界には死角がありません。つまり、自分の体が向いている前方と同じように、背中方向にいる後ろの選手の動きもよく分かるのです。
    ●つまり美術鑑賞にかぎらず、ふだんから断片をつなぎあわせて全体を演繹する習慣がついているのです。パーツいうと単純に組み合わせていくようですが、実際には、ある部分についてより解像度をあげた説明が加わったり、時間的な変化についての言及が追加されたりもします。それができるためには、新しく入ってきた情報に合わせて、頭の中で理解している全体のイメージを柔軟に変えることができなくてはなりません。つまり、見えない人の頭の中のイメージは、見える人の頭の中のイメージよりも「やわらかい」のではないか。そう感じることがあります。
    ●序章で、健常者の善意がかえって障害者に対して壁を作ってしまう、というお話をしました。よく分からないからこそ、先回りして過剰な配慮や心配をしてしまう。「何かしてあげなければならない」という緊張で、障害のある人とない人の関係ががちがちに硬いものになってしまうのです。障害者に対する悪意ある差別はもってのほかですが、実は過剰な善意も困りものなのです。

  • 推薦者 バイオ環境化学科の教員

    *図書館の所蔵状況はこちらから確認できます。
    http://opac.lib.kitami-it.ac.jp/webopac/catdbl.do?pkey=BB50108335&initFlg=_RESULT_SET_NOTBIB

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