目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

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著者 : 伊藤亜紗
  • 光文社 (2015年4月16日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334038540

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)の感想・レビュー・書評

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  • スリリングで、広い地平を拓く本である。
    著者の専門は美学・現代アートだが、元々は生物学を志していたという。
    生物と美学と盲目が一体全体どうつながるんだ?といささか不思議な三題噺である。
    最初の疑問が読み進めるうちにほぐれ、3つの視点が見事に調和していく、一風変わった「身体論」の1冊。

    著者がそもそも生物学を専攻したのは、自分とは異なる生きものが世界をどう「感じて」いるのかに興味があったためだという。二十世紀初頭の生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが唱えた「環世界」の考え方ともつながる。体のサイズも構造も、主に用いる感覚器官も異なる場合、当然、とりまく世界のとらえ方も変わるはずだ。ネズミのように鼓動が速く、ハチのように集団として生き、深海の熱水噴出口に住むチューブワームのように地上を想像することも出来なかったら。それはどういう「感じ」なのだろうか。そこが著者の出発点である。
    それが知りたくて生物学を専攻してみたが、著者の目指すところに向かうには、今日の生物学の主流は「細分化」されすぎていた。大きなビジョンが見えにくいのだ。そこで著者が選んだのが「美学」である。「美学」というものは、芸術や美についての認識について、哲学的に探求していくものだという。人が美しいと思うのはどういうものか。美しいと思うということはどういうことか。そのいわく言い難いところを言葉にして「わかって」いこうとする分野なのだ。それは、自らの感覚を理解する、つまり身体で身体を理解しようということにつながる。
    捉えにくいものを捉えようとするとき、先入観や常識は妨げになる。当然だと思ってしまったら、見えるものも見えない。そこで著者が自身の「当たり前」を離れる手立てとして選んだのが、「見えない人」との交流だった。視覚は五感の中でも、重点が置かれる感覚である。五感を持つ人が、得てして最も頼っているのが視覚である。では「見えない人」はただただ視覚を奪われた不自由なだけの人なのか? そのあたりを、視覚障害者へのインタビューや、彼らとの活動を通じて、探っていこうというのが本書の流れである。

    「見えない体」を体験するには手っ取り早いのはアイマスクを付けたり、目をつぶったりすることである。だが、通常、見えている状態の人が急に視覚のみを遮断しても、視覚障害者の感覚を追体験することにはならない。それは四本脚の椅子から脚を一本もぎ取るようなもので、バランスが突然崩れることだからだ。
    そうではなく、視覚障害者の多くは、三本脚の椅子として、安定したバランスを保っていると考える方が近いという。必要な情報を他の感覚で補ったり、配置を覚えておいて日常生活に困らないようにしたりする。
    おもしろいのはブラインドサッカーなど、元々暗がりでやるスポーツの場合、視覚障害者は夜でも昼でも自由に興じられることで、「目開きとは不自由なものよ」ということになる。弱視だった人が全盲になってからかえって転ばなくなったという話もある。
    また、視覚のある人は、得てして、三次元のものを二次元にして捉えがちである。立体図形の見取り図のようなものである。見える人は富士山を横から見た八の字のような形で思い浮かべるが、見えない人はご飯茶碗を伏せたような立体で思い浮かべる。見える人には必ず死角があるが、見えない人は全体を空間として捉えるので死角もないのだという。

    だが、どのように視覚を補い、工夫していくかは、実は、見えない人一人一人で異なるのだという。それぞれが自らの身体に合わせて、世界との関わり方をチューニングしていくのだ。視覚障害者とひとくくりには出来ない十人十色の認識ということになる。そのあたりはバリアフリーを考える上でも参考になりそうな視点だ。

    著者は美術鑑賞のおもしろい試みを紹介している。ソーシャル・ビューと呼ばれるもので、見える人と見えない人がグループを作り、見えない人が必ず1人グループに入るようにする。見える人は美術作品がどんな外見であるか、見えない人に、言葉にして説明していく。見えない人は疑問があれば質問する。見える人はそれに答える。そんなやりとりの中から、見える人の間でも見方が異なること、意外に見えていないものがあったことに気が付いていく。
    感覚を解体していくような興味深い話である。

    目が見えない人は、他の人とのコミュニケーションを言葉に頼ることが多いため、ユーモアのある人も多いという。中には見える人からは言いにくいような「自虐ネタ」を持ち味にする人もある。
    もちろん、人を笑わせることが得意な人ばかりではないわけだが、それぞれがそれぞれの持てる能力で世界と関わっているということになる。そう思うと、目が見えないほかは普通の人なんだなとごく当たり前のことにも気付く。

    外界の捉え方について。障害について。主観と客観について。
    多くの事例から刺激を受け、自分の感覚についても認識が広がる1冊である。

  • 著者の伊藤亜紗氏は、美学、現代アートを専門とする、東工大リベラルアーツ研究教育院准教授。
    健常者は五感、即ち、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚で外界の状態を認識し、その中でも、八割から九割の情報は視覚に基づくと言われるが、本書は、その視覚に障害(著者は「障がい」という表記に否定的と語っている)のある人びとは、外界をどのように捉えているのか(「見ているのか」だけではない)を、著者が、視覚障害者やその関係者に対して行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、更には日々の何気ないおしゃべり等から分析し、まとめたものである。
    まず何より目から鱗なのは、「見える人が目をつぶること」と「そもそも見えないこと」の違いの解釈である。前者は、視覚情報の遮断、即ち、見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態であるのに対し、後者は、もともと視覚抜きで成立している体の状態である。著者は、これを更に、4本脚の椅子の1本がない状態(その椅子は傾く)と、もともと3本脚で作られた椅子(その椅子は当然立って
    いる)という、非常に分かり易く例えている。
    そして、そうした視覚障害者が外界を捉える特徴を諸々述べているが、私が印象に残った点は以下である。
    ◆見えない人には「視点」、「死角」がないため、物事の在り方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく、「諸部分の関係が客観的にどうなっているか」で捉えている。つまり、富士山は末広がりの三角形(台形)ではなく、末広がりの円錐として、月は円ではなく、球として捉えている。
    ◆見えない人は、断片を繋ぎ合わせて全体を演繹する習慣がついている。見えたイメージに固執するということがないため、入ってきた情報に応じて、イメージを変貌自在に変えることができる、つまりイメージに柔軟性がある。
    そのほか全体を通して感じるのは、著者の障害者に対するニュートラルな姿勢である。「障害」を、身体的、知的、精神的な「欠如」と捉えるのではなく、「特徴」と捉えることによって、障害者だからできないことがあるのと同じように、障害者だからできることがあるというスタンスが貫かれている。
    「世界の別の顔」を知るヒントを与えてくれる一冊である。
    (2017年6月了)

  • 呟き程度に。
    知ったからといって自分の中の何かが急にガラっと変わるわけでも無かろうと分かっていながら、長い間知りたいと思っていたことの一つが、この本の主旨です。全盲、特に先天的な全盲の人の世界観というものがずっと知りたかったのです。
    生まれつき目が見えないという状況を必死に想像してみたこともあって、何となく掴めたような気がして、一人勝手に衝撃を受けたこともありました。たとえば色という概念であったり、美的感覚だったり、人間とそれ以外の動物の違いであったり、境界線という概念であったり、いくらでも考えられますが、視覚があるがゆえに情報として入ってくるもの、逆に何らかの制限となるもの、そういったものは山ほど存在していて、それらから解放されている人達はその分ゆとりがあって「見える」人には掴みきれない何かを掴んでいるのではないか、そんなことをぐるぐると考えてワクワクしたり。
    そういった私の混沌とした想像を、この本は、実際の聞き取り調査などを裏付けとして明快に記してくれました。想像だけでは辿り着かなかった箇所の補完やそれこそ「盲点」というところ、沢山ありました。
    こういった本が、想像すらしたことの無い人の元に届いたら、恐らく相当面白いことになるだろうな、というのが専ら漠然とした楽しみです。とことんのところ、自分の基盤を覆す、if、もしも、という仮定にまで掘り下げて物事を考えるという行為は必要な労力が大きすぎて、日頃忙しい人にはなかなか出来ない、寧ろやろうと思わない、というのが実状ではないかと思います。でも、「見えない」世界を考えるというのは、頭を柔らかくするのに間違いなく役立つし、それは自分にとっても他人にとっても必要な優しさに繋がっていると思います。この理屈でいうと、必ずしも「見える」「見えない」でなくても構いません。「聞ける」「聞けない」でもいいでしょう。ただ、本作でも記述があるように、健常者にとって視覚というのは五感の中でも一際重要な位置を占めているというのは恐らく事実です。したがって、まずは導入として「見える」「見えない」を考えるというのは良い入り方だと思います。そこから、自分の知的好奇心などに応じて理解を深めていけばいいのですから。
    問題提起というのか何というか、とにかく入門書としては、ここ数年目にした新書の中で最高の書籍の一冊です。私個人の興味関心にあまりにドンピシャで、もう一歩踏み込んでくれてもいいんだよ、という完全なエゴイズムで★4つとさせて頂きます。今後の執筆活動、楽しみにしております。

  • 自分の考え方が、いかに福祉的視点に偏っているかを痛感する。「どうしたら晴眼者と同じように暮らせるか」だけを模索するのではなく、「彼らはどのような世界を生きているのか」「見えないからこそできることは何か」などということを知らなければならない。視覚障害者に対する単純な興味からこの本を書き上げた著者に脱帽である。障害者をこんなにも笑い飛ばしてもまったくいやらしさを感じない、むしろ痛快さすら感じるところに、彼女の障害者に対する深いリスペクトを感じる。

  • この本は目の見えない人に対する
    インタビューをもとに著者が考察した
    「世界の見方」に関する本だ。

    著者は目の見えない人が世界をどう見ているのか?
    を知りたいと思う。
    「世界の別の顔」を知りたいと思ったからだ。

    別の顔とは何か?
    それは意味付けによって変わってくる
    世界の多様性に満ちた顔のことだ。
    なぜなら「世界とは情報と意味で出来ている」からだ。

    簡単に言うと人の意味付けによって
    物理的に同じ世界に属していても
    見えている風景は全く違ってくるということだ。

    例えば「明日の降水確率は60%である」という情報は
    受け手次第で、無数の意味を生み出す。
    明日運動会の小学生と、傘屋、農家では全然違う意味付けをする。
    つまり「意味」とは「情報」が
    具体的な文脈に置かれたときに生まれるもの。

    同じ情報という現実で作られている世界は
    それぞれが付ける「意味」によって別の顔を生み出す。

    そして著者は別の顔を感知できる
    スペシャリストこそ目の見えない人たちではないのか?
    と仮定して調査と考察を始める。

    見える人が見えない人にとる態度は、「情報」ベースになりがちだ。
    ここ困ってませんか?あれが不足ではありませんか?

    助けるという事は良い事だろう。
    しかし本当に大事なのは対等にお互いが
    人間同士として面白がれる関係なのだ。

    三本の脚で立っている椅子に
    四本の脚で立っている椅子が
    もう一本つけなきゃあ、だめだよ、
    という必要はないのだ。
    三本の足の椅子にはその独特のバランスがあるのだ。
    そのバランスは尊重するべきだ。

    そう確信する著者は目の見えない人たちに
    真剣にかつ好奇心満タンで話を聞く。
    その結果がこの本に記されいる。

    「回転寿しはロシアンルーレットだ!」
    という言葉は実際に見えない人が語った日常だ。
    ユーモアではあるが特に狙ったギャグではない。

    私はこの本を読んだことにより
    新しいメガネ(視点)を手に入れる事が出来た。
    そのメガネは他者をそして自分を理解するための
    最新のナビゲーションになる可能性を秘めている。

    現実はなかなか手強い情報に満ちているが
    意味付けを変えることによって世界は変わる。
    そんな気にもさせてくれた。
    それほどの情報と考察を含んだ
    パワフルで温かい一冊だ。
    何やら面白そうだ!とピンときた方は一読をおすすめする。

  • ブログをこちらに書きましたので、宜しければお読みください。

    http://sommelierofbooks.com/politics/howtoseebyblindpeople/

    『目の見えない人』たちが見る世界は
    『目の見える人』たちの世界とは違うのか?
     
    『目の見えない人』たちはどうやって運動するのか?
     
    そんな疑問に答えてくれる本です。

  • ただのメモ
    ・本より
    ★私見
    ---
    ・福祉ではなく身体論について
    ・4本足の椅子から1本足を取ったら(目が見えなくなったら)倒れるが、元々3本足の椅子もある
    ・生まれつき目の見えない人は、赤いものの集合(トマト、りんご…)から「赤は暖かい色」と理解している
    ・白と赤を混ぜるとピンク、のような混色はイメージできない。机と椅子を混ぜるようなもの
    ・見える人は富士山を平面の三角に、見えない人は立体の円錐にイメージしている。見えることで余計なバイアスがかかってしまうことも多い。
    ★育児をきっかけに他者視点を意識するようになった
    ★この本も他者視点で、他者への理解を促す本
    ★この本より濃かった本で『ぼくには数学が風景に見える』も自分とは違う考えを見れるので面白い

  • 障害を持つことに対する価値観を全く変えてくれる本。
    視覚障害者へのサポートは「情報」の提供に留まりがちだが、その先の「意味」こそ重要である。健常者の価値観を障害者の世界観に押し付けてはダメ。
    ではどうするのがよいのか?「違いを面白がること」「意味を共に創ること」。印象的だったのは、著者が視覚情報を全盲の方に伝えたところ、「へー!そっちの世界ではそう見えてるんですねー!」と、まるで見える世界が、隣人の“オタク、どう?”みたいなカジュアルな距離感だったそう。
    それから、美術館で視覚障害者と共にグループで鑑賞を行うという「ソーシャルビュー」という取り組みも強烈だった。美術鑑賞の楽しさを“絵画などを観ること”自体ではなく“その作品の意味への探究”とした場合、見えないからこその役割があるという。
    図書館で借りたが、良書だったので購入。

  • 伊藤さんはもと生物学者を目指し、のち美学に転じた人だけに、発想が斬新だ。このタイトルにしても、ぼくなんかは新聞の広告を見てすぐ読みたくなった。中身も予想に外れぬ刺激的なものでいろいろ考えさせられた。人はそもそも目に頼りすぎているのではないか。視覚を筆頭に聴覚、嗅覚、味覚、触覚があるが、人はこれらの働きを固定したものと考えてはいないだろうか。たとえば、盲人というと点字を連想するが、実際に点字のできる人はそれほど多くないし、減りつつあるそうだ。目の見えない人は目が見えない分触覚に頼ることが多いと思われがちだが、点字にしても本質的には「読む」という行為を点字を通じてしているに過ぎない。生理学の研究によれば、目の見えない人が点字を読むときには、脳の視覚を司る部分が発火しているのだそうだ。さらには、ある機械を使えば、目の見えない人でも「見える」に類似した感覚を経験できるのだそうだ。見えるということは本質的に脳の機能とかかわるが、要するに人は目によってのみ「見ている」のではないと伊藤さんは言うのである。器官も「目で物の質感を捉えたり、耳で聞いた音からイメージを連想したり、甘い匂いを嗅いだり」(p111)といったふうにそんなにはっきりと分けられるものではない。以上は主に本書第2章の「感覚」の部分。第1章の「空間」では、晴眼者は外界を二次元として捉えがちであるのに対し、目の見えない人は三次元でとらえるとか、「運動」では「見えなくなってからの方が転ばなくなった」、電車が急停車してもよろつかない、ブラインドサーフィンなどの例が報告されている。見えていない分だけ平衡感覚が発達するのだろうか。第3章「言葉」では目の見えない人との美術鑑賞を紹介している。目が見えても自分の顔を人に尋ねるときがあるが、あの要領で目が見える人たちが言葉で絵の印象を伝えるのである。また、「ユーモア」では、障害そのものを笑いのネタにするということが紹介されている。障害者というと腫れ物を触るようになってしまうが、それが二つの世界を分けてしまうのかもしれない。わたしたちは目が見えない人がいろんなことができると「すごいね」と言ってしまうが、「すごい」というのはやはり上から目線で、本当は「面白いね」と言うのがいいのではないか。伊藤さんはそう言う。

  • 視覚は情報量が多く、空間的に広がりを持って捉えられる。

    しかし、視覚を知覚の主役に据えることで、他の感覚からの情報を切り捨てたり、知覚情報もパターン化して捉えたり、多くを切り捨てたりしている。

    視覚障害の人は健常者が切り捨てている情報で空間認識をしなくてはいけないので、健常者とは違う空間認識感覚を持っているとのこと。

    2つの感覚を等価に扱う共感覚的な記述であれば、3本足の椅子の座り心地も、4本足の椅子にしか座ったことのない人に、感覚的に理解しやすいのでは?と思うと同時に、環境の違いから出る言葉(エスキモーの雪を表す言葉や地域による色を示す言葉など)の種類や量の違いなどを考えると、最初に述べられていた”身体論”としては少し弱い感じがする。

    美術館での集団鑑賞の話も視覚障害者の言語と想像力の話であり、見える=”言語から惹起される世界認識”になってしまっていて、それはその時に感覚を通して誤認があろうとも直に得られたものではなくて、経験や知識から作られたものであり、ボクの思うところとはちょっとズレてると感じる。

    少しのズレなのだけれど、美学としては大きなズレではないのかと思う。

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