人間を磨く 人間関係が好転する「こころの技法」 (光文社新書)

著者 :
  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (243ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334039226

感想・レビュー・書評

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  • 「人間を磨く」田坂広志著

    1.購読動機
    著者が約30年前大病を患い、それと向き合い、今に至るから。
    その向き合い方を学びたかったから。

    2.人間を磨くとは?
    「引き受け」ができること。

    3.引き受けとは?
    人との出会いを、人生の中での局面を、大きなエゴで受け止めること。

    大きなエゴとは、すべてが自身にも、非があると認識できること。
    そして、その認識を、自身が成長するために、何が学べるか?と発展させること。

    4.本書のよいこと
    田坂さんの過去の体験談の記述があること。
    それがため、「わたしもある、ある」と理解が進むこと。



  • 人間関係を好転させるためにはどのようにすればよいかという本。

    人とのやりとりの技法など、テクニカルな小技の紹介ではなく、自分がどのように人生に向き合えばよいかという、大きなテーマで書かれている。

    自分に非がない、完璧で統一的な人間を目指すのではない。

    ・自分の非を見つめ(それはなかなか治らない)、皆の前でも認める。
    ・人と関係がこじれた時こと、自分の心の中で相手との関係を閉じず、相手に心を開いていることを示す。
    ・人は言葉の影響力に大きく影響されている。人の悪口を言うとどんどんその人のことが嫌いになっていってしまう。なので、嫌いな人ほど相手の良いところを見つけ、日記などに書きだしてみる。
    ・自分の中のエゴを見つめられることで、心の鏡に曇りがなくなる。自分の姿、他人の姿、物事の姿が曇りなく見えてくる。

    確かにこれができていると、人間としてしっかりしていて皆にも認められそうだなと思う。

    考え方としてはうなづけることがたくさん。
    ただ、行動に移すのは生半可な気分じゃできない。

    意識しながら、できることからやっていこうかなと思う。

  • 読了7冊目


    ・密やかな奢りと無意識の傲慢さを伴った優等生意識が人の心を遠ざける。
    ・我々の心の中には、小さなエゴがある一方、大きなエゴと呼ぶべきものがある、この大きなエゴは小さなエゴとは逆に、今の自分を変え、さらに成長したい。いまの自分よりも、さらに成熟はさた人間になりたいと願っている。この小さなエゴと大きなエゴは常に心の中で戦っている。
    ・心の中の大きなエゴに従って動く人物からは、人間としての謙虚さが伝わってくるが、逆に小さなエゴの声に支配される人間からは、しばしば傲慢さと呼ぶべきものが伝わってくる。
    ・人間、自分に本当に自信が無いと、謙虚になれない。真の謙虚さとは、まさに自分の非や欠点や未熟さを、素直に認められる。ということであり、その非や欠点、未熟さを一つ一つ克服しながら成長していこうとする姿勢のことである。

    ・人生における人間関係の問題は、ある意味で、そのほとんどが、関係する双方に非がいる。どちらかだけ非があるということはあまりない。すなわち、その課題を自分ごととして捉え、成長の課題から目を背けてしまうと、一時的には、その人間関係の問題を解決できたように思うが、気がつけば以前に巻き込まれた問題と同じような問題に巻き込まれ、自分の成長課題をふたたび突きつけられることになる。


    ・人間を磨くとは、自分の心の中の小さなエゴの動きが見えるようになることであり、小さなエゴの否定的な動きや、破壊的な動きを静めていくことができるようになることである。小さなエゴの動きが見えるようになると、心の鏡に曇りがなくなる。自分の姿、他人の姿、物事の姿が、曇りなく見えるようになる。人間を磨くとは、心の鏡を磨くこと。自分の心の小さなエゴを静かに見つめ、その小さなエゴによって、常に曇ってしまう心の鏡を磨いていく。それが人間を磨くという言葉の真の意味だろう。

    →田坂さんの本を久々に読んだ。今回は傲慢さということが言葉として残った。謙虚でありたいと思いながらも、自分はできる。だれよりもやっている。という傲慢さはあるなと思った。それは無意識に人に伝染しているとも思った。また、最近できないと思われたくないという思考を手放したいと考えていたが、そのエゴは消えるものではなくあるものとして静かに小さなエゴを見つめていけばいいんだなとも思えた。自分はまだまだ未熟だなと感じ、心の鏡を磨いていこうと思いました。

  • 田坂氏の新刊。
    すぐに買いに行きました。
    すごい作品。
    生きる道標になります。
    しなやかな心で、自分を磨きます。

  • 名著。著者の中でも最高峰。

  • 古典から学ぶべきは「かくあるべし」という「理想的人間像」ではなく
    いかにして成長していくかという「具体的修行法・心の置き所」

    捨て去ることも消し去ることもできない「小さなエゴ」に処する
    唯一の方法は「ただ、静かに見つめること」

    「非や欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点で
    「人間を磨く」意味と具体的な七つの技法を語る

  • 結構人によっては拒絶反応が
    大きくなる本かもしれないな。
    多分SNSが支配する今だと
    まず評価されることはなさそう。

    特に批判が出そうなのは
    第四の技法かな。
    私はこれは実践はしないかな。
    うん、わかるけれども経験が拒否してるんだわ。

    ただ、そうなった経験に関しては
    拒否も何もしていないのよね。
    それがあるからこそ、無駄に粘り強い
    自分がいると思っているのだね。

  • いや、そうではない。実は、人間は、自分の中に「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えたまま、周りの人々と良き人間関係を築いていくことができるのではないか? その関係を通じて、良き人生を歩めるのではないか? それが、六五年の歳月を生きてきた一人の人間の、率直な思いでもある。 それゆえ、本書においては、「非や欠点の無い人間をめざして生きる」という視点ではなく、「非も欠点もある未熟な自分を抱えて生きる」という視点から、「人間を磨く」ということの意味を語り、そのための具体的な技法について語っていこう。 しかし、その本題に入る前に、この「人間を磨く」という言葉とともに、多くの読者が心に抱く疑問に答えておこう。 それは、次の疑問である。

    その「小さなエゴ」に処する方法は、ただ一つである。 ただ、静かに見つめること。 それが、唯一の方法である。 例えば、自身の心の中に、誰かに対する「嫉妬心」が生まれてきたとき、「ああ、自分の心の中で、あの人に対する嫉妬心が動いている・・」と、静かに見つめることである。 ただ、このとき大切なことは、「静かに」見つめること。

    例えば、一人のビジネスパーソンを考えてみよう。彼は、家庭においては、子煩悩な父親であり、しばしば子供を甘やかしすぎると、妻から苦言を呈されている。しかし、彼は、会社に行くと、辣腕の営業マネジャーとして、部下からも上司からも、一目、置かれている。けれども、ときおり実家に帰って母親と過ごすと、昔ながらの一人息子の顔に戻り、母親にわがままを言って好きな料理を作ってもらう。また、たまに高校の同窓会に行くと、気の置けない仲間と再会し、かつての冗談好きな楽しい雰囲気が表に出てくる。

    また、昔から、経営の世界では、「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」と語られてきた。これは、自分の中に、「悪人」と呼ぶべき人格がありながらも、その人格を御していくことができる、「もう一つの人格」があることの大切さを語っている。すなわち、「悪いことができる人格」を自分の中に抱くからこそ、部下や社員が「悪いこと」に走る心境を察知し、彼らが「悪」に手を染めることを未然に止めることができる。また、取引先や競合企業が「悪いこと」を犯す可能性を考慮し、適切な予防対策の手を打つことができる。「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ」という言葉は、そのことを意味している。
    第一の視点 一つの理想的な「統一的人格」を持つ人間をめざすのではなく、自分の中に「様々な人格」を育て、それらの人格を場面や状況に応じて適切に使い分けることのできる人間をめざす。 第二の視点 自分の心の中の「小さなエゴ」を捨て去ろうとするのではなく、その「小さなエゴ」の動きを、静かに見つめることのできる「もう一人の自分」を育てていく。 第三の視点 ただ「理想的人間像」を論じるのではなく、そうした人間像に向かって一歩一歩成長していくための「具体的修行法」を身につける。 では、その「具体的修行法」とは何か? 我々が、この人生において、人間を磨き、人間力を高めていくために、どのような場で、どのような修行をすればよいのか? 端的に述べよう。 日々の仕事や生活における「人間関係」 それが、最高の修行の場であろう。
    それは、次の七つである。 第一の技法 心の中で自分の非を認める 第二の技法 自分から声をかけ、目を合わせる 第三の技法 心の中の「小さなエゴ」を見つめる 第四の技法 その相手を好きになろうと思う
    第五の技法 言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす 第六の技法 別れても心の関係を絶たない 第七の技法 その出会いの意味を深く考える
    それは、静かな一言であり、教授の眼差しは、弟子への愛情に溢れていたが、その一言は、私の胸に突き刺さり、生涯、心の中で鳴り響く言葉となった。 「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」 それは、恩師からの終生の教えでもあった。 なぜなら、何年か後に大学院を終え、実社会に出て働き始め、様々な人間関係の問題に直面したとき、いつも自分を救ってくれたのは、この言葉だったからである。
    「君は、可愛気が無い」 この言葉は、実に的確に、当時の私の、人間としての「未熟さ」を指摘していた。 それは、私の心の中の「密やかな驕り」とでも呼ぶべきものを指摘する言葉でもあった。 人間であれば、誰でも、非があり、欠点があり、未熟さがある。 それにもかかわらず、「自分には非が無い」「自分には欠点が無い」と思い込み、それを密かに誇る心の姿勢。 教授は、その「密やかな驕り」「無意識の傲慢さ」を、当時の私の姿から感じていたのであろう。
    そうした人間の心の中に根を生やしていくのは、「自分に非は無い」「自分に欠点は無い」という密やかな驕りであり、さらには、「自分は優秀だ」「自分は優れている」という無意識の傲慢さであろう。 そして、その密やかな驕りと無意識の傲慢さを伴った「優等生意識」が、人の心を遠ざける。 しかし、あの日、研究室を辞するときに恩師が教えてくれた、「可愛気」という言葉。 それは、素直に、自分の非を認め、欠点を認め、未熟さを認める、「しなやかな心」のことであった。 そして、その「しなやかな心」の大切さを教える「可愛気」という言葉が、三〇歳にして実社会に出た私の人生を支え、導いてくれた。 それから、実社会で三五年の歳月を歩み、この一人の未熟な人間が、有り難い人生を与えられ、いま、振り返って思う。 人は、非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。 人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非が無い、欠点が無いと思い込むとき、周りの人の心は離れていく。 しかし、そうした人がいる一方で、人生においては、その逆の姿を示す人もいる。
    非もあり、欠点もあり、未熟さも抱えているのに、周りの人から好かれる人物がいる。 それは、なぜか?
    このA課長とB社長、その部下や社員に「あのA課長、困った人だね」「あのB社長、嫌にならないかい」と聞いても、おそらく、こうした答えが返ってくるだろう。 「たしかに、あの大雑把な性格は、困るんですが、 あの課長、なんか憎めないんですよね・・」 「それは、怒鳴られた瞬間は、少し頭にきますけど、 あの社長、どこか可愛気があるんですよね・・」 では、なぜ、このA課長とB社長、部下や社員から嫌われないのだろうか?

    まず、A課長、彼は、色々と欠点はあるのだが、何よりも自分の欠点を良く知っている。そして、それを、素直に仲間の前で認めている。 それは、会議室に入るなり「すまん、すまん!」と申し訳なさそうに謝る風情にも現れている。そして、「俺、また、やっちゃったな・・」という言葉からも、自分の欠点を自覚していることが伝わってくる。 そして、B社長、彼は、「短気で、すぐ怒鳴る」という欠点が出た後、社員に対して、直接に詫びることはしないが、無言のメッセージで、「怒鳴って、すまなかったな」という反省と謝罪の思いを伝えている。それが、彼なりの「たい焼き」の手土産であり、その無言のメッセージは、給湯室の会話のように、しっかりと社員に伝わっている。 すなわち、このB社長もまた、自分の欠点を、内心、素直に認め、反省している。そして、そのことを社員に対して、無言のメッセージで詫びている。


    「経営者として大成する人間は、悪いことができて、悪いことをしない人間だ

    このように、A課長やB社長が、人間としての至らぬところ、非や欠点を持っているにもかかわらず、そして、その非や欠点がゆえに周りに迷惑をかけているにもかかわらず、それが職場や会社の人間関係を甚だしく損ねていない理由は、二人が、自分の非や欠点を素直に自覚していることであり、さらに、その非や欠点を、周りの人間に対して率直に認めていることであろう。
    なぜなら、仕事や生活において人間関係がおかしくなるときというのは、必ずと言って良いほど、互いに「相手に非がある」「自分には非はない」と思っているからで

    あるとき、この先輩と二人で酒を飲みに行き、少し深い酒になったのだが、そのとき、彼が酔った風情で、こう語った。 「有り難いよな・・。俺みたいな、わがままな奴に、 みんな、よくついてきてくれるよな・・」 この言葉を聞いたとき、サークルの仲間が、彼をリーダーとして認め、彼に幾つかの欠点があっても、誰も悪く言わない理由を理解した。 彼は、自分の非や欠点を自覚し、認めているだけではなかった。その非や欠点を含めて、彼を受け容れてくれる仲間に、心の深くで、感謝していた。

    感謝は全てを癒す

    なぜなら、我々のコミュニケーションというものは、実は、「言葉のメッセージ」で伝わるものが「二割」であり、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気など「言葉以外のメッセージ」で伝わるものが「八割」だからである。 それゆえ、我々の心の中の「思い」は、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、「言葉以外のメッセージ」を通じて、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。 そして、我々の心の中の「自分の非を認める思い」もまた、「言葉のメッセージ」に表さなくとも、自然に、相手や周りの人々に伝わっていく。 それが、この第一の技法として、「心の中で自分の非を認める」ということを述べる理由である。
    ちなみに、著者は、若き日に、仕事の経験を通じて、この「心の中の思いは、言葉以外のメッセージを通じて、相手や周りの人々に伝わる」ということを学んだが、それゆえ、会議や会合における「こころの技法」として大切にしてきたことがある。 それは、会議や会合に際して、参加者一人ひとりに対して、心の中で「有り難うございます」と唱えるという技法である。

    例えば、商談で、ある会社のA部長、B課長を訪問するとき、その会社のビルに入るとき、心の中で「A部長、有り難うございます。B課長、有り難うございます」と心の中で唱えることを習慣としてきた。 また、社内会議でも、その会議の席に着き、会議が始まる前の数分間、背筋を伸ばし、目を閉じ、参加者一人ひとりに対して、心の中で、「有り難うございます」と唱えるということも習慣としてきた。 こうした習慣は、難しい交渉が予想される商談や、厳しい議論が予想される社内会議において、事前に心を整え、心の中に「感謝の思い」を持つことによって、会議や会合の参加者に対して、ポジティブな「言葉以外のメッセージ」を伝えるために身につけたものである。

    人間であるかぎり、誰もが、必ず、「非」や「欠点」や「未熟さ」を抱えて生きている。そうした人間同士が出会うとき、それが、家庭であっても、職場であっても、学校であっても、必ず、互いの感情がぶつかるときや、互いの心が離れるときがある。ましてや、職場とは、互いが、一つの仕事を成し遂げようと懸命に取り組む場。そこでは、なおさら、互いの心の不和や不信、反目や反発、対立や衝突が生じる。 著者もまた、一人の未熟な人間として、そうした人間関係の苦労を味わってきた。そして、おかしくなった人間関係を修復することや、そこから良き人間関係を築くということも、若き日に、その修行を積ませて頂いた。

    自分から声をかけることをためらうとき、必ずと言って良いほど、この言葉が心に浮かび、「そうだ、だからこそ、自分から声をかけよう」と思うことができた。先ほど、「生涯、心の中で鳴り響く言葉」と言ったが、著者にとって、この言葉は、人間関係で壁に突き当たったとき、必ず、心の中で鳴り響き、ときに警鐘となり、ときに自分を励ましてくれる鐘の音となった。
    気骨もあり、矜持も持ち、聡明な母であった。この息子の語る筋の通らない理屈も、理不尽な言葉も、すべて分かっていたはずである。しかし、母は、私から電話があったとき、必ず、自分から、「すまなかったね・・」と語った。自分に非が無いときでも、「すまなかったね」と語った。そして、深い思いの込められた、この母の言葉を聞くと、私は、いつも、固まってしまった自分の心が、静かに溶けていくことを感じていた。 私は、若き日に、こうした母の姿から、「しなやかな心」の大切さを学んだ。たとえ「自分には非が無い」と思える出来事においても、自分から心を開き、相手に対して声をかけ、ときに、相手に謝ることのできる「しなやかな心」が、相手の心に静かに沁み込んでいくことを学んだ。

    そして、私は、実社会に出てから、この母の姿、「自分に非の無い出来事に対しても、自分にも非があると思って、真摯に受け止める心の姿勢」が、「引き受け」という「こころの技法」であることを学んだ。 この技法については、次の第三の「こころの技法」において語ろう。 すなわち、このY教授と母の言葉。人生において、人間関係の壁に突き当たったとき、誰かと心がぶつかったり、離れたとき、いつも、心の奥から聞こえてきたのは、Y教授が語った「君はね・・、可愛気が無いんだよ・・」という言葉であり、母が語った「広志・・、すまなかったね・・」という言葉であった。 そして、このY教授の言葉と、母の言葉が、いつも、自分の背中を押し、自分を励ましてくれた。そのお陰で、未熟な自分も、心がぶつかり、心が離れた相手に対して、「自分から声をかける」ということができたのかと思う。

    一つは、こうして、自分の非を認め、自分から声をかけ、謝ることができたとき、ほとんどの場合、相手もまた、自分の非を認め、謝る姿を示すということ。すなわち、しばしば「相手の姿は、自分の姿の鏡である」ということが言われるが、この体験を通じて、その言葉が真実であることを学んだ。 もう一つは、こうして、互いが和解する瞬間とは、ただ、人間関係が元に「修復」される瞬間ではなく、互いが、さらに深いところで結びつく「深化」の瞬間であるということ。すなわち、互いの「小さなエゴ」がぶつかるという体験は、処し方を誤らなければ、互いの関係を、さらに深める好機であるということを学んだ。 そして、この二つのことを学んだことによって、人生を歩むときの大切な覚悟を教えられた。 人とぶつからない人生、心が離れない人生が、良き人生ではない。 人とぶつかり、心が離れ、なお、それを超えて、深く結びつく人生。 それこそが、良き人生である。


    なぜなら、人間同士、ぶつかる前は、いかに表面的に良好な関係を築いていても、心の深いところに、「相手は、自分の欠点が出たとき、それも含めて、受け容れてくれるだろうか?」との不安があるからである。 しかし、たとえ、互いの「小さなエゴ」がぶつかり、互いに心が離れ、相手を批判や非難し、心を閉ざしても、それでも、互いに心を開き、謝り、和解するという心のプロセスを辿ることができると、心の深いところに、「相手は、自分の欠点や未熟さも含めて、受け容れてくれた」という安心感が生まれ、「受容感覚」が生まれる。 そして、我々は、誰もが、心の奥深くで、自分自身の欠点や未熟さを知っており、それゆえ、心の深層で、相手や周りの人々に対して「自分の欠点や未熟さも含めて、認め、受け容れてほしい」という密かな願いを持っている。 互いにぶつかった後の和解に伴って生まれる「受容感覚」が、互いの人間関係を、さらに深いところで結びつけるのは、それが理由でもある。


    すなわち、その「自己嫌悪」の感情を消していくために、さらに相手の欠点や問題点を探し始めるのである。そして、そのことによって、「ああ、自分があの人を批判し、非難したことは、間違っていないのだ」と、自分の姿を、無意識に正当化しようとするのである。 心理学の世界では、例えば、ある新車の魅力を語ったパンフレットを読みたがるのは、すでにその新車を買った人であり、そのパンフレットを読むことによって、「自分の選択は間違っていなかった」と思おうとすると言われているが、このように、人間の心には、自分の過去の選択や行為を「正当化」しようとする傾向がある。 そのため、誰かと感情がぶつかり、心が離れたとき、その自分の行為を「正当化」するために、無意識に、相手の欠点や問題点を探し始めてしまうのである。 また、我々は、心の深いところに、「相手が、どこかで、自分を批判しているのではないか・・」や「相手は、誰かに、自分の悪口を言っているのではないか・・」といった「他者不安」の感情を抱くと、無意識に防衛本能が働き、「自己防衛」に向かい、その相手に対して、ますます批判的になり、ますます攻撃的になっていく傾向がある。

    第一は、人間の心は、我々が思っている以上に、しなやかだ、ということである。 先ほどのエピソードにおいて述べたように、著者は、これまでの人生において、「自分の非を認め、心を開き、ときに、率直に謝る」ということを、自分自身の成長のための「こころの修行」として、様々な場面で行ってきたが、これを行って、相手が心を開いてくれなかった例は、実は、数えるほどしかない。

    しかし、我々の心の中には、こうした性質を持つ「小さなエゴ」がある一方、「大きなエゴ」と呼ぶべきものもある。この「大きなエゴ」は、「小さなエゴ」とは逆に、「いまの自分を変え、さらに成長したい」「いまの自分よりも、さらに成熟した人間になりたい」と願っている。
    すなわち、我々が、自分の非を認めることができないときとは、自分の心の中で、「小さなエゴ」の「自分は正しい!」「自分は優れている!」「自分は変わりたくない!」という声が「大きなエゴ」の声に勝るときであり、逆に、素直に自分の非を認めることができるときとは、「大きなエゴ」の「自分の至らぬところを認め、さらに成長していこう」「この未熟さを超え、人間として、さらに成熟していこう」という声が、「小さなエゴ」の声に勝るときである。
    に従って動く人物からは、人間としての「謙虚さ」が伝わってくるが、逆に、心の中の「小さなエゴ」の声に支配される人物からは、しばしば、「傲慢さ」と呼ぶべきものが伝わってくる。 それは、なぜだろうか?

    「人間、自分に本当の自信が無いと、謙虚になれないんですよ」 この言葉を聞くと、すぐに、「それは、逆ではないか?」と感じる読者もいるだろ

    著者が過去に出会ってきた様々な人物を振り返ってみても、この河合氏の指摘は、まさにその通り。たしかに、「謙虚さ」を身につけた人物を見ていると、その穏やかな人柄の奥から「静かな自信」とでも呼ぶべきものが伝わってくる。ただし、ここで述べる「謙虚さ」とは、ただ表面的に「謙虚さ」を装って振る舞うことではない。 真の「謙虚さ」とは、まさに、「自分の非や欠点や未熟さを、素直に認められる」ということであり、その非や欠点や未熟さを、一つ一つ克服しながら成長していこうとする姿勢のことである。

    そもそも、「本当の自信」を持つ人間は、「俺は負けない!」といったことを口にしない。競争の勝ち負けで、自分という人間の価値が決まると思っていないからである。 しかし、世の中には、競争に勝つことによって、自分が「価値ある人間」であることを証明しようとする人が少なくない。だが、改めて言うまでもなく、人生における「人間の価値」とは、競争での勝敗とは全く違う次元のものである。それは、市場競争の勝者となった経営者が、企業倫理に反することを行い、スポーツ競技で勝者となった選手が、社会倫理に反する行為に手を染める姿からも理解できることであろう。


    例えば、世の中を見渡すと、見事なほどの学歴を持っている人が、「本当の自信」を身につけていないという、不思議な姿が目につく。 それは、立派な学歴を持ち、ある年齢に達し、ある社会的地位に立って、なお、その身体から「傲慢さ」を滲ませている人物である。 河合隼雄氏が述べているように、人間というものは、自分に「本当の自信」が無ければ、「謙虚」になれない。 言葉を換えれば、人間というものは、「本当の自信」を持っているならば、自然に「謙虚さ」が醸し出されてくる。逆に、ある年齢と社会的地位に達して、なお、「傲慢さ」を滲ませている人物は、その内面において、「本当の自信」を身につけていないのであろう。

    では、なぜ、見事なほどの学歴を持っている人が、その内面に「本当の自信」を身につけていないのか? その「自信」から生まれる「謙虚さ」を身につけていないのか? それは、この国においては、「高学歴」というものが、「競争」に勝つことによって得られるものだからであろう。 改めて言うまでもなく、我が国において「学歴」というものは、激しい受験競争を勝ち抜いて獲得されるものであるため、どれほど、その競争に勝ち続けても、常に、さらに上位の競争に巻き込まれ、常に、他者との比較の世界に置かれ続ける。そのため、常に「敗者となる不安」が、心の奥深くに広がり、決して「本当の自信」は得られない。 例えば、受験競争に勝ち抜いて有名大学に入っても、その大学での成績の競争がある。その競争に勝ち抜いて、仮に中央官庁に就職しても、官庁間の序列がある。主力官庁に就職しても、その中で、昇進を巡っての競争がある。そうした「競争」の世界を歩むかぎり、そして、その「競争」に勝つことを自分の価値と考えているかぎり、競争に敗れることの「不安」と、競争に敗れたときの「劣等感」を味わうことはあっても、「本当の自信」と「真の謙虚さ」は、決して身につかない。むしろ、その見事な学歴や経歴にもかかわらず、心の奥深くに「密やかな劣等感」を持ちながら、周りに対しては、人の心を遠ざける「無意識の傲慢さ」を滲ませる、奇妙な人物が生まれてくるだけであろ

    「人間、自分に本当の強さが無いと、感謝ができないんですね」
    しかし、もし、目の前にその人がいないとき、一人、心の中で、その人に感謝できるとすれば、それが「本当の感謝」に他ならない。 例えば、長い結婚生活において、誰もが、何がしか、伴侶に対して、「ああして欲しい」「こうしてくれたら」という不満を抱いているだろう。しかし、会社からの帰り道、一人、自宅に向かいながら、心の中で伴侶に対して、「ああ、いつも、自分を支えてくれて有り難う・・」と思えるとすれば、それは、「本当の感謝」であり、まさに河合氏の言う通り、その人の「心の強さ」の現れであろう。 たしかに、我々は、心が強くなければ、もしくは、心が弱っているときは、相手に対して「こうして欲しい」「なぜ、こうしてくれないのか」といった要求や不満の思いを抱くだけで、その相手に対して感謝の思いを抱くことはできない。
    そして、実は、我が国には、「大企業の経営者」や「大組織のリーダー」にも、同様の感謝の行を求める言葉がある。 この日本という国に、永く伝わる言葉である。 「千人の頭となる人物は、千人に頭を垂れることができなければならぬ」 これは、「頭」という字を二回使った格言であるが、日本において、リーダーを務める立場の人間ならば、誰もが心に刻むべき言葉であろう。

    人間、「謙虚さ」の修行を続けていると、自然に「本当の自信」が身についてくる。
    人間、「感謝」の修行を続けていると、自然に「本当の強さ」が身についてくる。 例えば、日々の仕事や生活において、「謙虚さ」の一つの表れである「自分の非を認める」という修行を続けていると、自然に「静かな自信」と呼ぶべきものが身についていく。


    「引き受け」 心の中で、すべてを、自分自身の責任として、引き受けること。 その上司は、当時、プロジェクトのトラブルで色々と苦労し、周囲に対して、やり場の無い不満を心に抱いていた私に、その心の姿勢の大切さを、そっと婉曲に教えてくれたのであった。

    しかし、その場合においても、心の中で、「自分に責任があったのではないか?」「自分に問われていることがあるのではないか?」と問うこと、それが、この「引き受け」という心の姿勢である。 たしかに、この「引き受け」という心の姿勢で処することは、決して容易ではない。 しかし、もし、我々が、その心の姿勢を大切にして人生の問題に処していくならば、我々は、確実に、一人の職業人として、一人の人間として、成長できる。 逆に、我々が成長の壁に突き当たるときは、この「引き受け」ができない。

    「君たちは、明日から、当社の各部署に配属になる。 そこで、一つ、アドバイスをしておこう。 配属になったら、最初に、その職場を見渡しなさい。 そして、その職場で、最も好きになれそうにない人を、見つけなさい。 そして、その人を見つけたら その人を、好きになりなさい」

    そして、企業の現場で、そうした「人を好きになる」という努力をしていると、次第に、好き嫌いということは、変えがたい「感情の問題」ではなく、努力次第で変えられる「意志の問題」であることが、身体的に分かるようになってきた。 しばしば、世の中には、「嫌いなものは、嫌い」という言葉を簡単に発する人がいるが、それは、残念ながら「成熟した精神」とは言えないだろう。

    もとより、人間には、「どれほど努力しても好きになれない人」というものがあることは否定しないが、「嫌いなものは、嫌い」という言葉は、少なくとも、「好きになる」ための努力を尽くした後に、心から零れ落ちるように出てくるべき言葉であろう。 そして、一人の未熟な人間である著者の人生を振り返ってみても、出会った当初、「この人は好きになれない」と思った人物と、何年かの歳月を共に歩み、不思議なほど深い結びつきになることは、何度もあった。 そして、その歩みの軌跡は、振り返れば、まぎれもなく、自分自身の人間としての成長と成熟の軌跡でもあった。 それゆえにこそ、「その相手を好きになろうと思う」ということを、人間関係に処していく大切な「こころの技法」として、述べておきたい。


    人間、「謙虚さ」の修行を続けていると、自然に「本当の自信」が身についてくる。
    人間、「感謝」の修行を続けていると、自然に「本当の強さ」が身についてくる。 例えば、日々の仕事や生活において、「謙虚さ」の一つの表れである「自分の非を認める」という修行を続けていると、自然に「静かな自信」と呼ぶべきものが身についていく。

    本来、「欠点」は存在しない、「個性」だけが存在する 第一は、「本来、『欠点』は存在しない、『個性』だけが存在する」という視点である。

    そして、この「発酵」と「腐敗」の定義についての「人間中心」の視点を見ると、それが、人間の「長所」と「欠点」を論じるときの「自己中心」の視点と似ていることに気がつくだろう。 すなわち、我々は、「発酵」と「腐敗」の定義を論じるとき、人間にとって有益なものを「発酵」と呼び、人間にとって有害なものを「腐敗」と呼ぶが、同様に、我々は、「長所」と「欠点」の定義を論じるとき、自分にとって好都合なものを「長所」と呼び、しばしば、自分にとって不都合なものを「欠点」と呼んでいる。
    このように、一人の人物の性格は、それを見る立場と、置かれた状況によって、「長所」にもなれば、「欠点」にもなる。 そう考えるならば、実は、世の中に、本来、人間の「長所」や「欠点」というものは存在しない。 存在するのは、その人間の「個性」だけである。 そして、我々は、その人の「個性」が、自分や周囲に好都合な形で発揮されたとき、それを「長所」と呼び、自分や周囲に不都合な形で発揮されたとき、それを「欠点」と呼んでいるだけにすぎない。 誰かに対して、「彼の、あの欠点が嫌いだ」「彼女の、あの欠点は、我慢できない」といった思いが浮かぶとき、我々は、この「長所」と「欠点」の定義を思い起こすべきであろう。


    自分の心を明るく保つのは自分自身であって人に頼ることではない

    自分の心の鏡が曇らないように日々自分で意識して磨かなければならない
    心の鏡を磨く

    例えば、一般に、家庭などで、父親と娘が、よく意見がぶつかるという場合がある。 こうした状況を、よく見てみると、この父親と娘、遺伝的に互いの性格が似ているということが原因になっていることも多い。 遺伝的には、娘が父親の性格に似て、息子が母親の性格に似るということは、しばしば起こると言われるが、この場合には、似た性格だからこそ、互いに父親と娘が、反発するということが起こっている 。
    これは、我々人間の心には、「自分の持つ嫌な面を持っている人を見ると、その人に対する嫌悪感が増幅される」という傾向があるからである。そのため、「嫌いな人」の嫌いな部分を深く見つめるならば、自分の中にある嫌いな部分と同じであることに気がつく、すなわち、「自分に似ている」ということに気がつくのである。 これを、心理学の言葉で表現するならば、 「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」 という言葉になる。

    昔から語られる「相手の姿は、自分の心の鏡」という言葉は、この人間心理の機微を語った言葉でもある。 そして、「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」ということを理解するならば、我々は、もう一つ大切なことを理解しておく必要がある。 自分の中にある欠点を許せないと、同様の欠点を持つ相手を許せない。 この「自分の中にある欠点を許す」ということは、実は、我々の深層意識の世界に関わる、深く難しい課題であり、それができるようになることは、容易ではないが、我々は、この心の機微も、理解しておく必要がある。古典に語られる「自分を愛せない人間は、他人を愛せない」という言葉は、この心の機微の深みを語った言葉に他ならない。


    この「賛同」と「同情」と「共感」、いずれも、我々が抱く「良き感情」であるが、「共感」という感情は、「相手の姿が、自分の姿のように思えること」であるため、「賛同」や「同情」という感情に比べて、相手との心の関係を、より深いものにしていく。 それゆえ、我々が、人生において、「好きになれない人」や「嫌いな人」と巡り会ったとき、相手に対して、この意味における「共感」を抱くことができれば、その人を、少しでも「好きになる」ことができるだろう。 例えば、ある人が示す人間としての「未熟さ」を見て、嫌悪の感情を抱くとき、一度、その感情から離れ、「その人もまた、自分の未熟さを抱えて苦しんでいる」ことを理解し、「自分もまた、人間としての未熟さを抱えて苦しんできた」ことを思い起こすことができれば、その人に対する否定的な感情は、少しでも薄れていくだろう。

    「相手に正対する」とは、「相手を一人の人間として敬意を持って接する」ことだからである。 そして、我々の心の中の、その「敬意」もまた、無言のメッセージとして、相手に伝わるからである。

    他社への嫌悪はしばしば自己嫌悪の投影
    自分を愛せない人は他人を愛せない

    参道と同情と共感

    相手の「孤独」や「寂しさ」を見つめることである。 すなわち、我々人間の誰もが抱えている「孤独」や「寂しさ」を見つめ、その「孤独」や「寂しさ」が相手の中にもあることを知り、その姿を、虚心に見つめることである。

    この人生において、我々は、誰もが、 独りで生まれ、独りで去っていく。 それゆえ、この人生において、我々は、 どれほど素晴らしい家族や友人に恵まれても、 心の深いところで、「孤独」を抱え、「寂しさ」を抱え、生きている。 そして、その「孤独」と「寂しさ」がゆえに、 この人生において、我々は、 誰かから愛されたい、誰かから好かれたいと願って、生きている。

    この欠点も未熟さも抱えた自分を、 そのまま受け入れてくれる人との出会いを願って、生きている。

    は、嬉しいから、笑うのではない。 笑うから、嬉しくなるのだ。 これは、現代の心理学が認める、一面の事実である。 すなわち、人間の「心」(心理的状態)と「身」(身体的行為)とは、実は、表裏一体のものであり、人間には、「心が動く→身が動く」という性質だけでなく、「身が動く→心が動く」という性質も、同時に存在する。



    深層意識は「天邪鬼」だからである。 すなわち、我々の深層意識は、表層意識で「こういう想念を深層意識に浸透させよう」と考えた瞬間に、逆の方向に動く傾向があるからだ。

    できることならば、誰かを感情的に批判したとき、自身の心の中で、「三つの内省」を行うべきであろう。 第一に、誰かを感情的に批判したとき、自分の心の奥深くに、「自分を許せない思い」や「自己嫌悪の感情」が生まれていることに気がつく。 第二に、相手を感情的に批判した自分を正当化したくなる「小さなエゴ」の動きを見つめる。 第三に、相手の非や欠点をさらに探して、自分を正当化しようとする「小さなエゴ」の動きに気がつく。

    彼は、あることで、主君である織田信長の激しい怒りを買い、蟄居(自宅での謹慎)を命じられたとき、蟄居中の屋敷内で、敢えて、飲めや歌えの宴会を催した。信長は、家臣から蟄居中の秀吉の様子を聞き、笑いながら「猿め!」と言ったと伝えられる。 これは、秀吉が人間の心理と信長の人柄を熟知していたからできたことであろう。 秀吉に対して激して叱り、蟄居を命じた信長にしてみれば、心中、秀吉が、自分に対してどのような気持ちでいるかが気になっている。それに対して、宴会を催してみせたのは、「殿、私は、この度、蟄居を命じられたこと、いささかも根に持っておりません」とのメッセージであっただろう。もし、このとき、秀吉の屋敷が静まりかえっていたならば、信長は、「あいつは、何を考えているのか? 良からぬことを考えているのではないだろうな?」という疑心暗鬼に駆られたであろう。 ある意味で、秀吉は、信長の心の中の「他者不安」の感情が増長しないように振る舞ったのである。

    日々の人間関係において、何かの摩擦があったとき、この「私は、根に持っていない」「私は、気にしていない」「私は、こだわっていない」というメッセージを相手に送ることは、人間心理の機微を考えるならば、相手に対する、大切な配慮である。

    なぜなら、嫌いな人を「誉める」という行為は、誰よりも、まず、自分の心の中を浄化してくれるからだ。 すでに述べたように、我々が、心の中で、誰かに対する「嫌悪感」を持っていると、深層意識の世界に「自己嫌悪」の感情や「他者不安」の感情が生まれ、その否定的な感情が、自分自身を傷つけ、苦しめていく。その意味で、「本人のいないところで誉める」という技法は、それらの否定的な感情を浄化していくという技法であり、自分にとって、極めて重要な意味を持っている。

    深夜に、一人、日記に向かい、好きになれない相手に対する「誉め言葉」を書くだけでも、心の中の何かが、大きく変わっていく。 この「深夜の日記」の技法については、拙著、『人生で起こること すべて良きこと』において、「内省日記」の技法として詳しく語ったが、著者自身、若き日に、永年続けた「こころの技法」でもある。

    は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。 好感の言葉を語るから、相手を好きになる。

    は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。 好感の言葉を語るから、相手を好きになる。

    本当に大切なことは、生じてしまった不和や不信、反目や反発、対立や衝突の状況から、ときに自らの非を認め、相手に心を開き、自ら謝り、相手を許し、ふたたび「和解」する心の力を持つことであろう。

    愛情とは関係をたたぬことである

    わかれたあとも心のなかで関係をたたぬこと


    世の中には、「人間関係が下手」と言われる人がいる。 それは、決して「人とぶつかってしまう人」のことではない。 それは、「人とぶつかった後に、和解できない人」のことである。

    「愛情」の反意語は、「憎悪」ではない。 「愛情」の反意語は、「無関心」である。

    「最近の若い人は、なぜ、『顔も見たくない』という別れ方をするのか? なぜ、そうした『無残な別れ方』をするのか?」 これは、決して、この言葉が語られた時代の「若い人」だけの傾向ではない。 いつの時代にも、互いの心に深い亀裂を残す、「無残な別れ方」をする人間がいる。 「他人に対する好き嫌いの激しい人」 「一時の感情に振り回される人」 「心の中の『小さなエゴ』の強い人」 そうした人は、多くの場合、人と別れるとき、「無残な別れ方」をする。 別れに際して、「心」を残し、「思い」を残すことのできない別れ方をする。 そして、「香り」の無い別れ方をする。 そのため、時間が過ぎゆくにつれ、互いの心が変わり、和解ができる時代を迎えても、和解ができない。 それは、「自分の非を認められない」ことや、「相手を許せない」ためではない。

    かつての別れ際に「心」や「思い」を残さなかったため、さらには、別れ際が「無残」であったため、和解しようと思っても、互いの心の間の「深い亀裂」のため、もはや、和解に向かって歩を進める余地が無くなっているからである。


    「人間関係が下手な人」とは、「人とぶつかってしまう人」のことではない。 「人とぶつかった後に、和解できない人」であり、 「人とぶつかった後に、和解の余地を残せない人」のことである。

    世の中には、「人貧乏」という言葉がある。 なぜか、その人の周りから、人が離れていく。 傍から見ていると、良き人が離れていく。 しかし、本人は、気がつかない。 出世し、財産を築いても、
    「周りに集まる人」という財産が貧しくなっていく。 そうした人物を、「人貧乏」と呼ぶ。 その「人貧乏」にならないための大切な心構え。 それが、別れに際して「関係を絶たぬこと」、そして、「和解の余地を残すこと」であろう。

    応接の椅子に座るなり、彼が語った言葉が、さらに心に残っている。 「田坂さん、私、最近、あるNPOを立ち上げたんですが、 そのNPOの代表になってみて、初めて、 田坂さんが自分に言おうとしたことが分かったんです。 最近は、リーダーとして壁に突き当たると、いつも 田坂さんなら、どう考えるだろうか、と思うんです・・」

    著者が、このエピソードを紹介した理由は、ただ一つのことを、読者に伝えたいからである。 人生において、出会った人と心が離れたとき、 たとえ、自分が、どれほど未熟な人間でも、

    心の中で「相手との関係を絶たない」ということを大切に歩んでいると、 人生というものは、ときおり、 「素晴らしい贈り物」を与えてくれる。


    「また、いつか、お会いしましょう」 「いつか、笑って、お会いできると良いですね」 「また、お会いするときがあるかもしれません」 どのような言葉でも良い、決して「無残な別れ」にならない言葉を語り、「香り」のある別れをすることができるならば、人生においては、我々が思っている以上に、不思議なことが起こる。 「しなやかな心」とは、その人生の不思議を信じる心のことでもある。

    しかし、この時代においても、「墓参り」を通じて、たしかに我々の心の中に生まれる「和解」がある。 それは、自分自身との和解である。 B君は、なぜ、A君の墓参りに行くのか? もとより、彼は、その墓参りを通じて、すでに他界したA君との和解を求めているのであろう。もし、我々の声が、墓参りによって、他界した人に伝わるのであれば・・。 しかし、一方、彼の心の奥深くで、和解を求めている相手は、もう一人いる。 それは、「もう一人の自分」。A君を自殺に追いやった自分自身を責め続ける「もう一人の自分」であろう。彼は、その「自分を許せない自分」との和解を、心の奥深くで求めている。そして、その彼の心の奥深くの思いが、ときおり、彼を、A君の墓参りへと向かわせるのであろう。 いや、これは、B君だけの姿ではない。実は、我々は、誰もが、すでに他界した人に対して、何がしかの自責の念を、心の奥深くに抱いている。

    生前、良き関係を結べなかったことへの自責。 支えてあげ、楽にしてあげられなかったことへの自責。 苦しみや悲しみを与えてしまったことへの自責。 苦しみや悲しみを理解してあげられなかったことへの自責。 親孝行をしてあげられなかったことへの自責。 長生きをさせてあげられなかったことへの自責。 我々は、心の奥深くに、すでに他界した人に対する、こうした自責の念を抱いている。 だから、我々は、墓参りに行くのではないか。 人生においては、心の奥深く、深い自責の念を抱いて行く墓参りが、ある。

    心の奥深くにいる、自分を責める思いの「もう一人の自分」。 その自分との和解を求め、その自分との対話を求め、 我々は、墓参りに行くときが、ある。

    そして、その墓参りにおいて、 「もう一人の自分」との対話が、深く、静かな対話になるとき、 我々の心には、ある「癒された感覚」が訪れる。 そして、その感覚の中で、墓を後にするとき、 生前、和解することのできなかったあの人が、 静かに微笑んでくれているような気がする。 それは、たとえ、他界した人と和解できた瞬間ではなくとも、 心の奥深くの自分が、癒される瞬間ではないだろうか。

    なぜ、我々は、墓参りに行くのか? それは、すでに他界した人と、心の関係を絶たぬため。 その人と、そして、自分自身と、深く、静かな対話を続けるため。 それは、我々の心を成長させ、我々の人生に深みを与えてくれる かけがえのない時間に他ならない。

    人間だれもが死んだ人にたいしてなにがしかの自責の念を心のおく不覚に抱いている

    ぜ、我々は、墓参りに行くのか? それは、すでに他界した人と、心の関係を絶たぬため。 その人と、そして、自分自身と、深く、静かな対話を続けるため。 それは、我々の心を成長させ、我々の人生に深みを与えてくれる かけがえのない時間に他ならない。

    愛情とは関係をたたぬことである

    「愛情」の反意語は、「憎悪」ではない。 「愛情」の反意語は、「無関心」である。

    相手との将来の若いの余地を残す

    実は、人生には、過去の「不幸な出会い」と思えるものが、「意味のある出会い」であったことに気づき、「有り難い出会い」であったことに気づくときがある。


    もとより、人生において、我々に、人との出会いを与える「何か」が存在するのか否かは、分からない。それもまた、おそらく「永遠の謎」であろう。 しかし、もし、我々が、心の中に、「人生における、人との出会いは、すべて、自分という人間の成長のために、与えられた出会いではないか」との視点を抱くならば、そこから、さらに具体的な、次の問いが生まれてくる。 この人との出会いを通して、そして、この痛苦な体験を通して、 いま、自分が人間として成長するべき課題は何か? いま、何を学べと言われているのか? いま、何を掴めと言われているのか?

    読者それぞれに、これまで歩んで来られた人生を、振り返って頂きたい。 そして、この問いを、問うてみて頂きたい。 自分は、いつ、人間として成長することができたか? 人間として成長できたのは、どのような体験においてであったか? その体験は、決して楽しい体験ではなく、痛苦な体験ではなかったか? その痛苦な体験は、人間との出会いによって与えられた体験ではなかったか?

    もし、過去を振り返りながら、この問いを問うならば、自然に、次の問いが心に浮かんでくるのではないだろうか? この人物と出会い、この痛苦な体験が与えられたのは、 自分が、いかなる成長を遂げるためなのだろうか?
    あの部長の厳しい言葉のお陰で、自分は、プロフェッショナルの道を歩めた。 あの部長の厳しい叱責のお陰で、自分は、大切なことに気づかせてもらった。 いま振り返れば、あの頃の自分には「無意識の傲慢さ」があった。 自分では気がついていなかったが、自分の企画に独りよがりな自信を持ち、この企画を顧客は必ず採用するだろうという思い上がりがあった。 それゆえ、あの部長は、目の前の若いビジネスパーソンの心の奥にある「無意識の傲慢さ」を感じ取ったのであろう。礼儀正しく、丁寧に語っている言葉の奥に、「密やかな驕り」を感じ取ったのであろう。 そして、あの部長は、鬼のような姿を通じて、私に、そのことを気づかせてくれた。 そのお陰で、今日の自分が、ある。

    どのような出会いにも、必ず、深い意味がある 著者は、今日まで、こうした体験を重ねてきた。 そして、いつか、一つの思いが、心に定まってきた。 「不幸な出会い」と思えるものにも、必ず、深い意味がある。 それは、ときに、自分が一人の人間として成長するための、大切な体験を与えてくれる。 そして、その真実に気がついたとき、我々の人生の「風景」が変わる。 日本語には、昔から、そのことを教えてくれる言葉がある。 例えば、「荒砥石」。 「あの上司は、いま振り返れば、自分にとっての『荒砥石』だったな。 毎日、仕事のことで、ごりごりと研がれたような気がするよ。 でも、お陰で、自分という人間の角が取れていったんだな・・。 自分は、我の強い人間だったからな・・」

    著者は、若き日に、人生の先輩たちから、そういった言葉を、何度か耳にした。 そして、幸い、著者自身も、そういう「荒砥石」と思える人と出会い、その人との葛藤と格闘を通じて、自分の心の中の「小さなエゴ」に気づくことができた。そして、人間としての成長の道を歩ませて頂いた。
    しかし、ひとたび、我々が、その「不幸な出会い」に心で正対し、その意味や価値を見つめるならば、不思議なほど、我々の心の奥深くから「人生の解釈力」とでも呼ぶべきものが湧き上がってくる。 その「人生の解釈力」とは、人生で起こった出来事や、人生で与えられた出会いの「意味」を解釈する力のことである。 そして、もし、我々に、その「人生の解釈力」があれば、「不幸な出会い」と思えるものに対しても、先ほどの問いに、自分なりの「答え」を見出していくことができる。
    この人との出会いを通じて、そして、この苦痛な体験を通じて、 いま、自分が人間として成長するべき課題は何か? いま、何を学べと言われているのか? いま、何を掴めと言われているのか?




    人生における人間関係の問題は、ある意味で、そのほとんどが、関係する双方に非がある。どちらか一方だけに非があるということは、あまりない。 従って、我々が何かの人間関係の問題に直面したときには、相手に相当の非があると思えても、やはり、自分にも何がしかの非がある。自分の欠点や未熟さが原因の一端となっていることも、少なくない。 それにもかかわらず、その人間関係から逃げ、その苦痛から逃げ、自分の人間としての「成長の課題」から目を背けてしまうと、一時的には、その人間関係の問題を解決できたように思うが、気がつけば、以前に巻き込まれた問題と同じような問題に巻き込まれ、自分の「成長の課題」を、ふたたび突き付けられることになる。 すなわち、「卒業しない試験」は、逃げても、必ず追いかけてくる。 いま直面している人間関係が自分に突き付けている「成長の課題」を直視し、向き合い、正対して取り組まなければ、どれほど上手く逃げても、その課題は、別の人間関係の問題として、突き付けられる。

    「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・」 そして、その声に続いて、心の中に、一つの思いが浮かんできた。 「そうだ、この店の主人に詫びよう。そのために、この店で、車が故障したのだ・・」 そう思って、店に入ると、その主人、こちらのことを覚えていて、最初、怪訝な顔をしたが、迷うことなく、彼の目を見つめ、心を込めて、こう言った。


    著者が、この体験を紹介したのは、著者自身が「不幸な出会い」と思えるものに直面したとき、その出会いと出来事についての「人生の解釈力」が求められた、象徴的な出来事だったからである。 奇しくも、このガソリンスタンドの前で、車が故障したとき、一瞬の戸惑いの後、すぐに心に浮かんだのは、「なぜ、こんなことが起こったのか・・」という思いとともに、「この店で、車が動かなくなったことには、何か、深い意味がある・・。この出来事は、何を教えているのか?」という思いであった。 そして、こうした問題に直面したとき、我々に問われるのは、実は、「どうやって、この問題を解決するか?」「どうやって、先日、口論をしたこの主人に、修理をしてもらうか?」ということではない。 その前に、我々が深く考えるべきは、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いである。 そして、人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。 すなわち、こうした場面で、我々に真に問われているのは、「問題の解決力」ではなく、「人生の解釈力」に他ならない。

    ああ、これは、心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけよと、何かが教えている」との解釈であった。 すなわち、この出来事は、著者にとって、「車を修理してもらうために、仕方なく、その主人と和解した」という出来事ではなかった。 それは、「心がぶつかった人と和解することのできる『しなやかな心』を身につけるために、この主人と口論になり、その店で車が故障した」という出来事に他ならなかった。 このように、我々は、人生のささやかな出会いや出来事においても、何かの問題に直面した瞬間、「人生の解釈力」が問われることがある。そのとき、「どうやって、この問題を解決するか?」という視点で考える前に、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」という視点で「出来事の意味」を解釈することができるならば、しばしば、直面している問題は、不思議なほど自然に解決していく。 その意味で、このカナダでの出来事は、ささやかな出来事ではあったが、著者自身が、「人生の解釈力」が問われ、その「解釈力」を深める、有り難い出来事であった。
    著者は、「卒業しない試験」は、ときに、十年の歳月を超えて、追いかけてくることがあることも、教えられた。

    それは、心の中で「人生の物語」を生み出す力を磨くことである。

    我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。 そして、我々は、人生において、こうした「物語」を、意識的、無意識的を問わず、心の中に無数に生み出しながら生きている。

    そして、我々が意識的、無意識的に生み出す「人生の物語」は、ときに、自分の人生を否定し、惨めで悲しいものに感じさせていく一方、ときに、自分の人生を力強く肯定し、励まし、癒していく。 「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒す物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。

    かつて、短い人生を駆け抜けていった、ある社会活動家が、 街頭活動での人々との出会いについて、詩のような文章で語っている。 今朝、駅前でビラを配っているとき、 私の手をはねのけて通り過ぎていった、あなた。 我々の出会いは、不幸な出会いであったかもしれない。

    我々の出会いは、寂しい出会いであったかもしれない。 でも、あなたと、出会えて良かった。 それでも、あなたと、出会えて良かった。 たしかに、その通りではないか。 たとえ、どのような出会いであっても、実は、有り難い出会い。 なぜなら、「有り難い」とは、 「在り・難い」こと、「起こり・難い」こと。 それは、まさに「奇跡」と呼ぶべき出会いに他ならない。

    そして、互いに成長していくために大切なことは、 その出会いの意味を考えること。 この出会いは、自分に、いかなる成長を求めているのか? この出会いは、自分に、何を教えてくれているのか? この出会いは、自分に、何を学べと言っているのか? その意味を考えることであろう。

    その前に、我々が深く考えるべきは、「なぜ、こうした問題が起こったのか?」「なぜ、よりによって、このガソリンスタンドの前で、車が故障したのか?」という問いである。 そして、人生とは不思議なもので、その問いに正しく答えを出し、出会いの意味、出来事の意味を、正しく解釈すると、なぜか、自然に目の前の問題が解決していく。

    我々が問うべきは、「どちらの物語の方が、自分の心に素直に入ってくるか?」であり、さらに言えば、「どちらの物語の方が、自分の心が癒されるか?」「どちらの物語の方が、自分の心が成長できるか?」であろう。 そして、我々は、人生において、こうした「物語」を、意識的、無意識的を問わず、心の中に無数に生み出しながら生きている。

    そして、我々が意識的、無意識的に生み出す「人生の物語」は、ときに、自分の人生を否定し、惨めで悲しいものに感じさせていく一方、ときに、自分の人生を力強く肯定し、励まし、癒していく。 「人生の解釈力」とは、ある意味で、人生において与えられた出会いや出来事を前に、そこから「自らを励ます物語」「自らを癒す物語」「自らを成長させる物語」を生み出していく力のことでもある。

    第一の技法 心の中で自分の非を認める 第二の技法 自分から声をかけ、目を合わせる 第三の技法 心の中の「小さなエゴ」を見つめる 第四の技法 その相手を好きになろうと思う 第五の技法 言葉の怖さを知り、言葉の力を活かす 第六の技法 別れても心の関係を絶たない
    第七の技法 その出会いの意味を深く考える

    本書の冒頭でも述べたが、人間を磨き、人間力を高めるための道は、古典を読むことでもない、山に籠って修行することでもない。日々の仕事と生活において、縁あって巡り

  • 人間、自分に本当の強さが無いと、感謝ができない

    謙虚さの修行=自然に本当の自信へ
    感謝の修行=自然に本当の強さへ

    引き受け すべてを自分の責任として引き受ける

    最も好きそうになれない人を見つけて、その人を好きになる

    発酵=人間にとって有益なもの
    腐敗=人間にとって有害なもの

    自分の欠点、相手の姿に 相手の姿は自分の心の鏡

    人間の未熟さ=人への否定的な感情

    心で正面から向き合う

    心が動く→身が動く
    =見が動く→心が動く

    心の中で相手を褒める

    別れに際して関係を断たず、和解の余地を残す

    人との出会いは自分のの成長
    いま自分の課題は 何を学ぶ 何を掴むか

    問題の解決力ではなく、人生の解釈力

  • すごく嫌な性格なのに人と上手くいっているのはなぜなのか、自分は真面目で悪いこともしないのになぜ人に好かれないのかがこの本を読んでわかった。本に書かれていることを実行するのはかなり辛いけれど、気持ちの持ちようは少し変わった気がする。図書館で借りたが、購入して何度も読み直そうと思う。

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著者プロフィール

シンクタンク・ソフィアバンク代表

「2023年 『能力を磨く』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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