神聖喜劇: 長編小説 (第1巻) (光文社文庫 お 9-5)

著者 :
  • 光文社
3.86
  • (40)
  • (19)
  • (41)
  • (4)
  • (2)
本棚登録 : 636
感想 : 27
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (578ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334733438

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 夏こそずっしりと重い大作を読もうと考えて、分厚目の文庫本5巻に渡る超大作の本書をセレクト。それこそ、日本近代文学の金字塔にあたる作品として学生時代から認識はしていたものの、相当に難解な作品なのだろうと思い込んでいた。

    確かに平易な作品であるとは言い難いが、実際に読み進めてみるとそれを超える面白さに釘付けになってしまい、貪るように5巻を読了してしまった。

    本書は著者自らの従軍体験に基づき、日本陸軍の二等兵である主人公が送る数ヶ月間の陸軍訓練が舞台となる。主人公の東堂太郎は、超人的な記憶力を持ち、日本陸軍の不条理に孤独な戦いを挑んでいく。

    これは日本陸軍に限った話ではないが、軍隊という組織が国家権力によって運営されている以上、その全ての営みには何かしらの法的文書が存在している。その点で極めて官僚的な組織という一面を軍隊は持っており、実際の訓練における一挙一同に、ある種バカらしいほどの理屈付けがなされているという点でのナンセンスさに溢れている。その点で、主人公の超人的な記憶力は、このあらゆる法的文書をすらすらと暗誦し、ときには不条理なトラブルを解決するためにその記憶力で持って立ち向かっていく。

    そして、本書の面白さを際立てせているのは、人物造形の深みのレベルの高さである。そもそも新兵訓練のための招集ということで、集められた二等兵は日本社会の縮図といえるほどに、学歴や身分、職業などが千差万別になっている。突出しているのは、新兵に対して残忍なしごきを与える主人公の班の班長の造形である。ステレオタイプ的な残忍さだけを持つ人間として描くのではなく、中国大陸で残忍な虐殺に関与してきたという過去や、訓練生活の中でのユーモアなど、非常に多面的な人間として描かれることで、決して物語の先行きを安易には予測させないような展開が待っている。

    全く予想だにしなかった結末も含めて、ひたすら物語の巨大さに圧倒された全5巻であった。

  • 虚無的な主人公が規則で縛られた軍隊内部で起こる上官によるイジメや部落差別に殺人自慢や学歴差別に対して果敢に超人的記憶力と観察を用いて抵抗する話。軍隊は会社にも置き換えられる。日本の中にいて異国人のような筆者の視点と論理が面白い。

  • この小説未体験ゾーン!凄い小説です。全5巻、これから少しづつ堪能していきます。

  • 虛無主義的記者東堂太郎被徵召,在1942年踏上対馬島的基地成為二等兵。一入營就遇上點呼召集風波。軍隊裡面有各種特殊沒道理的內規,各種無厘頭的為難下級。在軍隊裡禁止說"知りません"只能說"忘れました",讓主人公心起疑慮反感,不斷翻閱軍事典籍想找出其法源但卻付之闕如,作者想出的理由第一個是不能以不知而無責的刑法理論,第二個則是對上級者的責任阻卻(不是我沒教是你自己忘記,但是更上級、更更上級者只要他喜歡就可以追究上級者,權威濃縮到最上面的角錐狀階級系統,這也是直接、間接上級者對下級者的絕對無責任體制,但就算這樣下級者也不會自覺負起責任,因此成為一個無責任體制,追究責任如果往最上就是天皇,責任最終也煙消雲散,或者是發現責任根本沒存在過。所以作者論述所謂我國軍隊就是一個累累的無責任體系、龐大的責任不存在機構)。

    大前田班長與狐假虎威的神山治下不時出現的責罵體罰(美其名為「公的制裁」),例如賤ヶ岳七本槍、四十八手必須要用軍方規定的數字念法去念(但沒有人會聯想到),在明信片裡面寫每天吃菜頭也是軍事機密等等,荒唐的內容讓人不由得想起第二十二條軍規。而軍隊看似很像並非劈頭而是存在它們的論理邏輯,只是被邏輯很強的作者馬上發現其中的弔詭,例如當上級亂念漢字(例如真諦應該唸しんたい等等。附帶一提作者當時講說亂念的念法後來很多都成了現在字典的慣用念法...)就逼下級接受,其理由是"軍隊有軍隊獨特的念法,本來就跟地方(民間)不同",但作者認為漢字念法本來就沒有分軍隊地方也沒有典籍條文支撐,作者用絕對理性的態度戳爆軍方的看似理性的不合理,應該也是作者的寫作意圖所在。

    第一卷來到後半部分砲兵練習,鉢田不知道要做氣泡的校隊只用眼睛看砲管有沒有水平,大前田說出部隊裡有隠坊(火葬場工作者)但沒有指名道姓,等白石少尉離開之後,大前田突然開始暴走,大概是隠坊讓他突然意識到自己在中國活活燒死敵人的往事,於是他開始執拗地自我辯護說戰爭本來就是這樣至少他不是殺本國人民(影射冬木),之後對接手鉢田的橋本開始各種影射其為部落民的言語凌虐並且不斷地升級,直到橋本泰然承認有燒人但沒燒過活人,大前田無視上官在旁,更加切切痛陳敵方陣營也是半斤八兩云云,戰爭的本質就是「殺して分捕る」,現在是因為沒上戰場才在那邊說稀奇,之後上了戰場大家都一樣。身為一個百姓農民兵,四年的中國經驗更讓他直感對手不可輕視,甚至意識到日本可能會有敗象的事實。作者看到大前田,想到的卻是保元物語中和上皇見面的雄壯無比生涯顛峰的為朝。

    **
    作者不斷的自省、思考、回想是本作相當大的特色,這種反芻正是閱本身讀最大的樂趣,,每個小細節都不放過的雞蛋裡挑骨頭的研究態度,也是閱讀這本書的趣味所在;身為最下層的二等兵用典籍當武器反擊的場景、各種貼切無比的用字與描寫也令人拍案。但個人認為第一卷最最傑出的描寫就是大前田軍曹這個角色。如作者說的又恨但又愛,雖然有上兵的蠻恨,莫名其妙的語言霸凌,但又有百姓農民樸實直接的一面,然後對於在中國燒人這段,作者對於戰爭的沉思與反思,還有大前田本人赤裸裸的心理描寫(總要說服自己),令人驚嘆。然後這整個最終崩壞倒瀉出來的心理描寫,緊跟著對橋本部落民的攻擊性,從隱性到顯性其污辱性不斷升級,最後甚至最失禮的類似"燒人你總不陌生吧"的話語到橋本的坦白承認,引發後續大前田無視長官的更長串內心自白。這裡的用語,文學安排,步步升級乃至潰堤的高潮描寫,這部份實在非常非常非常出色,令人望文興嘆作者對文字的感受力跟靈敏度,以及安排高潮場面那種對波浪的駕馭自如,這種閱讀感受正是只有文學,文字,而非當代鋪天蓋地的影像,不管多麼寫實的影像都無法做到的。第一卷的整個鋪排到卷末,必須說真的是拿捏得無比出色的作品,在卷末的鋪陳,我感受到,整卷以來的書寫並不是只有想到什麼寫什麼的日記或自白,而其實是經過精密的計算與推敲才臻至渾然天成的文學性,其寫作勞苦可想而知,誠然泣血之作。

    此外,時節是1942年二月,正是日本一路秋風掃落葉催估拉朽佔領新加坡之時,作者在這裡也很明白地寫道,當時沒有人會認為日本會戰敗,我對這裡的誠實感到詫異,作者提到不少人還很樂觀再說哪天哪天要登陸舊金山洛杉磯,甚至這裡還提到當時很多人相信一種見解,就是米國參戰之後國內會有厭戰氣氛、內戰,最後就失去戰爭的力量了。但是似乎絕大多數當代寫到戰爭的不少日文小說固定樣式都是感到不吉,覺得會輸云云的忌避(連上一本作者筆下的林芙美子都這樣想),加上戰後的氣氛戰爭的回憶已經成為過街老鼠,誰願意承認,自己也曾經抱持發燒般的支持與極度的樂觀呢(從日清日露一路下來從,戰爭都是獲得甜頭跟民族自信心跟國際社會開認證已非吳下阿蒙的原因之一,海音寺也曾提到當他把利休與秀吉並列遭到許多人斥責乙節)。以當時戰爭剛開始的狀況而言,會看到敗象之人顯然相當特殊,或者是真的見證前線的官兵(但他們也不被允許向民間人說三道四),在這裡作者的誠實描寫令我感到訝異,這也應該是當時真正的世相。然而多半的人在戰後要活下來,必須備置換回憶,否定那段過去(大前田拼命地合理化燒活人的行為,也是因為想要抬頭挺胸地活下去),這不只是政治正確的問題。畢竟,活著這件事本身就是很辛苦的一件事。

    第一卷就已經堪稱巨作、傑作,後面不知道會是什麼樣的內容,深感期待。

    登場人物
    大前田軍曹(班長)ー百姓兵被徵召,曾去過中國戰場四年,宣稱把活人燒掉只要兩分鐘。
    神山上等兵ー想升班長沒升成功,很有學歷情節,標準的欺善怕惡,有一群追從的神山閥。在第一卷裡拿大根是軍事機密云云折磨人。
    村崎一等兵ー昭和六年兵,ガンスイ,通悉人情義理,也曾在礦坑工作過。
    橋本(二等兵,下同)ー百姓兵,因為在明信片上寫每天吃大根,被神山拿出來大作文章。有其樸訥但令作者耳目一新的堅忍,在第一卷裡面借東堂的下駄被軍官誤解為小偷被打也輕輕帶過,令主人公敬佩在心。
    鉢田ー筑豊炭田礦工。寫明信片(給母親改嫁後異父妹)因為照範本發信人寫何某,被神山拿出來做文章,大前田也稱之為何某。
    生源寺ー神主。
    室町ー印判屋。在大根明信片事件跟主角一起舉手堅持神山指稱大根是軍事機密云云。
    曾根田ー喜歡俄羅斯。同上。
    冬木ー背景諱莫如深,似乎為前科者。
    若杉ー相撲力士
    堀江部隊長ー考少尉軍官一直失敗,後來因為大砲演習事故為唯一的倖存者就升進,在大根明信片事件表現寬大但最後還是挺了神山的歪理。

  • 文字を読む、そのことそのものを面白いと思える本

  • この戦争を支持しない虚無主義者を自覚するにもかかわらず、「私はこの戦争に死なねばならない」との奇怪な信念を抱いて、対馬の新兵訓練所にやってきた「私」こと東堂太郎。第1巻では、有名な「知りません」禁止・「忘れました」強制問題から、日本軍の責任阻却の論理が解き明かされ、「大根の菜軍事機密問題」をめぐる珍妙な狂騒曲から、軍の公式な「聖戦」言説をはるかに逸脱する大前田軍曹の鬼気迫る独白へ至る。
    感想は最終巻で。

  • 私の「2つの聖典」のひとつ。
    日本戦後文学の最高峰。
    論理的に思考し抜くためには、意志と勇気が必須条件。

  • 大作の始まりであろう。
    とにかく圧巻される。
    過去未経験の読後感を味わう。

  • いまなおバンカラ気質の法学部の人はこれで理論武装の方法を学ぶのはどうだろうか。

  • 「稀代の記憶力・論理力の持ち主、東堂二等兵の壮大な闘い。桁外れな<笑い>の文学巨篇!」

    ブ厚い文庫5冊もあるこの小説を手に取ったきっかけは、上記ちくま文庫の宣伝文です。
    これ以上の説明は必要ないのでは?
    この作品をきっかけに私の中に「陸軍もの」というジャンルが生まれた。

著者プロフィール

作家(1916年8月20日~2014年3月12日)。福岡県生まれ。九州帝国法文学部政治学科中退。新聞社勤務の後、1941年12月召集され、以後敗戦まで対馬で兵営生活を送る。敗戦後、福岡で発刊された『文化展望』の編集に携わる傍ら、文筆活動を開始する。46年新日本文学会に入会、以後『近代文学』や記録芸術の会など、さまざまな文学芸術運動に関わる。48年日本共産党に入党、61年以降は関わりがなくなるが、コミュニストとしての立場は生涯変わらなかった。公正・平等な社会の実現を希求し、論理性と律動性とを兼ね備えた文章によって個人の当為を形象化する試みを続けた。1955年から25年の歳月を費やして完成した『神聖喜劇』は、軍隊を日本社会の縮図ととらえ、主人公の青年東堂太郎の精神遍歴の検証を通じて絶望的な状況の中での現実変革の可能性を探った大作で、高い評価を受けている。ほかの小説に『精神の氷点』(1948年)、『天路の奈落』(1984年)、『三位一体の神話』(1992年)、『深淵』(2004年)、批評集に『大西巨人文藝論叢』(立風書房、全2巻)、『大西巨人文選』(みすず書房、全4巻)など。

「2017年 『歴史の総合者として』 で使われていた紹介文から引用しています。」

大西巨人の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ヴィクトール・E...
村上 春樹
舞城 王太郎
カズオ イシグロ
ドストエフスキー
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×