マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (165ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751043

作品紹介・あらすじ

「ある街角で、不安が私に襲いかかった。汚らしく、うっとりするような不安だ」極限のエロスの集約。戦慄に満ちた娼婦との一夜を描く短編「マダム・エドワルダ」に加え、目玉、玉子…球体への異様な嗜好を持つ少年少女のあからさまな変態行為を描いた「目玉の話」を収録。

感想・レビュー・書評

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  • まず『マダム・エドワルダ』。娼婦との一夜の話です。娼館からも抜けだしてパリの街中にさまよい出て、快楽と危険の線上を行く物語は続いていく。暗い色味で写実的、でも幻想性を帯びた、エロスがテーマの絵画を何枚も何枚も続けざまに眺めているような読書体験でした。アート作品と呼んだほうがしっくりくるような文学作品だと思います。

    そして『目玉の話』。これは厄介です。性欲にまかせた変態行為を重ねる思春期の男女の話なのですが、その精神性には妙なくらいリアリズムを感じます。思春期の、「そのあとどうなるか?」よりも今やってしまいたい衝動の強烈さがまずひとつそこにはあります。序盤の段階で、それが退廃的ではあってもニヒリズムではないのは、まだ若い人たちによる「追求の姿勢」があるからだと思います。もしも社会性が身についてまでこのような性の変態行為の追及を行っている大人がいたら、それは社会へのニヒリズムになるのではないでしょうか(しかし、後半ではエドモンド卿という大人の変態人物もでてきて、彼はニヒリズムとはまた違う印象を持っているのでした)。

    物語のタイトルになっている目玉やゆで玉子などの楕円性のたんぱく質でできた白い物体をシモーヌが好み、性的な遊戯に使いたがるのですが、このモチーフについては本書の解説に譲るとして、このレビューでは物語の中で繰り返される性的遊戯の変態行為について考えていきます。

    社会性が身につくより先に興味と性欲の底知れぬ高まりを見せるのがたぶん男であり、女でもあるでしょう。その性欲を肯定することで暴走が始まり、そのうちそれが追求の様相も帯びてくる。その変態行為が社会的な規範から逸脱しているものでも、思春期のアンバランスさのなかで、何かの間違いだったり、あるいは何かが噛み合ってしまったりすると(ヒロイン・シモーヌような女の子と仲良くなるという偶然がこの場合そう)、一般の人間であっても主人公たちのようなことにならないとも限らないのかもしれません。

    後半部。シモーヌのつてで主人公たちの庇護者として登場するエドモンド卿がでてくるあたりで気付くのは、いつのまにか主人公とシモーヌはかなりの遠い場所まで来てしまっていること。性欲の暴走と追及しか視界になかったので、踏み越えるべきではない一線を越えたことにも気付かなかった、という感じがします(それは読み手も同じかもしれません)。仲間のマルセルが死ぬことになった経緯に大きく自分たちの性向が関係していることに気づくのも、すべて終わってからです。「そのあとどうなるか?」よりも今の衝動を優先して、そうなってしまった。

    人生には似たような「一線の越え方」は珍しいものではないと思いますが、その些細ではない大きなひとつが、こうして地上の性的狂騒の「水面下」で越えられていった。考えているより先に、知らず時間が過ぎ去っていくように一線を越えるという感覚です。そしてエドモンド卿というキャラクターは、主人公たちのようにいつしか一線を越え、自分の意思で追求したものに逆にとりこまれてしまったかのような人格形成の道を歩んで、結果その完成をみた人物ではないのか、と読むこともできます。角度を変えてみると、エドモンド卿は退廃的な領域にいる人物ですが、思春期の主人公たちがこのままその道を進んでいくとそうなってしまうはずの人物というポジションと言えるかもしれないです。

    本能に忠実に、野生の感覚を第一とするような(それも性欲に対して)在り方が、この物語のベクトルとしてあるように読めます。伝統や常識、世間の目といった既存の社会、その、強固に構築されているがゆえの窮屈さ息苦しさ生きにくさから逃れるための脱線のかたちがこの小説で描かれている性的な変態遊戯という脱線の仕方だと言えるかもしれない。ストレートではない逃避であり、ストレートではない抵抗でもある。それでいてひとつのストレートな地下道あるいは裏道というような感じがします。しかし、終盤、スペインの教会で、若い司祭を性的な冒涜のあげく死に至らしめる流れにまで発展すると、もはやそれは地下道や裏道から這い出て「対決」を始めてしまったことになっていると捉えることができます。

    ここで描かれているのは強烈な性欲が中心に回っている物語なのだけれど、著者も読み手もそこでの何に魅せられているのかというと、強い衝動を生み、自動的とでも言うように動かされてしまう、その根源的なエネルギーになのではないか。伝統や制度などが代表的なところですが、そういった抑圧的なものを忌み嫌うからこそ、こういった物語が生まれたのではないか。その時代を下支えしている秩序の重さに耐えかねたのです。

    窮屈さや息苦しさなどを先ほど挙げましたが、さらに言えば、それらよりもずっと「つまらなさ」というものを嫌悪すべきものとしてあっただろうし、エネルギーの消耗というか、「(古い伝統や古い制度などの抑圧によって)発揮されずに打ち捨てられる運命におかれるエネルギー」という個人の内に湧き出るエネルギーのその立場に我慢がならなかったのかもしれない。それは、生は大切なものなんだ、との世界観が基盤にあるからだと思います。

    というように、性的な変態行為にだって、「生をちゃんとまっとうしたい」「一回だけの生を味わいつくしたい」というような比較的真っ当な気持ちがその底にあるのではないか、というところに落ち着くのでした。

    最後の項までいくと、バタイユ自身の幼少時の個人的な体験の反映があるのではないか、と自己分析が語られていて、それはそれでそうかもしれない、と少しすっきりするのです。しかしながら、僕のような角度で解析してみるのも面白いと思い、あえてこうしてレビューにしてみました。多少、陳腐な部分もあるでしょうが、大目にみてください。

  • たかだか140頁くらいのお話なのに、読み始めて読み終えるまで16日も掛かってしまうくらい、食傷気味。。

    バタイユさんの最高傑作らしい「マダム•エドワルダ」よりも、「目玉の話」のインパクトが凄すぎた。

    冒頭の、猫用のミルク皿にシモーヌがお尻を浸す、という場面が有名らしいが、その後も、ひたすら変態的場面が続く。

    闘牛場で、シモーヌの要望により、仕留められたばかりの闘牛の睾丸がふたつ生のまま銀の皿で供され、シモーヌは、闘牛の(文字通り目玉が飛び出る)死亡事故を観ながら、ひとつは食べ、ひとつは隠部に入れる、という意味不明の倒錯の世界へ。。

    最後の方のセビリアの教会での出来事は、キリスト教会がどういう反応をしたのか気になるくらい、非キリスト教徒から見ても冒涜的に映った。(初稿は地下出版だそう。)

    こういう倒錯的な感覚に至る原因らしきものとして、梅毒で四肢が不自由なバタイユの実父がお漏らししながら白目を剥いていたときの目玉の映像、が最後に分析的に語られる。

  • 理解はしていないが異様な緊張感を覚えた「マダム」。読了直後はおぞましさで気分が悪くなるが、考えてみると筋道が立っているようにも思える「目玉」。とは言っても、明朝、TKGは食べたくない。面白い小説ではある

  • え、目玉の話って、と最初邦題に戸惑った(不安を感じた)ものの、読んでみると最高でした。
    内容、周りの狼狽を描いていないあたりに突っ切った感が出てるというか。何故たまごなのかと思うが(だって玉子じゃ、ね)性的に描けばなんだって性的になるのだなと。だからシモーヌの性癖は先天的なものよりも後天的なものと思って読んでいたが、最後「私」(バタイユなのか?)視点で語られる分析によってすとんと腑に落ちた。

  • ポスト構造主義が流行った時によく聞かれたバタイユ。思想家だと思っていた本が「古典新訳」で出ているではないか。背表紙には「・・・あからさまな変態行為を描いた・・・」の紹介文。むむむ

    ・・・これはただのエロ話ではないのは感じるが、しかしどのように読んだらいいのだろう。汗。異様な迫力に圧され完全に消化不良。

  • これほどまでに犯罪的な性に出会ったことは今だかつてなかった。理性や道徳など存在しないかのような彼の文章はしかし、一方で深い人間の内面への考察に満ちている。とまあ、難しい言葉で表してみたものの、一度読んだくらいで語ることは許されないような本だ。彼は哲学者であるらしい。彼の生涯を追いつつ、他の著作も読んでみたい。しかしこれに素直に共感した友人Tはただものではないと思う。

  • 一見、行きずりのポルノ作品に思えて実際は哲学的思想の色濃い「マダム・エドワルダ」にはそういう要素を理解できれば深みに達せますし、気付かなくともページをめくる手が止まらない不思議な力があります。もう一編の「目玉の話」はあらゆる変態行為が行われ面食らい、その裏にある本意に目が向く事なく、アブノーマルな勢いに打ちのめされたまま読み終えてしまいました。これは要再読か。それにしても古来より性に関する変態ぶりでは日本人は他の追随を許さない民族だという妙な自負があったのですが、海の向こうにも猛者はいた。そんな感じです。

  • 玉子と眼球と睾丸。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      新訳が出てとは知りませんでした。。。読んでみようかな!
      新訳が出てとは知りませんでした。。。読んでみようかな!
      2012/02/21
    • katsura8さん
      そうなのです~
      本は薄いのでさらーっと読めます
      どきどきそわそわもじもじしてしまいますが
      そうなのです~
      本は薄いのでさらーっと読めます
      どきどきそわそわもじもじしてしまいますが
      2012/02/23
  • 二回目読んだら良さがわかった。
    教会のシーンが好き。

  • 多分求めてるものがまず違った。パウロ・コエーリョの「11分間」に感じたものを求めながら読んでしまったのがまず違った。

    尿や糞に全くエロティックさを感じないのでひたすら汚かったし、解説の言葉を借りれば「ヘミングウェイ的な」文体もそこまで好きではなかった。ラディゲとかコクトーの方が個人的に好きだし、こういう「エロティック」な (尿とか糞ではなく)な題材でラディゲとかコクトーが書いたらどうなるんだろう、そっちの方が読みたくなった。

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