永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (387ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751081

作品紹介・あらすじ

自分の頭で考える。カントが「啓蒙とは何か」で繰り返し説くのは、その困難と重要性である。「永遠平和のために」では、常備軍の廃止、国家の連合を視野に入れた、平和論を展開している。他3編を含め、いずれもアクチュアルな問題意識に貫かれた、いまこそ読まれるべき論文集。

感想・レビュー・書評

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  • 【はじめに】
    本書は、言わずと知れた大哲学者カントの「啓蒙とは何か」「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」「永遠平和のために」という五編の論文を収めたものである。
    多くの翻訳書・解説書を世に出している中山元さんの新訳で、『純粋理性批判』はさっぱり理解できないと言うか、それ以前に読み進める意志を挫かれてしまった自分でも、この本はとても読みやすい。『純粋理性批判』などの大部の理論的著作を構築したカントが、実際に啓蒙や平和について考えたらどうなるかが理解できたようになれる本。

    【概要】
    それでは5つの論文を順にみていきたい。

    ① 『啓蒙とは何か』
    カントは啓蒙を、「みずから招いた未成年の状態から抜けでること」と定義する。そのためには理性を使用することが重要だとカントは説く。そのための「自由」をカントは社会に求める。

    「公衆を啓蒙するには自由がありさえすればよいのだ。しかも、自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公に使用する自由さえあればいいのだ」

    カントの思想の裏にあるのは、この「自由」があればいずれはうまく最終目的とされる姿まで辿り着くという理屈である。それは人間への信頼というよりも「自然」への信頼である。人間の存在自体が自然の目的であるという信念がここに収められた論文に通底しているように思われる。そして、その目的は、自然の意志として実現されるはずだと。

    この論文で印象的な主張は、理性の私的使用と公的使用の区別である。公務員や教会の司教がその役割に応じて理性を使用するのは、私的な理性の使用である、と。そういった理性の使用が制約されることは仕方がないという。しかし、そういった人でも立場を離れて自由に自ら考えた結果を世の中に問い、行動に移す自由があるという。それが、理性の公的な使用であるという。

    ここまで読むと、カントには自分で考えるということとそれを行う自由を保証することが重要であるということが基底にあると思う。考え(理性の利用)は強制されるものではない。強制されたものはあくまで理性の私的利用でしかない。理性の公的利用こそが人間の最終目的に向けた進化に適うものであり、それさえ確保されていれば自然の摂理が最終目的に導くのだ。一歩進めてみると、自然の摂理に導かれた結果なのだから、それが最終目的として受け入れるべきものだとさえ言えるのかもしれない。

    「理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである」

    果たして、人間の考えはどこまで「自由」であるのかという疑問はあるだろう。ここで言われているカントの自由は、いわゆる自由意志とは実は異なるものなのかもしれない。そこには超越者の意志とも言える摂理が働き、「自由」な考え、「自由」な理性の使用はその帰結として自然の意志による理想の世界を構成するものになるからである。その観点では、それは全く自由ではないのかもしれない。おそらく求めるものは、その摂理の実現を歪めるような制限の排除こそがここで求める自由と考えるべきではないだろうか。そしてそれが啓蒙につながり、制約を外して啓蒙を続けることで、人間の子孫に対する「神聖な権利」を保証するものと考えているのである。

    ②『世界市民という視点からみた普遍史の理念』
    この論文でカントは世界市民の誕生に至るまで経緯を歴史に見ていく。カントは歴史について、「人間の意志の自由の働きを全体として眺めてみると、自由が規則的に発展していることを確認できる」という。人間の営みが期せずして、自然の意図に沿っているのだという、そしてそれが歴史の帰結であるというのは次のような記述からもうかがえる。

    「みずからは認識することのできない<自然の意図>にいつのまにかしたがっている。それでいて自分が<自然の意図>を促進しているということには、あまり気付かないものなのだ」

    別の言い方では「自然の狡智」(ヘーゲルはこの後「理性の狡知」を対置した)によって歴史と社会が発展してきたと言える。そして重要なことは、カントにとって人間こそが自然の最終目的だということである。それが人間という理性を持つ生物が世界に存在する理由だと考えるのである。また、カントの生まれる前に発見されたケプラーやニュートンによる自然法則の発見が、カントの思考に大きな影響を与えていることは間違いないと思う。この自然法則によって世界が動いていることと、それを人間の思考によって明らかにできたことがカントの世界観の底流にあると感じられる。
    以下、このことを論文に示された命題とともに見ていく。

    第一命題: 「被造物のすべての自然的な素質は、いつかその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている」という最初の命題は、このカントの思考を明確に示すものである。

    第二命題: 「地上における唯一の理性的な被造物である人間において、理性の利用という自然の配置が完全に発展するのは、個人ではなく人類の次元においてである」
    なぜなら一人の人間の寿命には限りがあると定められており、自然の意図が完全に実現されるためには人間の一生では短すぎることは明らかであることから、それは幾世代も続く人類として実現されるべきものであることは明らかであるからである。

    第三命題: 「自然は人間に次のことを望んでいる。すなわち人間は動物としてのありかたを定める生物学的な配置に含まれないすべてのものをみずから作りだすこと、そして本能とはかかわりなく、みずからの理性によって獲得できる幸福や完璧さだけを目指すことである」
    ここには人間を動物から分けるものが理性の存在にあることが示される。「自然は人間に理性と、理性に基づいた意志の自由を与えたことから考えても、自然の意図は明白である」とカントは迷いもなく断言している。

    第四命題: 「自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである」というこの命題は、自然の意図はあるものの最終目的に到達するためにはその前に状態が揺らされて正されることが必要だというのだ。カントは悪の起源について、人間の本性が悪であることが、社会的な進歩のための必須の条件だという。

    第五命題: 「人間が自然によって解決することを迫られている最大の問題は、普遍的な形で法を施行する市民社会を設立することである」
    世界市民状態が形成されて「人間のすべての素質が完全に展開される」という。この世界市民という概念はこの後、獲得されるべき状態として議論の中心となる。

    第六命題: 「人間はほかの仲間とともに暮らす際には、一人の支配者を必要とする動物なのである。誰もが他人にたいしては、自分の自由を濫用するのは確実だからである」
    ここではカントは、人間は一人の人間の指示に従うものであり、道徳的な社会はやはり一人の元首を必要とするという。しかしながら、その支配者も支配者を必要とする人間であるということを支配者のパラドクスと呼んでいる。この辺りの社会体系の議論は、全体主義の経験を経た現代的な観点からは違和感があるところだが、カントの人間への信頼から道徳的支配者の出現を信じているように思われるし、その存在が市民社会の成立を保証するものと考えているように思われる。

    第七命題: 「完全な市民体制を設立するという課題は諸国家の対外的な関係を合法的なものとするという課題を実現できるかどうかにかかっているのであり、これと切り離して実現することはできない」
    カントは、各国家の非社交性のために軍拡競争が止まらないという。「すなわち自然は戦争を通じて、そして戦争にそなえて決して縮小されることのない過剰な軍事力を国家に準備させ、こうした軍備のために平時であっても国内の窮迫を実感させるのである」
    このことは、論文『永遠平和のために』にもつながる課題点である。フランス革命を経て、ナポレオンに至る歴史の過程において、カントが重要な課題として認識するほど、総力戦が必然の結果であることが示される。この結論は同時代とも言えるクラウゼビッツの『戦争論』にも通底するものである。
    その悪循環から逃れるためには、個人が共同体を構築して社会・国家を成したように、国家も国際的な連合を設立することが必要だというのがカントの主張だろう。すでにこの論文の段階でカントは永遠平和とそれを実現するための国際連合を構想していると言える。そして、戦争が逆説的にその国際連合的な関係を樹立するための必要悪としてみなされている。

    第八命題: 「人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである」
    ここに至りカントは非常に楽観的である。グローバルに拡張された国家間の関係の深さによって、国々は紛争を避ける方向に進むことをカントは予測している。

    第九命題: 「自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある。だからこの計画にしたがって人類の普遍史を書こうとする哲学的試みが可能であるだけではなく、これは自然のこうした意図を促進する企てとみなす必要がある」
    哲学者として懐疑を深めたカントが、ここまで楽観的になる理由はどこから来るのだろうかと思う。自然の意図を決して否定できないというのが論理的帰結であり、現状がそこに至っていないのはまだその途上にいるからであり、悪が存在するのはそれがその途上で必要とされるからであり、人間こそが最終目的であることを否定するどころか、そうであるがゆえに肯定されるべき理由なのである。

    ③『人類の歴史の憶測的な起源』
    この論文では「憶測」に基づいて起源を推測するということで、カントが論理的に確実なものではないことを意識していることは間違いないだろう。最初に聖書の情報を利用することと、かつこの聖書に描かれている道筋がまったく一致すると断っているが、一種の聖書のパロディとして読むべきなのだろうか。教会権力に対して少なくとも表面上は対立することなく、裏ではおちょくっているのだというように読むべきなのだろうか。

    何にせよカントは、最初の人間は立ち、歩むことができたし、話すこともできたという。進化論を知見を得た現在からはとても奇妙な主張である。しかし、ここはいったんおいておこう。カントは伝えたかったことは、楽園から追放された人類の悪の存在理由の説明であるだろうからだ。
    「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである」

    カントは続けて、戦争が荒れ狂う欧州で文化の水準が向上していることの説明として戦争という悪の存在こそが究極の源になっているとさえ主張する。平和な中国では、欧州で今見られているような社会の発展が見られなかったと。
    「人類がいま到達している文化の水準では、戦争は文化をさらに進歩させるための不可欠な手段となっているのである。永遠につづく平和がわれわれにとって幸福をもたらすのは、文化が完成された後のことであり(それがいつのことになるのかは、神のみぞ知る)、文化が完成されなければ、永遠につづく平和はありえないのである」

    『永遠平和のために』の背景にある思想として、この考え方は重要なのである。

    ④『万物の終焉』
    カントは永遠というものについて、時間の概念との関係で次のように捉える。
    「永遠というのは、中断なく持続される人間のすべての時間の終焉でなければならない。しかしこの中断のない持続というものは、人間の存在を<量>とみなすなら、時間とはまったく比較できない量、が意味されているのでなければならない。もちろんこれについてはわれわれはいかなる概念ももてないのであり、償却的な意味でしか考えることができない」

    時間から永遠への移行においては終末論と重なるところがある。時間的な存在者も、人間が経験することのできる対称も、すべての物が終焉するのである。純粋理性批判で時間と空間はア・プリオリなものとして与えられるとされた。そうなると永遠とはその時間と空間を越えた先にあるものと見なされるのである。

    「理性にとって可能なただひとつの方法は、時間において無限に進む変化は、最終目的の実現に向けて絶えず進歩している状態だと考えることである」
    カントは、永遠を不可能性とともに配置することで、この世界を終わることのなく進歩する世界として構想しようとしていたのだろうか。「永遠」と言葉をカントが使うとき、その不可能性との近さについても意識せざるを得ない。

    ⑤『永遠平和のために』
    まずは六項目の予備条項と三項目の確定条項を書き出しておきたい。
    ■ 六項目の予備条項
    一、戦争原因の排除: 将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない
    二、国家を物件とすることの禁止: 独立して存続している国は、その大小を問わず、継承、交換、売却、贈与などの方法で、他の国家の所有とされてはならない
    三、常備軍の廃止: 常備軍はいずれは全廃すべきである
    四、軍事国債の禁止: 国家は対外的な紛争を理由に、国債を発行してはならない
    五、内政干渉の禁止: いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない
    六、卑劣な敵対行為の禁止: いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない。たとえば暗殺者や毒殺者を利用すること、降伏条約を破棄すること、戦争の相手国での暴動を扇動することなどである

    ■ 国家間における永遠平和のための確定条項
    第一確定条項: どの国の市民的な体制も、共和的なものであること
    第二確定条項: 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
    第三確定条項: 世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと

    六つの予備条項は、かなり具体的であり、現実の課題に直面して提出された解決案・禁止条項である。常備軍の廃止や戦時国債の廃止は、無闇なエスカレートを防止するために、どのようにして各国の手を縛るのかは課題とされているが、必要な措置であることは確かだ。そして関連する各国が足並みをそろえて合意する必要があるというところに難しさというか、ジレンマが生じる部分でもある。

    その後に続く確定条項は、カントが整理する法体系においては、第一確定条項が国内法、第二確定条項が国際法、第三確定条項が世界市民法、の各カテゴリーにおける条件に相当する。

    第一条項に関しては、まず「共和的なもの」であるとはどういうことなのかを確定しておかなければならないだろう。その条件を次のようにカントは整理している。
    「第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること、第三は、社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られることである」
    共和的な体制が必要なのは、戦争するかどうかを国民が同意する必要があるからであり、そうなると国民は戦争のリスクを鑑みて戦争を始めることに慎重になるというのがカントの主張だ。ここではまた共和的な統治形式が機能するのは代議制をおいてほかにないということが示され、カントの統治形式に対する考え方も明確にされている。

    第二確定条項は、全世界が統一された国家となるのではなく、国際的な連合となるべきだということを示している。そして、そのために必要なことは何かということがここでは議論される。まずカントは諸民族の民族自決は個人が尊重されるがごとく尊重される必要があるという。その上で、将来進化したある共和国が連合の中心となり、すべての国家が平和的な連合を行うことは現実的であると論じるのである。一つの世界共和国という積極的で理想的な理念の代用として、消極的だが現実的な理念として拡大し続ける持続的な連合という理念を対置するというのが自分のここでの理解である。

    第三確定条項に他国からの訪問の権利が書かれているのはカントのグローバリズムに対する考え方を示していて興味深い。カントは民族自決とともにいかに世界の不平等を解消するのかを考えたに違いない。国家間の紛争を防ぐためにはひとつの世界共和国ではなく消極的な解決策として国際連合という形によって実現されたとして、国家間の不平等は解消されない。
    国の間に貧富の差がある場合、例えば富める国が常備軍を廃止したとして、貧しい国が富める国に攻め入るために軍備を増強していく動機が働くかもしれない。それを避けるために貧しい国を出て富める国に訪問して受け入れられる権利が保証されることが重要だとカントは考えたのではないか。

    いずれにせよ、永遠平和は自然に成立するものではない。そうであるがゆえに、永遠亭和のための理念と世界市民法が必要とされるのである。
    「永遠平和は自然状態ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである」という言明にカントの平和に対する姿勢が表れている。

    一方で、これまでの民族間の対立や戦争でさえも人間が永遠平和に向かって進むための自然の配慮であるとしている。これまでの戦争は失敗ではなく永遠平和に向けた必然だというのである。

    「自然が意志するというのは、人間が好むかどうかにかかわらず、自然がみずからそれをなすということである。「運命は欲するものを導き、欲せざるものはむりやり引きずってゆく」と言うではないか」とカントがいうとき、彼はある種の運命論者・決定論者であり、その根底にあるのは人間原理の一種であるようにも思われる。「自然の意志」を持ち出すとき、その類の議論に陥ることをおそらくはカントは意識をしたであろうが、それを是としたのだろう。

    【まとめ】
    概要をまとめるだけで、とても長くなった。
    進化論も、脳神経生理学も、量子力学も、相対性理論も、宇宙物理学もその手になかった哲学者が、自らの思考に頼って批判哲学を構築したのが純粋理性批判を始めとするカントの哲学理論である。その哲学がどこまで有効性を持ち得るのかは面白い議論だと思うが、まったくここでは手に余る。少なくとも本書の論文の中でも、現在の自然科学の知見がないがゆえにその部分だけを見るとおかしな記述も散見される。一方でそうであるがゆえに、そういった制約を取り外しても現在でも通用する強烈な思考の結果があることは確実であり、そこにこそカント哲学の可能性があると思う。柄谷行人が『トランスクリティーク』や『世界共和国へ』でカントを大きく取り上げたのもそこに理由があるのだと考えている。

    本書の内容は、当然ながらこの後に起きるナポレオン戦争や第一次世界大戦・第二次世界大戦、東西冷戦、核兵器、終わることのない内戦、などの歴史的経験を得ずに思考されたものである。そういった現在では知りえた知識がない中で思考されたカントの平和論が、いまだどういう射程において現在でも有効となりうるのかという観点で読み解くことが肝要ではないかと思う。

    カントは、人間を自然の最終目的であると同時に、究極の目的であると考えた。そうであるがゆえに人類が永遠平和に向かうことを自然が保証していると考えるのである。人間は手段ではなく目的である、という考え方は西洋的ヒューマニズムの原理につながる。啓蒙思想がまさしくそれである。そして皮肉にも、その結果は第二次世界大戦であり、ナチズムによるホロコーストの現実だった。

    さて、現代に生きるわれわれにとっては、人間が自然の最終目的でもなく、究極の目的でもないことを知っている。人間が誕生したのは、進化論の教えるところによって生物が進化した結果であり、そこには超越者もおらず、突然変異と適者生存の原理が存在するだけである。宇宙がどのようにして生まれ、どれくらいの年月をかけて、どのように今の姿になり、それを導くための物理法則もかなりの粒度で明らかにされている。そして、それらが自然の摂理の賜物ではないことを知っている。
    カントは超越者の存在を信じ、それをもとに道徳哲学を構築してきたといっても間違ってはいないだろう。
    しかしながら、あらかじめ自然の意志というものが確定されているものとする前提を抜きにすると、進化論は突然変異という自由を確保して適者生存という自然の意志に従うものと考えれば、人間の存在がある種の観点では「自然の意志」と言えなくもない。「自由」を保証することによって、生物も社会も最適化されるという思想はある意味ではヒューマニズムを越えた構造主義的な思考であるともいえなくもない。

    カントが論じた、戦争を含めた悪の必要性の概念は、最適解に至るまでに初期状態から揺籃させないと全体最適な状態に至らないというロジックのように思う。学習においては失敗もまた必要であるということなのである。これは偶然にも現代の機械学習の原理にも沿っているようにも思える。カントの平和論が単なるヒューマニズムとは一線を引いているように感じるところである。

    ■ ウクライナ戦争
    ウクライナ戦争において、国際連合はまったく平和の確保に役に立たなかった。国際連合がその役割を果たすことさえ期待されなかったのではないか。反対の声明の採択さえ覚束なかった。ロシアも含めて、関係する国々はある程度共和的なものであったのではと思う。それでも、戦争を抑止することはできなかった。ロシアは十分に共和的ではなかったというべきなのだろうか。

    ロシアは予備条項五番「内政干渉の禁止: いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」を明らかに違反した。もちろん他国も同様ではあるが、常備軍は廃止していない。当然ウクライナも常備軍を廃止してはいない。仮にウクライナが常備軍を廃止していたら今回のことはなかったかというとおそらくはそうではないだろう。もしかしたらウクライナは併合されて戦争自体は起こらなかったかもしれないが、その事態は予備条項二番に抵触する形で平和とは程遠い。

    カントによってみれば、今回の戦争もまた永遠平和に向けて必要な悪であると言うかもしれない。現在はまだカントのいう永遠平和を達成するまでには世界は文化的に成熟していないというのかもしれない。カントはおそらく諦めないだろうが、果たして世代を経ることで、国際的な自由な国家の連合関係による永遠平和は達成できるのだろうか。少なくとも自分の世代にはそれは実現されないのだろうなというのが今回の事態を見た上での思いである。

    ■ 翻訳について
    この本(kindle版)の特徴として、解説での引用と本文とがリンクで相互参照されているところである。解説者である中山さんが、この本が意味するところをできるだけ読者に届けようとする意志の証であると思う。まさしく全力を挙げた解説になっている。もしかしたら専門家にとっては、ある特定の人の解釈に偏ってしまうことから批判もあるのかもしれない。何と言っても解説の最後にパレーシアを持ってくるあたりは最も専門だと思われるフーコー研究に引き付けすぎていると言われそうである。しかしそんなことよりも、実際に解説と本文とを行き来することで理解がかなり深まったは確かである。ことに、電子書籍が持つ利便性を最大限活用しようとする姿勢はとても好ましく、こういった難解だと言われるような古典こそ、電子書籍化とその機能活用をどんどん進めてほしい。もちろん、こういったことを実装することは解説者もそして編集者も最終的な校正確認の手間も含めて大変であったと思う。きっと届かないだろうけれどもここに感謝したい。

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    『縮訳版 戦争論』 (カール・フォン・クラウゼビッツ)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/453217693X
    『世界共和国へ: 資本=ネーション=国家を超えて』 (柄谷行人)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004310016
    『世界史の実験』 (柄谷行人)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004317622

  • イマヌエル・カント(1724~1804年)は、プロイセン王国に生まれ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、認識論における所謂「コペルニクス的転回」をもたらした。ヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされ、彼による超越論哲学の枠組みは、以後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼしている。
    本書には、カントの政治哲学、歴史哲学に関連した重要な論考である、「啓蒙とは何か」、「永遠平和にために」のほか、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、「人類の歴史の憶測的な起源」、「万物の終焉」が収められている。
    「啓蒙とは何か」のエッセンスは、冒頭の一段落に集約されている。「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。」
    本稿が発表されたのは1784年、近世から近代の転換点と言われるフランス革命(1789年)の直前で、「啓蒙」という概念がイギリス、フランスからプロイセンに入ってきて、一般市民にも教育の関心が高まってきた時代で、その時代の要請に応える形で書かれたと言える。しかし、それから2世紀以上を経た現在、我々は「自分の理性を使う勇気」を持ち得たのだろうか? 第二次大戦のファシズムは言うに及ばず、現在世界を席巻するポピュリズムも、「自分の理性を使う勇気」を放棄した結果の現象なのではないだろうか。。。今こそ読み返す価値のある短著である。
    また、「永遠平和のために」は1795年に発表された。同年はフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した年であるが、同和約は将来の戦争を防止するものではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、こうした条約では永遠平和の樹立はできないと考え、カントには永遠平和の実現のための具体的な計画を示す必要があった。
    そして本稿では、永遠平和を実現するための予備条項と確定条項が示されている。予備条約では、①将来の戦争の原因を含む平和条約、②継承・交換・売却・贈与等による国家の所有、③常備軍、④国家間の紛争を理由とした国債の発行、➄他国に対する暴力による内政干渉、⑥相互信頼を不可能にするような敵対行為、を禁止するとしている。また、確定条項では、平和の条件として、①各国の政治体制が共和的なものであること、②国際法は自由な国家の連合が基礎となること、③世界市民法は普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと、が定められている。
    しかし、カントは、永遠平和の実現は容易ではないとし、本書を「公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。」と結んでいる。第二次世界大戦の後、(現代しか知らない我々には)未来永劫続くとさえ思われた東西冷戦は20世紀末に終結したが、その後の世界は、文明・宗教間の衝突の渦の中におり、解決は到底不可能なようにも思える。しかし、「永遠平和」は、カントの言うように、義務であり、根拠のある希望であり、実現すべき課題であり、人類として諦めることは許されないのだ。
    今こそ、18世紀にカントが希求した啓蒙への夢とヨーロッパ的な共和国(=永遠平和)への夢を、改めて考えるべきときなのだと思う。
    (2019年12月了)

  • 本書が国際連合の理論的根拠にされているのは有名だ。
    その骨子は、永遠平和を実現するための6つの予備条項と3原則を柱としている。

    本書を手にとって把握できたのはそれくらいのもので「100分de名著」などの入門紹介本でもそれくらいのことはしっかり解説されている。
    つまり結論としては、「問い」を用意していたり、筆者や本の主張に「特別な関心」を持っていない場合においては、数十年以上前の名著については要約された入門書で十分だと思った。

  • 表題作2作含む5編入り。「啓蒙とは何か」は最近読んだオルテガの大衆の定義を思い出す。教えられたことを覚えてそれに囲まれているだけじゃなく、ちゃんと考えろってことなんだけど。学ぶのは哲学ではなく哲学的に考えることが哲学です、みたいなこと。

    「永遠平和のために」は平和条約は単なる休戦に過ぎない、真に平和な世界になるために、「国際法」「世界市民法」「公法」の成立する条件などを道徳的な政治と政治的な道徳を軸に掘り下げた論文。

    「万物の終焉」が私にはとてもおもしろく感じた。

    どこを切ってもカントだなあという感じ。

  • ・古代ギリシアのポリスでは、市民はみずから真理と信じることを政治の場で発言する権利を認められていた。これはパレーシアという権利だった。この権利はローマにおいてもうけつがれ、西洋の政治の伝統において重要な役割をはたしたのだった。カントが哲学者として要求したものも、このパレーシアの権利と同じように、みずからの思索を公開し、他者との対話のうちで、みずからの思索を鍛えていく可能性を確保することだったのである。

  • 読む前の印象としては、カントが公共哲学の中で大きな位置を占めていること、著作がどれも難解であること、だった。しかし啓蒙とは何か、については分かりやすく、メッセージが明確なためとっつきやすかった。啓蒙とは何か。それは未成年の状態から抜け出ること。そして自分で考えることが重要、という今の世にも当てはまる言葉が心に残る。
    永遠平和のために、は思っていたよりも難しく、何度も読まないと本意を掴めないと感じた。

  • ☆「知る勇気をもて」「自分の理性を使う勇気をもて」(p10)
    ☆「自分の理性を公的に使用せよ」(p14)
    「啓蒙とは何か」におけるこの2点は、自由な言論の必要を訴えるもので、本書が公共哲学のスタート地点に位置付けられる(「齋藤純一ほか「公共哲学入門」)のもうなずける。巻末解説にあるように、カント思想はいまなお、アクチュアルである。これを楽観主義とか理想論だとかたずけるのはたやすい。そうではなく、あえて、ベタに、ここをスタート地点としたい。

  • カントにとって啓蒙は、通俗的な「上からの教養主義」といった類のものとは異なり、むしろ「自分で考えること」(哲学)である。そしてそれには議論する自由が与えられていること(語り公表する他者に伝達する権利)が前提となる。こうなると、よく批判されるカント主義、カント的道徳といったイメージのカント像は、だいぶ違ってくる。啓蒙と称して前提となった道徳に重大な危険があり、各人に超自我として内在化された定言命法が生権力として働き、全体主義的な集団を生み出す、といった通説は見えてこない。『純粋理性批判』においても、道徳や宗教は、「あたかも神がいるかのように」各人の幸福に値する行為を前提に、世界の幸福と最高善、つまり自己と公共の利益をめざすものだった。これは通説的に全体主義的とされるルソー『社会契約論』における、公民宗教の道徳に密接に関わっている。アーレントやシュミットのように、これらを危険視あるいは利用するのは、意図的な誤読ではないのか。カントやルソーにとって道徳は、形而上学は存在しないあるいは証明できないが、あるかのように振る舞うことで社会秩序を成立させる、そのような解決策だった。現実問題として、信仰そのものが難しくなっている現代におけるポストモダン的状況において、このアイデアを直接利用するのは難しいかもしれないが、議論を無効にするものではない。普通に考えて、法には抜け穴があるので、悪意のある者といたちごっこをするのではなく、他者の自由を毀損しないよう寛容さをベースにルール設定することは、一般的な心情においても反しないように思われる。
    未開→社会形成→自由→啓蒙→道徳→国際秩序→永遠平和という、人間の目的論的自然観もヘーゲルのような絶対的なものではなく、「あたかも」自然の目的的経過「のように」見えるものにすぎない。カント主義的なものは、マルクス主義におけるそれと同じように、再読することでアクチュアリティが得られるものであるといえる。
    ・啓蒙とは何か
    啓蒙とは未成年状態から抜け出ること。すなわち他人の指示なしに自分の理性を使う勇気を持つこと。自由が与えられさえすれば抜け出せる。人間の理性の公的な使用は自由でなければならない。理性の公的な使用とは、学者の資格において文章を発表し、公衆に語りかけ、議論すること。人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにある。法の改善など、すべての市民が特に聖職者が学者として文章を公表できる自由を与えられるべき。共和国の市民的自由は、制約を精神の自由に加える。自由は行動能力を高め、統治の原則に及ぶ。
    ・世界市民という視点からみた普通史の理念
    自由は全体として発達している。結婚、出産、死亡の統計は一定の自然法則にしたがっている。自然の連続的な一体としての配置のように、個人も自然の意図にいつのまにかしたがっている。自然の意図にしたがった歴史を書くための導きの意図を発見できるか。自然は目的論的に発達する。そうでなければ無目的に戯れる、慰めのない偶然が自然を支配する。人間の理性の利用という自然配置が発展するのは人類の次元において。人間は両手のみで全てを作り出し、内的思考を高め幸福に至ることで自己を尊重する。建築のように前の世代の働きを享受し、次の世代の土台となり、不滅な人類として発達させる。自然は人間を対立により秩序を作る。人間は社会形成と孤立の両方の傾向がある。孤立の傾向による抵抗が、力を覚醒させ、怠惰を克服し、地位を獲得させる。情念から道徳の社会形成へ。抵抗の非社交的特性がなければ人はいつまでも牧歌的な牧羊生活で、才能は永遠に埋没する。飼っている羊と同じ価値しかない。だから嫉妬心、所有欲、支配欲を自然に感謝すべき。最大の問題は、普遍的な形で法を施行する市民社会の設立。そのための条件は、体制の正しい把握、豊かな経験、善き意志。諸国家の対外関係を合法的にすることが、完全な市民体制。自然は戦争を通じて、理性があれば痛ましい経験を積まなくても実現したはずのこと、すなわち国際的な連合を設立する。サンピエールやルソーはこの理想を唱え嘲笑されたが、未開から嫌々社会形成を強制されたのと同様、この方法を採用せざるを得ない。自動機械のように自然に促される。エピクロスの原子の衝突による物質の偶然の形式獲得と同じように国家も形成されると考えるか、自然の規則的経過と考えるか、全ての文化を破滅させ地獄に至ると考えるか。換言すれば、全体としては自然に目的はないのか。ルソーの未開を望ましいという意見は、文化に属する道徳が名誉欲や上品さという見かけにすぎない限り、正しい。人間の歴史は、自然の隠された計画と見ることができ、哲学には千年王国説がある。
    ・人類の歴史の憶測的な起源
    史料の欠けた部分を憶測することは許されるだろうが、すべて作り出したのでは小説の物語と変わらない。旧約聖書の哲学的解釈。理性が欲望を開き、欲望を制御し感覚から観念に変え、愛となる。愛は美に変わり、人間から次第に自然を美の対象にするようになる。目的を調整する能力は人間の長所であるが、同時に未来への不安と憂慮を生み出す。死の不安。人間は自然の目的そのものであり、動物は手段や道具として扱うが、他の人間は平等に分かち合う仲間であり、手段として使われてはならない。自然という母の懐から解放されたが、未開と素朴の園から追い出され、労苦の中で死を忘却し、天国を思い描くようになった。人間の使命は完成に向かって進歩すること。理性は悪徳を生む。自然は神の善、自由は人間の悪から始まる。個人は私的利益のみを考えるが、類としての人間は自然の合目的性とあう。ルソーが学問と不平等の著作において語った、人間本性と文化の対立は正しい。『社会契約論』『エミール』で道徳的人類と自然的人類の対立の解消へ向けた教育。牧畜生活は居住者のいない広い土地があれば飼料に不足することなく安楽だが、農耕や栽培は定住と防衛が必要な不確実なものだった。そのため、暴力を必要としたのは農耕者だった。農耕者は、狩猟者や牧畜者から所有物防衛のために村落を作った。必需品生産のために交易、文化、技芸が始まった。統治機関に防衛を委ね、社交性と安全性の技術が発達した。牧畜者と都市の間は絶えず戦争があった。このことは、国家の力が自由な民の富に支えられるため、自由が担保された。贅沢になった都市の女の魅力が増すと、敵だった牧畜者も都市に引き込まれ、自由はなくなる。他方暴君も現れ、自然の進路から逸脱する。神の摂理に満足できないために人間は苦悩を感じるが、責任は人間にあるので、摂理に満足することは大切である。戦争は文化に使えたはずの国家の力を浪費する。福祉や自由は、戦争のために国家が人間性を尊重せざるを得ないから。戦争は文化を進歩させるのに不可欠な手段という第一の逆説。長い寿命は労苦が長く続き、家族間でも安全は保証できなくなるという第二の逆説。人は原初的な黄金時代のユートピアを望むが、文明を享受し、生活に価値を与えるための行動との差を倦怠として感じる。怠惰を望むのに人間は満足できないという第三の逆説。歴史の教訓は改善を促し、自然や神や祖先のせいにせず、人間が自らの責を負うことを教えてくれる。人間は悪しき状態から善き状態へと発展していくものなのである。
    ・万物の終焉
    永遠というのは、中断なく持続される人間のすべての時間の終焉、深い淵のように恐ろしく同時に崇高である。理性の道徳的領域からすると万物の終焉という思想となる。最後の審判ののち、地獄となったとしても、時間が続く。よって超感性的な万物の終焉は、自然的ではなく道徳的思索から生まれる。道徳的な状態は人間にとっては無限の進歩、自己にとっては時間の変化のないもの。無限の進歩は、満足がないから、同時に無限の悪を感じさせる。人格を滅し神性と一つになると感じる虚無を最高善とする老子の奇怪な体系が生まれ、チベットなどの汎神論、スピノザ の汎神論形而上学が生まれる。永遠の静寂、万物の聖なる終焉、知性と思考の消滅。万物の終焉は、人間の智恵という手段が目的に反しているから愚かしい。善いものであるならそのままの状態にしておくべき。キリスト教の道徳的体制は愛すべきものだ。愛がなければ義務は受け入れられない。権威者として罰や報酬から命令を義務づけるのではなく、人類の友として自由に働きかけ、幸福のために私心によらず法に従うよう警告する。キリスト教が愛すべきものでなくなったら、相反する原理の道徳的中立はなくなり、反キリストが支配を開始し、万物は倒錯的に終焉する。
    ・永遠平和のために
    留保条項として、実践的政治家は、政治を語るには経験が必要だと主張するので、学者が政治を理論的に考察しても何ら懸念はないだろう。
    ⑴予備条項
    1平和条約は将来の戦争原因を含まない。2他国を所有しない。3常備軍はいずれ全廃。4戦争国債禁止。5他国への暴力干渉禁止。6他国の信頼失墜行為(暗殺扇動)禁止。
    ⑵確定条項
    自然状態は戦争状態のため、永遠平和は創出する必要がある。
    1自由、平等、法の従属の共和制であること。戦争に国民の同意を必要とするため。国家の形式は、権力者の数による支配形式、権力行使の方法による統治形式に分けられる。支配形式は、君主制、貴族制、民主制。統治形式は、立法行政分離の共和制、同一の専制。民主制は、ある一人について全員一致で決議できる専制。法の概念にかなった代議制の共和制が達成できるのは君主制。
    2国際的な連合に基礎を置く国際法。個人の安全のために国家における市民体制を構築したのと同様に連合を置く。国際的な国家は一つの民族にまとめるため、国家の主権が失われてしまう。特別な種類の連合、平和連盟が必要となる。世界共和国は一般的には正しいが、個々の場合は否認され全てのものが失われないために連合という消極的理念が必要とされる。
    3世界市民法は歓待に限られる。客人としてもてなされるのではなく、訪問の権利。住民の交通を試みる可能性にすぎないが、世界市民的な体制が期待できる。ヨーロッパのアメリカ、インドに対する征服。中国は来航のみとした。日本は唯一来航のみ認めたオランダ人を捕虜のように扱ったが正しいことだった。奴隷制の砂糖列島は利益を上げておらず、船員を戦争に使えるだけで、カトリックを自称する人々がこれを行なっている。
    第1追加条項
    自然が人間の不和を通じて永遠平和という目的へ向かう。自然はあらゆる場所で人間が住めるよう配慮し、戦争によって各地へ引き離し、様々な文化を醸成させる。自然は国内法においては外的な戦争に基づく国家を、国際法においては言語や宗教の様々な力を競わせ均衡をとり、世界市民法においては戦争と両立できない商業の精神により支配させることを強いる。国家の力において最も信頼できるのは財力で、道徳によらずとも平和を促進せざるを得ない。
    第2追加条項
    国家は平和の条件について哲学者の忠告を受け入れるべき。哲学は法学医学神学に比して低い婢(はしため)の地位だが、明かりを掲げて貴婦人の前を歩む。哲学者が王になることは、権力所有が理性判断を損なうので、望ましくない。王は議論を許すだけで、哲学者は進んで議論する。
    付録
    実践の法学である政治と、理論的な法学である道徳に本来対立はないが、利益優先の怜悧が誠実さに勝ると両立できなくなる。永遠平和は全ての人々が望まなければ実現しない。実践哲学においては、理性の形式的な原理を優先する必要がある。目的内容は実現しうることが前提となるため、形式の無条件性が必要となる。
    公開性に合致しない原理は、公に知らせうる正義に基づく法に値しないため、不正である。叛乱権、二枚舌、小国連合、併合は公開性に反するため不正である。公開性は政治と道徳の不一致を暴くことができる。諸国家の自由を妨げない、唯一の法的な状態が連合であり、そのことが国際法を可能にし、政治と道徳が合致するために必要。公衆を幸福にすることが政治の本来の課題であり、公開を必要とする原則が法と政治に合致する。
    ・解説 カントの思考のアクチュアリティ
    『啓蒙とは何か』哲学史において初めて時代の意味を考えようとした。大人を信じ込む未成年状態から抜け出し(啓蒙)、自ら考えること(哲学)。ソクラテスの時代以来、哲学者でない普通の人が自力で思考することを求められた。自己が哲学の対象となった。自分の頭で考えなければ、革命しても別の抑圧的な体制ができるだけ。発言の自由、自律した思考の重要性。自律した思考の3つの原則。①啓蒙、自分自身で考える悟性の格率『判断力批判』。②他者の意見により自分の正しさと妥当性を再検討する、あるいは他者の立場に置く、拡張された思考、判断力の格率。③首尾一貫した思考、理性の格率。政治哲学は②が最も重要。
    目的論的自然の「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、旧約聖書の哲学的考察「人類の歴史の憶測的な起源」、終焉の概念考察「万物の終焉」、カントの歴史哲学には、実際の歴史考察は欠如している。ヘーゲルが人類史を自由の獲得の歴史としたのと異なり、カントは永遠平和を最終目的としたため、歴史はまだ終焉していないと考える。人間の3つの反自然性、性の欲望、死、平等。性の欲望に基づく愛による社交的な関係が作る世界帝国の逆説と、世界を統一しないための戦争による滅亡。長寿命による対立で洪水によるほかない滅亡。ユートピアのもとでの子供、あるいはコジェーヴ的歴史の終焉としての動物。カントの国家は、自由平等自立な国民主権の立法と行政を分離した構成的原理を共和制と呼び、現代の代議制民主主義と異なるものではない。ルソーの普遍意志に相当するのは、カントの立法者の総意。普遍意志は、多数者が強制力をもって、あるいは少数が僭称して、特殊意志に従わせる全体主義的萌芽がある。ルソーと異なり、カントは代表制を採用する。立法者と執行者を分離するためだ。世界市民法、平和的に訪問する歓待権。デリダ『歓待について』現代は絶対的で無条件で誇張的な歓待の理念を必要としている。カントの四つの自然、自然それ自体、自然法則、目的的な自然美、人間の進歩に配慮する自然。拡散と戦争による自然の配慮。カントは戦争が人間を進歩させると考えている。世界王国は、専制政治を生み、無政府状態に至るので、競争と均衡の平和。カントは、ヘーゲルと違い、同時代に訴えかけ、解読し、自らを改善することをやめない「いま・ここ」の哲学者だ。自分で考えるということは、語り書くという他者に伝達する権利が必要。

  • 読書会の課題本。国連やEUのバックボーンにあるものとして有名な表題作を含む短い論文をまとめたもの。巻末の解説もとても詳しいもので、カント入門としてふさわしい一冊であると思った。

  •  人間が思考するのは、他者に考えた内容を伝達するためである。そして他者に思想を伝達するためには、他者の立場から考えることが必要なのである。完全な独語には、だれも耳を傾けようがないのである。アーレントが指摘するように「我々は他者の立場から思考することができる場合にのみ、自分の考えを伝達することができる。さもなければ、他者に出会うこともなければ、他者が理解する仕方で話すこともなであろう」。
     このことは、他者の存在こそが人間が思考するための条件を構成しているということである。他者との交わりのうちでしか、思考は形成されないし、刺激も荒れないのである。文化と文明の発達において、他者はその可能性の条件を構築する重要な役割を果たしているのであり、この問題は次の論文「世界市民という視点からみた普遍史の理念」でsらに掘り下げられることになる。

     ケーキ好きな悪魔たちを集めて、その中のどの悪魔も、最後の一切れをうけとるという条件でケーキを切らせてみよう。不公平にケーキを切ったならば、最後にうけとる悪魔は、もっとも小さなケーキを甘受せざるをえなくなる。だからその悪魔は可能なかぎり公平にケーキを切るだろう。これは悪魔が道徳的に判断をしたからではない。理性的に考えれば、理解できることだからだ。
     だから悪魔が、ほかの悪魔も自分だけは法律の適用を免れたいと願っているのを知っていながら、たがいに平和と自由を維持できる共同体を設立しようとしたら、外的な法律によって、どの悪魔も特権的な権利を行使することのできない自由で平等な共同体を設立することだろう。ほかの天使の利益のことばかり考える天使の国があったとしても、これと同じ国になるだろう。そこには道徳性はまったく関与しないのである。
     ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ」(二〇六ページ)。欲望についての洞察と、利己心という「自然のメカニズム」を行使することで、悪魔たちが「たがいに強制的な法に服させ、法が効力を発揮できるような平和な状態をもたらす」(同)には、このような社会でなければならないはずなのである。

     このようにカントのこの論文は、永遠平和を目指すための提案でありながら、平和そのものが人間の間に実現することは想定しておらず、反対に戦争こそが人間をたえず進歩させると考えているかのようである。カントは戦争を憎むが、戦争なしの完全な平和状態では、人間gな進歩する原動力が失われると考えるのである。

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