カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (501ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751173

作品紹介・あらすじ

ゾシマの言葉にしたがって、アリョーシャは父の家に出かける。父と長男ミーチャとの確執は、激しさを増していくようだ。イリューシャとの出会い、スネギリョフ大尉の家で目にしたものなど、アリョーシャの心はさまざまに揺れ動き、イワンの「大審問官」で究極の衝撃を受ける。

感想・レビュー・書評

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    【コラム】
    ◇ドストエフスキーとは、具体的にどんな人?

    1821年、ドストエフスキーは、モスクワの貧民療養病院の医師ミハイル・ドストエフスキーの二男として生まれる。父は怒りっぽく気難しい人であったが、母のマリアは穏和で、篤い信仰心の持ち主だった。父は後年、地主貴族となり、農奴を100人持つほどの身分となる。16歳の時、7人の子どもを育てた母が、結核で病死。また、18歳の時には、領地に引きこもっていた父が農奴たちに殺害されるという事件が起こる。百姓やその娘に虐待と暴行を繰り返し、殺されるほどの恨みを買った父の悪行に、若い彼は大きなショックを受けた。彼の持病となる癲癇(てんかん)の最初の発作もこの時に起きたと言われている。

    その後、ドストエフスキーは中央工兵学校を卒業し、工兵局製図室に勤務するが、なじめず翌年辞職。彼の関心と熱意は文学に集中していった。1845年、25歳の時、書き上げた処女作『貧しき人びと』は絶賛を受け、文学史上の一事件にさえなった。原稿を徹夜で読んだ詩人ネクラーソフと友人グリゴローヴィチが、感動のあまり夜の明けるのも待ちきれずに彼のアパートを訪ね、この青年の前途を祝したエピソードが有名。

    1846年、25歳の時、農奴制度の廃止や裁判・出版制度の改革を掲げる革命的(キリスト教的)秘密結社を主催する空想的社会主義者ペトラシェフスキーに出会い、彼らの勉強会・社会革命活動に参加し始める。この行動が元ととなり、28歳の時、会員と共に逮捕され、ドストエフスキーを含む21名が死刑を宣告される。銃殺刑の直前、処刑場に皇帝の特赦の勅命が到着しなんとか死を免れた。絶対的な死と直面したこの体験は、その後の彼の人生観と作品に大きな影響を与えることとなる。

    4年間のシベリア流刑の身となった彼は、劣悪な環境のもと、過酷な囚役と監獄での共同生活を送った。その後、セミパラチンスクのシベリア守備大隊に約5年服役、その地で知り合った人妻マリアと恋愛関係に陥り、36歳の時、紆余曲折を経て未亡人となったマリアと結婚した。1859年、38歳の時、ペテルブルク居住を許され、10年ぶりに作家活動に復帰した。
     
    1861年、40歳の時、兄のミハイルと雑誌『時代』を発刊する。『虐げられた人びと』によって、再び文壇に返り咲いたが、その数年後に、結核で療養中の妻、続いて兄のミハイルが他界した。1866年、45歳の時、速記者アンナに出会い、再婚。彼女はかしこい良妻として、彼の生涯の終わりまで良きパートナーとなった。結婚の2ヶ月後から、4年と2ヶ月余りにわたってヨーロッパに滞在、放浪生活を送る。この間に、長編『白痴』を執筆、完成、次の長編『悪霊』も構想、連載された。アンナとの間には4人の子どもをもうけたが、そのうちの二人を幼少期に失っている。

    1876年、55歳の時、月刊個人雑誌『作家の日記』を刊行。晩年の彼は政治問題、社会問題についても積極的に発言した。1881年、59歳の時、最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の完成からわずか80日後に、肺気腫が悪化、自宅の書斎で妻子や知人に看取られながら息をひきとった。葬儀には、学生や乞食たちも含めた約三万人の人々が沿道に押し寄せ、棺の後に従ったという。

    というのが、ドストエフスキーの白歴史であるが、実は黒歴史もある。黒歴史は以下となる。

    ドストエフスキーは異常なまでのギャンブル依存症で、ギャンブルで作った借金返済のため、妻の結婚指輪を外させて、質屋に持参したというエピソードも。またギャルブル依存症にまつわるエピソードには、事欠かない。愛人との旅行でドイツを訪れたドストエフスキーは、ギャンブルで連戦連敗。借金返済のため、自分が持っていた時計も売り払う。最終的には、親族や出版社の援助で負債をなんとか清算。その後、執筆した「賭博者」という作品は、この時のドイツでの実体験が基になったんだとか。
    借金に追われ、経済的に困窮していたドストエフスキーは、悪徳出版業者との間に次のような内容の契約を結ぶ。

    1. 金を貸してもらうのと引き換えに、一定の期日までに新作の長編小説を完成させる。
    2.もし期日までに完成できなければ、違約金を支払う。
    3.さらに納期を守れない場合は、自身の作品の著作権を、業者に半永久的に譲渡する。

    圧倒的に不利益な契約だが、金に困ったドストエフスキーには、背に腹はかえられぬため、断るという選択肢は無かった。そのプライドを捨ててまで得た大事な借金も、ギャンブルでほぼ使い果たしてしまうという、典型的なダメダメっぷり。

    この上ない逆境に追い込まれたドストエフスキーは、ようやく一念発起。新作長編の執筆に取り掛かる。タイトルは「罪と罰」。言わずと知れたドストエフスキーの代表作だ。だが、生きていくために一人でこなせない程の仕事をすでに抱えていたため、執筆時間が正直言って確保できない。そこで最終手段として、口述筆記によって完成させたんだそう。

    ちなみに、前述の「賭博者」も口述筆記で完成させており、その際に筆記者を担当したアンナという25歳年下の女性と二度目の結婚をする。このアンナもドストエフスキーのために相当な苦労を強いられ、借金返済のために嫁入り道具を全て質入れに出されてしまう。
    それにしても、世界の文学史に燦然と残る傑作が、借金のプレッシャーから生み出された作品とは意外だし、驚愕する。
     
    「罪と罰」執筆以降も、ドストエフスキーのギャンブル好きは治るわけもなく、困窮生活は続く。生活と借金返済のために、必死で小説を書き続けるという、まさに自転車操業生活を強いられる。
    そうして生きるために必死で書き続けた作品の数々が、現在でもロシアを代表する傑作として、世界中で読み継がれている。

    やはり一つの才能に特化した天才は、通常出来て当たり前のことが、ことごとく何も出来ないという、一種の“天才あるある“は、古今東西を問わずなんだと、妙に実感。

    今の段階で2/5を読んだが、一冊目読了時と変わらず僕が過去読んだ中で、最高傑作になる可能性を秘めている。最後のエンディングがどういう結末を迎えるのか、この上なく楽しみであるし、是非こちらの想定を上回るラストであって欲しいと、心の底から願って3巻目に移る。

  • 圧巻の読み応えの2巻。
    めちゃくちゃひきこまれました!

    有名な大審問官のパートはつきささったし、それ以外にも印象的なくだりが盛りだくさん。
    スネギリョフとイリューシャの、貧しさと闘うなかでの鬱屈とプライド、それから親子愛。
    若かりし日のゾシマ長老を訪ねる謎の訪問者も面白かったなあ。
    あと意外だったのが、若いアリョーシャとリーズが想いをかよわせる場面!
    うそ……これ……60近いドストエフスキーが書いているんだよね?
    読んでいるこちらがムズムズしてしまうくらい、甘酸っぱいんですよ。
    文豪の知らない顔を垣間見た気がして、なにげに好きなところでした。

    ところで、今回、読んでいる途中でちょっと失敗してしまったのですよね。
    「あれ? これ前の部分でどうなってたっけ?」と気になったところがあって、軽くネット検索で調べたら、偶然、できれば本を読んでいくなかで知りたかった先の展開を見てしまい。
    うわああ、やってもうたああ(泣)。
    でも、横着した、自分が悪いんだよなあ。
    今度からは、気になったところが出てきても、作品を読んでいる途中は楽だからと検索せず、前に戻って探すか、潔くあきらめて先へ進むことを決意した次第でした。

  • イワンの物語詩「大審問官」とアリョーシャの「ゾシマ長老の談話と説教」が対を成し、神は存在するのかしないのか大きな命題を突きつけられたような壮大な第2巻。
    壮大な宗教の経典を読んでるような重苦しさもあったが、巻末の読者ガイドが親切で理解も深まった。

    「自分の苦しみは他人にはわからない」「人間誰しも全ての人に対して罪がある」など突き詰めて考えればそういうことだなと双方納得させられるものがあった。
    ゾシマ長老の少年時代の逸話がなんとも微笑ましい。さてここから物語はどう展開してゆくのか?

  • この本について知りたかったら、訳者の亀山先生のNHK100de名著、または本書の後書きの「読書ガイド」を読めば十分だと思うけど。

    今まで読んだドストエフスキーと違い、構成がしっかりしている。勿論、嫌になるほど饒舌で長いけれど。この第2巻はまだ2日目のことなんだよ。驚いたことに。
    長男ドミトリーと美人カテリーナのアレヤコレヤは前日譚として語られるのみ。チョッと物足りなさを感じる処。勿論、其処から説き起こしたらトンデモナイ大長編になるのは判っているけれど。
    登場人物が後の時点から、この時のことを思い返す表現が何度かある。こんなのも他のドストエフスキー作品には無かったと思う。

    カテリーナの「自分の一生を犠牲にしても妹としてドミトリーを愛する」という宣言。唐突とは思わないけれど、舞台での戯曲の台詞のように感じる。その後の三男アリョーシャの台詞も同じく。

    二男イワンの語る子供たちへの虐待と「大審問官」の物語。教会がキリストが去ったあと、悪魔と手を結び、人々の自由を奪い、権力を奮い、パンを与えたという内容に納得した。ロシア教会のことは良く知らないが、カトリックには当て嵌まることが多いと思う。しかし、イワンは無神論というのとは違うように思うんだけど。

    終盤はゾシマ長老の遺言ともいうべき半世紀。イワンの非難とぶつかる部分はない純朴な信仰のあり方。アリョーシャは何を思っただろう。

    3巻に移りつつ、100分de名著を読み返そうかと思う。

  • ゾシマ長老〜〜〜!!
    もっとお話聞きたかったです〜〜〜!!

  • 1巻を読んでいる時は、分からない宗教の話が続いて挫折しそうになったが、個人的には面白いと感じる事がようやく出来た2巻目だった。
    主人公達を取り巻く主要なサブキャラ達がしっかり出てきて特徴を掴めてきたから面白さを感じられたのかもしれない。
    キリスト教ではないし、ロシアの歴史はほとんど知らないが、読み進めるうちにとても興味が湧いた。知りたくなった。
    「自分を振り返ったときに恥ずかしくない振る舞いをしなさい」というようなフレーズがあった。(うろ覚えだが)できる限りそうしたいなと改めて気付かされた。

  • 1日中没頭せざる負えない。そのくらいイメージを途切れさせたくない一冊です。

    1巻でカラマーゾフ一家のことを少し知った後、そこから展開される、人間模様。登場人物は出尽くしたか?と思っていたのですが、それは間違いでした。
    新たにカラマーゾフに関わる人々がいて、その1人1人が肉厚です。つまり、レッテル付けが難しい。
    カテリーナはきっとプライドが高い女性だろう(なぜならイワンとアリョーシャがそう言っているからだ)と盲信しても、その言葉正しいとは思えないのです。
    作者と同じ、創作物を外から眺めている立場にあっても、彼らのセリフが真実か、それとも偽りなのかがわかりません。

    これまで読んだ内容と、これから読む3〜5巻の文章から、仮説を組み立てるだけです。何しろ、アリョーシャも、イワンも、ミーチャも自分が突き動かされている行動に自覚的であっても、無自覚を覆いきれないからです。

    この本人たちも気づいていない(それでいてドストエフスキーは計算ずく、かもしれない)心の機微を読み取る。
    この本の価値はそこにあるのかな、と感じています。
    この読み取った内容は、確証もないし、文章で明示もされません。
    なので、明日覚えているためにはメモを取らないといけない。

    そんな意図は無かったのに、2冊読了した時点で、B5ノートが3ページ分、メモで埋まりました。こうでもしないと、自分の考えを後追いできないからです。
    本への書き込みでも、付箋でも構いませんが、頭の中によぎるちょっとした確証を書いておく。
    楽しむための工夫です。

    ちなみに、私が通してチェックしているポイントは次の通りです。何度も登場するモチーフなので、都度考えておくと、ドストエフスキーの考えに少し近づけるかもしれないと期待しています。

    ・信仰心への不審
    ・天使扱いされる登場人物(アリョーシャの他に3人いる)
    ・カラマーゾフの血筋の特徴
    ・妙に引用される「シラー」の役割



    最後に。
    2巻で登場する小学生、イリューシャのエピソードは少し涙ぐんでしまいました。

    くそー、子供ネタはずるい。

  •  「大審問官」……居酒屋? でイワンがアリョーシャに「大審問官」を話しています。おそらく著者は、意識的にこのような舞台で作中人物たちに会話、対話をさせています。これの目的の一つは、読者にイワンの物語詩を深刻に捉え過ぎないようにさせることでしょう。イワンほどうまく言語化できなくとも、この物語詩と同じような考えを持った人たちはたくさんいます。イワンの物語詩よりもさらに上手に言語化できる人たちもいます。では、これらの人たちの考えとイワンの物語詩はどこが違うか?

     以下は「解説」や、『ドストエフスキー』(山城むつみ著)を読んだ上での考えですが、イワンは『カラマーゾフの兄弟 4』で「悪魔」と対話しています。「それ」の出現する前触れが『カラマーゾフの兄弟 2』で、居酒屋でアリョーシャと話すイワンの顔の表情や、彼の歩き方に出ています。おそらく著者はイワンの歩き方を、ゲーテの『ファウスト』のメフィストフェレス(「それ」)と重ねています。

     顔の表情は、イワンはアリョーシャに、「『兄さん、話している時の顔がへんです』心配そうにアリョーシャは言った。『なんだか人が変わったみたいな感じで』」と言われています。この時点で「それ」がイワンに取りついていて、イワンの物語詩「大審問官」は、イワンではなく、もう一人の彼(「それ」)がイワンに話させています。著者はアリョーシャに感性、無意識でイワンの「それ」の存在を見抜かせています。

  • まぁ圧巻でしたわ。
    大審問官における「自由とパンとは両立しえない」と、人間に選ぶ自由を与えた神を責める巧みさには舌を巻く。
    これはもう人間の弱さにつけ込んでくる悪魔そのものの思考だと思ったね。
    ひとはパンだけで生きるものじゃないと聖書に書いてあるのは、それがどれほど難しいことか神ご自身が良くご存知だからなんだよね。
    ああ神についてゆける数万の強者と
    悪魔について行ってしまう数百万の弱者。
    門は常に狭い。
    狭き門から入れ、入りたいねぇ。入れてください。
    ゾシマ長老の兄さんについてのところ、前回10年程前に読んで、かなり共感共鳴したのだけれども、今回はふんふんそうだね、と当然の如く通り過ぎた感がある。
    でも本当はここもとっても大事なところで、こういう兄さんみたいな人こそが狭い門を通っていけるんだと思うわけさ。

  • 1巻目よりかはスラスラ読めました 笑

    個々のストーリーが散りばめられており、
    アリョーシャとリーズの関係性が1番面白かった。

    ただ大審問官やロシア修道僧あたりの宗教色が強い場面は難しく感じました。

    いざ、3巻目へ

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著者プロフィール

(Fyodor Mikhaylovich Dostoevskiy)1821年モスクワ生まれ。19世紀ロシアを代表する作家。主な長篇に『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『未成年』があり、『白痴』とともに5大小説とされる。ほかに『地下室の手記』『死の家の記録』など。

「2010年 『白痴 3』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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