アンナ・カレーニナ 4 (光文社古典新訳文庫 Aト 3-5)

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  • Amazon.co.jp ・本 (434ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334751708

感想・レビュー・書評

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  • 最終巻、結婚生活と、束の間の都会暮らしに適応したリョービンしながらも漠然とした恐れを抱くリョービン。
    アンナは嫉妬に狂い、ヴロンスキーとの同居生活がますますこじれていってしまう。
    そんな風に始まった最終巻はまさに「生と死」を描いたもの。

    電車への飛び込み自殺、という悲惨な結末を迎えるアンナと、死に場所を探すように戦争へ向かうヴロンスキー。どちらも悲劇のヒロイン・ヒーローであろうとし、最後までそれを貫いてしまった。なにか、「愛に生きる」という自分に酔ってしまった人たちの悲劇を感じる。
    一方、父になり社会への関わりが増す中で、悩んだ末に大いなる精神的充足を得るリョービンの、ラスト。信仰の目覚め、とはこれか。悟りのような瞬間は、窮屈な現実の中での、わずかな希望でもある。「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はそれぞれ違う」が最後にも帰ってきているのかも。

    長編小説、こんなにも引き込まれるとは。名作ですね。これからは周りにおすすめしていきます。

  • これは愛の物語だったんだなというのが、読了後に出てきた感想。それはミクロ的には恋愛や結婚、家庭などを扱いながらもその副産物としての嫉妬や不倫といった側面も描き出し、そしてマクロ的には祖国愛や政治芸術を取り上げなら、最後には宗教愛へと結実させる。いずれにせよ、そうした抽象的観念は地に足の付いた、つまり日々の生活の中から見い出していくものなんだろう。だからこそアンナの最後は悲劇的になり、リョーヴィンの生活は続いていった。例え思想無き行動が存在するとしても、生活に基づかない思想が存在することは不可能なのだ。

  • もしキティがアンナの人生を見届けなければ、キティもアンナのような人生を選んでしまったかもしれないし、リョービンがヴェロンスキーの人生を見ていなければ、リョービンもヴェロンスキーのようになっていたのかもしれないな。

    アンナ自身、リョービンとヴェロンスキーが同じであると見抜いていた通り。キティも無意識にそれは感じていたはずだ。

    人間は基本的には過去から学ばない生き物だとおもう。

    過去から学ぼうとするには、周りの人間の強烈な死を目の当たりにするくらいの現実的視野が必要なんだろうね。

    人間の生き方は凄くシンプルなんだろうけど、シンプルに生きるのは、とても難しく感じる。

    なぜなら理性があるから。
    考える、という行為がある限り、シンプルなものをあえて難しくしてしまう。

    苦悩から解放されたアンナが幸福であり、戦争にいく決心をした迷いなきヴェロンスキーが幸福であり、これからたくさんの苦悩迷いを味わうリョービンとキティが不幸だと考えてしまう自分は、やはり考えてしまうから自分は人生を難しくしている人間なんだと思う。

  • ブロンスキーとの愛に生きようとしながらも、苦悩し、葛藤するアンナ――。『アンナ・カレーニナ』完結編。

    随分前に読み終わっていたのだけれど、卒論に気を取られていたせいもあって、感想を書くのが遅くなってしまった。
    読み終えたときの感慨をすっかり忘れてしまったことに、自分が一番がっかりしているところ・・・。やはり、感想は本を読んだらすぐ書かなくてはいけませんね。

    とはいえ、『アンナ・カレーニナ』は凄い小説であった。これは多分、間違いないと思う。

    ストーリーだけを見ると、全巻読み終わった今、納得のいかないところも多々ある。
    特にアンナのラストには、やりきれない気持ちが残った。こういう終わり方なのか、絶望した人間の行く末としてこれが選ばれたのか、と思うと憤慨にも似た気持ちが湧く。

    リョーヴィンの心情も、結局はよくわからなかった。彼は地主貴族という階級も、美しく聡明な妻も持っているのに、なぜそこまで自分の存在意義について悩み続けることができるのだろう? 
    それが悪いというのではない。しかし、私は人間というのは、日常生活で満ち足りているのに、その日常と同時に自分の存在意義について考えられるほど、タフな生き物だとは思えないのである。
    だから、それだけ素晴らしい環境を手にしているリョーヴィンが、そんな日々の生活をこなしながらも、抽象的なことを考え続けられるだけのそのエネルギーの源が一体何なのか、最後までわからなかったのだ。

    では何が素晴らしかったのか。何がこの小説を輝かせ、また人を引き付ける力となっているのか。
    私はそれを、「生きることへの確信のなさ」だと思った。
    今生きていること、自分が自分だけの人生を歩んでいること。その圧倒的な現実にしかし、誰一人確信を持って生きているわけではないこと。
    トルストイがこの物語で描いたのは、この「自分の人生が思い通りにいかないことに戸惑い続ける私」なのではないか、と私は思ったのである。

    これは恐ろしいことだ。自分で自分がわからないということ、人生は自分の思い通りには進まないということ、生きていく限り、自分は後悔を重ねるであろうということ。
    それはつまり、絶望のことではないか。
    しかし違うのである。個人にとってはそれは確かに絶望かもしれない。だが、周りの人間から見れば、それはあまりにも当たり前のことなのだ。
    私達は天才というのが滅多にいない、ほとんどいない、ということを知っている。もしかしたら、天才と呼べるような人物を一人も知らないまま、人生を終えるかもしれない。けれどそれで「ああ、私は天才に出会うことなく人生を終えてしまった」と後悔する人はいないだろう。しかし、いつでも自分に何かしらの才能があればいいな、と人は誰しも思っているのだ。
    要するに、それと同じことなのである。自分の人生が思い通りにはいかない、ということは当たり前のことで、他人がそんなことで嘆いていたってなんとも思わない。
    しかし、どこかで自分の人生は、自分の思い通りにできるという思い込みが、私達にはある。まるで、実は何か自分には隠れた才能があるのではないか、と思うように。しかし、そんなことはほぼない。けれどその不思議な思い込みは消えない。だから、いざ自分の思い通りにことが運ばないとなると、絶望的な気持ちになるのである。

    だからこの物語のヒロインであるアンナは、読者からすると「わがままだなぁ」と映るのかもしれない。絶望絶望って、それはあなたがわがまま言ってるからでしょ、となるのかもしれない。
    本人にとっては地獄、しかし周囲の人間から見ればただの日常の一部。その極限とも言える状況を、誰の手にもゆだねることなく、登場人物に誰一人として確信を抱かせることもなく、冷酷なまでの寛大さで持って描かれたのが、この『アンナ・カレーニナ』なのかもしれない。

    トルストイは恐ろしい人だなぁ。これだけ長い物語で、最後の最後まで「確信」を描かなかった彼の筆力、そして精神は驚嘆に値する。
    そう、人生にゴールなんてものはない。どこからでもが始まりで、どこまでもが自由なのだ。
    なんと茫漠とした世界。
    まるで、広い宇宙に身ひとつで投げ出されたような。
    私達はどこまででも赤ん坊で、どこまででも年を取れるのである。

    余談なのだが、私がこの『アンナ・カレーニナ』を読み終わったのは、トルストイの没後100年から2日前だったため、読み終わったすぐあとにトルストイの記事をいっぱい見ることができた。タイムリーで、ちょっとうれしかった。

  • トルストイの長編小説。非常に文量の長い作品であるが、大変読み応えがあり、さすがは世界の大文豪、と舌を巻いた。

    正直、ドストエフスキーやら何やらこの手の世界文学的古典には手も触れたことがなかったが、本作品を読み、その凄みをありありと感じた。これを皮切りに世界文学の世界に足を踏み入れていきたい。

    *   *   *

    本長編作品に、登場する二人(男女)の主人公、アンナとリョービン、時に二人は光となり闇となり、同じロシアを舞台としながら、全く別の世界をパラレルに生きていく。

    アンナとリョービン、この二人に共通する点は、「自分を偽れない」という点だと思う。ある意味とても純粋素直で、そのため通俗社会から、どうしても逸脱していってしまう二人。それでも本当の生き方や愛や信仰を摸索しながら、闘い、傷つき、心を膨らませる姿は似ている。

    アンナは、本当の愛を求めた。リョービンは本当の生き方、といったところだろうか。

    この愛すべき二人の主人公の顛末、明暗を分けたのは、アンナの生き方が自己愛に満たされていったのに対して、リョービンは無私の精神に満たされていった点にある。また作品の解説にもあるように、アンナが一元的に、リョービンが多元的に生きることとなり、結果、アンナの世界が破綻していった、というのにも納得ができる。

    トルストイの本作品、19世紀を生きた若者の恋愛をテーマとしながら、社会全体を描いた作品の圧倒的スケール、かつ一人一人のキャラクターの内面世界の繊細な動きを捉えていて、よく一人の作家がここまで人間を描けるものだ、と感嘆した。

    人間の心の中の矛盾や葛藤をよく捉えている。そして読者にとってあまり理解できないような難解な比喩表現などに逃げない点も好感が持てた。

  • 自分はリョーヴィンとキティの筋がメインプロットで、アンナはサブプロットな感覚で読んだ。まあ、アンナの筋の方が心理劇としては鬼気迫るけど、それがメインだと重いから。

    いづれにしろ、社会に生きる人々の様々な行為や決定にまつわる心理が細密に書かれていて、素晴らしい名作だと思った。今も昔も社会や人間の大枠は変わらないもんだな。
    人はひとりでは生きていけない。それで、社会と折り合いをつけ、社会性を持って生きることへの葛藤と救い。そしてまた疑い。ライフゴーズオンで物語は続いていく。

  • 23.2.27〜28

    アンナの描写、本当にギリギリまで精神的な部分で死に近づいた人しか書けないものだった。分かりすぎてキツかった。その後のパートのリョーヴィンが精神的にかなり追い込まれている状態にいて、何を見出すのか。1ヶ月足らずで一気にこの作品を読めたこと、舞台のアンナ・カレーニナまでに読み終えられたことへの安堵感も同時に去来してきて、不思議な気持ちになった。アンナとヴロンスキー、まずいな〜まずいな〜と思っていたけど、こういう話になると思っていなかったから本当にビックリした。

  • アンナの嫉妬の狂おしさが読み進めていくうちに痛々しくなり、自殺に至るまでがジェットコースターのような展開だった。リョーヴィンが新婚生活への幻滅、さらに息子の誕生への感激を味わえなかった自分への落胆を感じつつも順調にキティとともに家庭生活を営んでいく様と、アンナとヴロンスキーが破滅へと真っ逆様に転落していった様の差があまりにも激しい。不倫、絶対ダメと単純には言えないアンナの恋心に最後まで目が離せなかった。

  • 解説残して読了

  •  19世紀当時の帝政ロシアの貴族社会を背景とした物語としての歴史的荘厳さを保ちながら、アンナとリョーヴィンという愛に悩む等身大の人間像を絡めることで、不変的な一大叙情詩かつ一大叙事詩に昇華させたトルストイの古典的名作。光文社の翻訳・編著の妙もあるだろうが、いま読んでも全く古さを感じず面白い。
     ヴロンスキーの愛を猜疑しアンナの鉄道自殺で衝撃的に幕を閉じる第7章。これにて終焉としても良かったであろうが第8章のヴロンスキーの自棄的行動やリョーヴィンの啓示的開眼が単なる「不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」人間模様から数歩抜きん出た深みある印象を与える。

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