- Amazon.co.jp ・本 (434ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751708
作品紹介・あらすじ
「そうだ、死ぬんだ!…死ねば全部が消える」。すべてをなげ捨ててヴロンスキーとの愛だけに生きようとしたアンナだが、狂わんばかりの嫉妬と猜疑に悩んだすえ、悲惨な鉄道自殺をとげる。トルストイの代表作のひとつである、壮大な恋愛・人間ドラマがここに完結。
感想・レビュー・書評
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モスクワへ移ったリョーヴィン夫妻。臨月を迎えたキティはみんなからあたたかく見守られながら幸せな気分で妊婦生活を満喫している。
一方のリョーヴィンはいよいよ自分が父親になるのだという重圧で押しつぶされそうになっており、いざ出産という段での慌てっぷり、狼狽ぶりはもはや喜劇のようでおかしかった。
キティの分娩がなかなか進まず何度もしつこく医者に進捗を確認しては、「もう終わります(もう産まれます)」という返事を「ご臨終です」という意味に勘違いする始末。
出産という偉業を成し遂げたキティを見て、歓喜の慟哭と滂沱の涙を流しキスをするリョーヴィンの姿はまさに愛そのもので、でもその後に息子と対峙して「子供は何かしら無駄なもの、過剰なものと思われ、長いこと子供の存在に慣れることができなかった」という感想を抱いているのは矛盾のように思えるけれど、父親になったばかりの男性とはこういうものなんだろうか。
ただここらへんのエピソードは、リョーヴィンという個人がアンナ・カレーニナという大作の中で、多元的で複雑な日常世界の思考の代表であることをいかにも象徴しているようだった。
生きるとは、死ぬとは、信仰心とは、愛とは、幸福とは。出来合いの解答のない人生の問題にぶつかっては悩み、考え抜く等身大の存在。
それに比べてアンナとヴロンスキーの不倫関係は破滅への一途をたどる。嫉妬心と猜疑心のかたまりになってしまったアンナはヴロンスキーの行動すべてに言いがかりをつけ、もちろん彼もそれに忌々しさを覚えあからさまに鬱陶しがる。決定的に心の通わなくなった二人の間には喧嘩が絶えず、あれほど燃え上がっていたはずの愛はいとも容易く憎しみに変わる。
彼は私のつらさを理解してくれない、私は寂しくて、私はただ愛されたいだけなのに、と嘆き続けるアンナの自己愛と被害者意識には読んでるこっちも辟易しちゃって、メンヘラ!と一刀両断したくなるね。アンナは別にヴロンスキーじゃなくたって、自分を愛してくれる誰かなら誰でも良かったんじゃないかな。
これまでずっと優雅で快活で聡明な美貌の女性としてみんなの憧れだった彼女が、こうやって激しく取り乱す様子が書かれて初めて、なんだかようやくアンナという一人の女性の人生に理解の及ぶ距離まで近づけたな、と思った。
結局カレーニンと離婚もできず、息子とも会えず、ヴロンスキーからは愛想をつかされ、苦しみに耐えられなくなったアンナが復讐の自殺を決意してからはあっという間で、鉄道車両が轟音とともに容赦なくやってきて彼女を暗闇へと永遠に消し去る。
田舎で堅実に農業をしてあたたかな家庭を築き、悩みつつも平凡な日常に幸福を見出して暮らすリョーヴィン。
華やかな社交界で劇的な出会いをして激しい不倫に走り、すべてを投げ捨てドラマチックに死んだアンナ。
とても対照的な人生、いったいどちらが幸せなんだろう?と頬杖ついて考えずにはいられない。
や、どう考えてもリョーヴィンなのは分かるけど、私は自分の中におそらくアンナが住み着いてることも認めざるを得ない。ドラマチックに生きたい、そしてドラマチックに死にたいという願望はどうしたって無視できないし、貫いて成し遂げたアンナを羨ましくさえ思う。このまま生きてたら鉄道自殺まっしぐらなので、ちょっとこれからの人生考え直さないといけないかもしれないなぁ。
あるいはリョーヴィンとアンナがくっついたら、という可能性もそれはそれで想像できなくて面白いかもね。
『家庭生活で何か新しいことを始めるためには、夫婦が完全に反目しあっているか、それともぴったりと和合しているか、いずれかの状況が必須である。夫婦の間がはっきりせず、反目とも和合ともつかない状態のときには、何事も始められない。』
という地の文では爆笑した。いや本当にその通り。
なんにせよ読み終えた…長かった…。これから先も続いていく読書人生の山場をまた一つ超えたような気がする。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み終えてみて、やはりもう一人の主人公はリョーヴィンだったのだとようやく気が付いた。彼のナイーヴさは、アンナと同様に危なっかしかった。
ではなぜアンナは死に、リョーヴィンは死ななかったのか。
この問題への回答はさまざまだろうし、また、時代によっても変わるだろう。
でもこの今でさえ一つ有効な回答は、リョーヴィンが男性を演じざるをえず、またアンナが社会的に女であらなくてはならなかったからだということだろう。まさに紙一重。
アンナの死によって、リョーヴィンの深刻ぶった生がひどく滑稽に浮き彫りになる。けれどもまた、リョーヴィンの深刻ぶった生が、アンナの死を滑稽に浮き彫りにさせもする。
たまたま駅で目撃した今でいういわゆる「人身事故」現場に誘われて死を選ぶということの滑稽さ。そこに妙な生々しさがあった。一方、魂という観念の虜になったリョーヴィンはその平凡な観念をたよりにその後、長生きしたのかもしれない。
本書の隠れテーマは、場所、だと思った。モスクワ、ペテルブルク、リョーヴィンの領地であるいわゆる「村」、そして駅。場所は人々を巻き込んで、気分を滅入らせたり、上げたりする。見方を変えれば、近代化の反対をいったリョーヴィンは救われ、ヴロンスキーとともに近代(=ひとつには、馬車ではなく、鉄道=呪われた場所)へと進んだアンナは死ぬ運命にあった。そんな物語としても読める。 -
最終巻はほぼ一日で読んでしまった。第四巻で最高なのはキティの出産を待つリョーヴィンのコミカルな描写。トルストイったら可笑しさを狙ってちゃんと可笑しくしてくる。ただリョーヴィンパート自体が面白いかというとそうでもない。リョーヴィンは善人だけど自分を俯瞰しようとはしないから(『ストーナー』のストーナーに感じるのと同じいら立ちがあるかも)。彼が拠り所とするものも思考停止に見えて好きじゃない。リョーヴィン推しのトルストイには「それでいいのか!」と言ってやりたい。
自分を顧みないという意味ではもっとひどいアンナのほうは、窮地に追いやられて悪手ばかり指す流れが非常に不憫だった。これは結末が結末なのでひいきせざるを得ないのだが、彼女がもう少し聞く耳を持つ人であったら、他者に助けを求められる人であったら、とやりきれなかった。魅力的で能力があったから、逆に切り抜けられなかったのか。100%の愛を求めて止められないのは、生き延びるには大きな弱点なのかも。 -
完結編。第7部と第8部を収録。2つのカップルの圧倒的な結末に魂が震撼する。そこに見出したある一つの答え。
前巻の新婚生活から続いて出産シーンへ。リョーヴィンの慌てっぷりがユーモラス。お互いに何でも話し合い、隠し事をしない理想的な夫婦像ともいえるリョーヴィンとキティも、時々は細かいことでぶつかったり悩んだりするところがリアル。
二人の主人公が一瞬だけ交差する出会いのシーンは胸が熱くなるものがある。ここから物語はクライマックスへ向かっていく。
第7部の終盤にいたる展開は、その不穏さとスピード感に読んでいるほうも追い詰められる感覚になる。男女の愛を理想的な結婚の姿という形で見せてくれたリョーヴィンと対比して、最後まで愛を求め続けたアンナの姿も、ある意味で女性としての究極的な何かを表現しているといえるかもしれない。最後のシーンの文章が本当に上手いというか、映像的でありながら文章でしか表現しえないものがあって、翻訳も含めてすごいと思った。
第8部はエピローグ的な展開と、リョーヴィンの思索がメインになる。一般的には第7部のラストに目が行きがちだし、物語としてはあそこで終わっても不自然ではない。だがこの第8部こそ、本作の結論でありキモとなる部分といえ、本作を単に恋愛小説として読んでいる人には見出だせない、より大きなテーマが提示されている。
リョーヴィンが抱き悩み続けている本源的な問い――
「自分はいったい何者か?自分はどこにいるのか?なぜここにいるのか?」
それは生と死についての疑問であり、リョーヴィンはこれについて明確な答えを見出す。アンナとリョーヴィンという、別々に展開し一見つながらないように見える2つのプロットは、すべてこの一点のテーマに集約されて大きなカタルシスをもたらすのである。
自分の若い頃にこれを読んでもピンとこなかっただろう。百姓ヒョードルの些細な一言で気づきに至る流れ、答えは理性の外にあり、「われわれはすべて知っているのだ」と納得する顛末に、うんうん、そうだそうだとうなずきながら、この何年かで学んできたこと、考えてきたことが微細に書かれていて驚いた。特筆すべきなのは、これらのことが単に思索の結果としてだけではなく、日常生活の細々した雑事と密接にからみながら描かれているところ。リョーヴィンの悟りは、よく言われるふわふわしたスピリチュアルではないのだ。悟りに至ったあとも、あまり変わらない現実の如実な姿にニヤリとするラストの一文が最高だ。また、キリスト教の信仰に立ち返った彼は、他宗教へのスタンスについても、子供たちのいたずらと天文学者のたとえから明確に結論づける。
表向きは恋愛と結婚を題材にしながら、また当時の生活や社会を詳細に描きながら、より深い生命の次元から万事を見つめ、多層的な観点から人間の本質に迫っていく本作は、個人的にも人生でベストといえる作品の一つとなった。これから映画も見てみたいと思う。 -
非常に恥ずかしながら、21年の生涯初のロシア文学。
心のどこかで、いつかは触れるべきだと思っていながら漸く今回、読み終えることが出来た。
今までの他の作品であれば、読み終えたあとは何らかの気持ちに加えて、読み終えたという達成感のようなものを感じていた。
しかし今回は違う。
達成感も感じてはいたが、それ以上に「もうこの作品の世界を味わうことはできない」といった寂しさを感じた。
本作「アンナ・カレーニナ」を読むにつれ、アンナ、リョーヴィン、オブロンスキー、キティ・・・といった登場人物たちが私の日常生活の一部となっていった。
彼らと共に過ごした時間をもうこれ以上共有できないと考えると、やはり寂しさが表に出てきてしまう。
作品世界に関しての議論は私は専門家でも何でもないので、触れるべきではないが、少なくとも、この作品が人間のあらゆる側面を描き出しているということは断言できる。
本当にこれが、時代も場所も違う1870年代ロシアを舞台にして描かれていたのかと見紛うくらい、人間という生き物の中にある不変な本質を私に伝えてくれたと感じている。
我々は恋をする。
しかし恋敗れれば悲しみもするし、時によっては自分を捨てた相手を憎むこともあるかも知れない。
自分が愛していると思っている人が他の誰かを好きになる。
当然嫉妬も起こるだろう。
時代の流れの中で、以前は順風満帆であった事業に陰りが見られることもあるかもしれない。
自分の子供が出来れば、あれやこれやと自分がしたいと思っていることを子供に託すこともあるかもしれない。
このようなごくありふれた日常の様子・感情が実に細かく描写されている。
内容の充実度も勿論のこと、表現の観点からも、私はこの作品が「Masterpiece」であることを心から感じている。 -
初トルストイ長編
幸せな家族はどれもみな似ているが、
不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。
圧巻の世界観
登場人物がみんな生きている
熱情や妬みに翻弄されていく貴族たち
確かに昔存在していた時間たちが蘇り、
そこに生きていた人間たちの鼓動が感じられる。
本筋だけを追っていけば、
今日目新しい展開は特にないのだが、
一つ一つの挿話によって、
人物像だけでなく、彼らの生活の香りが浮き彫りになっていく。
アンナとリョーヴィン
アンナは恥辱との戦いであり、
リョーヴィンは自己との戦いであった。
地に足をつけて、自分と対話しながらなんとか生きていく。
それって、いつの時代も通用する教訓なんだと思う。
自分が何者で何のためにこの世に生きているのかを知りもせず、また知る可能性さえも持たず、その自らの無知に苦しむあまり自殺さえも恐れながら、同時に自分独自の、はっきりとした人生の道を、しっかりと切り開いていたのであった。 -
長いけど訳が重厚すぎず、何より面白くてどんどん読み進められた。自分が恋愛に依存気味の時期の思考の流れにありがちな視野の狭さがアンナの一人称語りによく出てたりと人物の心理描写も素晴らしい上、リョーヴィンと対になる構成も面白い。タイトルロールなのにアンナは冒頭もなかなか登場しないし、死んでからも物語が結構続くんだよね。
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解説までをじっくりと読み、自分の感じたこととさまざまな解釈を照らし合わせてみたが、難しいことはわからない。
全編通してとても面白い作品だった。アンナの破滅的な恋愛に対してリョーヴィンの日常、幸せな家庭のストーリーがあり、また、その2つの大きな流れを結びつけるように多くの人物が絡み合っている。ロシアの時代背景もよく映し出されていて壮大で複雑な物語となっている。
アンナの死を描く文章と、リョーヴィンの最後信仰について考えるシーンは深く感動した。
私はキリスト教を信仰しているわけではないのでリョーヴィンの境遇と一致しているわけではないが、善に対する考え方には大いに共感できた。タイトルにもなっているアンナの死で終わらないのは不思議ではあるが、リョーヴィンの世界で終わるこの終わり方もなかなかに素敵だ。
私はアンナを好きになれそうで好きになれなかった。たぶん読者にそう思わせるようにトルストイが考えたのだろう。最初は魅力的だと思っていたが、だんだんアンナの行動に疑問を持つようになった。ヴロンスキーに対して嫉妬深く自己中心的で、さらに母性が欠けているようにも思える。
もちろん私にはアンナよりもリョーヴィンの世界やドリーの世界が自分に近いと感じられた。
長編だったので今読み終わった時点で1巻など最初の方のエピソードはもう忘れているところも多いだろう。10年20年経った時にまた読み返せたら嬉しい。 -
悲しみと驚きの第7部
心に残る第8部
読み終えた瞬間の私の感想…
え?これは?
『アンナの終わりとコンスタンチン・ワンダーランド』じゃないの!
なぜ?なぜトルストイは、この小説のタイトルを『アンナ・カレーニナ』としたの?
トルストイ先生、もっと他のタイトルあっただろうに…と考えつづけていたところ、巻末の、訳者望月先生の解説の中に、ゲイリー・モーソンという人の解釈が紹介されていました。
_題辞は 彼女が自分自身に下した捌きの言葉だとも取れる_
『アンナ・カレーニナ』だからこそ、彼女と相反するその周りの人物や思想、またリョービンの物語に光が差すのです。
悩めるリョービン、悟りを開くリョービン、まるで、青春時代に帰ったかのように、一緒に悩んでしまった!
私はどうしてここにいるの?神とは?生とは?精神、意志、自由、実体?
…と
でも、リョービンは自分の生活の中から(穀物番フョードルから)、答えを見つける。
答えがあるんですね、トルストイ先生✨
光と闇、リョービンの世界と、アンナの生き様。二項対立という言葉も解説にあったけど、、
私にとっては、かなりのリアリズム小説で、好みではないはずなのに、すっかり面白くよまされてしまった!
作家が亡くなって100年以上も経ったいまも、こうして私たちの心を捉えて離さない作品であることが、
これが文学なんだなぁと、よくわかりました -
アンナと共に苦しんだ時間が終わり、達成感と同時に彼らの生活をもう覗き見ることができない寂寥感が胸に満ちる。
リョーヴィンの信仰についての件は難解で一読しただけでは理解しきれなかった。また時間をおいて再読したい。
時代背景を鑑みれば決して珍しいことではなかったとはいえ、アンナが女であるばかりに背負わねばならないものが多過ぎる。不器用な男たち(カレーニン、ヴロンスキー)の不幸さにも同情するが、苦い思いが残った。