- Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751890
作品紹介・あらすじ
絢爛豪華な邸宅に贅沢な車を持ち、夜ごと盛大なパーティを開く男、ギャッツビーがここまで富を築き上げてきたのは、すべて、かつての恋人を取り戻すためだった。だが、異常なまでのその一途な愛は、やがて悲劇を招く。過去は取り返せる-そう信じて夢に砕けた男の物語。
感想・レビュー・書評
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よくわからなかった
本当のところこの時代を生きた(あるいはこの時代を知っている)アメリカ人でなければ読み取れないことが多分にあるんだと思うんです
でも「わからなかった」で片付けてしまっては古典を読む意味がないじゃないか!!
…とは思わないんです
読んでみてわからなかった
立派な感想じゃないですか
「わからなかった」から自分なりにいろいろ調べてみてもよし、さらに深く考えてもよし、わからないままでもよし
「わからない」を始点にしてもよし、終点にしてもよし
いいんですよ
古典なんてわからなくっても
「ああ、それならお父さん読んだことあるよ」って言いたいだけなんですから
「どうだったって?」て聞かれたら
咳払いのひとつもして「あ、そうだ植木の伸びたの切っとけって言われてたんだ」とかなんとか言えばいいんです
それでもしつこく聞かれたら「いや〜グレートだったね〜、ギャッツビー、グレートだったわ」とか言っとけばいいんです
古典ってそういうことです(絶対違う) -
映画『華麗なるギャツビー』を観に行こうかなあと思っていて、そのまえにおさらいとして開いてみた。
内容よりも先に、恐ろしいほど村上春樹な環境設定と言い回しにあふれていて驚いた。中流から上のクラスで生きる人々と彼らの服装の描写や、少々持って回った比喩と、短くて浅めの男女のやりとり。たしか、『ノルウェイの森』にフィッツジェラルドを読む青年が出てきているくらいだから、影響としては大いに受けているわけだし…と納得しながらも、登場人物の名前を「ワタナベ」とか「青豆」に置き換えていったら、ハルキストかつ海外文学を読まない人は、春樹作品としてがっつり食いつくんではないだろうか?とぼんやり考えたりした。
それよりも意外に感じたのは、主人公であるジェイ・ギャッツビーから受ける印象が非常に薄いこと。大豪邸で夏の夜毎に繰り広げられる大宴会や、高級だけど洒落ものを超えた下品さのある着こなしがきらきらと描かれるわりには、彼自身はなんだかぼんやりして見えてこない。「実はこんな男でした」とネタばらしされても、「そういうの、あの時代ならあるよね」とあっさり納得してしまうし、彼がたどる顛末も、「やっぱりそういう感じなんだな」で終わってしまった。
それは彼の運命の女・デイジーにしても同じように感じた。当時流行りのフラッパーかと思って読み進めていっても、そんなことは全然なくて、ダム・ブロンド(金髪おバカちゃん女)っぽく描かれてはいるものの、ごくごく普通のWASPのお嬢さまだった。中野翠さんの映画エッセイで、「リムジンの中から外を眺める人生」という表現があった(ゴールディ・ホーン主演の『プライベート・ベンジャミン』への批評だったと思う)けれど、まさにそういう感じ。たまたま窓から見かけて、「あら、素敵な殿方」と心動かされた瞬間があっても、結局は運転手に「行きましょう」と言いつけて去っていける程度のイケメンがギャッツビーだったんだろう。
少女マンガ的な甘さと美しさ、あざといまでの切なさも見せるわりには、「全般的に薄い感じのドラマだなあ」と思って読み終わった。でも、この独特の浅さがアメリカ文学でもあるし、たぶん、語り手であるニック・キャラウェイの立場と現実主義の明晰さがそういう描写をさせるんだとも思う。主役ふたりが薄いから、トムとジョージの取った行動が強烈に残るのかな、とも思った。個人的には、ゴルフの女王・ジョーダンの、現実離れしたスーパーガールでありつつ、自分の足でニューヨークを歩いて行く姿が素敵だった。
読後感はわりとさっぱりしているものの、もの足りないというほどではないし、微妙な感触。訳者・小川高義さんの訳者あとがきが自分にない視点で面白かったので、合わせ技でこの☆の数かと。 -
何回目かわからないぐらい読んでいるけれど、今回は津村さんの世界文学の紹介をきっかけに再読。
フィッツジェラルド節満載で相変わらず文体がカッコいい。そして前回読んだ村上春樹訳とはまた違った味わいがある。こちらの方が読みやすい。
全員がどこかしら一癖ある西部出身の登場人物達が東部ニューヨークの風に馴染めず、それでもしたたかに生きるトム、デイジー、ベイカーに対し、やはり馴染めずに帰郷する語り手のニック、そして過去よもう一度とばかりに不器用ながら純粋に生きるギャッツビー。誰かに感情移入するということはなく、1920年頃の時代の雰囲気を感じることができる。
難しいといえばそんなことはないのだけれど、決して分かりやすくはなく、人生経験を積んでからこそ味わえる作品という気がする。とはいえフィッツジェラルドが執筆したのは29歳の時。人生の重さが現代とは違う。 -
何読目かの今回、ギャツビーはアメリカそのものなのかなと思った。
金は得たけれど、歴史や積み重ねた文化がないことを恥じ、自分の中で美化したヨーロッパに憧れ続ける。
私の勝手な読み方だけれど、そう思うと一層ギャツビーの滑稽だけれど愛すべき憐れさが胸に沁みた。
ところでギャツビーの訳といえば、のオールドスポート問題、春樹訳のカタカナは怠慢じゃないだろうかと私はなじったのだけど、この新訳が取った手法は何と「訳さない」。
お…おう…。
思い切ったね…。
そこは私は訳して欲しかったので、小説自体ではなく翻訳に星4つ。
それ以外の大胆な訳は割と好きなんだけど。 -
よく聞くタイトルだけど、未だ手に取ったことがなかった。そして読み終わり、なんて言うか、嗚呼、アメリカンだなぁ、と思った。
ギャッツビー氏は悲しい。大きな子どもにしか読み取れなかった。自分が信じてる世界が全てで、嘘も現実もまぜこぜになっている。彼が一途に(病的なまでに)愛しているデイジーもまた、大きな子どもだし、トムもまたしかり。
金の万能性と、それに群がる人々の繋がりの薄弱さを鮮やかに描いているように思う。
結局、ギャッツビー氏の葬儀に出席したニック、メガネの男、父親は、ギャッツビー氏の金には目もくれてない。ニックは彼の真実を、メガネの男は知性を、父親は出生そのものを体現化した存在として最後を飾る。逆に言えば、これら三つこそギャッツビー氏の隠し通したかったものとは言えないだろうか?
最後に。
情景描写と心理描写のリンクがとても巧妙で、美しいと思った。 -
誰の発言かがわかりにくくて読み飛ばしてしまった部分もあるけど、ギャッツビーのデイジーを思ってまた会えるシーンはドキドキした。
ギャッツビーがデイジーはトムを愛してなかったと思いたいとこだわる気持ち、わかるようなわからないような気持ち。あと、デイジーは最後ギャッツビーに会いにこなかった。
そんなものだったのかと思ったり。 -
ギャッツビーは、ハンサムで、寡黙で、大金持ちで、一途なので、男性が思う「かっこいい男」のように思える。無論私もそう思う。(粘着質すぎるけど…)だからこそギャッツビーには人間らしさがない。説明こそあるが、ぽっと出の人物のようである。またイマイチ恋する理由も分からない。しかしながら、デイジー(ギャッツビーが思いを寄せる女性)と対話する時の彼の動揺っぷりは愛嬌たっぷりで、特に先走りすぎる会話をしてしまう彼の描写は、本当に良かった。
ギャッツビーとやたら平凡な話者以外にまともな人がいないので、読了後はただただ頭に?が浮かんだが、時間が経つにつれもう一度読みたくなる不思議な感覚が湧く。多分ギャッツビーに対する思慕か同情だろう。感情が大変なことになる作品だった。恐らく、原書で読む方が翻訳作品特有の言い回しが理解できるのだろう。機会があれば是非読みたい。 -
どう感想を書いていいのか難しい。私は単調な物語に感じてしまったが、読了後にむず痒い感覚が残った。もう一度読めば何かがわかるような気がした。
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読み終わったら映画も観ようと思ってたけど、今はそんな気になれない。そんな、そんな、という暗い気持ち。直感的にくそデイジーと思ったけど、誰も責めたくない。
おはようございます!
ですよね!
分からなくたっていいんですよ!
アメリカ人にもきちんと伝わるグレートマジンガーを生み出した...
おはようございます!
ですよね!
分からなくたっていいんですよ!
アメリカ人にもきちんと伝わるグレートマジンガーを生み出した永井豪先生が素晴らしいってことですよ!
永井豪とダイナミックプロですよ!(何故か興奮)
頭から飛び立つのがカッコよかった!
頭から飛び立つのがカッコよかった!
やっぱマジンガーツェェェッット派ですよね!
ま、ワタクシの場合はツェェェッット派というより兜甲児派なんですけどね!
なんで、甲児...
やっぱマジンガーツェェェッット派ですよね!
ま、ワタクシの場合はツェェェッット派というより兜甲児派なんですけどね!
なんで、甲児に生意気な口きく異星人は嫌いでした
どこぞの王子か知らんけども!
後に彼もいろいろあったってことが分かって最終的には和解しましたけどね