純粋理性批判 1 (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-2)

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  • / ISBN・EAN: 9784334751982

作品紹介・あらすじ

カントは従来の形而上学が陥った独断的なやり方を批判し、人間のもつ理性の可能性とその限界をみさだめる。空間とは何か、時間とは何か、認識はどのようにして成り立つのかを明らかにする。古代以来の哲学の難問を解決しようとした意欲的な試みを再現する。

感想・レビュー・書評

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  •  まさかこの年でカントを読み始めるとは思ってもみなかったが、最近読む本読む本にやたらカントへの言及があり、そんなら一度読んでみようと決めた次第。訳書の中では最も平易だという触れ込みのこの光文社古典新訳文庫を選んだが、それでも僕には超難解。本文は全体の約半分しかなく、残りは訳者による頗る丁寧な解説が占めているという相当に親切な作りだが、それでも1回読んだだけでは殆ど理解できず。予め簡素な入門本を読んだ上、本書の本文と解説を何度も何度も行き来しつつ自分なりの読書ノートを作ってもまだよくわからず、最後に詳細な解説本を読んでようやく何となく、といったところ。通常の4、5倍は時間をかけ文字通り四苦八苦しながらやっと最後まで読み通した。

     何がわからないといって、まず題名からしてよくわからない。理性を「批判」とは?普通に考えれば批判とは否定的に検証するといったような意味だから、理性の存在基盤を疑おうということか?と思えばそうではなく、理性そのものの本性を対象として純粋に(超越論的に)批評を加えよう、という意味らしい。
     章立てもよくわからない。「感性論」などはまだいいが、「分析論」とか「弁証論」となると内容と章題とのつながりが相当に希薄であるため、読んでいてこの章がそもそも何を論じているのかすぐにわからなくなってしまうのだ。
     
     本第1文冊は人間の直感がどのように成立するかを論ずる「感性論」だが、ここでいきなり爪づく。本書解説でも触れられているが、空間・時間の「形式」としての存在様式が、客観的普遍性を担保する経験的な「実在」でありながらも同時に(超越論的ではあるにせよ)主観的な「観念」でもある、というカントの論理は逆説的で極めて分かりにくい。これは「批判」内で何度も立ち現れてくるテーマでありながら、その度に混乱させられることになる。この直感を支えるパブリックなプラットフォームとしての空間・時間の実在性がカントでは曖昧に処理されているため、空間-時間を橋渡しして自己の意識をメタ的に意識するという「統覚」の所在も今ひとつピンと来ないままだ。確かに、アインシュタインを経由した現在では、空間と時間に絶対性はないが、その歪みが実体的に電磁波や物体に影響を与える実在だということになっている。ただそうなると、今度はその時空の実在性をアプリオリに把握して直感を受領してしまうこの奇跡的な人間の感性の正体とは何なのか、というカント的地平に容易に引き戻されることになるのだろう。なるほどこれは一筋縄ではいかない…

     というわけでやっと7分の1。先は長い。

  • 「ビッグバンが宇宙の始まりだって言うけど、その前に何か原因がなければビッグバンも起こらなかったんじゃないかな?」
    「神とは、完璧なものである。ところで、存在しないものは完璧ではない。つまり、神は存在するのだ!……本当に?」
    「心ってなんだろう?心は脳とは違うの?」

    考え出したら夜も眠れないような問題が、この世界にはたくさんあります。そうした簡単には答えが出ない(でも大切だと思われる)問いを探求し続けてきたのが、何を隠そう哲学なのです。こう言うと、カッコイイ気もしますが、実際には様々な主張が飛び交うばかりで決定的な解答は出ず、堂々巡りだったり単なる屁理屈に陥ってしまうこともしばしば。うーん、カッコワルイ。

    このような哲学に特有の困難を自覚していた18世紀ドイツの哲学者カントは、私たちの「理性」という能力を吟味することで、人間の認識の可能性とその限界を見定めようとしました。その成果こそが、哲学史における最重要著作の一つとされる『純粋理性批判』に他なりません。本書において、カントはそれまで議論され続けてきた重要な哲学的諸問題に対して、一つの決定的な解答案を与えることになります。

    そこで論じられることになるのは、時間と空間、心、世界に始まりはあるのかどうかという問い、神の存在証明などなど。こうした課題にカントは、「そもそも私たちは、どのようにして世界を認識しているのか」という観点から切り込んでいきます。難解な部分も少なくないですが、カントの思考過程・問題の解決は、きわめてエキサイティングで、面白い。そして何よりも、本書で述べられる思想は決して色あせず、今日においてもなお私たちの物の見方に影響を及ぼしうる意義を有しています。いずれにせよ、挑戦するに値する著作であることは間違いないでしょう。

    最後に、翻訳について。カントの文章は難解なことで知られ、従来の邦訳は「ドイツ語は正確に訳してあるが、意味が分からない」というものが大半でした。しかし、今回紹介する中山訳は、徹底的に分かりやすさを追求したもので、「普通に読み通すことができる」という(カントの著作に触れたことがある人にとっては)驚くべき名訳となっています。カントの思想に触れたい、『純粋理性批判』に興味があるという方は、ヘタな解説書を読むよりもこの翻訳(解説も充実しています)をいきなり読むべきでしょう。そして、この翻訳が学問的に十分ではないと感じるようになったら、他の邦訳ではなくドイツ語の原文を読むことをオススメします。
    (ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA)

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1377576

  • ああ、あと六巻...
    "対象は認識に従う"は、はじめてちゃんと読むとガツンと来た。
    人は生まれながら持っている型のようなモノを頼りに外界と接しているのだろうか。。。

  • 岩波文庫版で相当昔読んだカント、再読しようと思っていたら、岩波版の訳は誤訳だらけと誰かさん(というか、中島義道)が言っていたので、やむを得ず新訳文庫でそろえ直すことにした。
    こちらの訳者中山元さんは、私もこれまでいろんな翻訳を読んできたし、信頼している方だ。なるほど読みやすいが、「悟性」が「知性」になっていたり、昔の翻訳とはいろいろに変わっていて、ちょっと戸惑ってしまうかもしれない。
    岩波文庫では全3巻に収まっていた『純粋理性批判』が光文社古典新訳文庫ではいきなり全7巻になってしまったのは、活字が大きいのと、各巻に1冊の3分の1強くらいの分量の「解説」を入れたからだ。
    この「解説」は、きっと初心者用に、カントの言説をやさしくかみ砕いて説明してくれているのだろう、と予想していたが、まるでそういうものではなかった。
    カントの本文には書かれていない背景や、他の哲学者との比較など、むしろ「知識を拡大するための解説」になっている。
    本巻(超越論的な感性論)あたりはカントの本文も難しくなく、むしろ先を読みたい気持ちが強くて、この「解説」は余計なものに感じた。
    大昔に読んだカント、なぜ「アプリオリとアポステリオリなんていう区別にこだわるんだろう」とかつて首をかしげたものだが、今回読み直してみて、確かにその疑問(「経験」なるものをキーワードにして人間の知的認識をふたつに分離しようという設定の不思議さ)は残らないわけではないが、このようにして厳密な哲学を、この時代にいきなり登場させたカントは、やはり抜群の存在だと思った。
    さて続きをどんどん読もう・・・

  • 人間は事物をありのままの姿で認識できない。自分の五感を信じるな。事物の本質は分からないのに、分かると考えるから心の平静が乱される。あらゆる物事の判断を控えるように。ピュロン

    あらゆる知識は「たぶんそう」なのであり、絶対確実なものはない。自分は間違えるかもしれないという謙虚な姿勢と生活をより良いものにする改善の精神が大切。ヒュームHume『人間本性論』1739

    人間はすべてを認識できない。人間を離れた世界、経験を越えた世界(死後に霊魂は残るか・神の存在)については認識できない。これらは認識の対象ではなく、希望や信仰の対象。人間は目や耳などの感覚を使って経験できる範囲の世界(現象)のみ認識できる。▼私たちが外にあるものを認識すれば、それがまさしく私たちの主観や意識から独立してそこにあるもの、というわけではない。人間は五感で対象をとらえた後に、その対象を分析・判断している。事物を受動的に受け取るわけではない。自分の主観の枠組みに対象を当てはめて理解している。感覚的な印象に思考の枠組みを当てはめている。主観が先にあり、それに経験したことを当てはめている。カントKant『純粋理性批判』 1781

  • この本は色々な2つのことが対比して述べられている。アプリオリ(経験から独立)とアポステリオリ、分析的と総合的、空間と時間、知性と理性、必然性と普遍性、それらの違いは何かを抽象的に考えさせられる。そもそも本書は哲学書だからだ。先天的、超越論的、誤謬、デカルト、ライプニッツ、実在性とは何かを深く考えていかないといけないと感じた。

  • 2022/06/24解説部分読了(復習のため)
    私にもカントの思考の馬が駆ける様子が見えるようになるだろうか。

    p286
    必然的な認識
    普遍的な認識→アプリオリな認識
    それ以外→経験的な認識
    p319
    感覚の2通り→「アスペクト」(見ている位置)の違い
    現象=素材+形式
    感性=素材+形式
    p324
    物体を直観←空間
    心・意識←時間
    p339
    すべての事物は空間と時間のもとで考察されるという公理→実在的、経験的判断の条件を含む
    p354
    絶対的な方位=東西南北
    相対的な方位=右左
    方位が意味を持つ→人が身体(幅、奥行=空間)を持つから
    p359
    概念→全体から部分を取り出す
    直観→全体を見渡す←空間と時間がないとできない
    p361
    知性による直観→推論、時間がかかる=概念→判断
    感性による直観→一挙に、ありありと
    p368
    カントの「観念的」
    人が物自体を「現象として認識するための条件」

    空間→感性の主観的な条件
    時間→直観の"成立するため"の主観的な条件
    p375
    主体の大きな逆説(矛盾)
    外部の対象

    自己の内部の変化を知覚
    自己を認識

    内的な直観の形式の「時間」

    外部の対象を認識
    p384
    幾何学、自然科学が人間にとって真理として通用する

    人間がそもそも物自体を認識しないから
    p385
    時間>空間
    p388
    人々と共有する外の時間→客観的な妥当性
    ×
    内的知覚の時間→現象の条件
    2つの時間は両立する
    p391
    自己統合の意識
    "庭の樹木を眺めている自分"へ向かう意識

    自分の内部自体に意識はない
    自らのフィルターを通して直感する
    その点は外の現象と同じ
    p402
    水中の棒が曲がって見える→真実
    棒が曲がっている→間違い
    >上記は両立できる→超越論的な錯覚

    2021/12挑戦開始
    とりあえず寝るのに使えそうなのでトライ。
    これで薬なしで寝られるようになったらラッキー。
    寝られなくても読めたらそれはそれでラッキー。
    というくらいのノリで読むことにした。
    哲学の知識はほぼゼロ。

    2021/12/24とりあえず読了。
    解説は全てすっ飛ばしたけど、全部読み終えられた。
    読み終えられるとは思わなかった。
    久しぶりに新しい感覚とたくさん出会えそうな予感があって、ワクワクする作品。
    早く2巻読みたいと思ってる自分にビックリ。

    以下、なんだか分からんなりに読み取れたことを取り止めもなくメモしたもの。

    2021/12/16
    ○序論

    経験から分かることと経験しなくても分かることを分けよう。
    経験しなくても分かることって本当にあるのかな?

    あることを分解する分析とそこに新たなものを付け加える総合を分けよう。
    分析はそこにものがあると分かればすぐできる。
    でも、総合はそこにものがあるかどうかを確認することから始めなきゃね。

    経験しないで、そこにものがあるかどうかも確認しないで考え始めちゃう癖って人間にはあるよね。
    それは人間に理性があるせいだよね。

    理性って人間の中にあるものだよね。だから、それをどう扱うかを考えることは完璧にできるはず。
    その試みをしてみたいんだ。

    2021/12/17 par.30

    ○第一部

    (感性、感覚、直観という言葉が出てきた。使い分けはよく分からん。)
    経験しなくても「時間」と「空間」はなんでか知ってるよね。その2つについて、これから考えてみるよ。

    自分より外のことを経験するためには「空間」が、自分の心の中のことを感じるためには「時間」が、不可欠な要素っぽいんだよね。

    ○第一章 空間について

    まず空間はあらかじめそれがないと物が存在することや存在しないことを感じることができない。
    だから、物を感じるための土台といえる。

    外の物を感じるために、すべての人が「空間」を必要とする。
    ただし、その中で物をどう感覚するかは人それぞれ。
    また、どの物を感覚するかも人それぞれ。
    それは経験に依存してしまう。
    だが、感覚するために「空間」が必要なことは経験あるなしに関わらず、変わらない。
    だから、「空間」は「アプリオリな直観」とか「観念性がある」と表現していい。

    感性=受容性の不変の形式 par.43
    実在性=すべてのものが対象としてわたしたちに外的なものとして現れることができる 
    観念性=事物が理性によって物自体として考えられる、人間の感性の特性を考慮せず考えられる par.44

    2021/12/19
    ○第二章 時間について

    時間はすべての人の内部にある主観的なもの。
    そのイメージは連続する直線。

    時間という土台がなしに、人は自分の中で想像することはできない。
    また、時間の土台なしに外のものを認識できるなら、時間はないとも言えるけど、それを無視したら個別のことが考えられなくなっちゃう。

    例えば、変化は時間の経過の中で何かに起こるけど、時間それ自体が変化することはない。
    par.58

    2021/12/20
    時間と空間はすべての経験するために必要な条件。
    経験からは主観的な現象を直感して、多くのアプリオリな形式を導くことができる。
    でも、それはあくまでも現象の形式であって、物自体を知ることとは違う。
    par.66

    物事を直感するために時間と空間が先にわたしたちの中にある。
    ある物を直感した時、それは現象として、わたしたちの心の中に現れる。
    その現象はわたしたちの主観の特性以上の現れ方をしない。
    par.73

    物自体をわたしたちは素手でつかむことはできない。
    わたしたちがつかむ時、個々が持ってる手袋越しにしか物を触ることができない。
    そして、みんなが共通してはめてる手袋は時間と空間だ。
    この2つの手袋は物をさわる上で、絶対にあるってしないとこの世界がみんなフィクションになっちゃう。
    みたいなことを言ってる気がする。

    2021/12/24
    ○序文(第二版)
    論理学とは思考の形式だけを扱う学。

    論理学には2つの形式がある。
    概念に言葉を与えて、規定する形式。(幾何学)
    仮説を立てて、実験で確認する形式。(自然科学)

    この本では、形而上学にも論理学の方法を取り入れ、理性を「批判」する試みをする。
    一見、自由な発想を制限するように思えるかもしれないけど、その制限があることで逆にはっきり分かることが増えると思う。(コペルニクス的発想)

    現象と物自体の区別について。
    「人間の意志の自由」を例に挙げる。
    命に限りがあるという自然の法則の中では意志は自由でない。(現象)
    どのように生きるか選べるという点では意志は自由である。(物自体)
    この2つは同時に存在できる。
    par.XXVⅢ

    「私が存在する」ことは、私の内側から自分の存在を感覚する力と私の外側にある持続的に存在している何かを経験する力が結びついているから分かる。
    par.XLI

    ○補遺 序文(初版)

    この本では「知性」について規定した。
    それについては
    第一篇 概念の分析論
    第二章 純粋な知性概念の根拠づけ
    に詳しく書いていて、1番重要だからよく読んでね。
    par.AXVⅡ

    この本は考え方の「ものさし」を作るための本なのではないかしら?
    んでもって、結構たくさんの人がこのものさしが使えるって使ってるんじゃないかしら?
    だとしたら、学問する人、物事を考えたい人は読んどいた方がいい本だと思う。
    あと、この本を薦めてくれたTの自己肯定感がしっかりしてるのは、人間は全てが道半ばで、でも、前進はしてるってことを知ってるせいではないか?と思った。
    自分がどんなに中途半端な状態でも「ここは道半ばなのだ、それは全人類がそうなのだ」と分かってるのは強いと思う。

    ○序論(初版)

    この世界の起源を探るような、思索にふけることはすごく楽しいので、思索のそもそもの根拠なしでフィクションを作りがち。
    しかも、それを正してくれる経験をするのが難しいから、自分が間違ってるって気づかずに無駄な努力しがち。
    プラトンの考えてたことってまさにそれ。
    par.A005

    人間の認識は2つに大きく分けられる。
    感性と知性だ。
    この2つの根っこはたぶん一緒。
    感性によって、対象が与えられ、
    知性によって、対象が思考される。
    感性にはアプリオリな像が含まれているはず。
    対象を与えるのは感性だから、対象を思考する知性より前に、感性について考える必要がある。
    par.A016

    序文や序論は初版のほうが読みやすい印象。
    でも、先に本論の一部や第二版の序文を読んだせいかも。

  • 長い解説のおかげでなんとなく理解できた。
    アプリオリとアポステリオリ。
    アプリオリとは、その事象を経験する前から、他の経験や知識を通じて、その経験を理解していること。アポステリオリは、経験しないとわからないこと。
    時間と空間についてはアプリオリなものとして挙げられる。しかし、時間や空間は生まれたときから認識しているのだろうか。これには疑問を覚えた。
    また、神の概念は避けがたいらしく、カントも持ち出してくる。神の概念を述べなければ、哲学というものは大きく違ったのではないだろうか。
    それにしても面白い本だ。理解できたとはとうてい言えないが。思考の訓練に役立つ。

  • 134-K-1
    文庫(文学以外)

  • 導入部分のみ、第2巻から本格展開。やはり難解。コメントは前回読了後。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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