うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (388ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752200

感想・レビュー・書評

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  • 面白かった・・・。

    以前に別訳で「日々の泡」のタイトルの文庫本を買ったことがありました。もう10年以上前だったか。そのときは申し訳ありませんが、何が何だか訳のせいかのめりこめず、早々に脱落。
    今回は、ほぼ盲目的に信じている光文社の新訳であることと、野崎歓氏の訳ということで再購入。読破。
    いやあ、これはすごい小説ですね。

    以下、ネタバレ。ただこの本は、ネタバレがどうこうという本じゃないですけど。
    よほどの好みを持った人以外は、むしろ情報を色々仕入れてから読んだ方が良いと思います。

    主人公はまあ、コランという青年ですね。この人はお金持ちで働く必要がない。ニコラという料理人を雇っています。友人でもある。
    他に、シックという友人がいます。この三人は男性です。
    シックの恋人が、アリーズ。ニコラの姪がイジス。そして、コランが出会い結婚するのがクロエ。この三人が女性です。みんな若くて美女です。どうやら。
    コランがクロエと出会う。恋をする。ふたりは愛し合う。結婚する。
    コランは労働者であるシックにお金をボンとあげる。コランはクロエと幸せに過ごす。
    だんだんお金がなくなってくる。困った困った。
    その上、クロエが病気になる。肺に睡蓮が生えてきてしまうのです。花が必要なんです。お金がかかります。
    コランにお金を貰ったシックは、パルトルという思想家/文化人に夢中になっていて、その人の希少本を買ったりなんだりで、やっぱり無一文になります。
    シックはお金がなくて、アリーズと別れます。もうアリーズを愛するより、パルトルが大事なんです。
    コランはクロエのために労働してぼろぼろになります。
    シックは税金未納で破滅していきます。
    クロエは病気で死にます。

    というお話ですね。

    で、この本は、普通で言うところのリアリズムじゃないんですね。
    なんていうか、サージャント・ペッパーの世界なんです(笑)。

    お金の単位から人体の構造から建物まで、全部とにかくラリっちゃってるんです。
    ぶっこわれてアッパラパーなんですね。
    なんだけど、それは無茶苦茶なだけではなくて、物語になっている。
    というのは、コランを筆頭にヒトの感情は、ものすごくわかる。切ない。
    そしてとにかく、社会的じゃないんですね。一見。その奥は社会に背を向けているけれど社会に飲み込まれていってしまうので、コレホド社会的な小説もないんですけど。
    ワケワカンナイことが、その内に読書的快感になっちゃいました。
    後半は止まりませんでした。

    解説に詳しいですが、これが書かれた時代背景とか作者のボリス・ヴィアンの生涯とか、
    パルトルがサルトルとか、その辺を知ってから読むというのもありですね。
    なんていうか、理解して解釈して読むとすると。
    ただ、そういうのじゃないのかもしれませんね。解読してもねえ。味わうなら先入観なしで読むのも、楽しいですね。

    色彩が豊かで音楽があふれて、機知と愛と憎悪と暴力と虚無と享楽が怒涛に押し寄せる快感ですね。
    村上春樹さんのシュールな小説とかありますが、あれが突き抜けるとこういう風景があるんですね。

    小説という地平線でとにかくラディカルであるということと、
    作家そのものにポップ・スター性があったということ。
    それが、ポップ・カルチャー、規制価値破壊流行とでも言うべき風俗や経済が降臨しはじめた60年代にこの本の流行を生んだことは、
    僕の生前の話ですが現代史の気分的解釈では納得がいくことです。
    言ってみれば小説界のセルジュ・ゲンズブールですね。
    たった一冊の本で、それも60年前に外国で書かれた本の翻訳で、こんなに陶酔できるというのは素敵なことですね。

    ま、それに、その非社会的というか反社会的というか刹那的というか美しい虚無というか、
    そのあたりの感じがカッコイイんですよね。
    ゴダールの映画に出てきそうな女の子がカフェで読んでるなら、「うたかたの日々」が似合うんだろうなあ、という発想が陳腐ですが(笑)。

  • 「きみは何がしたい、ぼくのクロエ?」

    存在し得ないものに名前を与えるのは神様の得意とするところだけれど、時としてそれを得手とする人間がいることに驚く。

    奔流。
    読後、凡婦は睡蓮に憧れながら、それでいて平凡さに感謝せずには居られなくなる。
    うつくしかった容れ物が空虚な穴に落ちるとき、描写されずにいた生々しい音が聞こえた。

  •  先日読んだ小川洋子さんとクラフト・エヴィング商會の共著『注文の多い注文書』中の一編のモチーフとなった小説。肺の中に睡蓮の花が咲く病気とはなんと幻想的で美しいのだろうと興味を惹かれ、早速読んだ次第。
     しかしながらいざ読んでみると、終始一貫してあまりにも不可思議で非現実的な現象がコランたちの生活を取り巻いている。だが読者として何より奇妙なのは、彼らがそれらの現象を日常のごくありふれた一部として当然のように受け入れていることにある。家の蛇口からウナギが出てきたり、スケート場で大鷲のポーズをとったスケーターがはずみで卵を産み落としたり、割れた窓硝子が当然のように再生したりと、こんな世界ではそりゃあ肺に睡蓮が咲いてもおかしくはないだろうと納得せざるをえなかった。あらゆる描写は何らかの比喩ではなく、全て字面通りの描写として思い描かなければならない。変に穿った姿勢を固持することなく、素直な気持ちでその自由な表現を受け入れる必要がある。
     そしてそのような素直な気持ちだからこそ、コランとクロエの愛をより純粋に感じ入ることができ、豊かで幸せな日々が泡沫のように消えゆく儚さに嘆息できるのではないだろうか。クロエの治療のために寝台を沢山の花で満たす一方、その花代のために経済的困窮に陥り、斜陽の陰りが色濃くなる家庭の対比があまりに痛ましい。
     

  • 私が今まで持っているのは、ハヤカワの伊東守男訳と、伊東訳にもとづく岡崎京子の作画による漫画。特に新旧訳読みくらべをしたいわけではないけれど、野崎訳はどんな感じになってるのかな?と手に取りました。

    ぱっと読んだ感じ、野崎さんの訳の登場人物は人当たりが良くて、とても品がいい。コランはシックに対しても、ニコラに対してもとてもていねいなしゃべりかたをするし。伊東訳では、コランの口調はややぞんざいに感じていたのですが、これは野崎さんのお人がらによるのもあるだろうけれど、たぶん、当時の「若者=くだけた口調」のカルチャーのとらえかたや、使用人には差をつけてしゃべる習慣が残っている(作品中では、これはコランの申し出で解消されるんだけど)こともあったんだろうなと思います。時代に合わせて言葉で「演出」が変わってくるのはアリだし。それにしても、デマレ弟はおネエ口調だったのか!

    とても読みやすいけど、その品のよさが、作品のメリハリを奪っているようにも思うところもちょっとあったような。全体的にふわふわとした物語が、言葉づかいでまた一段ふわふわとしてしまい、シックとアリーズ、コランとクロエの出会いのドキドキ感、壊れていくときの嘆きの落差が薄く感じました。そういうところは、伊東訳のほうがビビッドかもしれません。これは岡崎版『うたかた―』を読んじゃって、ビジュアルで見てしまっているからかな?とも思いますけど…個人的には、結婚式の直前、コランがクロエのことをつぶやくセリフの、ラブラブな高揚感は伊東訳優勢。ややよそよそしいともいえる、紳士的な高揚感だったら、野崎訳優勢。これは主語の扱いによって分かれるので、お好みで。

    脚注や解題がていねいで、伊東訳で「不思議な言葉づかいをするなあ」と読み飛ばしてしまったところや、人物造形の元ネタを押さえながら読めるので、そういう点ではこの野崎訳のほうが、細部を把握することができると思いました。ニコラの寄り添いかげんが絶妙だと思ったら、彼がモデルだったのねー。

    既存の訳と新訳のどちらがいい、悪いではなくて「演出・野崎歓」の『うたかた―』はとてもクリーンだと思います。キャンディカラーの美しい悲劇。☆は旧訳と変わりません。

  • なんとも珍妙な逸品。物語の筋は若者たちの恋愛と友情、そして悲劇の物語だが、表現がほぼナンセンスな表現で読み手の許容力を試される。
    うまく物語に入り込めることができれば恋愛、仕事、お金、趣味と価値観(シックの収集)などに共感出来る。
    クロエが亡くなり葬式を頼む場面以降がぶっ飛んでいる。悲しい場面のはずがかなりの可笑しみが伴う。最早悲しみに暮れるコラン目線は放棄され、貧乏人の出す葬式のパロディと化している。
    物語の冒頭から時折登場するハツカネズミと猫の会話で終わるシーンがひたすらシュール。
    なぜデュークエリントンが持ち上げられるのかと思えば、あとがきによると作者と知り合いだったんですね。

  • NHKの松尾堂で知った本。もう3年くらい前。番組の最後しか耳にせず、オススメされた方がどういう方かもしらず。
    なんの前知識もなく読み始めたので(あらすじも知らず)冒頭の幻想的な詩のような物語が進まないカンジにフランスの貴族に憧れる思想が顕れているのかと想像し、これは大人向け不思議の国のアリス的物語なのかと気持ちを固めるまで、この本のどこが良いのか途方に暮れた。

    恋に憧れた青年がドロドロした三角関係を描くわけでもなく、簡単な恋愛・・・と思いきや労働を醜いものとする示唆的な部分が出てきて物語はようやく先に読み進めるべき「何か」を感じさせる。
    恋も愛も結婚も家族も、どこの家庭にもキレイなだけでは済まされない。
    そんな中にあって、主人公は最後まで清らかなままで誰も奪い合ったり裏切ったりの恋愛劇はない。不毛な労働にあっても心が汚れたりしない。
    うん、イギリスでもアメリカでもない。フランスの文学ってこんなカンジ、

    サルトルなぞ全然未知の世界だし、読めるとも思えないけど、なんとなくわかるような気がしてくる。

    「泡」が方丈記のよどみに浮かぶうたかた・・・の一文を諳んじさせる。

  • 美しく楽しい日々が結婚式を境にどんどん転落していく。誰にもどうにもできない虚しさ。ラストのキリストとの対話、ハツカネズミがとてもとても悲しい。全てを読み終えて、まえがきに「大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。」とあってさらに悲しくなった。それはコランに美しい日々の思い出が残ったからなのか…コランが消えていい存在に落ちぶれてしまったからなのか…若さの美しさ楽しさ痛み苦しみがいつまでも尾を引く。

  • 映画を見てやるせなくなったので、救いを求めて原作を読みました。結末が変わるわけではないので救われたかどうかは微妙ですが、読んだ後と前では印象がだいぶ変わりました。原作も映画もファンタジックな世界観は同じですが、映画の方が実写として現実味が強調される分、悲惨さが増しています。
    その点文字だとシュールさや幻想の方が引き立つので、むしろシニカルな印象さえ受けました。

  • 猫町課題図書を例によって読書会当日に読了。Boris Vian の最高傑作との誉れ高い一冊で、最近はミシェル・ゴンドリー監督による映画も話題。前半のファンタジックな物語世界が徐々に陰を帯び、同じ幻想世界の雰囲気を保ったまま、しかし、破滅へと収束していく。

    コランとクロエの恋物語ばかりに注目が集まることが多いが、個人的にはシックとアリーズの破局と破滅の方が印象的。作中にもある通り、コランとアリーズが結ばれていたとしたら、この世界が狂いはじめることはなかったのだろうか。それとも、いずれにしても若さと幸せは朽ち果てる運命なのだろうか。料理人ニコラがときおり見せる不気味さが、ふわふわとした前半に苦みのアクセントを添えていて印象的だった。

    摩訶不思議な Vian の世界はふんだんなパロディと言葉遊びに満ちており、訳者の苦労はいかばかりかと思うが、野崎歓の訳文は非常に読み易く、訳注も適切。現代的な訳文をめぐって賛否両論噴出することのある光文社「古典新訳文庫」にしては大成功例。訳者による解説も良い。

  • 読む際、頭の切り替えに失敗したせいで幻惑と翻弄されてばかり。なかなか癖のある物語で私にはシュールな具合とアイロニカルな感じがややきつ過ぎた作品でした。イメージが弾ける世界にはドラッグでも軽くキメたか、とことん寝不足の頭で書いたのかな? という印象を持ち、奇妙な感触が残ります。結局、最初から最後までつかみきれないまま読み終えてしまったのですが、今はそれでよかったと思っています。だってこのお話、écume(泡ぶく)なのですから、つかめたところで消えるだけですもの。好き嫌いがはっきりと分かれる内容だと思います。

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