純粋理性批判 6 (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-7)

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  • 光文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (375ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752354

作品紹介・あらすじ

第6巻は「超越論的な弁証論」の第三章「純粋理性の理想」を扱う。ここでは神の現実存在の議論が検討され、デカルト以来の伝統的な近代哲学の神の存在証明が分類され、すべて批判される。そしてこの存在証明に基づく神学の考察と批判が展開されることになる。

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  • なんで西洋の哲学者は神の存在証明にあんなにやっきになるのかと不思議に思っていたが、、、純粋理性批判の神の存在証明批判。超越論的弁証法もようやく腑に落ちてきた。あと一巻

  • 純理6

    理性を
    統制的に使うこと
    構成的に使い、そこに実体を見てしまう過ちを犯さないこと
    を強く戒めている巻だと思った。
    同時に、〈理念〉を統制的に使うことの効能の大きさも示されていた。

    主に神学についての巻。


    以下、読書中メモ-----

    人間は無秩序に知性を使うことで自然を理解することはできない構造をしている。
    そのため、知性は無意識に秩序を仮定している。
    しかし、その秩序は仮定であり、絶対ではない。
    ここを純粋理性が制御している。
    そのおかげで、視点による秩序の違いを認めたり、仮定した秩序の過ちを正したりすることができる。
    それは人間がより真理に近づくために有用である。

    哲学と詩が1番遠くにありながら隣り合っているような位置関係に理性と感情もあるように感じた。

    カントの言う
    「構成的」は「独断的」
    「統制的」は「制限する意味で」
    と読み換えると、私は読みやすい。

    「あまねき規定性」という言葉の意味がいまいちピンと来てない。
    けど、カントはあんまり重要視してないっぽいから大丈夫かも。

    p97
    「 しかし純粋理性の理想を、究めがたいと呼ぶことはできない。……むしろ理想はたんなる理念であって、理性の自然な本性のうちに座を占めているものであり、この理性の本性のうちでこそ 〈究める〉 ことができるものである。理性の役割は、わたしたちが所有しているさまざまな概念、意見、主張について、客観的な根拠から、あるいは(こうしたものがたんなる仮象である場合には) 主観的な根拠から、説明することにあるからである。」

    p112
    神の存在の自然神学(自然科学と読み換えてもいい気がする)証明の良さとその欠陥について

    世界の外に究極的で最高の存在者を想定することを私たちは必要としている。

    「この概念は、原理の節約[すなわち原理ができるだけ簡略なものであること」を求める人間の理性の要求にも適うものである。この概念はそのうちに自己矛盾を含んでいないし、……経験のうちにおいて理性の使用を拡張するためにも役立つし、しかも経験と決定的な形で矛盾することはない。」

    「この自然神学的な証明はまた、自然の研究を活気づけ、同時にこの証明そのものが自然の研究によって生みだされたものであり、それによってつねに新たな力を獲得するのである。さらにわたしたちの観察だけではどうしても発見できなかった領域にその目的と意図を見定め、自然のうちには含まれない原理をそなえた特別な統一を導きの糸とすることで、わたしたちの自然認識を拡張してくれるのである。さらにこの自然研究によってえられた知識が、その原因に、すなわちこうした知識を獲得するためのきっかけとなった理念に逆に働きかけることで、最高の第一原因に対する信念を揺るがぬ確信にまで強めるのである。」

    p114
    「だからわたしは次のように主張したい。すなわち自然神学的な証明だけでは、最高の存在者の存在はどうしても証明できないのであり、その欠陥を補うために、つねに存在論的な証明に頼らざるをえない。そもそも自然神学的な証明は、存在論的な証明の導入に役立つものにすぎない。だから[神の存在の証明として] 可能な唯一の証明根拠は、つねに存在論的な証明だけである(思索による証明だけが行われる場合にはということだが)。人間の理性は、存在論的な証明を無視することはできないのである。」

    *カントの存在論的な神の証明
    →存在の可能性を否定しないことまでに留まる。証明は不可能。

    p150
    「知性は客体における多様なものを、概念によって結合するが、これと同じように理性は多様な概念を理念によって結合する。理性は知性が働くことができるように、ある種の〈集合的な〉統一を作りだすことを目的とする。」

    p174
    理性が知性に用意している原理
    類→同質性(統一性)
    種→種化(多様性)
    体系の統一→形式の連続性(親和性)

    p182
    上記を経験的に使用する場合の順序
    1. 多様性
    2. 親和性
    3. 統一性

    p189
    主観的な原理の応用
    「 洞察力のある人々のあいだでも、あるいは人間の性格について、動物や植物の特性について、ときには鉱物の特性についてすら、意見が対立することがある。[たとえば人間の性格についてであれば]血統によって民族性が異なることを主張したり、 家族や人種などの遺伝的な違いが決定的であることを主張したりする人々がいる一方で、自然は遺伝的な要因からみると人間にすべて同じ素質を与えているのであって、 [人間の性格の違いは]すべて外的な偶然によるものだと主張する人々もいる。 わたしはこのような状況をみるにつけ、これらの人々はどちらも、客体がきわめて深いところに隠されているために、客体の本性を見抜いて語ることができないままでいるのであり、ほんらいは対象の特性を考慮するだけでよいのだと思わざるをえない。
    ここに示されているのは、理性の関心の二つの原理であって、片方の人々は一つの原理だけを重視し、他方の人々はもう一つの原理だけを重視しているにすぎないか、どちらもそのように装っているだけなのである。これらの原理は[最初の人々が重視している第二の原理である] 自然の多様性という主観的な原理と、[第二の人々が重視している第一の原理である] 自然の統一性という主観的な原理であって、どちらも[理性の関心として] たやすく一致させることができるものであるのに、[主観的な原理を]客観的な洞察からえられた判断とみなすために、対立を引き起こすだけではなく、さまざまな障害をもたらしているのである。そしてこの問題についての理性の対立する関心を一致させて、理性が満足することのできる手段が発見されるまでは、真理の認識は長いあいだ、遅れることになる。」

    p243
    「…このことから明らかになるのは、わたしが根底に置くことができるのは、その存在者の現実存在でも、その存在者についての知識でもなく、こうし た存在者の理念だけであるということ、そしてわたしはこの存在者から何ものも導きだすことはできず、すべてのものをこの存在者の理念だけから、そしてこうした理念にしたがった世界の事物の自然的な本性から導きだすだけだということである。」

    p244
    「純粋理性には統制的な原理しか含まれていない」

    解説-
    p264
    あまねき規定性
    「この第二節「超越論的な理想(超越論的な原型)について」においてカントは理想に関連して、「あまねき規定性」という概念を提示する。この節は理解がはなはだ困難であるために、ごく簡単なテーゼでカントがここで言いたいことを最初に要約しておこう。
    一、 すべてのものはあまねく規定されている。
    二、しかしそれは論理的な規定としてであり、実在的な規定としてではない。
    三、 あまねき規定性は理念にすぎずそれが理想として示されたのが神である。
    四、人間にはこの論理的な規定を実在的な規定として認識することができない。 人間に可能なのは対象についてのいくつかの肯定判断であり、あとは「ではない」という無限判断だけである。ライプニッツの神、 モナド、充足理由律の概念は、この論理的なあまねき規定性の思想である。
    五、理想としての神を実体化して考えるのは虚構であり、この弁証論を批判する必要がある。」

    p273
    「そして〈あまねき規定性の原則〉は、対象を「すべての可能な述語の総体」(666)と比較して、規定しようとするのである。肯定命題と否定命題は、論理的な命題である。しかし無限判断と、その背後にある〈あまねき規定性〉の原則は、超越論的で、存在論的な原則である。
    しかも対象を〈あまねく規定する〉ことができるという主張は、「ある物を完全に認識したいならば、すべての可能なものを認識しなければならない」(同)ことを意味している。ソクラテスについて「すべての可能なものを認識する」とは、どのようなことか、考えてみれば途方もないものであることがすぐに分かる。」

    自分の生に意味を求めることは、ライプニッツのモナド(すべての存在の述語はあらかじめ神によって規定されている)の考え方と似てるなぁと思った。

    p282
    「 カントはこの論証が、確実なものとは言えないことを認めている。この論証
    は「[人間という] 偶然的なものにつきものである[最高の存在者の存在を証明できないものの、実践的な根拠からそれを選択せざるをえないという] 内的な不完全性に基づくもの」(666)なのである。 しかし実践的な見地からみると、この証明には擁護すべきところがある。人間はみずからさまざまな責務を定め、みずからの行動を律する。しかしどのような素晴らしい道徳的な行動原則を定めたとしても、実際の行動を促すための「影響と推進力を与える」 (690) ものが存在しないならば、それが「行為の動機にはならない」(同)かもしれない。だからこの神の存在証明は、理論的には不十分なものであるが、実践的には、 そして一般大衆を考慮にいれた場合には、貴重なものである。 「ふつうの常識もここに導かれれば、自分にふさわしいものだと感じる」 (691)はずだからである。」

    カントは「神はいない」と言ったわけじゃなくて、「神は動機づけの理由になる」って言ってたんだな。

    p284
    神の存在証明の種類
    「 第一が経験にもっとも近いものであり、「人間の特定の経験から出発して、人間の感性界にはある特別な性質がそなわっていることに注目し、そこから原因性の法則にしたがって、世界の外部にある最高原因まで遡ってゆく方法」(692)である。これは一般的に自然神学的な証明と呼ばれる。
     第二は不確定な経験に依拠するものであり、「わたし」という個人が現実に存在することに基づいて、神の存在を証明しようとするものであり、これは宇宙論的な証明と呼ばれる。
     第三は、すべての経験を無視して、概念だけからアプリオリに「最高原因の現実存在を推論する」(同)方法であり、存在論的な証明と呼ばれる。」

    cf. p331
    神学
    >啓示
    >合理
     >>宇宙(経験)
     >>存在(概念)
    >>>上2つ「あまねき規定性」
     >>自然
      >>>自然' 「設計者」
      >>>自由 「最高善」→道徳

    p286
    相対的な善と絶対的な善
    後者を持っている人の方が他者と比較せずにいやすいはず。

    デカルト『省察』
    カントの「神」と近いことを言っている気がする。
    ただ、「自分が存在する=神は存在する」はちょっと飛躍しすぎた。

    p309
    100ターレル銀貨の例え
    「 この二つの例は、現実存在がつけ加えられても、対象の実在的な規定性が増加するわけではないこと、実在的な規定性が一つ失われても、その対象の現実存在についての概念は影響を受けないことを示している。このことから、対象の現実存在はその規定性(概念)とは別の次元のものであることは明らかである。現実存在を確認することができるのは、感性と知性による認識だけであり、「経験の統一」の領域のうちでだけ、対象の現実存在について語りうるのである。」

    p316、317
    「 第二に、第三の二律背反の考察で明らかにされたように、因果関係の連鎖は、世界の内部だけで遡られるべきであり、そこからの跳躍は禁じられているのである。「ましてやこの原則を、経験の限界を超えて拡張することはできない。というのは、この因果関係の系列の連鎖を、経験の限界を超えたところまで延長することはできない(717)のである」。
    ……
     第四に、〈あまねき規定性〉についてすでに第一節で指摘されたように、これには語理的な可能性と超越論的な可能性がある。論理的な可能性は、矛盾律が適用されるものであって、述語Aか非Aのどちらかが適用されるべきであるということである。カントは、これはほんらいの〈あまねき規定性〉ではなく、「規定可能性の原理」と名づけるべきだと指摘していた。これにたいして超越論的な可能性は、考えられるかぎりのすべての述語について、規定可能性を調べようとする。それにはそのための原理が必要であるが、これはそもそも概念的な存在者にたいしてではなく、ある時間、ある場所において、たとえば古代のアテナイのポリスに存在するソクラテスについて、その年齢、身長、性別などの規定を一つずつ定めていくための原理である。これは
    「可能的な経験の領域だけに適用される」(717)のであって、経験の場に存在することがありえない超越的な存在者である紙に適用することはできないのである。」

    カントはライプニッツ(≒デカルト、プラトンのイデア)の「あまねき規定性」を否定している…多分。

    神学のスタート地点
    存在論「神は存在する」
    宇宙論「私は存在する」
    自然神学「自然秩序は存在する」

    下から上に遡る形で証明は進んでいくが、最後の「神は存在する」だけは人間の知性、感性では捉えられない。理念として想定できるだけ。

    p318
    「 さらに存在論的な証明でも宇宙論的な証明でも、 「必然的な存在者」という概念を利用して、これを〈あまねく規定された〉もっとも実在的な存在者と結びつけ、神の存在を証明しようとしている。しかしこの必然性というカテゴリーは、そしてそれを否定する偶然性というカテゴリーは、カントがこれを第四の「様態」のカテゴリーの考察のところで明らかにしたように、対象の実在的な規定にはまったくかかわることなく、対象を認識する主体の純粋な知性概念なのである。この必然性という原則は、「客観的なものではなく、理性の主観的な原理でしかありえない」(725)のである。あ
    るものが偶然的なものに思えるのも必然的なものに思えるのも、それを観察する主体の心のうちでのことである。だから視点によっては、同じ出来事の連鎖が必然的なものにみえたり、偶然的なものにみえたりしても不思議ではないのである。」

    ああ、だから教授は
    「文法は酒呑の与太話」
    って言ったのかと合点がいった。

    p324
    神は「世界原因(736)」
    という表現、とてもしっくりくる。

    p332
    道徳神学

    「……この神の証明と神の要請には、大きな違いがある。あるものが〈存在する
    ことを証明するのは「理論的な認識」 (749)であるが、あるものが存在すべきであること〉を要請するのは「実践的な認識」(同)だからである。この要請ということは、あるものが存在するかどうかにかかわらず、存在することが「絶対に必然的なもの」(同)として定められているということである。 存在するかどうかは、偶然的な条件に左右されるが、存在すべきであると要請されることは、必然的なものとして求められているということだからだ。これはあるものが存在すべきである〉 ことを、「アプリオリに認識するような理性使用」(同)なのである。」

    p333
    「この〈べきである〉ということは、実践的な認識の特徴である。神が存在することがは証明できないとしても、実践的な認識が成立するためには 、神が存在すべきであることが必然的でアプリオリなものとして想定されているのである。しかし理論的な認識はこのような必然的でアプリオリなものではない。」

    p334
    「 ところである出来事には原因があるという原理は、自然的な認識の原理である。 認識には自然的なものと、思索に基づくものがある。自然的な認識とは、可能的な経験において与えられうる対象についての認識であり、思索に基づく認識とは、「人間がいかなる経験においても到達することのできない対象やこうした対象の概念についての理論的な認識」(751)である。」

    p335
    「これにたいして、「世界において物が現実存在することに基づいて、その原因を推論する」(753)のは、自然的な認識ではなく、 思索に基づく認識である。「なぜわたしは存在するのか」という問いは、いかなる経験によっても答えることはできない。自然的な認識は、「物そのもの(実体)について語るものではなく、存在するようになった物について語る」(同)だけだからである。わたしの存在が偶然的なものか、必然的なものか、いかなる原因をもつかということは、自然的に認識できるものではないのである。同じように、世界の外部にある原因について語ることも、思索に基づく認識である。自然を探求することによって認識できる原因の概念を、まったく経験しえない領域において適用することは、この概念を「まったく歪んだ規定のもとで使う」(同)ことにほかならない。」

    p336
    「 ただし自然神学と対比される超越論的な神学というものも、消極的には貴重な役割をはたすことができるとカントは指摘している。実践的な道徳神学では、最高の叡智体が存在することを要請するが、その要請の妥当性が明確なものであれば、超越論的な神学は、この存在者についての概念をさらに「精密に規定する」(758)という役割をはたす。これに反するさまざまな主張を、それが無神論であるか理神論であるかを問わず、排除することも「重要な課題」(同)だからである。さらに超越論的な神学は、必然性や無限性、永遠性や遍在などの理念について、神学に必要な概念を提供することもできる。こうした概念は「超越論的な神学だけが提供することができる」(759)ものなのである。」

    超越論的な神学はそのままは使えないが、存在者に関する概念を提供することができる。

    p334
    知性の認識に秩序(=理念)を与え、認識の統一を支えること
    →理性の役割

    p341
    虚焦点の例え
    凸レンズは光に当てると焦点を結ぶ。
    人間はその焦点から光が発せられていると結論したがるがそれは過ちだよね。
    という話。

    p346

    理性の三つの原理
    「 さらにカントは自然の探究において、自然の統一を模索するために理性の「三つの原理」(780)が利用されていることを指摘する。第一の原理は、「存在者を不必要に増やしてはならない」(774) という原則によって、さまざまな差異のうちに「類」としての同一性をみいだそうとする「同種性の原理」 (780)である。第二の原理は、「存在者の多様性を理由なく減らしてはならない」(777)という原則によって、さまざまな同一性のうちの差異としての「種」と「亜種」の差異をみいだそうとする「多様性の原理」 (780)である。第三の原理は、「ある種と別の種のあいだの差異を、段階的に拡大することによって、一つの種から別の種に連続的に移行することを命じる」(同)ものである。これは「連続性の原理」(同)であり、これによって亜種と種、種と類が滑らかに接続されることになる。」

    過度な統一がジェノサイドの動機な気がする。
    多様性〜同種性につながる滑らかな連続性こそ美しさのはずなのに。

    p348
    理性の図式
    「 重要なことは、こうした原理が自然に内在するものと考えてはならないことである。それは人間が自然を理解しようとするときに、適用されるべき「主観的な原理」(790)であって、自然そのものを規定するものではないのである。」

    理性の図式=理念
    →「主観的原理」、統制的
    cf.
    知性の図式
    感性の図式から得た経験をカテゴリーに結びつける
    →客観的、構成的

    p354
    理念の効能

    〈わたし〉という思考の統一をもたらす

    p355
    「 しかしこの理念をたんなる統制的な規定であると考えるならば、そこから大きな利益を引き出すことができるとカントは考える。それは心という「内的な感覚能力だけに該当するものについての説明」(807) を、「身体的な現象についての経験的な法則」(同)と混同することが防げるのであり、身体と心の結びつきについての奇妙な仮説、すなわち「霊魂[=心] の発生、破壊、輪廻」(同)などの仮説が不要となる。そして心という理念の「図式を採用する」(同)ことで、心という主体についての考察を、「唯一の原理だけを根拠」(同)として行うことができるのである。」

    p356
    自然
    自然一般の秩序の発見
    1.観察者として
    2.行動者(=第一の原因)として=自由

    p358

    「理性を経験的に使用するための指針」(799)

  • 純粋理性批判は、主に時間と空間を軸に、世界と人間の関係についての考察を続けてきたが、6巻ではいよいよ神の証明というデリケートな話題に切り込む。
    さまざまな方位から、神の存在を分析していくが、いずれもカントの理論によって矛盾が露呈する。要するに神という存在は虚構なのか。
    しかし、神は存在しなければならない、というのがカントの結論のようだ。ようだ、と書いたのは、小生はカントの結論が読み取れず、解説を読んでようやく理解したからだ。理解、というか、解説にそう書いてある、というのが正直なところだ。
    そういった難解さがあるとはいえ、カントの分析眼は鋭い。そして、時代的に、神はいない、という結論はありえないとはいえ、存在は証明できないが、存在はしなければならない、という落としどころは、かなり挑戦的だったのではないか。
    カントは純粋理性批判という一連の書物において、人間とはこの世界において、現実だと考えているものは果たして本当に現実なのか、それは意識が作り出したものであり、誰もが同じ「現実」を生きているわけではないという観点から、時間や空間は本当に継続的に存在しているのか、神はいるのか、というところまで理論を展開した。人間はみずから作り上げた虚構の中に生きているのだなあ。
    いよいよ次は最終巻となる。
    ここまで広げた理論をどのようにまとめるのか楽しみだ。

  • 神の存在についての巻。デリケートな問題を含みつつ、どのように存在するかを論じている。

  •  「超越論的な理想」で神の存在証明の不可能性を論じる第六分冊。超越論的な神学を扱う下りで、初めはカントがID(Intelligent Design)を信奉しているのかと思ったが、よく読むと絶対存在の想定が自然科学の探究のために〈実践的な〉意義を持つ、ということが語られており納得。例え理性が構築した虚構であっても道徳的理念を実践する上での実用的な意義(統制的原理)がある、とする点には目的論と自然科学の調和の必要性を謳ったカントの先見性が垣間見え、流石と思わせる。

     本分冊の神の存在証明のポイントは、存在証明の3類型、すなわち自然神学的な証明、宇宙論的な証明、存在論的な証明のうち、前2者は結局のところ存在論的証明の変形である、というところ。こうしてしまえば、「概念の存在が必ずしも実体の存在を導かない」というアクィナス以来の否定神学を適用することが可能になるからだ。

     しかしここで行われていることが単純に神の否定というわけではないことも注意すべき。「神は存在する」という理論的な認識を証明することは不可能だが、その逆もまた然りである。理神論的な道徳神学の立場に立てば、「神は存在すべきである」という実践的な要請はアプリオリに想定される原理であり、人間の生き方や世界観に指針を与えるという統制的原理として有用なのだという。これが「実践理性批判」で定立される「道徳的命法」、すなわち「己の意志の格律が常に同時に普遍的立法となるように行為せよ」の基盤になっているのだろう。

  • 134-K-6
    文庫(文学以外)

  • 第6巻は神の存在証明について。
     分析的命題と総合的命題の混同による神の存在証明の批判や、感性、知性など、これまで展開されてきた理論を駆使してこの問題に取り組まれている。
     純粋理性批判もこのあたりまで来ると、「またその話か」といった感じの議論が出てくるので、ここまで頑張って読んできた人ならまあ8割くらいは理解できるんじゃないかと思われる。
     神の現実存在を証明することはできないが、このような存在を想定することは、世界を統一的に把握するための指針となるという意味で有益である。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334752354

  • amazon に注文しました。
    (2013年7月8日)

    届きました。
    (2013年7月10日)

    読みます。
    (2013年7月12日)

    読み終えました。
    この巻は、これまでの復習です。
    (2013年7月25日)

  • 神の存在は証明できないけどいると考えてもいいよ、だってそのほうが便利だからね、みたいな感じの巻だったんですが尖ってるなあとしみじみ思いました。

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