道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-9)

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  • Amazon.co.jp ・本 (410ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752521

作品紹介・あらすじ

「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」。多くの実例をあげて道徳の原理を考察する本書は、きわめて現代的であり、いまこそ読まれるべき書である。

感想・レビュー・書評

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  • カントの名言「汝の意志の格率が〜」をこの年になって詳しく知りたくなったので読んでみた。この名言に関連する「定言命法」、「仮言命法」、「目的の国」、「自律」という高校倫理で取り上げられるカントの思想も本書で登場するので、カント哲学に興味を持った人はまず読んでみてほしい。カントの著作の中では読みやすい方と言われているが、素人にはそれなりに応える一冊だった。本文と同じくらい長い訳者による解説があるのが救い。本書を読んで『実践理性批判』まで読んでみようと思うかどうかが、カント哲学を志すか否かの別れ目になりそう。

    本書を読む前に、世界には2つの世界、我々が知覚する世界(感性界)に対して、経験や知覚を全て排した世界(叡智界)があるということは前提知識として持っておきたい。本書のテーマである道徳は叡智界側に結びつく。上の名言は法則に従うことを私たちに命ずることを示しているが、それだけでなく理性的存在者である人間は「法則を自ら作り出す」存在でもある。外からの影響を全く排した状態で、法則に従い、自ら法則を作り出すその姿は、どこか宗教的な印象を受け、常に物事の原因や理由を考えがちな現代人にとってはイメージがしづらいだろう。(法則が「〜せよ」と私たちに命ずるところもどこか宗教っぽい)

    それにしてもカントの理性というか人間への信頼はすごい。本書はカントが61歳のときに刊行されたようだが、60年も生きていれば、「人間なんて大体バカ」とか思ってしまって、このような著作は書けないのではないだろうか。

  • 事物・言動の良し悪しの判断に、
    普遍性となりうるかどうかと問うことが道徳性を備えたものであるかどうかの判断となる。

    客観的かつ長期的かつ本質的な視点をもつ重要性を、気の遠くなるようなロジカルで組み立て、この原理の正当性と有効性を論じている。

    難解な書と言われるカントの著書だが、
    岩波文庫の『永遠平和のために』と比しても少し読みやすくはあった。

    カントの超がつくほどの規則正しい生活感と、このロジカルな思考の組み立て方に、カントという人間の特質を感じて仕方がない。

  • 毎度のことながらカントの几帳面な議論の進め方に感動しつつも、厳密さにこだわるあまり、一見同じような内容の議論が延々と繰り返される、半ば宗教書のような展開には、集中力がきれそうになる。が、読み通せました。訳者による150頁以上にわたる解説も大変参考になりました。内容的には、ソクラテスやプラトンが訴えていた「善く生きる」ということを、ガチガチに理屈で固めて主張しているような感じです。

  • 哲学なんて自分とは何の関係もないし、興味もない――そう思っている方は、少なくないかもしれません。でも、次のように質問されたらどうでしょうか。

    あなたは、どう生きるべきだろうか?

    この問いは、あなた自身についての問いなのだから、あなたと無関係ではありません。自分の人生に関心がないという人も、ほとんどいないでしょう。だから、多くの人間にとってこの問いは興味深いものとなります。ところで、「どう生きるべきか」と問うことは「どう生きるのが一番よいのか」、つまり「何がよいことか」を考えることに他なりません。そして、それこそが(道徳の)哲学が扱いたい問題なのです。というわけで、上述した問いを出されたら最後、哲学は誰にとっても無関係なものではなくなってしまうのです(ああ恐ろしい)。

    さて、万が一こうした問いについて考えてみたいと思ったら、やはり哲学者たちにヒントを求めるのがよいでしょう。今回はそのなかでも、18世紀ドイツの哲学者カントによって書かれた『道徳形而上学の基礎づけ』を紹介したいと思います。本書は哲学入門のゼミなどでよく読まれるように 比較的読みやすい作品でありながら、内容としては道徳の哲学史における一つの到達点にある著作です。

    カントは、本書冒頭において「絶対的によいもの」は「よい意志」だけだと宣言します。確かに私たちは普段、様々なものを「よいもの」と捉えています。たとえば、「お金」や「勇気」といったものがそれにあたります。しかし、それらをよく活かそうとする「意志」が欠けていれば、「お金」も「勇気」も「よいもの」にはならないでしょう(たとえば人を殺す「勇気」は、よいものではない)。

    また、私たちは普段「幸せになること」を人生の目的と見なし、「幸福な人生」=「よい人生」だと考えてはいないでしょうか。しかし、カントは「幸せ」だけを目指して生き方を決定すること(意志を決めること)を批判します。というのも、「何をすれば幸せになれるか」なんて、確実に予測することはできないからです。だから、「幸せになること」をモットーにして、自分がどう生きていくかを決めることはできないとカントは断言します。

    では、何を目指した意志が「よい意志」なのか。カントが注目するのは、「人間は不幸になると分かっていながらも、正直に生きようとすることがある」という事実です。ここにカントは、私たちが生きるにあたって、幸せになることよりも優先している「よいもの」を見出すことになるのです。

    長くなってしまいましたが、この先が気になる方はぜひ本書を手にとってみて下さい。とりわけ今回紹介した中山訳は、一人でも読み通せると評判のとても分かりやすい訳になっている のでオススメです。
    (ラーニング・アドバイザー/哲学 KURIHARA )

    ▼筑波大学附属図書館の所蔵情報はこちら
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/search/book.do?bibid=1698072

  • 分かったような分からないような。
    前から知ってたような気もするし。

    人からもらえる基準に振り回されてきた私には少なくとも耳の痛い本だったと思う。

    ずっといろんな人から言われてきた
    「他人と比べて生きていると苦しいよ」
    という言葉。
    「でも、あなたたちも結局どこかで誰かと自分を比べているじゃないか」
    と私はずっと思ってきた。
    自分も同じ穴の狢なくせによく言うなぁと腹を立てていた。

    完全にそこから抜け出せている人が本当にいるのか?
    抜け出せていないから、悩んだり苦しんだりしているんじゃないのか?
    それが人間臭さってもんじゃないのか?

    もしかしたら違うのかもしれない。
    「人間臭い」奴らに足を引っ張られているのかもしれない。
    そいつらが悪の根源なのかもしれない。

    今は混乱している。

    でも、多分カントは少なくともこう言ってる気がする。
    「どう行動すればいいか自分で考えて、自分で決めなさい。
    それが自由ってもんだし、それが道徳の第一歩だよ。」

    「善い意志」ってどこに根拠があるのだろうってずっと考えていたんだけど、もしかしたら「自由」かもしれない。
    「自由」って周りの人が善い人でなければ保障されないから。
    「自由」を行使する限り、人はどうやっても「善い意志」の下、行動するしかないのかもしれない。

    >>>>以下、読書メモ

    序文
    p24 011
    実践的な理性と思弁的な理性(注 純粋理性)は同一の理性であり、ただその使用において区別する必要があるだけだからである。
    p25 013
    この〈基礎づけ〉の課題は、道徳性の最高の原理を探求し、確定することにある。
    p27 014
     分析(上昇)特殊 →普遍
     総合(下降)普遍→特殊

    第一章
    p30 015
    善い意志が欠けていて、こうした幸福の賜物がその人の心に及ぼす影響と行動のためのすべての原理を正して、一般的な目的に適ったものとしない場合には、人々は傲慢になることが多い。いくら公平で理性的な人であっても、純粋で善い意志のひとかけらもみせない人物が、安寧をずっと保ちえていることを眺めたならば、あまり気持ちのよいものではないことは、指摘するまでもないだろう。だから善い意志は、人間が幸福であるに値する存在であるためには、必要不可欠な条件のようである。
     
     道徳的な価値
     ⒈義務に「基づく」こと
     ⒉意欲
     ⒊尊敬

    P54
     尊敬とは
      わたしの意志が直接に法則に服従するという意識
      行為する主体が働いた結果
      ×法則を働かせる原因
      人格にたいするすべての尊敬はもともとは誠実さなど、
      法則にたいする尊敬

    p56 031
    わたしは自分の行動原理がまた普遍的な法則となることだけを意欲しうるという形でしか、行動してはならないのである。
    p57 032抜け目のなさと義務
     他の人が同じことををしても私は不快にならないか。

    P86
     意志とは実践理性

    第二章
    p112 067
    君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよと。
    p115 071自殺の実例ーー自分自身への完全義務←尊厳死はこれだと認められないな。
    p125 078
    行動原理とは、わたしたちが性向や心の傾きをもったままで行為することのできる主観的な原理である。これにたいして法則は、わたしたちのすべての性向、心の傾き、自然な意向がそれにしたがうことに逆らおうも、わたしたちがそれにしたがって行為することを指示されている客観的な原理なのである。
    p131 082
    動機 欲求の主観的な根拠
    動因 意欲の客観的な根拠
    p136 085
    君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも
    、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない。
    p143 091
    この第三の原理に基づいて、意志がみずから普遍的な法則を定める行為と両立できないような行動原理はすべて否認される。だから意志はたんに[他から与えられた]法則にしたがうものではなく、みずからに法則を与える立法者として、それもみずから法則の創設者として定めた法則にしたがう者とみなされねばならない。
    p154
    103 価格と尊厳
    目的の国ではすべてのものは、ある価格をもつか、ある尊厳をもつかのいずれかである。価格をもつものは、別の等価のものと取り替えることができる。これにたいしてすべての価格を超越しているもの、いかなる等価のものも認めないものは、尊厳をそなえているのである。
    p155 105←いいウソと悪いウソってないんだろうか?
    仕事における熟練と勤勉は市場価格をそなえている。機知、生き生きとした想像力、諧謔は感情価格をそなえている。これにたいして約束を守る誠実さや、本能ではなく原則に基づいている善意は、内的な価値をそなえている。自然も技芸も、こうした内的な価値を欠く場合には、それに代わりうるものを何もそなえていない。
    p158
    108 行動原理の形式>単一性
    一 普遍性を表現する形式。これによると道徳的な命法の表現方式は次のようなものになる。「普遍的な自然法則として妥当するかのような行動原理を採用せよ」。
    109 行動原理の内容>数多性
    二 その目的を表現する内容。これによると[道徳的な命法の]表現方式は次のようなものになる。「その本性からして目的である理性的な存在者は、目的そのものであるから、すべての行動原理について、その相対的で恣意的であるにすぎない目的を制限する条件として機能しなければならない」。
    110 行動原理の完全な規定>総体性
    三 こうした表現方式によってすべての行動原理が完全に規定されていること。す
    なわち「すべての行動原理は、みずからの立法行為によって、ありうる目的の国を目指し、それと調和すべきである。この目的の国は、自然の国の一つである」。
    p160 110
     しかしこの[カテゴリーの] 順序よりも好ましい進み方がある。道徳的な判断においてはつねに厳密な方法にしたがって、定言命法の普遍的な方式を基礎とするのが好ましいのである。これによると「それ自体が同時に普遍的な法則となるような行動原理にしたがって行動せよ」と表現できる。
     ただし道徳的な法則を人々に近づきやすくするためには、前記の三つの概念を順番に適用することで[道徳的]な行為を導いて、できるだけ直観に近づけることが有益だろう。
    p178 121
    このような道徳的な感覚能力の概念と完全性の概念のどちらも、道徳性の土台として道徳性を支えるには適していないものの、少なくとも道徳性を損ねることはない。もしもこの二つの原理のどちらかを選択しなければならないとしたら わたしは完全性の概念のほうを選ぶだろう。というのは完全性の概念では、この[道徳性の根拠という] 問題が、[道徳的な感情という] 感性の管轄ではなくなり、純粋理性の法廷に持ち込まれるからである。この法廷では何も判決を下すことができないとしても、それ自体で善い意志という未規定な理念がさらに詳細に規定されるまで 、この概念を損なわずに維持できるからである。

    p181 123
    その主体の本性にある衝動がそなわっていて、わたしたち自身の力によってある客体が可能となると考えられており、この衝動が主体の自然の特性にしたがって、意志に影響を及ぼすべきであるとされているのである。
    ←他の客体を「支配」することを目的としている

    p182
    124 善い意志の原理
    絶対に善い意志の原理は定言命法でなければならないのであって、すべての客体にたいしては未規定であり、ただ意欲の形式一般だけを、しかも自律という形で含むものでなければならない。

    第三章
    p186
    127 自由の積極的な概念
    ……自由は、自然法則にしたがう意志の特性ではない。しかしだからといって法則なしに働くものではない。自由は、特別な種類の不変な法則にしたがう原因性でなければならない。……
    自然の必然性は、作用原因によって働く他律であった。すべての結果は、何か別のものが作用原因を規定してそれを原因性として成立させるという法則にしたがってのみ可能だったからである。
    だとすると意志の自由とは自律であること、すなわちみずからに法則を与えるという意志の特性であるとしか考えられないではないか。しかし「意志はすべての行為において、みずから一つの法則となる」というこの命題が表現しているのは、「みずからを普遍的な法則とみなすことのできる行動原理だけにしたがって行為せよ」という原理にほかならない。しかしこれこそ定言命法の表現方式で
    あって、道徳性の原理そのものである。だから自由な意志と、道徳的な法則にしたがう意志とは同じものである。

     原因の違い
     理性
      持たないもの 自然の必然性、他律
      持つもの ×自然法則
       意志の自由、自立
       「みずからに法則を与える」
       →普遍的な法則でなければならない
       =道徳性

    p201 ←カントのディスり
    137常識的な人物の傾向
    物事を熟慮する人であれば、自分に起こりうるすべてのことについて、このような結論(注 ある活動だけについては自分は知性的な世界に属する者であると考えざるをえないこと)を下すに違いない。しかしごく一般的な知性の持ち主でも、同じように考えるだろう。こうした知性の持ち主は、感覚能力の対象であるものの背後に、つねに何か不可視のもの、みずから活動しているものが存在していると想定する傾向が強いのであ
    る。ただしこうした人はこの不可視のものをすぐにふたたび感性化して、直観の対象としようとするので、これを損なってしまう。そのため一向に賢くならないのである。
    p205 141
    わたしたちがみずからを自由な者として考えるときには、自分を知性界の一員と考えているのであり、意志の自律を認識し、その結果として道徳性を認識するということである。 そしてわたしたちがみずからを義務づけられた者として考えるときには、自分を感性界に属しながら、同時に知性界にも属する者と考えているのである。
    p216 150
    感性界に属する現象における物が、何らかの[自然]の法則に服しているということと、この同じ物が物自体としては、あるいは存在者そのものとしてはこうした [自然の]法則から独立しているということには、いかなる矛盾も含まれていないからである。
    p224 155
    関心とは、それによって理性が実践的になるもの、すなわち意志を決定する原因となるものである。
    p233 160
     理性を自然にかんして思弁的に使用すると、世界には何らかの究極の原因が存在するのは絶対に必然的であることが結論される。また理性を自由にかんして実践的に使用すると、理性的な存在者そのものの行為の法則が絶対に必然的であることが結論される。 そもそもわたしたちの理性のすべての使用の本質的な原理は、理性的な認識を推し進めて、その必然性を意識させることにあり、実際にこのような必然性が意識されないのであれば、それは理性認識とは呼べないだろう。
    p233
     ところがこの同じ理性には本質的な制限も存在する。 存在するもの、生起するもの、さらに生起すべきものについて、それを存在させ、生起させ、生起させるべき条件が根底に存在していないと、理性はそれらの必然性を洞察することができないという制限である。……その無条件的なものを理解できるような手段がない場合にも、(注 理性は)こうした無条件的で必然的なものが存在することを想定せざるをえないのである。そして理性にとっては、こうした無条件的で必然的なものの存在の想定と矛盾しない概念がみつかれば、それで十分に幸福なのである。←とみさんみたい
    p234
    ……究極の原理の根拠を示そうとはしなかったのだが、それでわたしたちが咎められる理由はないのである。そのような条件を提示したならば、それは道徳的な法則ではないことに、自由の究極の法則ではないことになるからである。だからわたしたちは道徳的な命法の実践的で無条件的な必然性を理解することはできないものの、それが理解できない理由は理解できる。人間の理性の限界まで原理を追い求める哲学にたいして、これが正当に求めることのできるすべてなのである。

    解説
    ←ペイトン『定言命法』によって書かれた部分が多いらしい
    p255
    善い意志
    善い意志は、そのものとして善であるとカントは指摘する。……善い意志とは……主体が義務であると考えることを実現することで善くあろうと意欲する意志であると考えることができるだろう。それが実際にそのような意志であるかどうかを判断するのは、その意志の主体だけである。……その行為が義務と考えるものにしたがっているかどうかを判断するのも、その主体だけである。……これはきわめて主観的な基準だと言うべきだろう。カントは善の根拠を、善とは何かという実質とかかわりなく、主体の意志のありかたという形式だけに絞ったのである。
    ←主体自身が悪者だったら?とか心配になっちゃうのは私の性格が悪いせい?

    p262
     理性のもたらす利益は、人間を過度に鋭敏にするばかりであり、無垢で、高度の快楽や喜びを知らないでいたほうが、人間はもっと幸福だっただろうというこの見方は、ルソーの『人間不平等起源論』につながる考え方であり、後にフロイトが『幻想の未来』でこのテーマをさらに発展させることになる。

    p268→正価で売る小売店の例
    ある行為が善い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも
    、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。
    ←義務≒誠実さ?

    p317
    五つの定言命法
    (一) 第一の定式——普遍的な法則の定言命法
    「君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ」(067)。
    (二) 第一の定式の派生形——普遍的な自然法則の定言命法
    「君が行為するときに依拠する行動原理が、君の意志にしたがって、普遍的な自然法則となるかのように、行為せよ」(069)。
    (三) 第二の定式——目的自体の定言命法
    「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」(085)。
    (四)第三の定式―自律の定言命法
    君は、「みずからを普遍的に立法するものとみなすことのできるような意志の行動原理にしたがって行為せよ」(094)。
    (五)第三の定式の派生形—目的の国の定言命法
    「君の採用する行動原理が、同時にすべての理性的な存在者の普遍的な法則となるように行為せよ」 (113)。
    ←第三の定式が第一、第二を合わせた定式で、『実践理性批判』に採用される。

    p333
    道徳性を判断するには二つの基準が必要
    なのである。その第一基準は「その行動原理が普遍的な法則となっても自己矛盾に陥らないこと」であり、第二基準は「その行動原理が普遍的なものとなることを意欲できること」である。

    p353
    第三定式は、行動原理が形式と内容の両面から規定されている。すなわち「すべての行動原理は、みずからの立法行為によって、ありうる目的の国を目指し、それと調和すべきである。この目的の国は、自然の国の一つである」(110) ことを命じるのである。この定式は、「立法行為によって」という規定によって第一の定式の形式的側面を示し、「自然の国の一つである」ような「ありうる目的の国を目指し」という規定によって、第二の定式の内容的な規定を統合している。そこでこの第三の定式が、究極の定式であると考えることができる。
     ここで留意する必要があるのは、この「目的の国」としての道徳的な法則の内容には、第二の定式に示されていた人間性という内容と、第一の定式に暗黙のうちに含まれていた自然の目的論的な法則という内容の両方が含まれるということである。人間の人格を目的として扱うべきであるという命令と、自然の目的に適合して、人間の素質の完全な開花を目指し、完全に道徳的な存在となるべきであるという命令の両方が含まれているのである。
    p355
    (注 自然の国という)この国は、「外部から強制されて働く原因の法則によってのみ」(113)可能となる世界…「一つの機械とみなされる」(同)世界である。

    p359
    しかし、とカントは考える。このことは残念ではあるが、そこにこそ人間の道徳性というものがあるのではないか。きわめて逆説的なことに、道徳と幸福が結びついていないからこそ、道徳の崇高性が生まれ、道徳的な行為に尊厳が生まれるのである。
    p360
    理性がすべての行為を道徳的に遂行することを命じ、これに逆らう心の傾きというものがない(ことになっている) 天使には、道徳的に行為することによって生まれる崇高性というものが生まれないことになる。道徳的な尊厳を示すことができるのは、悪を行う自由をもっている人間だけなのだ。

    p372
    理性はみずから選択して、道徳的な法則をみずからに与えるということで、みずから自由であることを証明することになる。
    p373
     このこと(注 自由の証明)をカントはほとんど直観的に明証的なものとして示していることに注目しよう。「考えることができない」という表現はそのことを雄弁に語っている。カントはみずから理性的な存在者として、自己の意識を観察することで、これが直観的に正当なものであることを確信しているのである。わたしたちもまた、自己の意識に問い掛けることで、自分には超越論的な自由も実践的な自由もあることを知っている。しかしそのことを証明することは困難である。それでもカントはここでは理論的な証明は不要だと考える。わたしたちはだれも「みずからが自由であるという理念のもとでしか行為できないような存在者」 (129n) だからだ。そこで「理論的な証明という重荷からは免除される」(同)ことになる。
     もちろんこれは証明ではない。直観的な明証性に基づいた提示である。だからカントは「意志が自由であることを想定すれば、自由の概念を分析するだけで、ただちに道徳性が確立され、その原理も定められる」(128)と語ったのである。これは自由の概念に依拠した分析的な命題なのである。
    p377
    『実践理性批判』では、この循環論を回避するために、人間の理性の自由を「理性の事実」として前提することが明確にされる。本書でも結局は同じ論法が採
    用されているのであり、直観的で明証的なものとして、人間の理性が自由であることを示していたのである。
    ←「自由」であることの証明はできないし、必要ない。自然法則に逆らってでも「せねばならない」と自分に命令するもの=自由≒自律?は自分のうちに確かにあるから。そんな感じのことを言ってる気がする。

    p384
    この「べきである」という定言命法は、アプリオリな総合命題であるが、これが実際に生まれ、そして可能となるのは、二つの意志が同じ人間のうちに重なっているからである。一つは「感性的な欲望に触発されたわたしの意志」(143)であり、もう一つは「知性界に属する純粋で、それ自体において実践的な意志」(同)である。この第二の理性の自律的な道徳的な意志が、第一の感性の他律的な欲望の意志に「べきである」という命令を下すのである。

    p391
    残された課題
     わたしたちに可能なのは、「自由の理念を何らかの類比によって実例で示すこと」(154)だけであり、もしも自由が不可能であると主張する人がいるならば、人間は現象であると同時に叡智的な主体であり、このような叡智界に属するものとしては、意志の自由が可能であることを「弁明」(同)することだけであるとカントは指摘する。
    このようにして自由の理念はふたたび説明しえないものとされ、『純粋理性批判』の結論が再確認されたのである。

    あとがき
    p408
    ただしカントは道徳 Moral (モラール
    )と人倫Sitte (ジッテ)を、概念とし
    て明確に区別していない。この区別が確立されるのはヘーゲルにおいてである。

  • 久しぶりにトライしたが、やはり辛い。。

  • めっちゃわかりやすい! カントじゃないみたい!

  •  本論でさらに詳しく考察されるが、「道徳的な法則にかなっているようにみえ」(同)る行為が、その行為者の道徳性のためではなく、たまたまその行為者にそなわっている偶然的な要因のために行われることも多いのである。たとえば友人が好きで、困っている友人を助ける人がいるとしよう。この人の行為は、友人にたいする愛情の表現であり、好意の表現であり、善いことである。しかしこの行為は、その人の友人を愛する「心の傾き」によって行われたものである。たしかに困っている人を助けると言う道徳的な法則に適っている行為ではあるが、「道徳的な法則のために」(同)、道徳的な法則に基づいて行われた行為ではないのである。
     この「道徳的な法則に適っている」行為と、「道徳的な法則に基づいて行われる」好意の違いを明確にするための基準として役立つのが、純粋な道徳的な原理であり、純粋な道徳形而上学は、この原理を確立することを目指すのである。

     カントはこの義務の概念と善い意志の結びつきを明らかにするために、正価で商品を販売する小売店の店主の実例をあげている(以下で明らかになるようにカントは本書で多くの身近な実例をあげている。これらの実例によって本書は、『実践理性批判』よりも読者の思考を刺激する力をそなえているのである)。その店主が「買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務にかなった行為である(023)。しかしこの行為が善い意志に基づいた行為、すなわち道徳的な行為であるかどうかは、すぐに明確にはならない。「義務に適った行為」には、次のような三種類の行為が考えられるからである。
     第一はこうした行為が、その人の「直接的な心の傾き」(同)のために行われる場合である。たとえば買い物にきた人が幼い子供であって、店主は子供好きだったとしよう。この店主はふつうなら、値段もわからない客には高い値段をふっかけるのだが、たまたまその客が子供だったから、正価で販売したとしよう。その場合には、店主は自分の「直接的な心の傾き」のために「義務に適った」かのようにみえる行為をしたにすぎない。いつもはその義務は守っていないのである。だからこの場合には店主のこの行為は「善い意志」から行われたものとは言えないだろう。
     第二は、その人の直接的な心の傾きからではなく、「自分の利益を重んじた」(同)ために義務に適った行為が行われる場合である。この場合には店主は、たしかに商品を正価で販売するが、それは義務によってではなく、「すべての人に定価で販売する」(同)ようにすれば、「子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができる」(同)という評判が高くなることを期待してのことなのである。この場合には、このような評判が高くなれば店は繁盛するだろうから、結局は利益になると計算して、店主は「義務に適った」行為をしたことになる。この行為もまた、善い意志に基づいたものではなかったのである。
     第三に、心の傾きからでも自己の利益のためでもなく、「義務に基づいて」(同)こうした行為が行われた場合である。店主は、客を欺くことは自分の義務に反するし、誠実であろうという意志に反するという理由から、幼い客に正価で販売したとしよう。この場合だけが、善い意志による行為と判断される。この場合にかぎって店主は「義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをした」(同)と考えることができる。これはたんに「義務に適った」行為ではなく、「義務に基づいた」行為と判断されるのである。
     このように、ある行為が良い意志による行為であるかどうかを判断するためには、その行為が直接的な心の傾きによるものでも、計算高い利己心によるものでもなく、義務に基づいたものであるかどうかを点検してみればよいことになる。

     ところで本書の序文では、この基礎づけの課題を「道徳性の最高の原理を探求し、確定すること」(013)にあると定めていた。定言命法の最終的な定式化が行われた今、この課題がいよいよ表現される段階に到達した。
     カントは自分の義務を忠実に遂行する人には「崇高で尊厳がある」(114)と感じることを指摘していたが、その尊厳の由来は、たんにその人が道徳的な法則に適って行動するところからは生まれない。わたしたちは道徳的な法則に適って行動するだけではなく、道徳的な法則に基づいて行動する人、しかもその法則を外的な強制とみなすのではなく、みずから法則を定める人、そして「それがゆえに法則に服従している」(同)人に、尊厳を感じるのである。
     だからここで真の意味での道徳性をつくりだしているのは、たんに道徳的な法則に服従するという側面ではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由に作り出し、それに服従するありかたなのである。カントはこの意志の自由を「自律」(095)と呼んだのだった。

  • 大先生

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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