実践理性批判 (1) (光文社古典新訳文庫 Bカ 1-10)

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  • Amazon.co.jp ・本 (362ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334752699

感想・レビュー・書評

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  • なにかするときにどうしてそうするのか。どのようなしくみによってそうすることを判断するのか。簡単に言えばそんなことが書いてある本です。
    行動原理は経験主義に非ず道徳によるということを言っておられます。
    最初何言ってんのと思うようなことも1ミリも疑問を残さず解消してくれるのがすごいです。純理を読んでいればそんなに難しさは感じないけれど、必ず純理を読んでから読みましょう。
    ていうかカント読んでから「哲学」にくくられる分野の読物をカント以外読めなくなってしまった。咀嚼に時間がかかるようになっているというか、思考の道を放置しすぎてて荒れ地になっちゃってる感じがしないでもない。それが唯一の害。しかしその他何かほかのものを読んでいる時なんかにリンクする思想に彩られた一文を見つけると心が躍る。子供にしか哲学をできないという永井均さんの言葉に賛成しますが、哲学の読物は面白いです。2巻に続く。

  • 《目次》

    序論 実践理性批判の理念について

    第一部 純粋実践理性の原理論
    第一編 純粋実践理性の分析論
    第一章 純粋実践理性の原則について
    第一節 定義
      注解
    第二節 定理 一
    第三節 定理 二
      系
      注解 一
      注解 二
    第四節 定理 三
      注解 一
    第五節 課題 一
    第六節 課題 二
      注解
    第七節 純粋実践理性の根本法則
      注解
      系
      注解
    第八節 定理 四
      注解 一
      注解 二
     第一項 純粋実践理性の原則の根拠づけについて
     第二項 純粋理性は、実践的な使用においては、思弁的な使用だけでは不可能な拡張を行えることについて

    第二章 純粋実践理性の対象の概念について
     純粋な実践的判断力の範型について

    解説 中山元

  • ・序
    本書は、純粋実践理性が存在することを明らかにする意図だけをもって、理性の実践的能力全体を批判する。したがって、純粋な能力によって権限を超越することはなく、実践的であることが、実在を証明する。
    この能力とともに超越論的自由も確立される。なぜなら、理性は無条件的なものを考えると二律背反に陥るので、それを避けるために自由が必要だからだ。
    →神の必然性と人間の自由
    自由とともに神、魂の不死も実在性を獲得することになる。なぜなら、自由は、道徳的法則によって自らを開示するから。われわれは、自由の可能性をアプリオリに知っている。道徳的法則の条件として。対して神と不死は、道徳的法則によって規定される、意志(理性の実践使用)の必然的な客体の条件。
    →全てが必然性で自由がなければ、道徳的な行為はできないし、自由な行為ができなければ必然的な神や不死の魂も存在しえない。
    実践と理論が結びつく。自由の想定が法則的に必要となり、これなしにはふるまいの意図が生起できない。道徳的法則こそが、自由を意識するための条件。自由がなければ道徳を見出せない意味で、自由は道徳的法則の存在根拠であり、道徳が自由の権限を想定する意味で、道徳的法則は自由の認識根拠。
    神、自由、不死は、理性の思弁ではなく、道徳的使用において基礎づけられる。
    →ウィトゲンシュタイン意味ではなく使用
    批判において、整合性が欠けていると考えられていたのは、感性を超えた思弁のカテゴリー使用に実在性を与えることを拒否するが、純粋実践理性の客体はカテゴリーに実在性を認めること。実践理性においては、カテゴリーには常にある客体が備わっている。実践理性のカテゴリーは、必然的な意志にアプリオリに含まれるか、意志の対象と結びついている。思弁的理性のカテゴリー使用とは異なる。『純粋理性批判』では、主観を含めた経験をたんに現象とみなし、その根底に物自体を想定した。そのことにより、超感性的なものは、虚構や空虚ではないことを示した。対して実践理性は、自由という原因性カテゴリーの超感性的な対象に実在性を与える。『純粋理性批判』では、主体すら内的直観において現象にすぎないとされた。
    自由は道徳的法則、自然は自然法則としてあるが、二つの原因性を結びつけるためには、人間をそれぞれ、純粋な意識の存在者と、経験的な意識の現象としてみなす必要がある。それでなければ理性は自己矛盾する。
    ヌーメノン叡智的な存在に適用されたカテゴリーの客観的な実在性は、実践的に肯定される。人間を自由の主体としてのヌーメノンとみなし、自然の主体としては経験的なフェノメノン現象とみなす。道徳性と自由の概念が規定されない限り、ヌーメノンが何かを理解できないばかりか、考えることが可能かも不明。
    純粋な思弁的理性の様々な概念と原則を、実践理性で改めて検討するのは、使用が異なるから。特に自由がなければ使用はできない。純粋実践理性の体系は、『道徳形而上学の基礎づけ』における義務の特定の定式の根拠づけを前提とする。
    生とは、欲求能力の法則に従って行動する能力。欲求能力とは、心の像の対象を現実にするための原因となることができる能力。快とは、対象あるいは行為が、生の主観的条件と一致すること。言い換えれば、対象を現実にする原因となることと、主体の力が一致すること。
    →欲求能力と生の力が一致することで快となる。
    これらは、純粋知性のカテゴリーを使った定義。
    心の能力の源泉と内容と限界を規定するのに、部分を完全に記述する分析の方法があるが、それ以外に哲学的建築術的に、心の全体の理念から部分の相互的な関係に注目する方法がある。ただし、分析があって建築術的な総合的反省ができる。
    『純粋理性批判』では、思想の表現のために新しい言葉を必要とした。本書では平易となるはず。思想に必要ない新しい言葉を無理して作るのは目立ちたい子どもにすぎない。
    表現の難解さよりも誤解を懸念する。実践理性のカテゴリーにおける様態の一つ、許されていることと許されていないことは、次のカテゴリーの義務に適うことと反することと日常言語では同じように使われる。前者は物理学的な可能性だが、後者は理性一般が現実法則に一致するかを示す。
    また、智恵と神聖さの区別。智恵はストア派における人間特性の主観的なもの。
    それから要請は、数学の完全確実な公準と異なり、純粋実践理性では実践的法則に基づいて、実践理性の目的のためだけに神・魂の不死の可能性を要請する。主体の認識の必然性に関わる。実践的な想定であり、必然的な仮説にすぎない。
    『純粋理性批判』では認識能力、『実践理性批判』では欲求能力、心の二つの能力のアプリオリな原理。
    主観的な経験から必然性を見出そうとすることは矛盾であり、それを客観的としてはいけない。それは主観と客観を結合させることであり、普遍性を前提する推論と原因を否定することになる。理性はアプリオリな認識。
    ヒュームは原因を否定し、主観的な習慣だけを想定することで、理性から神、自由、不死の判断を奪い去る。原理についての経験論を普遍的と考えるなら、数学も経験論に含まれる。ところが、経験論は空間の無限分割を認めないが、数学は議論の余地なく証明するので、二律背反に陥る。経験論は触感による感じられた必然性、合理論は視覚による洞察された必然性。普遍的な経験論は、純粋な懐疑論になる。ただしヒュームは数学が経験の確実な試金石となるとしていたので純粋な懐疑論者ではない。純粋な懐疑論は、経験ではなく、アプリオリな原理のみに経験の試金石を求める。経験は、感情だけでなく、判断からも成立することとなる。
    →普遍的な原理のみを認めようとする経験論を徹底すれば、数学と矛盾する感覚をも除くことになり、無制限な懐疑論となる。どう感じたかだけでなく、解釈によって経験が定まる。
    ・序論
    理性の理論的使用は、認識対象だけにかかわる。ここにおける理性の批判は、認識能力だけに向けられ、到達しえない対象や矛盾概念で自らを見失うということを示した。
    それに対して、理性の実践的使用においては、意志を規定する根拠だけにかかわる。意志とは、心に思い描いた像や観念=表象に対応する対象を作り出す能力。あるいは、みずからを原因として規定する能力。意欲ヴォレンが問われる限り、理性は客観的実在性を備えている。意志の規定に経験の条件が関わるかは、自由という原因性の概念による。自由は経験的には示せない。
    →経験的な行動となって外部に出た途端、全てが偶然と解釈され、自由意志かどうかはわからない。
    自由があらゆる理性的存在者に備わると証明されるなら、純粋理性は理論的だけでなく、実践的なものであることが証明される。であれば、純粋(実践)理性は存在するなら、実践理性一般の批判のみされればよい。
    →理論的理性は対象認識能力、実践的理性は意志、意欲、自らが原因となる能力、すなわち自由がかかわる。自由さえ証明できれば純粋理性が実践的であることを示せる。
    実践理性一般の批判は、理性そのものが意志の根拠だとする僭越を防ぐ。純粋理性の存在があれば、その使用は内在的であり、超越的にはならない。
    ただし、実践理性も純粋理性の認識によるから、純粋理性批判と同じように、原理論(分析論・弁証論)と方法論からなる必要がある。純粋理性とは逆に、原則から概念そして感覚へと構成される。それは、理性と意志(原因性)の関係を考察する必要があるからである。したがって順序は、原因性の原則、意志の根拠となる概念、対象・主体の感性への概念の適用、と確定すべき。
    ・第一部 純粋実践理性の原理論
    第一編 分析論 第一章 原則 第一節 定義
    実践的な原則は、意志の普遍的規定を含む命題で、主観的なものは、行動原理=格律マクシーメと呼ぶ。客観的であれば、実践的な法則と呼ぶ。純粋理性に実践的根拠があるなら、実践的法則があることになり、そうでなければたんに行動原理だ。感受的パトローギッシュに触発された意志は、行動原理と実践的原則が対立する。「侮辱されたら復讐する」という行動原理は、復讐に終わりはなく理性的存在者は滅亡し、実践的原則と一致しない。実践的原則は、主体の欲求能力に関わり、必ず従うものではない。それゆえ、なすべしという命法の形をとる客観的に妥当する規則になる。理性的存在者が原因となる条件を規定する仮言的命法か、意志だけを規定し結果を問わない定言命法であり、実践的法則となるのは後者のみ。行動原理は原則、仮言的命法は実践的準則、定言命法は実践的法則。仮言命法には、感性的偶然的条件が影響するので、必然性が欠ける。規則によってアプリオリに規定する必要があるのは意志のみ。
    ・第二節 定理一
    客体(実質)を想定する原理は経験的であり、実践的法則ではない。
    →対象
    なぜなら選択意志の根拠が対象についての観念であり、主体との関係、すなわち快だからである。対象は、アプリオリではなく、経験的とならざるをえない。快不快の原理も認識が経験的であるから同様である。
    ・第三節 定理ニ
    対象原理は、自愛すなわち幸福を目指す原理。快は、感受性、感性、感情に基づくものであり、欲求能力を規定する。生の快適さが常に伴うことを意識する状態が幸福である。自愛は、幸福を最高根拠とする。だから、実質的内容をもつ全ての原理は、同じ種類のものである。
    実質的内容をもつ実践的規則は、下級欲求能力、たんに形式的な法則が上級欲求能力。才能が育まれるといった知性的な観念でも、対象が快であれば同様に感性的欲求である。エピクロスは、徳が意志を規定することによって、人は満足を得られるとし、満足こそが徳の根拠と考えた。この満足が、粗野な感覚能力の満足と同じだということ。エピクロスは、満足の原因となる観念の起源を、身体的な認識能力の使用にあると考えていたようだ。古代ギリシア哲学は整合的であったが、現代においては矛盾する原則をつぎはぎした不誠実で空虚な連合的体系である。大衆は全てを聞きかじり、しかし全体としては何も知らず、ただ何か主張することに満足するので、つぎはぎの体系が好まれる。幸福の原理は、知性理性が使用されようとも下級欲求能力の意志の規定根拠である。対して、傾向性に関係なく、実践的規則の形式だけに基づく意志規定が上級欲求能力である。
    幸福は全存在に満足する状態で、有限な存在は欠乏しているがゆえに幸福に到達することを迫られる。何者にも依存しない浄福とは異なる。幸福の原理は、主観的な規定根拠の一般的な名称にすぎない。幸福は各人の快不快の感情に左右され、同一の主体でも欠乏の状態により変わる。つまり極めて偶然的。主観的な原理はたんに行動原理にすぎない。
    ・第四節 定理三
    実践的原理の実質は、意志の対象であり、それが意志の規定根拠である場合は、快不快の経験的な意志の規則である。あらゆる実質・対象を取り去り、普遍的法則の形式を取り出す。つまり、行動原理の形式は、普遍的法則を定めるのに適したものになる。
    (empl729誤植:適したものであるが→か)
    「預けたものの証明ができない場合、預けた人のものになる」というのが、人が誰も預けなくなる自己矛盾を生むように、傾向性は普遍的な法則の形を取れない。各人の各人の対象をもつから、客観的に一致した普遍的原理とはならない。互いの死を願う夫婦や、ミラノ所有を願うフランソワ1世・カール5世のようだ。
    ・第五節 課題一
    形式だけによって規定される意志の特性はなにか。自然法則は規定根拠が現象であるから、普遍的法則の形式は、原因性から独立した超越論的な意味での自由であり、形式における意志は自由な意志である。
    ・第六節 課題二
    自由意志を必然的に規定する法則とはなにか。感性的自然法則の傾向性を規定する実質から独立したものが自由であるので、行動原理から実質を取り除いた形式が自由意志を規定する法則である。
    自由と実践的法則はどちらが先か。直接的・経験的に自由は意識できないから、まず道徳的法則を意識する。意志が実践的法則から生じるのは、知性が理論的原則から生じるのと同じ。実践的法則に自由は従属する。道徳性が自由を教える。実践理性は、自然法則認識の思弁理性には解決しがたい問題を課す。経験的な例として、偽証しなければ死刑にすると脅された場合、偽証を拒むことも可能であることは認めるだろう。なすべきと意識するがゆえに、なしうると判断する。道徳的法則によって、自由を意識する。
    ・第七節 純粋実践理性の根本法則
    行動原理が普遍的法則にも妥当するように行動せよ。
    幾何学の実践的命題は、公準ポストゥラート[要請]、すなわち要求された場合になしうるという意志の不確定な条件のもとでの規則である。対して、純粋実践理性では、端的にすべきと無条件的に定言として、実践的でアプリオリな命題として告げる。法則の形式によって意思が規定される。主観的な形式としてのみ役立つ法則であり、同時に客観的な形式によって意志を規定する根拠となる。実践的法則についての意識を「理性の事実」と呼ぶ。★経験的な事実ではなく、純粋理性にとって独特な一つの事実。純粋理性はそれだけで実践的であり、普遍的法則を与える。それを道徳法則と呼ぶ。
    理性は、行為・意志を法則に照らして判断する。そのことが、理性が自らをアプリオリに実践的なものとみなしている根拠だ。道徳的法則は、感性的要因に触発される有限な存在者に適用される場合は、命法という形式をとる。意志は法則に対し、依存性(責務)をもち、行動(義務)を強制される。叡智的な主体=神は感性的傾向性がないので、神聖性をもつ。有限な理性的存在者ができることは、この原型に無限に近づいてゆくこと。実現できる最高の営みは、徳高くあること。ただし、それを完全なものに達すると考えるのは危険なこと。
    ・第八節 定理四
    自律は、道徳的法則の唯一の原理であり、他律は、責務と道徳性に反する。自律は、欲求の対象から独立し、選択意志を普遍的法則の形式によって規定すること。独立性は消極的な意味での自由、実践理性の自ら法則を規定することが積極的な意味での自由。
    →自然法則ではない=消極的、道徳的法則を生み出す=積極的。
    道徳法則の表現は、純粋実践理性の自律、すなわち自由にほかならない。自律こそが行動原理の形式的条件であり、この条件のもとでのみ実践的法則と一致が可能になる。欲求対象が実践的法則のうちに入り込むと、選択意志の他律が生まれ、自然法則に従属することになるが、これは純粋実践理性の原理に反することだ。
    経験的対象は、つねに主観的な条件に基づく。自らの幸福追求の原理を中心としている。他人の幸福が対象だとしても、それを欲求するのは自分である。自愛が客観的な実践法則となりうるのは、他人の幸福も含める、すなわち自愛の行動原理の制限によってである。
    理性の「声」が明瞭でなかったなら、他律の原理が道徳性を破壊してしまったことになる。その場合、哲学のみが道徳性を語りうるが、そこにおいても天の声に耳を貸さない厚かましさで理論を死守するだろう。
    →ハイデガー良心の呼び声
    自愛の原理をいくら操作しても客観性を見出すことはできない。また、自己利益獲得の卓越した能力をもっている人物は、信頼できない。道徳性と自愛の境界は明瞭かつ厳格である。
    幸福であるかどうかは、経験的な所与に基づく。各人、同一人物でも時間によって異なる。幸福の原理は、平均的に多い一般的な規則であっても、必然的な普遍的な規則ではない。道徳的法則は、理性と意志をもつ全ての人に妥当すべきであるがゆえに客観的必然的なものである。
    自愛は勧告するのに対し、道徳は命令する。自愛は世間知(多くの抜け目のない判断)を必要とするが、道徳は普通の知性であればたやすく洞察できる。自愛は例外を含みながら利益に適った実践的規則をなんとか人生の目的に適合させる必要があるが、道徳は全ての人に適用され、命じる。自愛は望ましい対象を実現するための力や身体的能力が備わっていなければならない。全ての人は自分の幸福を望まざるをえないので、幸福を命令しても無意味だ。また、自分の望む全てのことを実行できるわけではない。道徳は誰からも教わる必要はなく、全てのことを実行できる。
    ごまかしてゲームに勝った人間が自らを軽蔑するとき、道徳と幸福は別の原理であることがわかる。
    道徳的法則に反した場合は罰を受ける。罰は単なる災いだが、受けるのが当然のものとして認めなければならない。罰には正義が存在していなければならない。
    罪は罰を受けるもので正義は罰をなくすことと考えるのは、災いとしての罰がなくなり、概念として悪がなくなるので誤り。罰を神の道具と考えるのは、人間の自由がなくなるので誤り。
    人間に徳の感覚能力が備わっていると考えるのも、快不快の幸福を求める原理になるので誤り。
    道徳的法則に従うことで満足の感情がもたらされることは否定できないどころか義務であり道徳感情と呼ばれるものであるが、法則の前に感情は先立たない。それでは全てを感性が支配することになってしまう。
    形式と実質の道徳性の原理の比較。
    ①主観的(経験的)
    外的根拠…モンテーニュ教育、マンデヴィル社会的制度
    内的根拠…エピクロス自然な感情、ハチソン道徳的感情
    ②客観的(理性)
    内的根拠…ヴォルフ・ストア派完全性(各事物の超越論的あるいは事物一般の形而上学的。実践的には目的に対する才能と熟練)
    外的根拠…クルジウス・神学的道徳学者神の意志(全ての目的一般)
    まず主観的経験的なものは原理とならない。客観的完全性であっても、内的にしろ、外的にしろ、その目的が経験的実質対象を必要とするから、理性原理とはならない。したがって、ここにあるものはすべて実質を伴う原理。定言命法として、行為を義務たらしめる実践的法則として可能な原理は、純粋理性の形式的な実践的原理だけである。この原理は、人間の意志の道徳的判定と適用に役立つもの。
    ・第1項 原則の根拠づけ
    この分析論は、純粋理性がそれだけで実践的(道徳的に自律している)で、経験的なものから独立して、意志を規定することができるということを示した。道徳的意志は、自由と分かち難く結びついている。自由は力学的法則によって意識され、自由によって事物の叡智的な秩序に属する者となる。
    『純粋理性批判』においては、たんに時間と空間の直観というアプリオリな感覚能力の認識にすぎなかった分析論が、道徳的法則においては、知性界=叡智界の存在を示し、規定し、認識させる。すなわち、感性界に、超感性的な自然の形式を与える。自然は、事物が法則のもとに現存している状態だが、理性的存在者にとっては他律である。超感性的自然は、純粋理性の自律。これは道徳法則であり、感性界の自然法則を破壊せずに現存しなければならない。知性界を原型的自然ナトゥラアルケテュバ、感性界の模像を模型的自然ナトゥラエクテュバと呼ぶ。模像には意志の根拠たる知性界の理念によって生じうる結果が含まれる。なぜなら道徳法則によって自然に存し、最高善を生み出し、意志を規定し感性界に形式を与えるからだ。
    行動原理と普遍性の比較する。自殺は、自己保存の自然法則に反するので採用すべきでないのは明らか。全ての人が採用すれば自然秩序は維持できない。
    客体=ものが原因の自然法則(『純粋理性批判』認識)か、意志が原因の超感性的自然法則(『実践理性批判』意志の根拠)か。後者は純粋実践理性である。すなわち、自らの行為を普遍的法則に妥当させるだけで、原因となりうるかということ。実践的法則の要請として、自由は必然的なものである。こうして、実践理性の最高原則が、経験的原理と独立して、それだけでアプリオリに存することが解明(哲学的に分析)された。
    しかし、人間の洞察は根本的な力に到達したところで終わりを迎える。力の可能性は、恣意的に作り出したり、想定することは許されない。想定の権限を与えるのは経験だけだ。しかし実践理性は、経験的証明を代用することは禁じられている。
    →ウィトゲンシュタイン論考
    道徳法則は、理性の事実として与えられており、経験的に見出せなくともわれわれはこれをアプリオリに認識し、必然的に確実なものである。そして、道徳的原理は、自由の根拠づけにも役立つ。思弁的哲学が規定しえなかったものに客観的実在性(ただし実践的な実在性)を与える。意志の法則の形式を条件に、理性が意志を直接に規定する、理性の内在的使用という自由な原因となった。
    ・二項 理性の実践的使用における拡張
    ヒュームは、原因は異なる概念の結びつきの概念だが、アポステリオリな経験によっては結合を認識できるだけで、アプリオリな必然性は見出せない(推論できない)とした。すなわち、原因は、主観的な必然性が習慣化したものにすぎない。経験論、懐疑論。
    →ウィトゲンシュタイン論考
    盲目的な偶然がすべてを支配しているということになり、すべての理性使用が終焉してしまう。
    ヒュームは、数学を同一性の推論による分析的命題と考えていたが、数学は総合的命題である。たとえば幾何学は、異なる規定へと推論される原因と同じ推論。したがってのちにヒュームによって、数学も普遍的妥当性ではなく、期待にとどまることになった。
    このことは、理論的理性の使用、すなわち形而上学を対象とするが、『純粋理性批判』で示したように、経験の対象を物自体としてみなせばこの主張は正しい。物自体は、妥当した命題と異なる命題が必ずしも妥当しなければならないわけではない。経験できない認識があることから、原因の代わりに習慣という概念が登場した。
    だが、対象は物自体ではなく、現象にすぎない。現象であれば、異なるものの措定による結びつきは考えうる。この結びつきによってこそ経験が可能になり、認識ができる。すなわち、原因が客観的実在性だけでなく、アプリオリであることの根拠づけもできた。経験論、懐疑論を根絶できた。
    原因性を対象ではなく、経験の外部に適用したらどうなるか。そのためにカテゴリーに欠けているのは直観である。しかし、物自体に適用することは実践的目的に適している。なぜなら、原因=意志=自由は、感性的条件から独立しており、現象だけに適用されるという制約はない。したがって、知性的=叡智的存在者(叡智的原因カウサ・ヌーメノン)にも適用できる。すなわち神の存在の想定。
    ・第二章 純粋実践理性の対象
    実践理性における対象は、、意志の行為の結果であるが、物理的な可能性とは独立しており、それは善悪である。善悪と異なり、快不快は経験的なもの。快を判断の根底に置くと、快の手段を善、不快の原因を悪と呼ぶことになる。手段と意図の結びつきを判断するのが理性とすると、意志は目的(欲求を規定する根拠)の能力と定義できる。
    →ウィトゲンシュタイン意図、意志
    この考えでは、何かの目的のための善、すなわちたんなる有用なものとなってしまう。それ自体で善なるものでなければならない。ドイツ語では善グーテと幸ヴォールがあり、悪ベーゼと災ユーベルまたは不幸ヴェーがある。われわれは、あるものを善あるいは悪とみなさない限り、何も意欲しない。幸・災は、対象に対する快・不快の感情に関わる。善悪は意志にかかわる。つまり、感覚ではなく行為。
    古代ストア派は、苦痛を悪と認めなかった。たんに健康状態を低めた災いにすぎないからだ。不正による罰の苦痛ではないから、気力を下げないどころか高揚させた。
    悪は全ての人間にとって忌避の対象。感覚だけでなく理性が必要。手術は感覚的には災いであるが理性は善と判断する。人々を苦しめた人が襲われた場合、本人ですら理性では善と感じるだろう。幸せと善い行いが均衡関係にある。幸不幸は実践理性において極めて重要で、感性的本性では全てのことが幸福になれるかどうかかかる。
    人間は、感性界に属する者として、つねに何かが欠如している存在者。感性は理性に、感性の関心への配慮と、現在未来の幸福を考慮した実践的行動原理の要求をつきつける。しかし、理性は、それ自体善あるいは悪である、純粋理性の判断対象を、幸不幸の判断の最高条件とする。
    →幸不幸の上に善悪をおく。
    欲求能力を排し、意思を直接に規定し、法則に適った行為はそれ自体で善。快不快の傾向性の原理においては、間接的に、目的の手段として感性的な善(準則)であり、目的は経験的な幸である。
    実践理性批判の方法のパラドクスは、善悪が、道徳法則を前提としてはじめて現れること。仮に善が法則を規定するなら、善が意志の根拠となるが、善を判断するアプリオリな基準がないので快不快を拠り所にするほかない。しかし、意志をアプリオリに規定する法則を想定すれば、法則が善を規定することを可能にする。過去の哲学者は、快の対象によって善が規定されると錯誤したので、その対象を幸福、完全性、道徳感情、神の意志に見出そうとした。これは経験的な他律とならざるをえない。
    善悪の規定を自由のカテゴリーと呼び、『純粋理性批判』における自然のカテゴリーとは区別する。
    自由のカテゴリー表
    1量
    主観的な個人の意見、客観的な準則、アプリオリに客観的かつ主観的な法則
    2質
    作為(命令)、不作為(禁止)、例外
    3関係
    人格性、状態、他の人格の状態との相互的
    4様態
    許されている(いない)、義務に適う(反する)、完全(不完全)義務
    自由は、行為の自然的可能性のカテゴリーにかかわる。原因性は、感性界の外部、すなわち叡智的存在の自由についても考えうる。様態は、実践的原理一般から道徳性の原理への移行を示す。
    量が出発点となるのは、傾向性の行動原理すなわち準則で、最後は傾向性から独立した法則。他のカテゴリーについても同様で、解決すべき問題と順序を示している。
    ・実践的判断力の範型
    感性界での行為が実践的規則に従うかを判断するには、実践的判断力が必要。
    実践的規則は、対象の現存に関わり、行為の必然性を伴うから法則、自由の法則となる。そして、感性的自然法則に従いながら、自由法則が適用される事例を見出そうとする。道徳的善には、感性的直観に対応するものはないが、法則だけに基づいた意志規定によるいわば法則の図式があるので、自然とは独立して条件がある。自然法則において図式は純粋知性概念を感覚能力にアプリオリに示す想像力の手続きであるが、道徳法則を自然対象に適用するには知性しかない。知性が土台とするのは、判断力のための法則であり、対象において具体的に示されうる一つの自然法則の形式なので、道徳法則の範型と呼べる。
    「行為が意志と呼べるかどうか」でひとは道徳的行為かどうかを判断している。全ての人が傾向性に従い悪事をなすわけではないが、道徳的行為との比較において、自然法則を範型として利用することができる。知性は自然法則を基礎とし、原因性は自然法則に基づいて実践理性の使用を可能にする。ただし、合法則性一般の形式を叡智的な自然に適用する場合に限られる。
    叡智的対象について道徳法則を介した自由に限定する範型論は、幸福に善悪の概念を置く経験主義、感性的でない直観である象徴を図式とする神秘主義などに陥らないために役立つ。
    道徳的概念使用は、判断力の合理主義のみが適している。合理主義は、純粋理性だけで思考できる合法則性だけを感性的自然から取り出す。反対に、超感性的自然に持ち込むのは、行為によって示されるもののみである。
    経験主義は、人々の道徳性を根こそぎにするから、道徳法則と矛盾しない神秘主義より遥かに危険。人間は、道徳性によって高い価値を作り出すべきである。経験主義は傾向性を道徳性に持ち込み、人々の性向に好ましいものであるがゆえに、狂信よりも遥かに危険である。
    ・解説
    ・第1章
    カントは哲学を、存在する全てを対象とする自然哲学と、存在すべきものを対象とする道徳哲学に分けた。さらにそれぞれ純粋(理性)哲学と経験的哲学の2種類に分けた。純粋な哲学は、2つに分かれ、認識の理性の能力の予備学である批判、純粋理性の体系は形而上学という。形而上学はさらに2つに分かれ、自然形而上学と道徳形而上学に分類される。
    →純粋な=超越論的
    純粋理性批判で、誤謬推論=霊魂の不死、二律背反=意志の自由、理性の理想=神の存在の客観的実在性を批判した。しかし、道徳は実践的な自由の客観的実在性を、その行いによって証明するので、超越的かどうかの批判は不要で、純粋理性が実践的かどうかを調べるのみでよい。だが、『実践理性批判』で、実践理性にも批判が必要とカントは考えた。認識と欲求二つの能力をそれぞれ思弁的理性批判、実践的理性批判。欲求能力が、快不快に関わらず行為を支持するときは、純粋理性の提示。二つの能力を媒介する力が判断力。『判断力批判』へつながる。
    実践理性における意志は目的をもつが、目的は経験的なので、実践理性が純粋なものでありうるかの批判が必要だった。純粋理性の批判とは異なるので、理性から感性に向かう。意志が経験的なもので根拠づけられているかどうか。純粋実践理性を前提することができないので、『実践理性批判』となった。自由の分析論で、経験的でない原因性の原則を明らかにし、自由、意志を規定する根拠を確定し、主体とその感性の適用を考察する。現象にすぎない主体は、実践理性においては自らが物自体で叡智的主体。道徳法則は自由の認識根拠であり、自由は道徳法則の存在根拠。
    善あるいは快があるから道徳性があるのではなく、その逆。快は、対象や行為が生の主観的な条件と一致すること。
    経験論に普遍性必然性はなく、ヒュームのように純粋な懐疑論になる。普遍性必然性は、理性のアプリオリな認識のうちにしかない。
    ・第二章 原則論
    原則、行動原理、法則の定義、準則と命令の定義。スピノザ 『エティカ』同様、定義、定理、系、注釈というユークリッド幾何学原論の方法。思弁的理性には数学の構成的原理を利用できないが、実践理性には法則がアプリオリに規定されるので数学の方法が適用できる。
    →統整と構成、綜合と分析
    対象認識の判断が命題。理論的命題は、真偽がある客観的中立的命題。実践的命題は、禁止を含む主観的欲求が関与する命題。
    →ウィトゲンシュタイン模型、自然科学命題
    実践的命題は、準則フォアシュリフト(ある条件下の普遍的規則)、規則レーグル(目的達成の一般的指示)、原則グルンドザッツ(ある主体の意志に妥当する普遍的規定・命令)、法則ゲゼッツ(全ての理性的存在者に妥当する原則)に分けられる。アプリオリな規則が原則になるには、判断の根拠を含むことと、最高次の認識であること。
    原理プリンツィープとは、アプリオリで普遍的な命題。自然法則において原理と法則は等しい。ただし、カントは原理と原則を同じ意味で使うこともある。実践的原則は、主観的原則(行動原理)・客観的原則(実践的法則)に分かれる。
    →準則(具体的)
    <規則(一般的因果)
    <原則(個体)
    =[原理(主観的)⇔命法(命令形式の実践的法則)]
    <法則(必然的)
    カントは、命法も実践的法則と呼ぶ。命法は、仮言命法ならば-すべし(ある条件下の結果のための手段)、定言命法すべし(意志のみを規定し、行為自体が目的)、2つに分かれる。
    さらに、『道徳形而上学の基礎づけ』では、仮言命法を、可能的な善にすぎない不確定原理である熟練の技術的命法と、現実的(幸福)な善の断定的原理の抜け目のなさの命法の二つに分けている。いずれにせよ、快の感情に基づく対象の内容を要する、下級欲求能力の自愛と幸福の原理であり、実践的法則となることはできない。
    実践的法則は法則の条件、すなわちアプリオリ性、必然性、普遍性を備えなければならない。
    →理性が認識だけでなく、行為を規定する(実践的)か。自ら定めるその法則は、多様を含む内容ではなく、形式=定言命法。
    純粋実践理性=意志。人間は、自然法則の現象界だけでなく、叡智界の超越論的自由がある。偽証を命をかけても拒むことのように、誰もが「なすべき」ことを「なしうる」と判断できることが、自由意志を示している。
    『道徳形而上学〜』で道徳的認識は羅針盤に例えられている。善悪は誰でも熟知していて学問も哲学も不要、これが理性の事実。
    この道徳の原理を定式化すると、行動原理と普遍的法則(アプリオリ性・普遍性)が常に(必然性)一致するように(形式)行為せよ。道徳的良心の声の抽象化。誰でも判断できる理性の事実に基づき、行動原理が普遍的であることを望み、自らに命じる。それが道徳性。そして、純粋理性の実践的であることの証明。独立していることが消極的な意味での自由、自ら法則を定めることが積極的自由。
    →自由の二義性。解放、自律。
    伝統的道徳原理のうち、主観的外的根拠…自己愛が有益で、社会的制度で抑制すれば国が栄えるとしたマンデヴィル『蜂の寓話』
    →リバタリアン
    法学では、訴訟で事実問題と権利問題に分け、権限や権利要求の証明を根拠づけ=演繹という。
    純粋実践理性の原則=定言命法の根拠づけは、理性の事実によって不要とされたが、自由と道徳の循環論法となる可能性から改めて問われる。『道徳形而上学〜』では、人間が自由な叡智界の主体であると同時に、必然性の感性界の行為者であるという二つのアスペクトを持ち込んだが、自由を説明することは人間理性の越権となりできなかった。理性の事実によって、『純粋理性批判』で実践的自由と呼ばれた自律的な意志を規定した。人間は、感性的な動物的選択意志とは独立に、実践的自由をもっており、道徳的行為能力は、この自由に依拠している。道徳法則によって、実践的自由(感性から独立した消極的自由)が証明され、理性の事実により、超越論的自由(新しく原因となる積極的自由)が証明される。人間の自由が現実的であること、客観的実在性が証明される。そして、感性界と叡智界に二重に属すことが証明される。
    『純粋理性批判』では理性では全く解明できず、仮説でしかなかった、人間の叡智的性格を『実践理性批判』で示した。
    知性界としての自然を原型的自然、感性界としての自然を模型的自然と呼ぶ。
    →ウィトゲンシュタイン模型
    ヒュームの経験論は、帰納を否定する懐疑論で数学までも必然性を主張しえないとした。カントは人間の認識が物自体ならそのとおりだが、あくまで現象を認識するにすぎないので、原因の概念が必要であり、原因が経験の可能性の条件であるとした。自由という物自体は原因性であり、経験的認識はできないが、実践的にカテゴリー適用はできる。理性の事実、意志の自由、行動原理から客観的実在性は証明できないにしても正当化される(実践的実在性は認められる)ので、純粋理性の越権ではない。
    ・第3章
    欲求能力が必然的に欲する対象を善、忌避能力の対象を悪と呼ぶ。これらは人間の道徳的行為の結果として生まれるもので、物理的対象と異なる。全ての人間に普遍的な道徳法則に従った結果生まれるものであって、個別の快の幸福ような善の定義が先ではない。
    完全な善は、幸福と道徳が一致しなければならない。そうある理想の国が、恩寵の王国(『純粋理性批判』)。他者を害さず目的として扱う目的の国(『道徳形而上学〜』)でも、幸福を保証はしない。
    本書では、幸福が感性的存在として極めて重要であることを認め、幸福原理を準則とした。対して、理性が直接意志を規定する原理を法則とする。善悪の判断を幸福の最高の条件とすることが、恩寵の王国と目的の国の実現の使命を果たせる。道徳法則の行為の結果が善の概念を生み出す。
    自由のカテゴリー
    1量
    個人の意見-(『純粋理性批判』では)単一性
    準則-数多性
    法則-全体性
    2性質
    命令-肯定
    禁止-否定
    例外-制限性
    3関係
    人格性-実体
    状態-因果
    相互的-相互性
    4様態
    許されていること-可能性
    義務に適うこと-現実性
    完全義務-必然性
    その後、1と4が道徳哲学の土台となる。
    範型論において、道徳的行為かどうかの判断力が必要となる。『判断力批判』、特殊を普遍に包摂する規定的判断力(実践理性)と、特殊から普遍を見出す反省的判断力。認識においては図式が知性と感性を媒介していたが、実践理性においては形式的な自然法則、すなわち範型を利用できる。つまり、自然法則の欲求と比較することで道徳的行為が判断できる。誰もが図式による認識同様に、道徳的判断を下している。
    ここにおける自然法則は、物理法則ではなく合目的性の法則である。カントは、自然に目的があることを繰り返し述べ、それは恩寵の王国と目的の国であり、それを目指すのが人間の使命であるとしている。
    比較によって幸福追求だけの経験主義と、不可視の直観を前提する不自然な神秘主義を斥けうる。したがって理性だけで思考しうる合法則性を感性的自然から取り出す、判断力の合理主義が好ましい。そしてそれは超感性的自然に行為によって感性界において示しうるもののみを持ち込む。

  • 行動するか、結果を伴うかなど現象は棚に上げて、理性的な存在者(人間)たちは1つの道徳法則
    (p197解説「君がこれからやろうとしている行為が、君自身もその一部に含まれるような自然の法則にしたがって生じるとしたら、君はその行為を自分の意志によって可能となったとみなすことができるかどうか、自問してみよ」
    『道徳形而上学の基礎づけ』p127 「君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則となることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ」)
    を共有でき、それが世界の秩序を作り出していることがカントにとって、私たちにとって重要なのだと分かる本。

    読むのにとても苦労した。
    『純粋理性批判』を読んでからじゃないと読めないという意見に完全に同意する。
    『道徳形而上学の基礎づけ』も読んでおいた方が理解しやすいと思う。

    両方読んでも理解できているか分からない、
    ただ、カントはこの本で扱っている「人間の道徳性」について書くために『純理』を書いたのだろうなということは分かった。
    多分カントは感動したのだ。
    どんな人間にも通じる法則があること、それが自然秩序と同じように秩序を形作っていることに。

    「王様の命令で無実の友達を突き出さないと自分が死刑にされるけど、無実の友達を突き出すのはやだなぁ」と思う気持ちが『理性の事実(人間は生まれながらにして善悪を知っている)』と『自由(自然法則に逆らう選択ができる)』の両方の根拠になると思った。
    カントは人は道徳法則を持つから自由であり(自由の認識根拠)、自らを自由と意識するから道徳法則を尊く思う(道徳法則の存在根拠)と言っている。
    (p226 解説
    「人間が真の意味で自分を自由であると認識することができるのは道徳法則があるからであり、その意味では「道徳的な法則は自由の認識根拠」(004n)である。それでも自由が存在しなければ、道徳性がありえないこと、 「自由が存在しなければ、わたしたちのうちに道徳的な法則をみいだすことはできなかった」(同)こともまた事実であり、その意味では、「自由はたしかに道徳的な法則の存在根拠」(同)なのである。この表現方式によって、この循環論という「疑念」は完全に解消されたとカントは考えている。」)
    私は自由と道徳法則の同時性を感じていたからその部分の理解につまずいたと思う。

    以下、読書メモ
    p46 018
    「意志とは、心に思い描いた像や観念[=表象]に対応する対象を作りだす能力であるか、こうした対象を作りだすように自己を規定する能力 、すなわちみずからを原因として規定する能力である(ただし、こうした規定を行うために、意志に十分な自然な能力があるかどうかは問われない)。」

    p69 025
    「現代においては、矛盾する原則をつぎはぎしたきわめて不誠実で空虚な連合的な体系が作りだされている。というのも大衆とはすべてのことについて聞きかじりながら、しかも全体としては何も知らず 、ただどんなことにも何かを主張できることに満足を感じるため、こうした体系が好まれるからである。」
    →耳の痛いお話ですね。。。

    p86 036
    「わたしたちは、純粋に理論的な原則を意識するのとまったく同じ方法で、純粋に実践的な法則を意識することができる。すなわちわたしたちは、理性がわたしたちに原則を定める際に伴う必然性に注目し、理性がわたしたちにあらゆる経験的な条件を無視するように指示することに注目することで、道徳的な法則を意識するようになるのである。」

    p89 041 理性の事実
    「純粋な幾何学は、実践的な命題を公準 [要請]として定めている。しかしこうした命題に含まれているのは、何かをなすべしと要求された場合には、それをなすことができるという前提だけである。これは純粋幾何学の命題の中で、あるものの現実存在にかかわる命題である。この命題は意志の不確定な条件のもとでの実践的な規則なのである。
    ところがここで[純粋実践理性の] 規則が告げるのは、わたしたちが端的にある特定の仕方で行動すべきであるということである。だから [純粋実践理性の] 実践的な規則は無条件的なものであり、定言的に該当する実践的でアプリオリな命題として考えられているのである。この命題によって意志は端的にかつ直接的に、実践的な規則そのものによって(この規則がここでは法則にほかならない)、客観的に規定されるのである。ここでは純粋で、それ自体において実践的な理性が、直接に法則を定めるのである。
    だから意志は経験的な条件からは独立しており、純粋な意志として、法則のたんなる形式によって規定されていると考えられている。そして意志を規定するこの根拠が、すべての行動原理の最高の条件とみなされている。これはきわめて異例な事態であり、その他のどのような実践的な認識の領域でも、このような事態は存在しない。というのも、ある可能な普遍的な法則を定めることについてのアプリオリな思想が、たんに不確定な思想であるにもかかわらず、経験からも、なんらかの外的な意志からも、何も借りることなく、法則として無条件に命じられているからである。
    しかしこれは、ある望ましい結果をもたらすことができる行為を起こすことを求める準則のようなものではない。 準則であればこの規則はつねに自然的な条件に制約されたものとなるだろう。そうではなく、これは意志をたんにその行動原理の形式という観点からみて、 アプリオリに規定する法則なのである。 これは法則であって、しかも原則の主観的な形式としてのみ役立つ法則であり、これが同時に法則一般の客観的な形式によって意志を規定する根拠となると考えることは、決して不可能ではない。
    わたしたちはこのような根本法則についての意識を、〈理性の事実〉と呼ぶことができる。というのもこれは自由の意識など、それに先立って理性に与えられたものから無理やりに作りだすことができないからではなく(そもそも自由の意識はわたしたちに前もって与えられていないのである)、 この根本法則がそれ自身アプリオリな総合命題としてわたしたちに迫ってくるからである。この総合命題は、純粋な直観にも、経験的な直観にも依拠するものではないが、もしもわたしたちが意志の自由を前提にするならば、これは分析的な命題になることだろう。 しかし意志の自由が積極的な概念であるためには、知的直観が必要とされるが、ここではこのような直観を想定することはまったく許されないのである。
    ただしこの法則を誤解されることなしに与えられたものとみなすためにわたしたちが注意しなければならないのは、この法則が経験的な事実ではなく、純粋理性にとって独特な一つの事実であるということである。 純粋理性はこの事実によって、みずからを根源的に法則を定めるものであると告知するのである(われはかく望むがゆえに、かく命ずる)。」

    p92 043 意志の神聖さ
    「すでに述べたこの[理性の] 事実は否定することのできないものである。 [そのことを確認するには] 人間がみずからの行動が法則に適ったものかどうかについて下す判断を分析してみればよいのである。すぐに理解できるように、人間の心の傾きが間に入ってどのようなことを語るとしても、人間の理性はそれに惑わされることなくみずからを強制し、行動する際にはつねに意志の行動原理が正しいものかどうかを、純粋意志に照らして、すなわちみずからに照らして判断する。 それは理性がみずからをアプリオリに実践的なものとみなしているからである。
    ……
    しかし有限な存在者に適用される場合にはこの法則は、命法という形式をとる。 有限な存在者は理性的な存在者であって、純粋な意志をそなえていることは想定できるが、同時にさまざまな欲求と感性的な動因によって触発される存在者でもあるため、神聖な意志がそなわっていると想定できないからである 。この神聖な意志とは、道徳的な法則に矛盾するいかなる行動原理も決してうけいれることのできない意志である。
    ……
    この意志の神聖さは同時に実践的な理念であり、この理念は必然的に原型として役立つに違いない。そしてすべての有限な理性的な存在者にふさわしい唯一の営みは、この原型に無限に近づいてゆくことである。そのためにもこの理念は、すべての有限な理性的な存在者の目の前に純粋で、それゆえにみずから聖なるものと称する道徳法則を、たえず正しく掲げるのである。」

    P96 044 意志の自律と他律
    「意志の自律は、すべての道徳法則の唯一の原理であり、道徳法則に適合した義務の唯一の原理でもある。これにたいして選択意志のすべての他律は 、いかなる責務の根拠となることもなく、むしろ責務の原理と意志の道徳性に反するものである。
    ……
    この法則の独立性が、消極的な意味での自由であり、純粋な、そのものとして実践的な理性がみずから法則を定めることが、積極的な意味での自由である。だから道徳法則が表現しているのは、純粋実践理性の自律であり、すなわち自由にほかならない。自律こそがすべての行動原理の形式的な条件であり、すべての行動原理はこの自律という条件のもとでのみ、最高の実践的な法則と一致することができるのである。」

    p98 045 実質を伴う準則と実践的な法則の違い
    「だから実質を伴い、そのために経験的な条件を含む実践的な準則は、 決して実践的な法則とみなしてはならない。純粋な意志の法則は自由であるために、この意志は経験的な領域とはまったく異なる領域に入りこむのであり、この法則が表現する必然性は、自然の必然性であってはならないからであり、たんに法則一般の可能性の形式的な条件のもとでしか成立しえないからである。
    ……
    [「他人の幸福を増進せよ」というこの命題に] たんなる法則としての形式がそなわっていたために、わたしは自分の心の傾きに基づく行動原理を制限し、それに法則としての普遍性を与えることで、純粋実践理性にふさわしいものとしたのである。このようにわたしの自愛の行動原理を、他人の幸福にまで拡張せよという責務の概念が生まれることができたのは、何か外的な動機を追加することによってではなく、こうした[行動原理の]制限によってだったのである。」

    p116 056 道徳性の実質的な原理の表
    「道徳性の原理における実質を伴う実践的な規定根拠
    主観的な根拠
     外的な根拠
      教育(モンテーニュによる)
      社会的な制度(マンデヴィルによる)
     内的な根拠
      自然な感情(エピクロスによる)
      道徳的な感情(ハチソンによる)
    客観的な根拠
     内的な根拠
      完全性(ヴォルフとストア派による)
     外的な根拠
      神の意志(クルジウスや神学的な道徳学者による)」

    p117 057
    主観的=経験的 x普遍性
    客観的
     内的 人としての完全性→オ能・熟練 生活に役立つ
    外的 神という完全な存存→幸福が得られる
    根拠があるものは全て「実質を伴う」(見返りがある)→道徳法則として役立たない
    唯一の可能な原理
     純粋理性の形式的な実践原理=普遍的な法則を定めるたんなる形式のみ→心の中の「~すべきー 」のこと?
    意志を直接に規定する最高根拠

    p120 058 純粋実践理性の可能性
    「この分析論が示したのは、純粋理性は実践的でありうるということである。 純粋理性はそれだけで、すべての経験的なものから独立して、意志を規定することができるのである。このことは純粋理性が実際に実践的であるという事実、すなわち理性が道徳性の原則において自律しているという事実によって証明されていることであり、この自律によって理性は意志を行為へと規定するのである。
    またこの分析論が同時に明らかにしたのは、この事実は意志の自由の意識と分かちがたく結びついていること、それだけでなくこの自由の意識と一体のものであるということである。」

    p124 063
    感性的な自然=他律→自然法則
    超感性的な自然=自律→道徳法則+自然法則(自由によって可能になる自然の理念)
    p129 065
    (実践理性批判の課題)
    「純粋な理性は、客体の現実性という観点からみて、みずからの行動原理を法則として普遍的に妥当させるという思想だけによって、いかにして理性的な存在者の原因性を規定する根拠となりうるだろうか。」

    p132 068自由の概念
    「……自由の概念は、叡智界において実践的な法則が現実に存在することを意味するものである。 実践的な法則は意志の自由を考慮にいれた場合に初めて可能となり、しかも自由を前提とすることで必然的なものとなるからである。逆に表現すると、自由が必然的なものとなるのは、実践的な法則が実践的な要請として、必然的であるからである。」

    p134 069
    「しかし道徳法則の根拠づけでは、このような道(経験から法則へ遡る道)をたどって作業を進めることはできない。というのも道徳法則がかかわるのは、どこか別の場所から理性に与えられる対象の性質についての認識ではなく、みずからが対象の現存の根拠となることのできるような認識であるからであり、 そしてその認識によって理性的な存在者のうちで原因となることができるような理性、すなわち意志を直接に規定する能力とみなすことができる純粋な理性であるからである。」

    p136 070
    「道徳法則の客観的な実在性はどのような〈根拠づけ)によっても証明できないし、理論的な理性、思弁的な理性、経験的に支えられた理性のどのような努力によっても証明できないものなのである。」

    p138 072 道徳法則が理性に与えた恩恵
    「道徳法則はこの[自由という]原因性に積極的な規定をつけ加えて、意志の行動原理の普遍的な法則を与える形式という条件を通じて、 意志を直接に規定する理性という概念をつけ加えたのである。 理性はそれまで思弁的にふるまおうとすると、つねに理性の理念によって [理性に定められた限界を]超えてしまったのであるが、道徳法則によって理性は初めて客観的な実在性を(ただしたんに実践的な実在性を) 獲得することができるようになったのである。これは理性の超越的な使用を、内在的な使用に変化させ、理性は経験の領域で、理念によってみずから作用する [自由な] 原因となったのである。」

    p142 073
    (自由の正体)
    「理性は、感性的な存在者としての人間の[行為の]原因性(これはすでに与えられたものである)の規定根拠を、純粋な理性のうちに置くのである。(そのためにこの理性は実践理性と呼ばれるのである)。」

    p187 097 自由のカテゴリーの特徴
    「これらの[善悪の]規定を自由のカテゴリーと呼んで、[『純粋理
    性批判』で展開された] 理論的な概念としての自然のカテゴリーとは区別したい。……自然のカテゴリーはたんなる思考の形式であって、普遍的な概念によって、わたしたちに可能なあらゆる直観にたいする客体一般を、ただ無規定なままで示すにすぎない。……実践的な基本概念としての自由のカテゴリーは、こうした直観の形式ではなく、純粋な意志の形式を与えられており、これを根拠とするのであり、しかもこの形式は[感性ではなく] 理性のうちに、思考能力そのもののうちに含まれているのである。この純粋な実践理性のすべての準則においては、意志の規定だけが問題となるのであって、意志の意図を遂行する実践的な能力の自然的な条件は問われない。」

    p194 101
    「これにたいして道徳的な善は、客体という観点からは超感性的なものであり、感性的な直観のうちには、対応するものをまったくみいだすことができない。このため純粋実践理性の法則のもとでは、判断力は特別な困難に直面するように思われる。 というのも、感性界で生起する出来事としての行為、すなわち自然に属する出来事としての行為に、自由の法則を適用しなければならないからである。」
    →判断力について言及している

    p197 104 実践的な判断力の規則
    「純粋な実践理性の法則のもとでの判断力の規則は、「君がこれからやろうとしている行為が、君自身もその一部に含まれるような自然の法則にしたがって生じるとしたら、君はその行為を自分の意志によって可能となったとみなすことができるかどうか、自問してみよ」と表現することができるだろう。……
    ところが現実に誰もがよく知っているのは、その人が他人を欺くことをこっそりと自分に許すとしても、ほかの誰もが同じようにするわけではないということである。」
    →道徳法則を表す表現として、これが1番私には分かりやすかった。

    p204 106
    「経験主義は義務の代わりにまったく別のもの、すなわち人間の心の傾きとひそかに通じあっている経験的な関心を、道徳性にこっそりと持ち込むのであり、それによってすべての種類の心の傾きと通じあうのである 。こうした心の傾は、それがどのような種類のものであるにせよ、最高の実践的な原理に匹敵する威厳を与えられた場合には、人間を堕落させるものなのである。こうした心の傾きはあらゆる人の性向にとってきわめて好ましいものであるために、経験主義は狂信よりもはるかに危険なのである。多くの人は長い間、こうした狂信の状態を持続することはできないものなのだ。」

    解説
    p219
    「実践理性の批判の目的は、純粋な理性の批判ではなく、実践的な理性が純粋なものでありうるかどうか、ありうるとすればどのような条件のもとであるかということを解明することにある。」

    p226
    「人間が真の意味で自分を自由であると認識することができるのは道徳法則があるからであり、その意味では「道徳的な法則は自由の認識根拠」(004n)である。それでも自由が存在しなければ、道徳性がありえないこと、 「自由が存在しなければ、わたしたちのうちに道徳的な法則をみいだすことはできなかった」(同)こともまた事実であり、その意味では、「自由はたしかに道徳的な法則の存在根拠」(同)なのである。この表現方式によって、この循環論という「疑念」は完全に解消されたとカントは考えている。」
    →自由の存在根拠はこれ。循環論からは抜け出せてはないと思うけど、相互が支え合う構造だと理解すればいい気がする。

    p235 規則、準則、原則、法則
    命題 対象を認識するときに下す判断
    理論的な命題 客観的、真偽を問える「酒を飲むと酔う」
    実践的な命題 主観的な欲求「酒を飲むな」

    実践的な命題
    規則、原則、法則、準則
    必然性に差異

    規則 意図する結果と実現するための指示
    「夕食のときは酒を飲む」
    準則 主体の行動を普遍的に律する指示
    「食後に車の運転とするならば夕食のときも酒を飲むな」
    原則 主体の意志を普遍的に律する指示
    「酒に飲まれるな」
    法則 すべての理性的な存在者の意志を普遍的に妥当する指示
    「酒を飲んだら車を運転するな」

    p257
    「形式だけに注目して、意志を規定すると言うことは、意志の内容に規定されずに、理性がみずからに法則を定めて、意志を規定するということである。カントはこのことを「理性が純粋な理性として実践的でありうること、そのことだけによって、理性は法則を定めるものでありうる」(028) と説明する。人はみずからの行動原理を、経験的な条件に規定されるのではなく普遍的な法則とすることで、それを実践的な法則とすることができるのである。……
    ところで実質的な内容であっても、普遍的な性格をもつものがあるー幸福である。すべての人が自己の幸福を目指すからである。しかしこの内容は法則として普遍的なものとなることはできない。その人の幸福が他者の幸福と共存できないことがありうるからである。」

    p261
    「人間は同時に叡智界に属するものとみなすことができる。『純粋理性批判』では 、人間を叡智的な性格においてみるかぎり「この行為する存在者は、その行為に関してはいかなる自然の必然性からも独立しており、自由である」ことが確認されていた。この自由は超越論的な自由と呼ばれた。これは現象界の必然性の法則にしたがわず、何か新しい行為を起こすことのできる自由である。」
    →「自由」の概念の端的な説明

    p264
    {無実の友の偽証を自分の命と引き換えに断れるどうかの問題について}
    「カントもそのようなことを求めているのではない。ただ、自分がそのような偽証を、命をかけてでも拒むことができることを、誰もが頭の中で考えられるということが重要なのである。そのことを〈なすべき〉であると意識するがゆえに、そのことを〈なしうる〉と判断する」(039) ことができることが重要なのである。
    この自由な意志による選択は、誰にとってももっとも大切なものである自己愛を否定し、自分の命を否定することを選択するものである。これは恣意的な選択の自由ではない。命を捨てる選択の自由なのである。」
    「カントは、誰もがこのように、自分の命を捨てても道徳的な定言命法にしたがう自由があることを認めるだろうと考えるのであり、これによって自由の理念が現実のものであることが確証されたと考える。それを確証したのは、「なすべき」という定言命法にしたがうことが「できる」という確信である。 カントは、 「そのときその人は、道徳的な法則が存在しなければ知られないままだったはずの自由が、自分のうちにあることを認識する」(同)と語っている。 道徳的な定言命法にしたがうことで、人間は自分の意志が自由であることを認識するのである。これが「道徳的な法則は自由の認識根拠なのである」(004n)ということである。」
    →道徳法則があることで人は自分が自然法則から自由であることに気づく

    p266
    「自由の意志は、その行動原理が普遍的な法則という形式をとることを望む意志でなければならない。」

    p267
    「何が善であり、何が悪であるかは、人間であれば誰でも熟知していて、「何をなすべきかを知るには、学問も哲学も不要」だというのが、カントの信念である。」
    →「理性の事実」の簡単な言い方

    p268
    道徳性の根本法則の定式の特徴
    「君の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ」(040)
    1. 定言命法である
    2. 必然性を含む、「つねに」そうであるべし
    3. アプリオリである、経験的なものに左右されない
    4. 普遍的
    5. 形式のみを問う、行為の内容や結果を問わない

    p273
    「人間は完全に叡智的な主体ではなく、現象界に生き、普遍的でない行動原理に動かされる存在である。そのために、人間には責務と義務が発生する。 人間は「主観的な原因から生まれた願望をもつことがあり、純粋に客観的な[意識の]規定根拠に逆らうことがありうるので、道徳的な強制として、実践理性が [こうした願望に] 抵抗することが必要だからである」(043)。」
    →他人の行為を見て、それを自分がしたとするならば、自分を軽蔑しないかと考えてみるのが私にも分かりやすいかも。

    p298
    「「理性の事実」(041) という概念である。カントの論理の進め方は次のようになる。まず、実例によって、自分の命を捨ててでも道徳的な定言命法にしたがうことができること、すなわち人間が自由であることが確認された。 道徳的な法則が人間に意志の自由を認識させたのである。これは「純粋理性はそれだけで、すべての経験的なものから独立して、意志を規定することができる」(058) ということ、すなわち純粋な理性は自律した自由な理性であるということである。この「自律によって理性は意志を行為へと規定する」(同)のである。
    この事実は、人間が他者から教えられなくても道徳的な法則を意識していて、自由に行動できるという「理性の事実」として確定された。この自由は、『純粋理性批判』では実践的な自由と呼ばれていたものである。」
    →「理性の事実」の説明

    p316
    「カントはこれと関連して、「物理的な可能性」と「道徳的な可能性」の違いを提起する。一般的に人間があるものを欲求し、その欲求の目的を実現しようと行為する場合には、その目的を実現することが「物理的に可能である」(084)かどうかを判断する必要がある。しかし実践理性の場合には、その目的が実現できるかどうかという物理的な可能性の問題よりも、それを「意欲することが許されるか」(同)という問題がまず検討されるべきことになる。 」

    p328
    「人間は幸福を追求してもよいが、この追求は善悪の判断によって制限されるべきである。」

    p346
    「カントは、自分の行為が道徳的なものかどうかを判断するための「純粋な実践理性の法則のもとでの判断力の規則」 (104) として、これから自分が行う行為が、「君自身もその一部に含まれるような自然の法則にしたがって生じる」(同)ようになることを、意欲することができるかと問うことをあげている。」

    p349
    「「形式的な自然の法則」というものが、物理学のような必然的な自然の法則として、必然的に妥当するものであるだけではなく、自然が目的に適ったものであるという自然の合目的性の法則をも意味しているということである。……
    だからこの範型の背後には、たんに形式的な法則であるだけではなく、ある重要な価値判断が存在しているのである。それはその法則が形式的に適用された場合にはもはや人が生きることを望まなくなるような世界は絶対に望ましくないという判断である。世界には秩序があり、その秩序は人間が道徳的な存在であるような望ましい秩序であるべきだと考えられているのである。」
    →『永遠平和のために』につながりそうな言及だなぁ。

  • 道徳は、理性の対象ではなく形式。

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著者プロフィール

1724-1804年。ドイツの哲学者。主な著書に、本書(1795年)のほか、『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』(1788年)、『判断力批判』(1790年)ほか。

「2022年 『永遠の平和のために』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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