- Amazon.co.jp ・本 (194ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334752712
感想・レビュー・書評
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哲学書の中ではかなり読み易い部類に入るだろう。全く哲学に触れてこなかった人や中学生くらいでもこれは読めると思うし、衝撃的ながらも「確かに」と首肯してしまう内容になっている。
「読書について」とあるが、ショーペンハウアーはその冒頭で「読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ」とバッサリ断じてしまう。しかしよくよく考えると確かにその通りなのだ。読書とは他人の思考をなぞる行為でしかない。下手な自己啓発本を礼賛する行為に嫌悪感を感じるのはそれが先鋭化されているからかもしれない。
とはいえ、ショーペンハウアーは読書そのものを否定している訳ではない。他人の心の運びをなぞる行為であるからこそ、良書を読み、自身で思考する力を育めと言っている。ただこれは非常に難しく、果てしない作業だと思う。ショーペンハウアーほどの飛び抜けた才能を持つ人ならともかく、我々は良書と悪書の区別が最初からつけられるほど賢くはない。悪書を読むことで良書を知ることもあるだろう。ショーペンハウアーは現代に残る古典を読むことを良書のみに当たる方法としているが、さすがに古典だけを読むわけにもいかないしね。(あるいは古典を読み耽った後であれば現代の良書もわかるという意味かもしれないが、そこまで簡単にいくのか?と個人的には感じる)
しかしそっちの系統を読んだ訳じゃないので賛同も反駁もできないけど、いくらなんでもフィヒテとヘーゲル嫌いすぎじゃないこの人?詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私は少なからず読書信者なところがあるけど、そこに釘を刺される機会を与えてくれる本だった
知識を蓄えることは大事だけど、何より大事なのは自分の頭で考えること
それは自分の考えなのか他人の考えなのか吟味することを怠れば自分自身の核が失われてしまうだろう
✏こうして見ると、自分の頭で考える思索家と博覧強記の愛書家を、その話しぶりに接するだけで容易に見分けられるのは不思議ではない。自分の頭で考える思索家は、真剣で、直接的で根源的なものを取り扱うという特徴があり、自分の考えや表現をすべてみずから検証してゆく。これに対して博覧強記の愛書家は、なにもかも二番煎じで、使い古された概念、古物商で買い集めたがらくたにすぎず、複製品をまた複製したかのように、どんよりと色あせている。型どおりの陳腐な言い回しや、はやりの流行語から成る彼の文体は、他国の硬貨ばかり流通している小国を思わせる。すなわち自分の力ではなにも造り出せないのだ。
✏セネカが言うように「誰だって、判断するより、むしろ信じたい」(『幸福な人生について』Ⅰ、四)からだ。
✏だが真に価値があるのは、自分自身のために考えたことだけだ。思索者は第一におのずから思索するタイプ、第二に他者を指向するタイプ、この二つに分けられる。
✏第一のタイプは真の思索家だ。二重の意味で〈Selbstdenker〉、自分の頭で、自分のために考える人だ。本来の哲学者、知を愛する者だ。すなわち、かれらだけが真剣に問題と向き合っている。かれらの生きる喜びと幸せは、まさしく考えることにある。 第二のタイプはソフィスト、詭弁家だ。「~らしさ」を求め、他人の目に哲学者らしく映ることに幸福をもとめる。かれらはこれを真剣に追究している。二つのタイプのどちらに入るかは、やり方全般をみれば、ほどなく気づく。リヒテンベルクは第一のタイプの鑑であり、ヘルダーは第二のタイプに入る。
✏思想の価値を決めるのは、素材か、表現形式だ。素材とは「何について考えたのか」であり、表現形式とはどう素材に手を加えたのか、「どう考えたのか」だ。
✏したがって有名な本なら、それは素材のおかげか、表現形式のおかげか、よく区別しなければいけない。
✏しかしながら一般読者は表現形式よりも、素材にずっと多くの関心を向け、まさにそのためになかなか教養がつちかわれない。
✏何ひとつ悪とみなさない人間にとって、善もまた存在しない。
✏「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティを精確に写し出したのが文体だ。文体は、?その人の全思想の外形的特徴であり、「何を」「何について」考えていようとも、常に同じはずだ。
✏読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。 -
切れ味鋭いショーペンハウエル節。
自分の頭で考えろ、考えろ、考えろ、と何度も叱咤された感覚です。 -
これまで、なんとなく知識を付けた気になるために、たくさんの本を読んでいた。
そして、この本にたどり着き、怒られた。
多読に耽る者はカスである。と、1800年代を生きた哲学者に、200年正論パンチを喰らわされた。
辛い。 -
自分の頭で考えよう。思索しよう。
暇と富を価値あるものに活用しよう。
じぶんのあたまで考える
・思索しよう、自分の頭で考えたことは本を読んで思考を代用してもらった考えよりも素晴らしいよ。
著述と文体について
・シンプルに表現しよう!
・比喩で伝えられれば、素晴らしい!それは洞察力の証拠だbyアリストテレス
・文章の表現の基本は、一度に一つのことについて
・「何について考えたか」「どう考えたか」
読書について
・古典読もうぜ!現代の人が過去の人を紹介するのなんてハエみたいに増殖してくるからさw
・暇と富を価値あるものに活用しよう。
私が感じたこと
SEO的にシンプルに構造化するのは正しいし、現代で古典的な著述が有効されているとしたら、ありがてぇ!これは好機だ!
古典なんて、あぁ〜そうですかなるほど〜なんてならないから面白い。
だから繰り返し読んで、美味しい感じになるまで読み続けられる面白さ。 -
正論を切れ味のいい辛口でズバズバ言い続けている本書。とにかく口が悪くて驚いたけど、自分の頭で考えることの重要性や自分の考えに責任を持つことの必要性を真正面から説いていた。ドイツ人の彼がドイツ国民をひたすら悪く言うのは愛情なのだろうか。祖国の未来を憂いて言っていたのか、愛想を尽かしていたのか。どちらだろう。
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「本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。」
「読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。」
本が沢山あろうとなかろうと、自分の時間は変わらない。そして、読んだ本を消化して自分の中に落とし込むのもまた時間が必要である。読んだ本を忘れない、という人がすごいと思ってた。でも、大事なのは内容を覚えてるだけじゃなくて自分の中に取り入れること。自分の、思索体系に。
読めなくて苦労する本があっても、それは自分に間違いじゃないことがわかった。
前読んだ岡本太郎の本に「知識は積み上げるな、むしろ蹴飛ばしてしまえ」と書いてあったのはこういうことか、と思った。岡本太郎もショーペンハウアーに読みふけっていたそうだ。なんとなく、つながった。
『著述と文体について』ではドイツ語の乱れと金儲けのために物書きをする風潮を激しく批判しいる。ショーペンハウアーは言葉を非常に大切にしているのだと感じた。それゆえに考えなしに言葉を使うこと、もとより乱れた言葉を使うほど何も考えてないことを鋭く批判している。
自分の頭で考えろ。
哲学の先人に、言葉で殴られた気分になるほど目が覚める本だった。