寛容論 (古典新訳文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (343ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784334753320

感想・レビュー・書評

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  • 「考えの違う人に対して、怒ることなく、寛容でいる」。当たり前といえば当たり前だけども、私にとっても、この本が書かれた当時のフランスの人たちにとっても、実践は難しかったらしい。

    まず、本を読んで驚いたのはキリスト教の教派間で殺人や迫害が公然と行われてきた歴史があったこと。そして、その理由がまさに教派が違うからというものであったこと。本書の書かれた時代のフランスでは、カトリックがプロテスタントやユグノーといった少数派の教派を迫害していたらしい。そうした歴史を述べながら、「それに対して、筆者がそれを戒め、寛容という人徳を持つことを勧めるという流れで構成されていました。

    雑にまとめると、最初の言葉のような要約になりそうですが、今までの人生を振り返ると、当たり前のように思える正しさ(言われなくとも意識できそうな)しかないのに、どこまで実践できてきたか非常に怪しい。私自身、「自分が信じるものを、相手に強要する」という態度(カトリックが少数派教派に接したように)を取った場面がいくつもある。常識とか、当たり前とか、そういった教派に属して人を非難した覚えがある。相手と自分が同質であることを期待して、それが裏切られると強要するーそんなことが自身の内や周囲や、それを包括する集団の中でも繰り返されてきたと感じる。

    それが拡大すると、考えの違う集団に対して「考えが違うという」理由だけで攻撃できてしまうことが、本書の『カラス事件』や争いにつながることを追体験しました。

    「われわれ人間はほんのわずかな文章のために、互いに相手を抹殺してきたのである(p63)」という言葉にあった通り、互いに考えが違ってもそのこと自体を騒ぎたてるのではなく、「人間たちは、みんな、たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう(p197)」という態度で相手を尊重できる人になりたい。

    「考えの違う人を受け入れられない。では、どうするか?」という葛藤は、当時のフランスの社会に限らない、どの時代の人生の中でも現れると思います。その時、時代を超えて対立を戒めてくれる、一つの答えを先々の人へ提示してくれる素晴らしい本だと感じました。

  • 1700年代に書かれた内容を、普通に今の時代に日本語で
    読めるということがとても奇跡的に幸せなことだと
    思いました。また、やはり200~300年前から
    読み継がれているという古典のパワーというものを
    感じました。
    18世紀以前のヨーロッパ、フランスでの宗教対立から
    くる虐殺や殺戮、宗教のなのもとでの不寛容な事象が
    多く発生していころの内容で。。。
    宗教史をあまりわかっていない私にとっては、本来
    理解しがたい内容や文章になっているはずのところを
    新訳ということで、非常にわかりやすく理解しやすい
    内容で書かれてあり感動ものです。

    また200年以上も前のことなのに、今の世界や日本で
    起こっている、テロや、虐殺、ヘイトスピーチや
    国粋的な考え方、隣国や、意見の合わない人達を
    ののしりあう人々。。。
    全く変わっていない事柄について愕然とします。
    また、その不寛容を相手のせいにするような言動も
    恥ずかしく思います。

    ”あの世で幸せになるために、何が必要か。それは、
    正しくあることである。
    では、この世で、我々の貧しい本性でも望みうるかぎり
    において幸せであるためには、何が必要か。それは、
    寛容であることである。”(第21章)

  • 宗教や出自、考え方の異なる人を異なるという理由で拒絶しない、寛容であることを考えさせられる本だった。

    宗教対立が激しくなっていたこの時代で、冷静に状況を分析しているヴォルテールの姿勢には感服した。

  • 1763年ヴォルテールによって著された『寛容論』

    ある一家に起こった事件に対して憤慨し、
    その要因である宗教団体の「不寛容」な振る舞いに対して、ローマや聖書などの歴史から引用し、「寛容」でないことを弾劾した書。

    そこに日本の事柄も出てくる。
    日本人は全人類のうちでもっとも寛容な国民であると。

    そこにイエズス会の宣教師がやってきて信仰を広めるのだが、
    「島原の乱」として有名なキリスト教徒のあの大静粛は、実はこのイエズス会が自分たち以外の宗教を認めたがらないことが原因だとヴォルテールは言う。
    つまり不寛容だと。

    同様に同じロジックによって、
    ローマを題材などにして、
    寛容によってではなく、不寛容によっていずれも地上を殺戮の場と化したと説く。


    ローマはイエスを殺したではないかという反論は、
    それは実は国家ローマではなく、イエスに対して憤怒したユダヤ教の最高法院が死刑を言い渡す権利がなかったので、あれこれローマ人の地方総監のまえで理由を並べて告訴したのだ。

    ローマの不寛容ではなく、ここではユダヤ人の不寛容がことの発端であった。

    ここで、ヴォルテールは死刑を執行する側でななく、イエス・キリストに習いたいのであれば、人のために命を捨てる側になりなさいと言う。

    今回の事件を起こしたキリスト教徒プロテスタント側の不寛容に対して、プロテスタントが信ずるイエスの「寛容」を前面に打ち出して、非難している。


    カエサルやローマの代名詞でもある
    「寛容」ということについて
    考察を深める一冊。


  • 【オンライン読書会開催!】
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  • 2021.03 『世界の古典 必読の名作・傑作200冊』より
    http://naokis.doorblog.jp/archives/Koten_SatoMasaru2.html

  • 現代とは時代も状況も異なるにもかかわらず、現代にも通じる内容。
    皆が「寛容」となれるのはいつか。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784334753320

  • 数百年も前の本なのに著者の知的レベルの高さ、思考の深さ、良心に感動した。

    ただ、寛容を説くためには冗長すぎ、また悪い例(寛容ではない虐殺の事例)が延々と書かれていて辟易してしまった。

    そしてヴォルテール自身が他の宗派や民族に対して全く寛容的でない記載も多く、複雑な心境になった。

    個人的には寛容的であった方が非寛容であるよりも絶対に幸せな人生になると思うので、「寛容」であろう思う。

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著者プロフィール

1694年にパリで公証人の息子として生まれ、20歳を過ぎた頃から83歳(1778年)で没するまで、詩、韻文戯曲、散文の物語、思想書など多岐にわたる著述により、ヨーロッパ中で栄光に包まれたり、ひどく嫌われたりした文人哲学者。著書に『エディップ(オイディプス)』『哲学書簡』『寛容論』『哲学辞典』などがある。

「2016年 『カンディード』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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