法隆寺への精神史

著者 :
  • 弘文堂
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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (341ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784335550560

作品紹介・あらすじ

法隆寺は面白い説に事欠かない。ギリシャ神殿のエンタシス柱がユーラシア大陸をこえて斑鳩の地に伝播し法隆寺の丸柱になった、という古代へのロマン…。数ある法隆寺論の歴史的変化を追い、近代日本の夢の跡を復元する。

感想・レビュー・書評

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  • 本書で扱われているテーマは、法隆寺のエンタシス、それに象徴される仏教文化の源流、伝播に関するに関する諸々の学説の言説史。かなりマニアックなテーマで井上先生らしくない真面目な本(笑)ただ、言説をひとつずつ解きほぐし分析していく方法は、他のチャライ本となんら変わらない。離宮神話解体の法隆寺版。

  • つくられた桂離宮神話よりは、井上章一は少し成長している。
    自分には、審美眼がないという自虐ネタはなくなった。
    しかし、相変わらずの 「高みの見物」で、
    丁寧に、解釈して、お前は 途中で転向したろうと
    やり玉に挙げる。自分は、いつも安全地帯という手法は変わらず。
    「建築史解釈論」という新しい分野を切り開いた。
    時代における制約を常に明らかにする。
    法隆寺のテーマは、二つであり、
    ①法隆寺の柱にギリシャの影響が見られる。
    ②金堂と五重塔の配置が、日本独特の創意である。
     もう少しいうと、聖徳太子の独創性にある。
    という2点を 玉ねぎの皮をめくるように 暴いていく。
    結構、丹念で、実に オタク風なのである。
    ①は、伊東忠太が言ったが、よく考えれば、
    ジェームズファーガソンへの敵対心が強かったね。
    最初は、岡倉天心の話に影響されていたけど
    インドに行った岡倉天心の変容によって、ギリシャの影響って
    おかしいかもしれないと言い出した。
    結局は、ギリシャの影響なんて、ないけど。未だにあるといっている人もいるようだ。
    だからと言って、井上章一は、自分では結論を言わない。
    つまりは、正解はないことに意味があるとでも言いたいようだ。
    ②は、若草伽藍が発掘されて、法隆寺は焼けて、再建された。
    最初は、四天王寺と同じ並び方をしていて、聖徳太子が没してから
    今のような配置になった。だから、日本ではなく、中国起源だよね。
    という話を、ワイワイガヤガヤという諸説紛々の中で、
    それを整理して、わかりやすくしたのだよ。
    でも、結論は、言わねーよ。ってか。
    実に、楽しい学者先生のお遊びなんですね。

  • エンタシスの話とか、興味深かったなあ。

  • 法隆寺といえば、柱のエンタシスにみるギリシア建築との同質性、それと、シンメトリーの破調した日本的な伽藍配置。

    建築をかじった人間なら、大体こう答える。かつ、柱のエンタシスとアシンメトリーな伽藍配置は事実であるが、それぞれにギリシア建築と日本的という形容をつけるのは、根拠のあるわけではない、というのもまぁ知らないこともないが、物語として面白いからそう言っておこう、というのが、まぁなんとなくの空気だ。

    この、法隆寺にまつわる「なんとなく」性を、文献を徹底的に調べ上げることでひとつひとつ整理していくのが本書。一般的には学説史と呼ばれるものである。

     *

    井上の方法論である学説史、というのは、書き手を必然的にメタの位置に立たせるものである。だれが論じた学説なのか、学説同士の関係性はどうなっているのか、そして、その関係性は時代の状況からどのような影響を受けているのか。こういう具合に、最終的には構造に収斂させられる。

    本書を読んでつよく思うのは、文章を書くという行為において、書き手=井上がまったく傷ついていないこと。最初から最後まで、語り口はいっさい熱を帯びない。学説を整理し、巧みに合いの手を入れることで相互に関わりづけていく、その手際の良さばかりが印象に残る。

    一度慣れてしまうと、このような井上の文体ほど魅力的なものはないように思えてくる。「真面目な顔をして冗談を言うから、それが冗談なのか真剣なのか理解らない冗談」を言っているような感じが、とてもキュートに思える。

    これはしかし、危険なんじゃなかろうか、という気もする。自分を安全な位置に避難させておいて行う「書く」という行為は、無生産なアイロニーに陥りがちだし、あまり誠実(という言葉を使っていいものか)ではないと最近、個人的に感じている。もちろん、井上は全然アイロニーに陥ってない。「法隆寺」や「桂離宮」にかんする学説は整理される必要のあったテクストだったと思うし、『法隆寺への精神史』『桂離宮神話の崩壊』はそれぞれユーモアを維持した、魅力的な本である。しかしそれは、中々できることではない。

    学説史とはちがうが、建築のメタ的な評論といえば、これはもう、土居義岳をおいてほかにいない。『言葉と建築』。ひとつの建築にかんする学説を論じるのではなく、建築を歴史化して語るという行為を論じたものである。ちょーメタ。友人は「すごいよくできたニューアカみたいじゃない?」と言っていたが、本当にそんな感じ。ところでこの二人、完全に同世代である。

    井上章一、1955年生まれ。
    土居義岳、1956年生まれ。

    やはり、世代的に共有された方法論として考えた方が良さそう。ちなみに浅田彰は、1957年生まれ。

    読み物として完璧に近い。読んでいて気持ちよい。それを危険と思うか追従しようと思うかは、まぁ、勝手だろう。僕自身は、ニューアカ的と表現するには少なからず語弊があるけど、少なくとも彼らより下の世代がとるべきスタンスではない、と思う。書く、喋る、作るという行為は本来、主体が安全であってはならないと思うから。危険を冒してこその、表現行為だろう、じゃなかったら意味ないじゃん。当然、これには根拠はない。個人的な倫理観に過ぎない。それに、こういったメタゲームは焼き畑農業みたいなもので、開拓後に残すものは少ない。では具体的なはなしに移ろう。メタ的な表現行為とは別に、いかなる方法論が?・・・明快に答えることなどできはしない。じゃあ、どうすりゃいいんだ、という疑問はずっと、ある。

    ぬぁー

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著者プロフィール

建築史家、風俗史研究者。国際日本文化研究センター所長。1955年、京都市生まれ。京都大学工学部建築学科卒業、同大学院修士課程修了。『つくられた桂離宮神話』でサントリー学芸賞、『南蛮幻想』で芸術選奨文部大臣賞、『京都ぎらい』で新書大賞2016を受賞。著書に『霊柩車の誕生』『美人論』『日本人とキリスト教』『阪神タイガースの正体』『パンツが見える。』『日本の醜さについて』『大阪的』『プロレスまみれ』『ふんどしニッポン』など多数。

「2023年 『海の向こうでニッポンは』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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