GOING AFTER CACCIATO Ⅰ巻とⅡ巻。
ベトナム戦争の戦場。ある日突然、若いアメリカ兵カチアートが部隊を離脱する。歩いてパリに行く、と言い残した脱走兵カチアートを追って、第三分隊の面々がカチアート追跡を命じられ、後を追う。
ベトナムの山岳地帯から国境を越えて、ラオス、マンダレー(ビルマ)、チッタゴン(バングラデシュ)、デリー、パンジャブ、ペシャワル、カブール、テヘラン、アナトリア、イズミール(トルコ)、アテネ、ドイツ、ルクセンブルク、そしてパリへ。
分隊の下士官と兵士達は、まるで深夜特急さながらに、ユーラシア大陸を西に向かう珍道中を続ける…。
つまり、現実にはありえないナンセンスな展開。現実感の薄いふわふわしたファンタジーとして、脱走兵カチアートの追跡が描かれる。
兵士カチアートは幼い顔したデブっちょで憎めないキャラ。追跡劇も非現実的で、どこかナンセンスなので、全体的に脱力感に満ちている。
一方、アジア縦断の追跡旅の合間に、ベトナムの戦場の日常を描いた章が交互に挿入されていく。
戦場で仲間が次々に倒れ、村を焼き払い続ける日常、海辺の哨戒監視塔での不安且つ退屈な徹夜の哨戒勤務。読み進むうちに、どうやらパリへの旅が、兵士達の夢想・ファンタジーであると気付かされる。
現実の戦場で不安と恐怖に怯える兵士達が〝カチアートは今頃どのへんまで逃げたかな〟と夢想し、苛烈な現実から逃避しているように読めてくるのだ。パリへの旅は、兵士達の希望が作り上げたおとぎ話のようである。
そして、旅の最後、パリ市街。カチアートの潜むホテルを襲撃する幻想と、ベトナムの市街戦でのきな臭い恐怖と現実が混沌のなかで溶け合う。
Ⅱ巻の終盤、士官がカチアートを行方不明兵士として無線報告する場面がフラッシュバックする。ばかげたファンタジーが幕を閉じる。
淋しくもの哀しい読後感であった。
本書は〈ヴェトナム戦争が生んだ最高の小説〉、現代アメリカ文学の傑作とされているという。だがしかし、個人的に思うのだが、あれだけのスケールと長期間のヴェトナム戦争でありながら、文学的遺産は少ないように思う。
そもそも、戦争に文学的果実を期待するのは誤りなのかもしれない。